想像してみてください。

ご飯、味噌汁、漬物、ハムエッグ。

現代の日本の朝食の、最もポピュラーな例と言ってもいいほど、ありふれたメニューではないでしょうか?

しかしながら、客観的には、ハムエッグは和食の代表格とは言えないと思います。むしろハムエッグは洋食のおかずに属するものです。

では、次はどうでしょう。

ご飯、味噌汁、漬物、麻婆豆腐。やはり日本の家庭料理の献立としては、ごくごくありふれています。しかし、麻婆豆腐を和食であると言い切ることのできる人はいないでしょう。

食文化研究の大家、石毛直道は、このような食事におけるご飯とおかずの関係性を以下のように表しました。

米飯は和食副食物、洋食副食物、中華副食物とは親和性が高く、米飯とパンは相容れず、パンと和食副食物および中華副食物は相容れない。

「現代の日本の食文化全般がいまだ変動期にあるので、クローズド・システムの食事文化となりようはないのである。現代のわたしたちの食卓はさまざまな試行錯誤をしながら、将来を模索している実験場である」(石毛「食事文化の変容」『石毛直道自選著作集』第5巻(ドメス出版、2012)p.178)。

たしかに、先に挙げた例は、この石毛説に合致しています。この原稿が書かれてから、今ではさらに、日本の食文化は「実験」を重ねてきています。

たとえば、チャプチェがおかずだったら?ガパオではどうでしょう?生春巻きや、タンドリーチキンでも、けっこう嬉しいのではないでしょうか? 洋食・中華に次ぐ第三の料理として「エスニック」がにわかに隆盛しつつある、というのがいまの日本の食卓をとりかこむ現実です。

ことほどさように、各国の料理を呑み込んでしまう日本の家庭料理ーーそこには、「一汁三菜」という「和食のフォーマット」が持つ、しなやかさな強靭さや寛容さが見て取れます。

主食としてご飯を食べ、味噌汁で一息ついて、漬物で口のなかをリフレッシュさせる。ご飯、味噌汁、漬物という三者がワンセットになって互いにバランスを取りあっているために、どんななおかずでもやさしく受け止めることができる。おかずがたとえ昨日の残り物だったとしても、温かい味噌汁があれば、それだけで満足感はぐっと高まります。

忙しい朝、たとえおかずが用意できなくても、白いご飯に漬物が添えてあれば、その塩分や旨味、それに独特の香気によって、食卓は十分満ち足りるはずです。

そう思ってみれば、買い物で余分なものを買わなくて済むから経済的だし、「いろいろなものをこしらえなければならない」というようなプレッシャーからも解放されます。

「一汁三菜」という和食のフォーマットは、システムとしての完成度が高いので、おかずが多少冒険していても、ある程度は調和が保たれる。まさに、「和」の食というわけです。このトータル的な寛大さこそ、日本の家庭料理のおもしろさです。ご飯がスゴイとか、パンは良くないというようなことではありません。日本の文化のかたちが、なぜかそのように寛容にできているということなのです。

千利休は、わざとらしい派手さを嫌いました。質素な生活のなかの美しさを汲み取ろうとしました。その利休が、日本人の食事のいちばん本質的な部分を再発見して、定義しなおしたのが、一汁三菜という「和食のフォーマット」です。手軽であり、実質が伴っていて、美しい。それこそが、確かな豊かさと呼ぶ事ができるものではないでしょうか?

ご飯、味噌汁、漬物を中心にした食卓は、華美な贅沢さとは無縁のものですが、しかし、なんでもない生活に、「ある光」を齎すものであると、ぼくは信じています。