2016

2015

2014

2013

2012

2011

2010

2009

2008

2007

2006

2005

2004

2003

2002

2001

2000

戀する者と酒飲みは地獄に行くという 根も葉もないたわごとに過ぎぬ
戀する者と酒飲みが地獄に墜ちたら 天國は人影もなくさびれよう
Omar Khayyam

 2005.0131(月) 繰り越し

目を覚ましてしばらくはそのまま静かにしている。30分ほども経っただろうかと考えつつ枕頭の灯りを点けると2時30分だった。"ASIAN JAPANESE 2" を5時30分まで読む。以前は本を読み始めた日と読み終えた日を奥付のちかくに必ず書き込んだものだが、この日記をつけ始めてからはサイト内検索が利用できるため、そのようなことはしなくなった。

事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、納豆、ほうれん草の油炒め、牡蠣の薄味煮、千枚漬、メシ、けんちん汁

日中、2月中に送る予定にしているふたつのメイルマガジンの文章について考えようとし、しかしそうしようとしただけで、実際には他の用に追われたり、あるいはそれほどの役にも立たないようなことをして日が暮れる。

ジャガイモとハムとベビーリーフのサラダ、冷や奴牡蠣と豚フィレ肉のフライ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と水菜の炊き物にて飲酒は為さず、炊きたてのメシ2杯を食べる。今月の断酒日は今日で9日目となったが、断酒のノルマは1ヶ月に8回である。インチキかも知れないが、今日の断酒は2月の分として繰り越すことにする。

テレビの天気予報が関東甲信越から東北、北海道の上空までが寒気におおわれ、明日にかけては大雪の恐れがあると伝えている。雪が降って嬉しかったのは、何歳くらいまでのことだっただろうか。

おばあちゃんによれば大正の初期には雪が降りすぎて小学校が閉鎖になることもあったというから、やはりむかしの方が雪は多かったのだろう。子供のころ、霧降高原のスキー場までの道には冬のあいだみっしりと踏み固められた雪があったが、融雪装置など無くても、いまの道は大抵、乾いている。

入浴してなにも飲まず、9時30分に就寝する。


 2005.0130(日) なにか強い酒、ください

良くあることだが、目を覚ましたときには自分がどこにいるのか分からなかった。いまだ外は暗いが時計を見ると6時を回っていたため急いで起床する。ダイニングキッチンのテイブルに缶ビール2本が載っていて 「そういえばきのう、帰る途中で買ったんだったな」 と思い出す。紹興酒の茶碗を2度もひっくり返すほど飲みながら更に飲もうとして飲めないとは、酒飲みの悲しい性を見る思いだ。

いまだ暗い本郷の裏道を歩き、上野広小路から地下鉄銀座線を使って7時に浅草へ達する。本当は7時が開店らしいが、その時間に行くといまだオバサンが着替えの最中だったりするトンカツの 「会津」 へ行き、納豆定食にポテトサラダを追加する やがて本日ふたりめの客が来て 「牡蠣フライ」 と店主に告げる。「朝からフライとはすげぇじゃん」 と感心をするが、あるいは夜通し働いていた人なのかも知れない。

7:30発の下り特急スペーシアに乗り、9時すぎに仕事へ復帰する。

2月から自動車教習所へ通う長男がその手続きのために帰宅をし、夜のスペーシアで甘木庵へ戻るため、終業後に下今市駅へ送りがてら親子4人で "Casa Lingo" へ行く。

おまかせのサラダおまかせの前菜盛り合わせ鯛のカルパッチョ次男だけが飲むコーンスープニンニクと唐辛子のスパゲティアサリとアンチョビのスパゲティジェノヴァ風ピッツァスズキのグリル焼き牛すじの煮込みを肴にカラフの赤ワインを飲む今日は甘いものは遠慮をしておくそしてカルヴァドスエスプレッソにて締める

帰宅して入浴し、牛乳を200CCほど飲んで9時に就寝する。


 2005.0129(土) 酢昆布

なにか夢を見ていたはずだが目を開いたとたん、その夢がどのようなものだったかの記憶をなくす。録画も再生もできない映像があるとすれば、今朝の夢がそれにあたる。4時すぎから "ASIAN JAPANESE 2" を読み6時に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。

朝飯は、ブロッコリーの油炒め、油揚げと小松菜の炊き物、納豆、メカブの酢の物、茗荷のたまり漬、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と水菜の味噌汁

下今市駅13:36発の上り特急スペーシアに乗って2時間後に池袋へ至る。駅の北の端から更に歩いてビックカメラへ行き、36枚撮りのフィルム1ダース、X線セイフティケイス、リチウム電池を買う。取り急ぎ今度は駅の南の端から更に歩いて明日館に達する。

4時より自由学園卒業生有志のメイリングリスト "pdn"(Primary Dougakunotomo Network)のオフ会議に出席をしたが、45分後に退室をする。同じく明日館のこんどは講堂前へ移動をし、同学会新年総会の準備に入る。明日館の中で1日にふたつの会を渡り歩くなどは元優等生の所行に思われがちだが僕に限っては決してそのようなことはない。

新年総会はヤノヤスヒロ先生の礼拝に始まり、諸々の報告やお祝いの中に同級生イトウイクオ君の同学会新年度委員長の承認などもあって、無事に閉会した。また、続く懇親会も大いに盛況だった。最後に男子部賛歌を歌い、9時に後かたづけに入る。

11時、地下鉄丸ノ内線に乗る僕のズボンから、酢昆布のような匂いが強烈に立ち上っている。委員の打ち上げをした中華料理屋ではじめ左脚に、それに懲りずに次は右脚にこぼした大量の紹興酒が乾いて、そのような臭気を放っているのである。「スコンブ、スコンブ、スコンブ」 と3回となえて 「"Lascombes" とは大違いだ」 と酔った頭で考える。

甘木庵に帰着してシャワーを浴び、冷たい水を飲んで0時に就寝する。


 2005.0128(金) 行きつけない店

朝4時から "ASIAN JAPANESE 2" を読み5時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。きのうの晩は酒を抜いた代わりにメシを食べ過ぎたため、今朝はお茶漬けにするよう家内に頼んだが、ほぐし塩鮭、刻み塩昆布、茗荷のたまり漬、しもつかり、牡蠣の薄味煮というその内容を見てお茶漬けはやめる。それらをおかずとして普通にメシを食べ、ポーレイ茶を味噌汁がわりにする

日中、必要に迫られ "amazon" で定価1,890円のある本を探すと絶版だったが、そのペイジからリンクした先の古本屋にはいまだ在庫がある。ところが価格を見ると2,550円とあるから新本より660円も高い。書画骨董稀覯本のたぐいは別として、先日までそこいらへんに売っていた本をプレミアつきで買う気はしない。

早速に検索エンジンへその書名を入れると、三軒茶屋の "SOME TIME" という古本屋に同じものが1,200円で見つかった。送料は300円だから、これも "amazon" に商品を登録している古本屋に支払うより40円安い。即、発注のメイルを書いて送る。担当者からはほどなくして受注確認のメイルが届いた。

それを求める者がインターネットで価格を調べ回るため世界市場全体の価格が下がった代表に、ライカなどのクラシックカメラが挙げられる。だったらインターネットによってすべての商品の価格が下がるかといえば、そうでもないところが面白い。

本酒会へ出席をするため、7時30分に小倉町の 「華まる」 へ行く。行きつけない店にはどうも入りづらいものにて、我が町の飲み屋といえば僕は 「市之蔵」 と 「和光」 くらいにしか行かないが、前々から 「こぢんまりして清潔で良さそうだな」 と感じていた 「華まる」 は、入ってみればやはり良い店だった

先ず、この季節ならではの喜久水酒造 「一時」 を、コバヤシハルオ会員とヤマコシシンヤ会員が抜栓する。この 「一時」 はまるでシャンペンのような日本酒だから、目の前に並べられた綺麗な酒肴にはとりあえず手は出さず、スーッとほとんどひと息で飲んでしまう。今回のロットには甘味が足りていないように感じたが、しかし美味いお酒ということに変わりはない。

8本目のお酒が回ったところで店の人が 「すみません、次のお皿が遅れていて」 と、もろきゅうを出してくれる。僕は味噌屋の息子のくせにゲル状の味噌は好まず、だからこのもろきゅうも苦手だが、なになにが食えませんなどと格好の悪いことは言えない。生の味噌を載せた胡瓜をバリバリと食う。

揚げ茄子の田楽は、9本目のお酒が回ると同時に席へ運ばれた。これにもゲル状の味噌が載っているが、熱が通っているから生の味噌よりは楽に食える。そしてこの茄子の田楽が美味かった。「良い店だなぁ、また来たいなぁ、でもオレは見栄を張ってボトルなんか入れるから、そうすると飲みさしのボトルがあちらこちらに増えていくんだよなぁ」 などということも考える。

出席者のほとんどは食事にお茶漬けを所望したが僕とカトーノ会計のみはおにぎりを頼んだ締めは胡麻のアイスクリーム。そして誰よりも早く9時に店を出る。

自転車にて帰宅し、入浴して牛乳を200CCほども飲む。"ASIAN JAPANESE 2" をすこし読んで10時に就寝する。


 2005.0127(木) ナルハヤ

3時前に目を覚ます。"ASIAN JAPANESE" を5時30に読み終えて起床する。2週間以上も本を読む習慣から離れていたが、これをしおに、未読のまま積み重ねられている本をこなしていこうかと考える。もっともそれをこなし終えるよりも早くにまた新たな買物をするから、結局のところいまだ読まれていない本は増えるばかりである。

事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、納豆、油揚げと小松菜の炊き物、柴漬けと沢庵、メカブの酢の物、メシ、シジミと長ネギの味噌汁

2月23日より日本橋高島屋で行われるイヴェントに際し、顧客へそれをお知らせするハガキの校正が成文社印刷より上がってくる。ごく短い時間にて手直しすべき個所を特定し、今度は責任校正にてその作成を依頼する。

このハガキを高島屋へお持ちくださったお客様へは粗品を呈上するが、その粗品を東京のある会社にファクシミリで発注した後、電話にて納期を短くするよう要請したところ、担当者はひとつひとつの言葉を最後まで発音しないセコセコとした口調でしゃべり、最後に 「ソレデワナルハヤデッ」 と言って受話器を置いた。

「ナルハヤ」 とは 「なるべく早く」 の簡略形だろうか。こういう言葉を耳にするたびに僕は、日本語を勉強する外国人の苦労を思う。もっとも若い外国人はネイティヴの年寄りよりもよほど素早く、このような新しい日本語を自分の血肉にしてしまうのかも知れない。

燈刻、ハムと水菜のサラダ、しもつかり、里芋の挽肉あんかけ湯豆腐鯖の味噌煮にてメシ2杯を食べ、飲酒は為さない。飲酒は為さずになんの痛痒も感じないのだから酒などやめれば良いようなものだが、それが一向に達成できないのはどのような理由によるものだろうか。

入浴して牛乳を200CCほども飲み

"ASIAN JAPANESE 2"  小林紀晴写真・文  情報センター出版局  \1,427

をすこし読んで9時30分に就寝する。


 2005.0126(水) タヒティ以前

2時30分から4時まで "ASIAN JAPANESE" を読み起床する。きのう取引先から 「就業時間中に送るのは無理ですけれど」 と、ファクシミリでの連絡を示唆する電話があった。夜のうちに入っているだろうこれを早く読みたいため事務室へ降り、更にそれを読んで次の仕事の段取りをする。

いつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。窓の外には雪のちらつく暗い景色があったが、テレビの映像を見れば、東京の方がよほど雪は多い。朝飯は、3種のピーマンとソーセージの油炒め、柴漬けと沢庵、ジャコ、納豆、メシ、豆腐と水菜の味噌汁

冬至はとうに過ぎた。しかしいまだ外へ出れば朝の6時であっても空はまるで深夜と変わらず青く黒い。昼が晴れならばともかく、今日のように山から間断なく風に雪が飛ばされてくるような日は、ラグビー日和ではあるかも知れないがひどく暗鬱である。そしてまたタヒティへ渡る以前のゴーギャンの、ひどく暗い絵を思い出す。

雪は昼すぎに止んだ。

家にあって美味いステーキが食べたいときは、洋食屋の 「金長」 へ行って 「スイマセン、ステーキソースください」 と言えばよい。終業後に社員通用門を出て100メートルほど歩き、 「金長」 にて今夕最後の1本を購って帰宅する

2階のワイン蔵より "Castillo de Molina Cabernet Sauvignon Reserva SAN-PEDRO 1999" を取り出し抜栓する。1時間は待てず40分後に次男の勉強机にてそれを飲み始める。勉強机とはいえそこは散らかり放題だから、次男は今日の宿題を食卓にて済ませた

ステーキとはいえハンバーグステーキに 「金長」 のステーキソースをかける。付け合わせの人参とブロッコリーとエリンギを食べる。ジャガイモとキャベツとツナのサラダも食べる。熊本県の津志田商店による、とても美味いお多福豆にて締める

入浴して牛乳を200CCほども飲む。"ASIAN JAPANESE" を読みながら灯りを点けたまま就寝する。


 2005.0125(火) レンズを洗う

目を覚まして1時間ほどは経っただろうかと思われるころに枕頭の灯りを点けるといまだ夜中の1時だった。そのままなにもしないうち3時になってしまう。つまり本日は24時間のうち既にして8分の1を無為に過ごしたことになる。このところ朝は床に重ねた本とも呼べないあれこれを拾い読みしてきたが、いつまでそれでもしょうがねぇだろうと、廊下へ出て飾り椅子の上から

"ASIAN JAPANESE"  小林紀晴写真・文  情報センター出版局  \1,427

を選び、ベッドへ戻る。アジアを放浪する日本人に話を聞きまたその写真を撮って本にするというアイディアは、これが作られた1990年代の前半においても使い古されたものではなかったかと考えたが、読み始めてみれば小林紀晴の手になるだけあって、その内容はすこぶる興味深い。小林紀晴をひとことであらわせば、それは 「素直の人」 ということになるだろか。

4時ごろより二度寝に入り、6時に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時20分に居間へ戻る。おとといは 「駒形どぜう」、きのうは 「市之蔵」 と日を置かず胃に大量の食物を収めているため、今朝はプーアル茶のみを飲んでメシは食べない。

きのうの午後、携帯電話のショッピングサイトに商品を提供してくれないかとの電話を受けたため、詳細はメイルで送るよう頼んだ。けさメイラーを回すとその担当者からの 「説明書」 「出店申込書」 「申し込み方法」 などのファイルが届いていて、それらを読み始めると間もなく 「商品の売上に応じた手数料を戴きます。手数料は商品上代の30~25%となっています」 との一節に行き当たる。

早速その担当者へ宛てて、物を作って売って利益を生み出すとはどういうことかと説明する文章を計算式も用いて書き、メイルにて送付する。果たして返信はあるだろうか?

「売上げの何パーセントをくれ」 というショッピングサイトからの申し出は、できたばかりの会社から財閥系の商社まで、かなりのところから受け取る。そのつど僕は、表向きには 「お宅もウチも利益は出ませんよ」 と言って断るが、腹の中には 「そんなに甘めぇもんじゃぁねぇよ」 という言葉があるのである。

昼に挽肉あんかけと水菜のにゅうめんの画像を撮り、続いて "ASIAN JAPANESE" の写真も撮るが、どうも画面のかなりの範囲にボケがある。不審に思って見たレンズには、べったりと脂が付着していた。今朝はメシを抜いたのだから、とすればきのう 「市之蔵」 で付けたものだろう。脂はティッシュペイパーでは取れず、洗面所の石けんによりようやく綺麗になった。

燈刻、家内に 「夜はカレー鍋だよ」 と言われる。カレー南蛮蕎麦のつゆでしゃぶしゃぶをしたら美味かろうとは僕の考えたことだが、これが、インド人にも教えてあげたいほどに美味い。

厚揚げ豆腐、椎茸、エノキダケ、長ネギを煮たカレー味の鍋に豚の薄切り肉ホタテ貝ほうれん草を投入する。今夜は飲酒は為さない。この鍋と、サイトウトシコさんが誰かからもらったという沢庵にてメシ2杯を食べる。ここで腹が苦しくなって、最後のうどんには箸が伸びなかった

入浴して牛乳を200CCほども飲み、"ASIAN JAPANESE" をすこし読んで9時30分に就寝する。


 2005.0124(月) "see" にはならず?

枕頭の灯りを点け、床の活字をあさって6時に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。

きのうは朝はとにかく、昼よりはかなり栄養を摂取したような記憶がある。そのため今朝はお茶だけを腹へ収めようとしたが、せっかくのメシが炊きあがっていて、しかも朝に米のメシは大抵、僕しか食べない。というわけで温泉玉子、レタス、玉ネギ、赤ピーマン、貝割れ大根、大豆のサラダ、鶏レヴァの甘辛煮、柴漬け、納豆、お麩と三つ葉の味噌汁により1杯と半分のメシを食べる

あれやこれやと仕事をしたり、あれやこれやと考える。

終業後は社員たちと共に 「市之蔵」 へ行き、先日の日光MGの直会を行う。「打ち上げっていうのは "plan" "do" "see" のうちの "see" なんだよねぇ」 とは西順一郎先生の言葉だが、ウチの直会の悪いところは、それがちっとも "see" にはならず、ただの飲み会になってしまうところではないか

唯一この集まりがMGの打ち上げらしいのは、評価はされるが表彰はされない計数力第1位つまり決算速度の最も高かった者に記念品を贈呈するあたりかも知れない。今回の日光MGにおける計数力第1位は、包装係のツカグチミツエさんが獲得をした

それにしても八寸盆から始まり、牛キムチ鍋と鳥たたき鍋があり、大皿の鶏から揚げとポテトフライ、同じく大皿のグラタンとお好み焼きが何度も席へ運ばれ、サラダがあり、その後にいくら丼とあさりの味噌汁がつき更にブドウとイチゴにて締めるこのコースが3,000円とは安くて恐れ入る

8時すぎに帰宅し、入浴して牛乳を200CCほども飲む。そして9時に就寝する。


 2005.0123(日) 仏間のどぜう

6時に目を覚ます。キッチンでお湯を沸かし、プーアル茶を入れて飲む。周囲の安眠を妨害してはいけないと、シンクの上の灯りのみを点け、食卓の椅子を引き寄せてアサヒカメラの最新号を読むうち長男が起きだして、7時より朝飯の用意に取りかかる。

その朝飯は次男がポテト入りのカレードリア、大人はカレーライスだった。牛の尻尾も野菜も溶けたカレーには香りやコクだけが残り、そう辛くもないのになにかのスパイスの具合か、食べ始めるとほどなくして額から汗が噴き出した

9時30分に甘木庵を出て、4人で湯島の切通坂を下る。上野広小路より地下鉄銀座線にて家内と長男と次男は日本橋方面へ、僕は浅草へと向かう。本日は春日町1丁目青年会の新年会が、昨年と同じく隅田川の川下りということであり、僕は東京で合流をすることになっていた。

11時、浅草橋のたもとにある船宿 「田中屋」 の階段を春日町の一行は神田川の面に向かって降り、舟に乗る。世界中の佃煮を食べたわけではないが、僕の最も好きなそれは柳橋 「小松屋」 のものだ。舟はその小松屋の前を過ぎ柳橋をくぐって隅田川へと出ていく

両国橋を手始めに8つの橋を過ぎると、目の前にはいよいよレインボーブリッジが迫る。外には寒空と鉛色の水面があるが、屋形の中はしごく暖かい。飲み放題のビール、燗酒、焼酎などを各自が準備するよりも早く席には刺身が運ばれ、ややあって、船尾の厨房で揚げられた天ぷらが届く。「舟で調理をされた食べ物などは大したことがないだろう」 と考えるのは早計で、江戸前に胡麻油の利いた天ぷらは上出来である。次々と追加されるキス、海老、穴子、身の厚いイカなどを片端から平らげることのできない胃袋が恨めしい

舟はやがてお台場沖に碇を降ろした。時は静かに過ぎてゆっくりと揺れている舟の客に刺身や天ぷらをもらい慣れたカモメがうるさく鳴きながら乱れ飛ぶ。電気釜で炊きあげられたメシを食べたのは、僕とだれかもうひとりの計2名しかいなかった。舟はふたたび隅田川に入って上流を目指す。

浅草橋より我々は各々の目的にしたがってちりぢりになった。僕は浅草へ戻り、まるでカラスのように黒いエムロクで写真を撮り歩く。いつでも画像を消去できるデジタルカメラを1998年より使い始めたせいか、あるいは数時間で20本ものフィルムを費消してしまうというプロの撮影を本で知ったせいか、そのどちらの影響かは知らないが、19年前には一写入魂の思いで撮っていた写真だが、今ではやたらとつまらないものへ向けてシャッターを切る癖がついてしまった。

ライカほど丈夫なカメラはないと言ったのは沢田教一だっただろうか。しかしホコリの舞う雑踏で立ったままフィルムを交換する気はしない。36枚撮りのフィルム1本を取り終えるごとに喫茶店へ入り本を読み、新しいフィルムを入れてはまた人混みに紛れ込む。仲見世のあたりでは右の人差し指も軽く動くが、場外馬券売り場の周辺ではカメラをむき出しのまま持つこともはばかられて撮影の能率も上がらない。そうして撮った写真がようやく100枚に近づいた。

燈刻になって雪がちらつき始めた街を、雷門に背を向けて南へ歩く。「駒形どぜう」 の前には僕が真っ先に到着したが、そのうちひとりふたりとメンバーが集まりはじめ、ようやくほとんどの人数が揃ったところで店に入ると、1階の入れ込みには客があふれていた。

案内をされるまま2階奥の六畳間に入る。掛け軸の下がる壁から5寸くらい張り出して食器棚のようなものがあるので 「仏壇だったりして」 と細かい桟のある扉を開いたら、それは本当に仏壇だった。中のカラー写真は先代社長のものだろうか。

とにかくその仏間の分厚い机にどぜう鍋をはじめ数種の酒肴、また鯨鍋が並べられる。あらかじめ厨房にて煮られたドジョウは客の前の鉄鍋で温めるだけで食べられるが、これがとても淡泊かつ上品な味である。その上品さが面白くない向きは刻みネギをどさりと投入して雑ぱくさを加えればよい。

どぜう鍋に比しての鯨鍋は、その脂身が濃い味と香りを醸してまた美味い。関東に来て、関西のオデン屋にあるコロを懐かしく思い出す人は、この店に来て鯨鍋を食べれば嬉しく感じるだろう

徒歩で浅草駅まで来たところで、ユザワクニヒロ会計が全員に帰りの切符を手渡す。19:00発の下り特急スペーシアが隅田川を渡っていくらも行かないところでひとりの乗り遅れが発生したことを誰かが言いだし、「そういえば」 とみなが顔を見合わせる。乗り遅れは個人の責任だからそう悩むこともないと言い聞かせたが、カワナゴヨシノリ青年会長は乗り遅れた1名と1時間後に合流することを決め、北千住にて下車した

下今市駅からは 「誰かが出かけたときには、駅まで迎えに行くのがウチのオキテなんせ」 と言うカトウサダオさんのワゴン車に全員が乗り込み、春日町まで送ってもらう。「酒好きなのにこの時間まで飲みもせず、大したもんだ」 と感心をする。

帰宅して入浴し、牛乳を200CCほども飲んで9時30分に就寝する。


 2005.0122(土) 遅刻だよ

何時に目を覚ましたかは知らないが、そのまま横になるうち6時を知らせる街のオルゴールが鳴る。夕べは9時30分に就寝し、仮に今朝は5時に目を覚ましたとすれば7時間30分の睡眠ということになって、いくらなんでもこれでは寝過ぎだと考える。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時20分に居間へ戻る。きのうの晩飯がいまだ腹に残っているため、熱いプーアル茶を飲んでメシは食べない。

本来であれば先週の日曜日に行われるはずだった町内の餅つきは、雪のため今日に順延をされた。10時に春日公園へ行くと公民館長のイケダツトムさんが準備の最中で、餅つきは11時ごろの開始だという。いったん帰社して11時30分に出かけてみると、最初のひと臼はつき上がっていた

長老たちが焚き火のまわりで尻を温めている。子供たちは雪の溶けた地面で靴を汚しながら走り回っている。お母さんたちが丸めた餅のうち磯辺巻きをひとつつまみ、また風呂吹き大根の柚味噌かけをふたつ食べる。僕がこの料理を好まないのはゲル状の味噌を得意としないためだが、寒空の下で口へ入れたそれは美味かった

昼過ぎにイケダさんは、しその実のたまり漬を和えたものも含めて1パックの餅を届けてくれた

家内と次男との3人で、下今市駅15:03発の上り特急スペーシアに乗る。5時すぎに池袋へ達する。東口で待ち合わせた長男を加えた4人で、晩飯にはなにを食べたいか相談をする。2、3の馬鹿ばかしい提案をした次男がようやく中華に落ち着いたため、とりあえず南口の方面へ歩きながら僕が 「てっきり鮨と言うかと思った」 と口を滑らせたところ、次男は 「そうだ、スシ、スシ、スシがあった」 となってしまった。晩飯のコストが跳ね上がることは必定である。

僕が自由学園高等科3年のとき普通科1年だったハニトモハル君と、斎藤ノブ、斎藤誠によるトリオのコンサートが明日館で始まる7時までには、いまだ2時間ちかい時間がある。小学生の子供がいるから5時30分からのウェルカムパーティには出ない。すこし行列気味の鮨屋へ入り、そのあとがどういう顛末になったかといえば

「ちょっと、ここ、作るの遅いんじゃない?」
「ヘーキだよ、鮨なんて食い始めれば15分でのど元まで来るんだから」

「それにしても」
「催促するか」

「自由学園の卒業生ってさ、寮じゃ朝5時半に起きてたくせに、大人になるとけっこう時間にルーズなんだよな」
「いやぁ、遊びの待ち合わせならとにかく、仕事でそれはないでしょう」

「いざとなったら走りますか?」
「もう間に合わないんだから、ゆっくり歩いても同じだよ」

というわけで、明日館の講堂へ着いたときには1曲目の "DREAM TIME" が始まっていた。1階の席は既にして満杯だったため天井桟敷のような2階席へ案内をされるが、僕はむかしからここの暗闇が嫌いではない。おまけにベイスとパーカッションがよく響く。2時間20分のコンサートはまたたく間に終わった。「今日のライヴみてぇなCD出してくれればすぐに買うよ、ハニ君」 と心の中で思う。

帰途、ホテルメトロポリタンのラウンジに寄る。ここでは多くの飲みものが2ラーメンつまり1,000円で売られている。エスプレッソも紅茶もジュースも2ラーメンで、だから僕はそれらと同じ2ラーメンの生ビールを注文した

10時30分に甘木庵へ至る。入浴して本日の日記を完成させ、350CCの缶ビール1本を飲んで0時30分に就寝する。


 2005.0121(金) 回転鮨は安いか?

5時に起床し、きのうの日記を書くなどのよしなしごとをする。5時30分に長男の部屋で目覚まし時計が鳴るが、本人は二度寝に入ったらしい。ヤカンにお湯を沸かし、熱いプーアル茶を飲む。

6時20分に甘木庵を出ると存外に早く浅草へ着いてしまったため散歩をする。オレンジ通りには大行列の回転鮨屋があるが、そこからいくらも離れていない雷門通りに新しく、24時間営業の回転鮨屋ができていた。その新しい店に近寄ると、入口脇の色鮮やかな宣伝看板に 「天然本まぐろ大とろ498円」 の文字がある

「10個食えば5,000円かぁ、弁天山美家古の安い方のコースが7,000円ちょっとだから、だったら美家古の方がいいよなぁ」 と考える。僕は、回転鮨を安いとは1度も感じたことがない。価格が低くても、それに見合うだけの満足を得ることができなければ、それは高い買物になる。そのようなことを反芻しつつ駅まで歩く。連なるビルが太陽の光を遮断するのか、いまだ街はひどく暗い

浅草駅地下道の豚カツ屋 「会津」 に入り、目玉焼き定食にソーセージ炒めを追加する。そしてきのう長男から返してもらった "Minolta DiMAGE X" にてその撮影をする。ここ数ヶ月のあいだ、何百枚ものボケブレ写真を量産し続けた "Canon IXY DIGITAL Li" とは異なり、久しぶりのカメラは今朝のメシを一発でとらえた

浅草駅7:30発の下り特急スペーシアに乗り、9時すぎに帰社する。そのまま終業時まで仕事をする。

燈刻、それまでのサイトウトシコさんに代わり、次男の算数の宿題を督励する。1,460グラムは1キロ460グラムで、同時に1.46キログラムだということを納得させるまでが容易ではない。プリントへ向かっていたときには青菜に塩の様子だった次男は、それを終えたと同時に元気になるが、その元気の勢いにて、いましがた憶えたことをすべて忘れてしまうのではないかと懸念をする。

豆腐の風呂吹き風、蓮のきんぴら、サヨリの浅い南蛮漬け、レタス、2種のピーマン、玉ネギ、舞茸によるサラダをおかずに茶碗半分のメシを食べ、飲酒は避ける。

入浴してなにも飲まず、9時30分に就寝する。


 2005.0120(木) 今ごろの上海蟹

目を覚ますといまだ日付が変わったばかりの0時40分だった。コンピュータは枕頭とは変換をしてくれるが 「ちんか」 では 「沈下」 がようやくである。要は、僕が夜中に目を覚ましたときのための本はみな床に重ね、あるいは散らしてあるということだ。そのうちの何冊かをかわるがわる拾い上げて退屈を慰める。

そうしているあいだに、どうにも腹具合が悪くなってきたので便所へ行く。1時間ほどして、また便所へ行く。僕の胃腸は 「乞食っ腹」 と呼べるほどの強さで、スパイク付きの長靴で槍ヶ岳の雪渓を夜明け前に登攀していく同級生のヤマモトタカアキ君がカトマンドゥのホテルでひと晩に5回も便所へ行ったときも、同じものを食っていた僕はその騒ぎにも気づかず同じ部屋にて熟睡をしていた。

「夜明けを待つことなく急峻な雪渓をゴム長靴で登っていくヤマモト君よりも、こと腹に関してはオレの方が強い」 とは僕の密かな自慢だが、そのような僕でさえも、ここ1週間ほどの状況を振り返れば、冷たい牛乳をコップに1杯以上飲むと腹がおかしくなるらしい。

「あさきゆめみし」 という気持ちよさの中で朝を迎え、5時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、昨晩わざと残した 「伊勢廣の団子」 による雑炊。雑炊だけの美味さを味わいたいため、添えられた温泉玉子とジャコには手をつけなかった

昼の、ソーセージとベイコン、ピーマンと椎茸と玉ネギを具にした、口中に火傷を負いそうなほど熱いナポリタンスパゲティも、また美味かった。そういえばきのうの昼の、タシロケンボウんちのお徳用湯波と万能ネギのにゅうめんも美味かった。昨年の健康診断の日より1キロ400グラム増えた体重は、1日ほど断食をすれば復旧するだろうか。

夕刻に家を出て、東武日光線下今市駅より上り特急スペーシアに乗る。いまだ青い空に下弦の月が小さく見える。北千住から地下鉄千代田線の席に着き、前方斜め上に目をやると、本来であれば網棚の上に並んでいるはずの宣伝ポスターがほとんどなく、車両の壁がむき出しになっている。千代田線の利用客が少ないわけではないのだから、これではこの沿線に住む人々に購買力がないと、あからさまに言われているようなものではないか

そういえば都営地下鉄の車両には、更に広告が少なかったよう思われる。オイルショックの年、銀座の地下道に並ぶ電飾看板の灯りは落とされたが、それでも地下鉄の車両からこれほど宣伝広告が減ることはなかった。

池袋駅から外へ出ると、街の中華食材屋には甲羅に産地のタグをビス留めされた上海蟹が大量にあった。それを見て 「中国の旬と日本での食べごろは異なるのだろうか」 と考え、「産地は同じなんだから、そんなこともねぇだろう」 と打ち消してみたりする。

ことしより卒業生会の運営に責任を持つ我々35回生と来年の責任学年36回生との話し合いを、明日館にて行う。会議は2時間を要していまだ終わらず、いつもの中華料理屋に席を移してなお続けられた。

本郷三丁目に着いたのは10時30分のころだっただろうか。「三原堂」 のショウウインドウには節分の飾りつけがあった。11時前に甘木庵へ帰着し、低光量下においてストロボ無しの接写を行うという、僕のもっとも必要とする場面にはほとんど役立たない "Canon IXY DIGITAL Li" と、何ヶ月か前に長男へ下げ渡した "Minolta DiMAGE X" とを交換する。

今夜、中華料理屋で撮した八珍炒麺、焼き餃子、水餃子、ナマコの煮込み、酸辣湯麺、八珍焼飯、チンゲンサイの油炒めなどの画像はことごとく失敗だった。これほどピントの合わないカメラも珍しい。何ヶ月か前まで使っていたミノルタを取り戻し、これからはまたこの日記にも、外出時の飯の写真が増えてくるだろう。

入浴して冷たいプーアル茶を飲み、0時に就寝する。


 2005.0119(水) タラント

4時に目を覚まし、あたりにある本を拾い読みして5時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。

午前中に会社の健康診断があるため、採血に備えて朝飯は食べない。熱いプーアル茶を飲みながら下野新聞を食卓に広げると、パンを囓っていた次男がそれを覗き込んで 「あしぎんけいひゃくさんおくえん・・・何だって?」 と聞く。第1面に大きくあるのは 「足銀、計103億円債権放棄」 という文字である。記事を追いながら説明をすると、「お金、下ろそー」 と次男がいかにも不安そうに言うので、「いやっ、どうも」 と僕は大きな声で笑った。

「いやっ、どうも」 とは、その現実が深刻なことであれ軽佻なことであれ、それに直面しつつ浮薄を装って笑い飛ばす際の感嘆詞で、少なくとも栃木県北西部に住む人であれば、そのニュアンスは理解をすることができる。

次男はもともと、お金とは使うためにあるものだから、それを銀行という名の土中へ埋めるなどは大いなる絶対矛盾的自己撞着だと理解をしている。それをことしの正月は、銀行に預ければ幾分かでもその額が増えると説得をして、お年玉を貯金させたいきさつがあった。「ご迷惑はおかけしません」 だの 「頭取の首と引き替えに」 だのと足利銀行が売って回った株券は、おととしの晩秋に紙くずとなった。その現実を考えれば9歳の子供の言うことも、決して軽んぜられるものではない。

宇都宮の医療機関による健康診断のバスは、早くも朝7時30分に到着をした。始業前にもかかわらず、都合のつく者から順次、レントゲン写真を撮られたり血を採られたりする。血管への注射を僕よりも怖がる者が社内に少なくとも2名いることを知り、すこし安心をする

燈刻、水菜とジャガイモとハムのサラダ蓮のきんぴら豚肉の生姜焼き、ニラとモヤシの油炒め、メシ、しじみと長ネギの味噌汁による晩飯を食べて、飲酒は避ける。どうせなら採血前夜のきのうに断酒をすれば良かったが、酒を欠いて焼鳥を食べるわけにはいかなかった。食後にうずら豆の甘納豆を少しつまむ

入浴して牛乳を300CCほども飲み、9時に就寝する。


 2005.0118(火) 8勺×3

薄明の中に目を覚まし、事務室へ降りていつものよしなしごとをする。7時に4階へ上がって洗面所の窓を開けると、日光の山は朝日に赤く染まっていた。ただし山腹の中ほどから上には厚い雪雲がある

朝飯は、豚と鶏の挽肉を混ぜた団子と玉子と万能ネギの雑炊、ジャコ、ほぐし塩鮭、刻み塩昆布

太陽はいまだ東の空のごく低いところにあって、日光街道を歩く僕の正面からまぶしく光を放っている。道の端には数日前の雪が残り、気温は平年並みといったところだろうか。北西に5分もジョギングをすれば日光市へ入ってしまう関東地方の北部にあって、しかも午前7時30分という冬の朝に、素肌にシャツ1枚とウールのブレイザーを着た僕は何の寒さも感じない。

英国で生まれた背広というものは、これは日常の服というよりも防寒着の範疇に入れることが適当なのではないかと考える。「香港よりも暑い夏に、こんなもん着て仕事してる日本人は、つくづくおかしいわなぁ」 と思う。ただし、おかしいことも最大公約数がやらかせばたちまち世の常識となって、それに反する人は 「非常識な人」 と呼ばれるのだから面白い。

下今市駅7:46発の上り特急スペーシアが春日部を過ぎたあたりで、右側に富士山が見えてくる。その方向へカメラを向けて何度もシャッターを押していると、まわりの席の人たちも一斉に窓外を見て 「あっ、富士山」 と言った

2月22日より3月1日まで開かれる 「老舗・名店の味特選会」 についての詳細な打ち合わせを日本橋高島屋の、まるで潜水艦内部のような地下二階の事務室で終え、地上へ出ると額に汗をかいている。この商談の日には毎年、僕は中央通りの歩道へ立ち、着慣れない上着を脱いでしばし汗の引くのを待つのである。

初更、だし巻き玉子ほうれん草のおひたしにて 「高橋良吉」 を飲む。その 「高橋良吉」 は1合も残ってはいなかったため、茶碗に 「川反物語」 を注ぐ。高島屋で購った 「伊勢廣」 の焼鳥「菊乃井」 の穴子鮨を肴とする。「川反物語」 も、1合までは残っていなかった。半分だけお湯を入れたグラスを泡盛 「宮の華」 にて満たす。「米八」 のおこわは、主に次男がこれを食べた

入浴して牛乳を400CCほども飲み、9時30分に就寝する。


 2005.0117(月) 食器

目を覚ますと部屋の中が薄明るい気がしたため 「もう明け方か」 と考えつつしばらくのあいだ横になっていたが、すこし飽きて枕頭の灯りを点けるといまだ午前1時だった。床に重ねた本の中から1冊を拾い上げ、ときに他の1冊と交換しつつ、眠くなるまで活字を追う。

6時に二度寝から覚めて起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、なめこのたまり漬入りスクランブルドエッグ、キャベツとモヤシの油炒め、納豆、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と万能ネギの味噌汁

箸置きも使わないような生活はしたくない、と仕事の量を減らした友人について書いていたのは向田邦子だっただろうか。朝飯の前にきのうの日記の画像を処理しながら

「売っている器のままアイスクリームを食べるのは、神経の行き届かない行為だろうか、あるいはカジュアルな行いだろうか? これについてはカジュアルとしておこう。それでは、売っている器のまま納豆を食べることについてはどうだろう?」

と考える。僕の感覚からすれば、売っている器から直接に納豆を食べることには抵抗がある。もっとも聞くところによれば、最近の納豆のプラスティック容器には、その器へ入れたまま中身を攪拌すると、とても細かな糸と泡が生じるよう工学的に工夫をされたものもあるという。それでも売っている器から納豆を直接に食べるのは、僕はイヤである。

「カップ麺はイヤだね」 とは手塚工房のテヅカナオちゃんが、日光の雲竜渓谷へ出発する前日に言ったことだ。雪と氷に閉ざされた世界でナオちゃんは翌日、白菜と玉子を投入した熱いサッポロ一番塩ラーメンをコッヘルからひとすすりして 「ウン」 と無意識の声を出した。「たかがラーメンに感嘆の声を上げることもあんめぇ」 と、僕も自分のコッヘルからもうもうと湯気を立てるサッポロ一番塩ラーメンをすすり込んだら、やはり 「ウン」 と無意識の声が出て不思議だった。

特にアメリカ渡来の喫茶店の、店で飲む客に対しても発泡スティロールの器でコーフィーを出す仕組み、あれも僕は好きではない。アメリカ人は、世界中の人の行儀を悪くする天才である。もっともカップ麺については日本人の発明だから、そう大きな顔はできない。「こんどウチでアイス食うときは、せめて器の下に皿を敷こう」 と考える。

きのうの晩に残ったきりたんぽ鍋の汁を温め、これにて冷たいよもぎ蕎麦を食べたらとても美味い。しかし麺が稲庭うどんであれば、更に美味かったと思う

燈刻、1996年版の 「香港街道地方指南」 を開き、ある袋小路を見つけようと努力する。高輝度ランプの下にでも置かない限り、この地図帳の細かい文字が霞んでしまうのだから情けない。もっとも眼鏡屋の片隅に売っているようなプラスティック製の軽便な老眼鏡では、最も度の軽いものを選んでも強すぎて目が回るのだから、しばらくは 「よく見えないけれど、しかし自分に合う老眼鏡は無い」 という状況が続くのだろう。

2階のワイン蔵へ行き、シャンペンを探す。床に寝かせた普通の瓶やマグナムの中に覚えのないものを見つけて取り上てみると、それはオーストラリア製の "CROSER 1998" という発泡ワインだったが "BRUT" の表示がない。「甘くちゃイヤだな」 と考えつつレッテルを読んでいくと、下の方に小さく "Pino noire" と "Chardonnay" の文字が見えて、だからこれを食卓へと運ぶ。

レタスとモツァレラチーズとポーチトエッグのサラダトマトとベイコンとエノキダケのスパゲティ鯛とホタテ貝のオリーヴオイル焼きバルサミコソースにて、このオーストラリア製の、なかなか悪くないワインを飲む

入浴してなにも飲まず、10時に就寝する。


 2005.0116(日) きりたんぽに合わせる「川反物語」

その日の目覚めおよび起床の時間は朝のうちにコンピュータへ記録するが、うっかりそれを忘れると、本日の日記のように、いつ目覚めていつ起きたかを書くことができない。日記にいちいち目覚めた時間など載せることもないだろうとは思うが、これを一時期はぶいたところ、どうも自分の日記らしくないため元へ戻した経緯がある。

目覚めや起床の時間は忘れたが、朝飯の内容は画像があるからもれなく書くことができる。その内容は、油揚げと小松菜の炊き物、納豆、沢庵、しもつかり、温泉玉子、メシ、油揚げとワカメと長ネギの味噌汁

あってもなくても社会の大勢には影響を及ぼしそうもない財団法人へ宛てて年に1度、4枚の報告書を提出する義務がある。電卓で行ったらかなり手こずりそうなその作成作業を、コンピュータに仕込んだマクロでサクリと終える。コンピュータは意義のある仕事にも役立つ反面、意義のない仕事にも大いに役立つことを、あらためて知る。

というようなことは、いやしくもウェブショップを運営する者としては、書かない方が上品だろうか。しかし無難な全方位外交ばかりでは、第一気分が窮屈である。

昼過ぎ、所用にて、嵐の前兆のような雨の降る鹿沼市へ行く。我が町へ戻れば雨の勢いは嘘のように収まったが、未明の雪が響いて本日も客足は少ない。

終業後、事務室にて仕事をしていると、低く鈍い音が戸外に断続して響く。社員通用口から出てみると、屋上の瓦屋根で凍った雪がいくつか落ちている。これを頭に受けたらただでは済まないだろう、すこし離れた場所から屋根を見上げると、そこに残る雪はなかった。

鮪の刺身としもつかりにて、常温の 「川反物語 」 を飲む

シメジ、舞茸、糸こんにゃく、鶏もも肉、鶏肉団子、タシロケンボウんちのお徳用湯波を煮た鍋にわざと根を残した芹ときりたんぽを投入する。次男がきりたんぽについて 「崩れるほど煮た方が美味い」 と言う。蕎麦やラーメンの煮えすぎは困るが、たしかに鍋焼きうどんやきりたんぽの、ぐずぐずになったところは悪くない。

次男が表面だけ食べて冷凍庫へ保存しておいたアイスクリームにて、晩飯を締める

入浴して牛乳を300CCほども飲み、9時30分に就寝する。


 2005.0115(土) しもつかり

目を覚ましてしばらく後に枕頭の灯りを点けると3時30分だった。「東京旅行記」 を読み終え、更に床に散らばった本をあさっているうち街のオルゴールが6時を知らせる。起床して事務室へ降り、いつものよしなしごとは終わらず7時に居間へ戻る。

朝飯は、しもつかり、キャベツの油炒め黒酢がけ、納豆、メシ、豆腐と椎茸と長ネギの味噌汁

しもつかりは栃木県の貧しい食事情が産んだ郷土食で、鮭の頭と大豆を煮込んだところに鬼おろしでおろした大根と人参を加えて更に煮込み、塩と酒粕で味を調えたものだが、その猫の吐瀉物のような外観から、僕はこれを26歳まで食べることができなかった。ところが27歳のときよその家で無理に食べさせられたところが非常に美味く、今では大好物になってしまった。

9時、未明までの雪が残る瀧尾神社にクルマを乗り入れ、タナカキヨシ宮司と共に会社へ戻る。我が町の醸造をなりわいとする中の、果たしてどれくらいの家が行っているかは知らないが、蔵において水神祭を催す。「海の魚はその腹を神様へ向け、川の魚はその背を神様へ向けて供物とする」 とは、本日はじめて宮司から聞いて知ったことだ。

それにしても、2001年4月の購入以来ただの1度も故障せず、水神と彫られた石碑へ向ければ6分の1のシャッター速度にて何の問題もなく写真の撮れる "Olympus Camedia C-700 Ultra Zoom" はやはり銘機だ。それに比して、超接写が可能なことから手に入れた "Canon IXY DIGITAL Li" は、その形状によるものかやたらと手ぶれを起こし、低光量下でもアベイラブルライトで撮影をするという僕の用途にはまったく向かない。

初更、新政酒造の 「川反物語」 をぬる燗にするしもつかり、モヤシとニラのナムル風、油揚げと小松菜の炊き物塩とわさびで食べる鶏の網焼き鰤の照り焼きにてそれを飲む

入浴して牛乳を300CCほども飲み、9時30分に就寝する。


 2005.0114(金) これでほぼ600文字

甘木庵にて6時に目を覚ます。同時に起きた長男が入れたプーアル茶を飲む。長男は一汁一菜の朝飯を食べているが、僕はお茶のみにて玄関を出る。切通坂、湯島天神下、上野広小路と歩いて地下鉄銀座線に乗る。浅草へ至って下り特急スペーシアの切符を買い、地下道のとんかつ屋 「会津」 にてオムレツとソーセージ炒めによる朝飯を食べる。

長男は僕の10倍ほどはからだを動かしているのではないか。それに比して僕の摂取するカロリーは、長男のそれよりも明らかに高そうだ。「うまくねぇよなぁ」 と思う。「朝飯をずっと、茶漬けにしてはどうか」 というようなことも考えるが、茶漬けだと僕は3杯の飯をこなすから、やはり腹は出てしまうだろう。それに僕は、炊きたての飯は茶漬けにしない。

停車しているときから既にして極端な右カーヴ上にある特急スペーシアは駅を出た直後に隅田川を渡る。北千住を離れて間もなく左側に、大規模な工事の最中と思われる大きな空き地が見えてくる。「こんど列車がここに通りかかったらカメラを向けてみよう」 と考えて時計を見ると7時44分だった。 9時すぎに帰社する。

初更、次男の漢字練習を督励する

断酒メニュの晩飯は、2種のキノコのマリネ、プティトマトのサラダポテトグラタンカレーライスイチゴ

入浴して牛乳を200CCほども飲み、9時30分に就寝する。


 2005.0113(木) 日光MG・2日目

眠りの中で間遠く小さな音が徐々に近づくうち、それはヘッドボードに設定した目覚ましからのものらしいと気づいた。アラームで目を覚ますなどとは年に1度あるかないかのことだろう。きのうの日記を作成し1階の公衆電話に行くと、きのうは問題なく通じたアクセスポイントが今朝はまったく当方のダイヤルを受け付けない。何度か試行錯誤を繰り返した後、ついに通信を諦めて部屋へ戻る。 

雪は止んだ。ヴェランダの外には、東方の低山がなければ太平洋までも見通せてしまうだろうという眺望が広がっている

きのうと同じく食堂のフロアには、ガラスの天井から晴れた空と雪による青い光が降り注いでいた。ヴァイキングのテイブルから麦とろろ、秋刀魚の干物、ベイコン、ポテトサラダ、レタスと大根とトマトと人参のサラダ、スクランブルドエッグ、メシ、ワカメと三つ葉とお麩の味噌汁を選ぶ。きのうは2杯のメシに3杯の味噌汁をこなしたが、今朝はここで初めて見る麦とろろが存外に美味く、2杯の味噌汁と3杯のメシをこなす。

9時15分より日光MGの2日目が始まる。MGにおいては1期の44分間に50回の意志決定を行うが、好調の僕は第4期に2度の判断ミスを犯し、このたった2度の過ちによる状況の悪化は、期の最後まで尾を引いた。酷使された脳が酸素欠乏を起こし、なにやら視界までかすんできそうな気がする。

そのような頭で 「ビジネスパワー分析」 をするころ、南面した広い窓からの陽光は1日のうちでもっともその強さを増し、まるでスポーツのようなゲイムに体温の上がった者たちは堪らずに冷気を求める。冷気を求めてもあいにくと窓は開かない。薄いブラインドの上にきのうからの、もう使うことのない全紙大の成績表を張り巡らして、その陽光を幾分かでも和らげようとする

やがてMGの第5期が終了する。決算処理は速い者は15分で完了するが、遅い者、途中で引っかかった者は1時間を過ぎても焦燥を続け、もだえる羽目になる。そのような者を尻目に会社盤の後かたづけが始まる。決算の終わらない者は、ますます焦燥の度を強めることになる

ある一定の条件を満たした上で、第5期の到達自己資本の最も高い者に最優秀経営者賞が贈られる。その今回の対象は家内で、自己資本は382だった。第2位は僕で自己資本は354、第3位はことし成人式を迎えたサイトウシンイチ君で、自己資本は335だった。地方MGの主催者、部下と共にMGに参加する人の中にはゲイムに手加減をして表彰状を他に譲る例も多いが、自分でも 「頭がおかしいんじゃねぇか?」 と不思議になるほどMGの弱い僕は、表彰状はもらえるときにもらっておこうと思う。

最後の講義を終え、僕が締めの言葉を述べて、第9回目の日光MGは無事に終わった。次は9月の7日と8日の両日、同じ 「メルモンテ日光」 にて開催をされる。

多くの社員は17:30発の特別バスにて、荷物運びの社員は三菱デリカにて先に山を降りた。そして西hinano先生、社外から参加のサクライマサタカさんとスズキケンジさん、僕、家内の5人は日光市内の蕎麦屋にて軽く打ち上げをする。打ち上げとはいえそうはゆっくりもしていられない。茨城組とは日光にて別れた。

先生と共に下今市駅18:52発の上り特急スペーシアに乗る。9時に自由学園明日館へ達し、同学会の本部委員会へ出席をする。その後、本部委員でない同級生たちは既にして7時より来ている近くの店へ移動をし、ことし卒業生会を運営していく上での話し合いを持つここで4杯のジントニックを飲む

11時30分ちかくに甘木庵の玄関を開ける。入浴して冷たいお茶を飲み、0時30分に就寝する。


 2005.0112(水) 日光MG・1日目

目を覚ましても、しばらくはそのまま横になっている。きのう飲んだ日本酒ビール焼酎のたぐいがいまだからだに残っていることは言うまでもない。ようよう首を上げて枕頭の青いデジタル文字を確かめると5時30分だった。「東京旅行記」 をすこし読んで起床し、きのうの日記を完成させる。東の空からは朝日が昇り始めた

画像をサーヴァーへ転送するために、"docomo" のカードでは力が足りない。部屋を出てエレヴェイターに乗り、公衆電話のあるフロアへ降りる。同時にダウンロードしたメイルには、ウェブショップへの注文を示すものがあった。14日になったら正式の受注確認書をお送りする旨の、とりいそぎの礼状を書いて、ふたたびコンピュータを公衆電話に接続する。

天井も壁もガラス張りの食堂にてとった朝飯は、ベイコン、ポテトサラダ、鯵の干物、温泉玉子、納豆、レタスと大根とトマトと人参のサラダ、メシ、ワカメと三つ葉とお麩の味噌汁

定刻の9時30分よりも早く、第9回目の日光MGは始まった。MGは参加者ひとりひとりが2日間で5期分の経営を盤上に展開し、期末ごとに決算業務を行う研修だ。午前中に第1期のシミュレイションと決算、昼食をはさんで第2期のゲイムをし、全員が決算を終えると時刻は3時30分に達した。戸外の雑木林には雪がときに強くときに弱く、しかし間断なく降り続いている。

第3期のゲイムがあって、その決算をする。ゲイムは集団で行うものだから全員がほぼ同じ時間に終了するが、決算はひとりひとりが独立して行うから、計数力の差によりその処理時間は大きく異なる。途中でペン先の止まった者に求められ、別の者が助けの手をさしのべる。また早々に決算を終え、余裕の表情にてミカンを食う者もいる

調理場より運ばれた弁当による夕食の後は、西先生の "strategy accounting" の講義となる。その講義に関連をさせながら明朝より始まる第4期の経営計画を練る。その第4期の市場の動向は、第3期にもっとも売上高の高かった者の振るサイコロによって決せられる。僕は既にして三百数十期のMGをこなしているが、その実力には目を覆うものがある。しかし本日は春の椿事にてサイコロ振りは僕が務めることとなった

8時よりきのうと同じ6人用の洋室にて交流会を行う。本日の出席者全員が順番に、現在の自分の興味の方向などにつき簡潔に話し、それを全員が聴く。先生は9時すぎに自室へお戻りになったが、そこで交流会が終わるわけではない。僕が腰を上げたのは10時30分のころだっただろうか。

屋上の露天風呂にて頭上を仰ぐと、昨夜とは異なりたくさんの星が見えた。風呂の湯気は山からの風に巻かれて丸い筒型になったり、翻弄されて薄い綿のようになったり、あるいはちりぢりばらばらに消えていったりしてすこしも落ち着くことはない。

部屋へ戻って 「東京旅行記」 はいくらも読まず、11時すぎに就寝する。


 2005.0111(火) 雪を踏んで入る風呂

4時に目を覚まして5時まで枕頭の活字を拾い読みする。すこし油断をしているうち二度寝に入って6時に起床する。事務室へ降りてメイラーを回すと、顧客からの質問が入っている。「返事は仕事が始まってからにしようかな」 と考えたが、思い直して即、返信を書き送付する。そのようなことも含めたいつものよしなしごとをして7時に居間へ戻る。

朝飯は、ピーマンの油炒め黒酢がけ、なめこのたまり漬、生のプティトマト、納豆、沢庵、メシ、まだある豚汁

午前も早いころに空から雪が落ちてくる。日光の山に降った雪が風で飛ばされてくるこれをこのあたりでは風花と呼ぶが、昼がちかくなっても一向に止む気配はなく、「ひょっとしてこれは本降りだろうか」 と懸念をする。あしたから、否、今夜から我々は社員研修のため日光の山へ籠もるのである。景色を美しくするほどの雪ならば有り難いが、あまり多く積もられては困る。

昼飯には、おとといの雑煮からエビの天ぷらを省いたものを食べる。「天かすだけでもあったら、もっと美味めぇだろうな」 と考える。

燈刻、下今市駅のプラットフォームに西hinano順一郎先生を出迎える。日光街道を北上し、ほどなくして会社の研修 「日光MG」 が開かれる霧降高原のリゾートホテル 「メルモンテ日光」 に到着する。雪は午後には止み、道路の状況も心配するほどのことはなかった。既にして待ちかまえていた社員たちが三菱シャトルから荷物を降ろし、指定の部屋へ運び入れる。

6時30分より巨大な吹き抜けの食堂に前泊の社員全員があつまり晩飯を始める。僕はヴァイキングのテイブルからポテトグラタン、ローストビーフ、鮪の刺身、グリーンサラダを選び、そのサラダの上に更にホッキ貝のサラダを載せた。鮪の皿には醤油ではなくワサビとフレンチドレッシングを添える。そしてそれらを肴に黒龍の吟醸210CCを冷やで飲む。素麺2椀にて締める。

8時より6人用の洋室にて交流会を始める。hinano先生は9時に退室をされ風呂へ向かった。何時ころかは忘れたが、今回の研修に茨城県より参加を表明されたサクライマサタカさんとスズキケンジさんが部屋に来る。0時を30分すぎて僕は皆にいとまを告げた。

ここの温泉は決して温度の高いわけではないが、外気の冷たさからか今日に限ってはほどよい熱さに感じられる。手足を伸ばし、あたりの雪をながめ、しかし眼下に広がる針葉樹の林や日光市街の様子は寒くて見る気もせず、内湯から脱衣所へ向かう。

部屋へ戻って 「東京旅行記」 をすこし読み、それが時を知らせる前に目を覚ますことは分かっているが、念のため7時に目覚ましを設定する。1時すぎに就寝する。


 2005.0110(月) ラーメンという貨幣

目を覚ましたのは0時のころだっただろうか。それは、いまだ隣の部屋で家内と長男の話し声がしていたことからの想像による。枕頭の灯りを点けて本を読み始めるが、いかにも疲れるので灯りを落とし目を閉じる。しかしながら眠れるわけではない。

夜間に外国のある飛行場へ着き、税関を抜け外貨を両替し、外にたむろするにわかポーターやタクシーの運転手をかきわけエアポートリムジンの乗り場を探す。そうしてたどりついた旧市街の安宿でいつまでも眠れないのは興奮のせいだが、いま眠れないのはどのような理由によるものか。

それでもいつの間にか二度寝に入り、気がつくと5時30分になっていた。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。朝飯は、ほうれん草の油炒め、なめこのたまり漬入りスクランブルドエッグ、納豆、鮭の昆布巻き、メシ、豚汁

午後、13:36発の上り特急スペーシアで甘木庵に戻ろうとする長男を下今市駅まで送ると、当の列車には満席の表示があった。14:11発の快速にきりかえ、だから特急券の千円と少々は浮いたことになる。千円と少々をラーメンに換算すれば2杯分だろうか。

5丁目の 「鳥ぎん」 ではビール大瓶1本、焼き鳥10本、おしんこ1鉢、釜飯ひとつで5ラーメン、「並木藪」 ですこしばかり飲み盛り1枚で10ラーメン、湯島天神下 「シンスケ」 で料理3品、酒3合なら15ラーメン、飯倉にあったフランス料理屋 「ミレイユ」 ではアラカルトとリースリング1本で20ラーメンと、僕には学生のころより、特に食べ物については円ではなく 「ラーメン1杯」 を貨幣として考えるところがある。

家内が 「お酒を抜くために用意した」 という鮪の漬け丼白菜漬とシジミのおすましによる晩飯を食べたところ、よほど鮪に栄養があったためか、ハゲた頭皮に汗をかく。年末に日光の 「晃麓わさび園」 にて購ったわざびも、ずいぶんと短くなった

入浴して牛乳を300CCほども飲み、枕頭の活字を拾い読みつつ10時30分に就寝する。


 2005.0109(日) デフォールトのカルビ

目を覚まして枕頭の灯りを点け、時計を見ると深夜2時30分だった。「素敵なダイナマイトスキャンダル」 を読み終え、眠ろうとするが眠れない。あるいは眠っても浅い夢を見てまた目を覚ます。そのようなことを繰り返しつつ朝を迎える。

事務室へ降りて、眠れないままに書いたメモを机に置く。いつものよしなしごとをして7時に居間へ上がる。朝飯は、沢庵、納豆、メシ、豚汁。沢庵をひと囓りしたら甘草によるものだろうかずいぶんと甘いため、台所から刻み塩昆布を持ち出し食卓へ戻る。

ことしの高島屋東京店でのイヴェント 「老舗・名店の味特選会」 は2月23日から3月1日まで開かれる。これについての昨年の記録1メガ分を今年の実情に合わせて書き換える。また、今年から変化する状況、昨年の反省から導き出されるより良い商売の方法を考えつつキーボードを叩く。

昼飯は、揚げたてのエビの天ぷらと焼きたての餅にすまし汁をかけまわし、そこに大根おろし、なめこのたまり漬、三つ葉、柚皮を載せたお雑煮で、これが大変に美味い。そのお雑煮が汁のみになったころ、ことし成人式を迎えた社員ふたりが来ているとの館内電話が事務室より入る。

ふたりの晴れ着姿を見に集まってきた社員ひと通りが仕事場へ戻るのを待って、当のサイトウシンイチ君とハセガワタツヤ君の写真を撮る。1976年の1月15日、僕はジーンズとダウンパーカの格好で渋谷へ行き酒を飲んでいた。それに比較をすれば、成人の日にきちんとした身なりで自分の勤める会社を訪問するとは大優秀である。

午後に入っても午前中の仕事の続きをする。自分には明らかに、コンピュータをいじっていないと落ち着かないというクセがある。このクセが本日の仕事では大いに満たされたためだろう、夕刻にいたってようやく、きのうの日記をいまだ作成していなかったことに気づく。

長男が10日の昼に甘木庵へ帰るため、9日の夜は焼肉を食べに行こうと前から決めていた。「大昌園」 へ電話をして今夜の営業を確かめる。

タン塩×2レヴァ刺し×2オイキムチ、モヤシナムル白菜キムチ。バブルのころには僕も 「特上カルビ」 だの 「極上カルビ」 などというものを注文していたが、最近はもっぱらデフォールトの 「カルビ」 しか頼まない。しかしながらここのカルビは時により特上並み極上並みのものが出てくるため、目の前に皿が運ばれるまでは博打をしているような楽しさがある

子袋とホルモン石焼きビビンバときてまだ肉を欲し子袋とミノを追加する。我が町に焼肉屋さんが何軒あるかは知らないが、美味いラーメンが食べたいとなれば、どうしてもこの店へ来ることになる。テグタンラーメンにて締める

帰宅して入浴し、牛乳を200CCほども飲んで9時に就寝する。


 2005.0108(土) 牡蠣フライがあるうちは

6時に目を覚まし、「素敵なダイナマイトスキャンダル」 を30分だけ読んで起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとにすこし足りない作業をし、7時に居間へ戻る。朝飯は、トマト入りスクランブルドエッグ、ほうれん草の油炒め黒酢がけ、納豆、鮭の昆布巻き、メシ、豆腐と長ネギの味噌汁

洗面所の窓を開けると、我が町の頭上は晴れているが、日光の山の上半分は雪雲に閉ざされて暗い。そういう場所において自分はこれまでに幾夜を過ごしただろうかと考える。吹雪の中のキャンプの楽しさは、テントという薄い皮膜の外と内との環境の落差にあるとは、僕がつねづね感じていることだ。あるいは長距離をヨットで移動する行為にも、同じ楽しさがあるかも知れない。

終業後、「とんかつあづま」 に社員が集まって新年会を行う。まず、サラダと松前漬を酒肴として焼酎のお湯割りを飲む。松前漬は大好きな食べ物だが、昨年は1回しか食べることができなかった。目の前にこれが豊富にあればツルツルと際限なく食べてしまうやも知れず、だからこのようなものは家に常備しない方が、こと僕については安全である。

とんかつ屋でも、牡蠣フライがメニュにあるあいだはこればかりを食べる。そしてまた、焼酎のお湯割りを飲む

新年会恒例のビンゴ大会は、今年は趣向を変えて、賞品を会場の一角に積み上げ、上がった者から順に好きなものを取ることにした。始まるまでは、スーパーマーケットの商品券や料理屋の食事券から先になくなるだろうと予測をしていたが、別のものを選ぶ例もあって 「人の好みはいろいろだなぁ」 と思う。もっとも確かに、金額からすれば商品券よりも高い賞品も多々あるし、またわざわざ料理屋へ出かけてメシを食べることを好まない人もいるだろう。

早めに帰宅して、次男が書き初めを仕上げるところを見る。「なんでもいいやな」 と言うと家内が 「なんでもいいやなって、どういう意味?」 と返すが、それは 「自分の子供の書き初めはどれを取っても甲乙付けがたく、だから早く終わらせて風呂に入ろう」 ということである。

入浴して牛乳を200CCほども飲み、9時30分に就寝する。


 2005.0107(金) きれいな鰻重

目を覚ますと天井に3個のダウンライトが輝度を落としてあったから、ここが自宅でないことはすぐに分かった。ちかくに置いたザックを引き寄せ携帯電話を取り出して見るといまだ4時だった。自宅であればすぐに枕頭の灯りを点け本を開くところだが、なにより家内の実家にいるのだから当方には遠慮があるし、第一、読書灯がどこにあるのかも知らない。

まるで座禅のように退屈な3時間を耐え、周囲に合わせる形にてようやく7時15分に起床する。食事のための丸テイブルにコンピュータを起動し、きのうの日記を作成する。朝飯は、焼きおにぎり、大根の麹漬、五穀茶僕以外の人たちが食べるパン、その他いろいろ。

本日の帰宅は夜遅くになる。明日の朝も忙しさが予想される。そのまま食卓にて今日の日記を途中まで作成する。昼飯は、かまぼこ、松前漬、タコの中華風、昆布巻きと、豚挽肉、玉ネギと舞茸のみじん切り、揉み海苔のつゆにて食べる釜揚げうどん

長男と次男との3人で、一足先に家内の実家を去る。新橋を経由して蔵前に至る。駄菓子屋オモチャの問屋を横目に浅草まで歩き、東武日光線の駅に入ると長男が 「あっ、字が間違ってる」 と言う。列車の時刻を知らせる電光掲示板に垂らされた 「謹賀新年 東武鉄道株式会社 浅草駅長」 と書かれた大幕に目をやると、たしかに東武の 「武」 の字に点がひとつ欠けている

「駅長が自分の会社の字ぃ間違えるわけねぇよ、看板屋が書いたんじゃねぇか?」
「プロならもうすこし上手く書くでしょう」

「駅員が何十人いるか知らねぇけど、誰も気がつかねぇのかな」
「うーん」

「エキチョーにも筆の誤り」 などと言いつつロッカーへ荷物を入れ、身軽になって浅草寺を目指す。モクモクと煙を発する例の線香立てに群がる人たちの写真を撮り、財布から賽銭用の小銭を出して次男に渡す。本堂の階段を上がって天井を見る。ここに大きく描かれた 「飛天」 という絵が堂本印象によるものであるとは、つい数日前に嵐山光三郎の 「東京旅行記」 で知ったばかりだ

「花やしき」 で回数券44枚分を遊び、六区を散歩して浅草駅へ戻る。遅れて鎌倉を出発した家内と落ち合い江戸通りを南下する。

鰻屋 「前川」 の座敷に入ると窓の外には夜の隅田川があり、すぐそばに駒形橋、すこし離れたところにアサヒビールの本社が望まれた。川向こうの首都高速道路には多くトラックがあって渋滞をしている。蒲焼きに熱い日本酒を注いだこの店のう酒が好きだ。うざく肝焼きう巻きを皆と分けて食べる

この店の鰻重をひとことで表せば、それは江戸前にすっきりとして綺麗な仕事、ということになる。これを酒肴として、追加した燗酒の銚子2本を飲む。肝吸いも飲む。食後のフルーツは長男と次男にくれてしまう

10時すこし前に帰宅し、入浴してビール350CCを飲む。11時に就寝する。


 2005.0106(木) やっぱりマグナムだね

闇の中で目を覚まし、「もうすこしこのままでいよう」 と横になっているうちに6時を知らせる街のオルゴールが鳴る。更に 「もうすこしこのままでいよう」 とゆっくりし、いよいよ起床して居間へ行くと、時刻は既にして6時30分になっていた。

居間の机に載せておいたコンピュータを起動し、きのうの日記を作成する。「晩飯に続いて今朝のメシも抜いてみよう」 と考え、熱いプーアル茶3杯を飲む。

今夕は鎌倉にある家内の実家へ行くことになっているが、昼前に家内より電話が入り、いとこが建てた家に親戚が集まることになったため、とりあえずは田園調布へ来てくれと言う。湯島や神保町や神楽坂では夜間の散歩などするが、田園調布と名の付く地域には生まれてこのかた足を踏み入れたことがない。家内より聞いた場所を地図帳からコピーして本日の荷物に加える。

新築をした家に、まさか手ぶらで行くわけにはいかない。ワイン蔵より "TAITTINGER BRUT RESERVE" のマグナム1本を引き抜いて、これも本日の荷物に加える。また、家内に頼まれたたまり漬5袋も、本日の荷物に加える。「東京旅行記」 は途中で読み終えてしまう心配があるけれど、本2冊を持参するのは気が進まない。読みかけのこれは家に残置することとして

「素敵なダイナマイトスキャンダル」  末井昭著  ちくま文庫  \609

をザックに入れる。

マグナムのシャンペン1本、たまり漬5袋、"Leica ?c" の入った袋を右手に持てば、背中のザックに格納した "ThinkPad X31" などは週刊誌1冊分ほどの重さにしか感じられないから不思議だ。

下今市駅13:36発の上り特急スペーシアに乗り、浅草を経由して新橋へ達する。正月に、まさか家内の家へ手ぶらで行くわけにはいかない。銀座8丁目の 「信濃屋」 で1リットルのオールドパー3本を仕込み、これも本日の荷物に加える。背中に荷物、両手にも荷物などという男は、いまどき夜行寝台列車の到着した上野駅のプラットフォームにも見られるものではない。そういう姿にて親戚の家には4時30分に着いた

厚焼き玉子、家内が鎌倉の魚屋から仕入れてきた鮪、トロ、鯛、イカ、平目、シマアジ広島菜を手巻き鮨にする。これらすべては美味いが、酢飯も海苔もまた美味い。僕がなぜマグナムボトルのシャンペンを好むかといえば、おとな7人に1杯ずつこれを注いでも、なお半分以上は残るからである

モロッコ隠元のバター炒めは噛むほどに味が濃くなり、"ARGIANO BRUNELLO DI MONTALCINO 1998" は、こういう表現が褒め言葉になるかどうかは不明だが "Les Forts De Latour" よりも "Latour" らしく、そしてローストビーフは最高に上出来だった。「このローストビーフはオレの人生の記憶に残るよ」 と言うと、これを焼いた家内のいとこは、いかにも世辞が上手であるというような顔をして笑ったが、僕は世辞については、いくら歯を食いしばっても言えない性質である。

イチゴとパイナップル、生のシーヴァスリーガルとミルク入りエスプレッソにて締める

家内の実家のクルマにて鎌倉まで帰る。入浴してジョニーウォーカーの赤を水割りで1杯だけ飲む。10時30分に就寝する。


 2005.0105(水) 義理の年賀状はいらねぇなぁ

枕頭の灯りを点け時計を見ると5時だった。「東京旅行記」 を読んでいるうちに6時30分になり、7時がちかくなる。起床して事務室へ降り、暖房のスイッチを入れるくらいのことしかできずに居間へ戻る。朝飯は、2種のおにぎり豆腐と長ネギの味噌汁、大根の麹漬

9時前、実家へ行く家内と次男を下今市駅まで送る。長男はきのう既にして東京へ移動をした。製造現場は新年初出勤の日にこそ滞留した仕事に忙殺をされたが、2日目以降は通常の業務に戻った。事務係は暮のあいだの伝票を片付け始め、店舗からは新年の客足が引きつつある。

きのう泡盛が八酌グラスで1杯と半分しか飲めなかったため、また元旦以来ずいぶんと栄養をとり続けているため、今夜の断酒と断食を決める。

来社したあちらこちらの営業マンに手渡した名刺が先方のコンピュータに入力され、年末になってデイタをアウトプットされたらしい、宛名書きも裏面も印刷のみという義理の年賀状には返信の必要なしと、事務室へ残置をした。それ以外については初更6時過ぎより熱いプーアル茶を飲みながら、居間の机にて返信を書き始める。

おもてうら印刷のみの年賀状は、友人知り合い顔見知りからも届く。それらへの返信には先方の宛名と当方の住所氏名のほか文字を省こうと考えていたが、結局はすべてに文章を書く。

万年筆のインクが乾くのを待つとか、疲れた指を揉みほぐすとか、そういう短い休みを挟みつつ11時までに50通の返信を書く。5時間で50通だから1時間で10通、ということは1通あたりおよそ6分。

風呂へ飛び込むと5時間30分前に張ったお湯はとうに冷め、暫時、寒い思いをする。0時30分に就寝する。


 2005.0104(火) 濃い味のアイスクリーム

目を覚ますと部屋の中はひとけのない水族館のように青みを帯びて薄明るかった。枕頭の灯りを点け 「東京旅行記」 を開くが昨夜の酒が残っているため、なかなか活字を目で追うことができない。灯りを落として目をつぶり、7時にようやく起床する。1階へ降りて事務室の鍵を開け、更に外へ出て新聞を取り込む。

朝飯は、納豆、大根の麹漬、マカロニサラダ、タシロケンボウんちのつまみ湯波の炊き物、津軽漬、メシ、タシロケンボウんちのお徳用湯波と長ネギの味噌汁

きのうの日記を書こうとするが、左右で計4本の指のアカギレにバンドエイドを巻いているため、いつものようなタイピングができない。ややもすれば、バンドエイドの角の突出した部分がキーとキーの隙間に挟まり、指を引き上げる際にキーを引きちぎりそうになって肝を冷やす。

社員の中では販売係のハセガワタツヤ君の手がアカギレだらけだが、こういう人の気持ちはよく分かる。手にクリームの皮膜を作ることが、どうにも気持ち悪いのである。僕は多分1日に数十回は手を洗うが、クリームを塗った手はそのつどヌルヌルになり、結局はそのヌルヌルを嫌って綺麗に洗い落としてしまう。だからそもそも手にクリームを塗る意味がない。

ようやく日記を完成させてサーヴァーへ転送したと思ったら、こんどは受話器を肩と首との間にはさみ、先方と会話をしながらブラウザへ文字を打ち込むような仕事の必要が生じて、ここでも自由にならない指先が大きなストレスになる。

そうこうするうち、会社が年末年始に取引先からいただいた諸々を社員に分けるためのくじ引きが始まる。これについては飲酒を好む者に蜂蜜が当たったり、またお菓子の好きな社員に焼酎が充当されるなどの皮肉が毎年のように発生して興趣はつきない

きのうカラオケで 「科学忍者隊ガッチャマン」 を歌ったスズキノリユキ君は遠方から参加のため、夜は 「つたやホテル」 に泊まったが、10時前に来店をし、帰途に肩が凝るほどの漬物を買ってくれた。コンピュータにて自宅最寄り駅までの所要時間を調べ、東武日光線を利用するのが最も合理的と、下今市駅までクルマで送る。

次男が晩飯として指定したのはカレー南蛮鍋だった。カレー南蛮蕎麦や同うどんの汁でしゃぶしゃぶをしたら美味かろうとは僕のアイディアだが、一方、鍋に豚足をぶち込むと美味いとは春日町1丁目に住むカミムラヒロシさんが偶然に発見をしたことだ。この双方の英知を結集し、厚揚げ豆腐と椎茸をあらかじめ煮たカレー南蛮鍋に豚足が投入される。豚足が充分に柔らかくなるまでは、ほうれん草と豚の薄切り肉にてしのぐ

泡盛 「宮の華」 がなぜか八酌グラスで1杯と半分しか飲めないのは、きのうの酒が消化器官のどこかに詰まっているせいだろうか。そのようなこともないだろうが、明日は断酒をしようと考える。

鍋から引き上げたほうれん草を茶碗の飯へ載せ、和風のカレーライスとする。次男が 「味が濃すぎて食べられない」 と、ほんのすこし食べただけで残した 「ダ・ルチアーノ」 によるチョコレイトのアイスクリームを口へ入れ舌と硬口蓋のあいだでつぶしてみると、なるほどとても濃厚で美味い。「子供には、こういう味は合わないのだろうか?」 と考えつつスルリとこれを食べる。

入浴して牛乳を400CCほども飲み、9時30分に就寝する。


 2005.0103(月) 同窓会

目を覚ますといまだ午前0時30分で、家内と長男は居間で起きていた。その時間より彼らが寝入った後も延々と眠れず、仕方なしに枕頭の灯りを点けて

「超級食香港」  菊地和男写真・文  平凡社  \1,630

を開き、これを読み終えて更に

「東京旅行記」  嵐山光三郎著  知恵の森文庫  \680

を4分の1ほどのところまで読む。5時に二度寝に入る。次に目を覚ましたのは7時だから事務室へ降りていつものよしなしごとをする時間はない。黒豆、栗きんとん、津軽漬、昆布巻き、お雑煮という元旦以来の朝飯を食べる。

終業後に社員とのミーティングを終え、同級生のセトグチタカシ君へ電話を入れる。セトグチ君は暮にお母さんを亡くしているから本日夜の同窓会に来られるかどうか危ぶんでいたが、しかしまた彼は同窓会の幹事でもある。「今日は出られるの? ところで何時からだったっけ?」 と訊くと 「もう何人かは来てるんですが」 と、セトグチ君は既にして会場へ入っていた。

買物に行く家内の運転するホンダフィットにてJR今市駅近くの 「石和」 まで達すると、すべての窓は真っ暗である。昨年夏の集まりがこの日本料理屋で開かれたから、今回もてっきり同じ場所へ行けば良いとばかり考えていた。ふたたびセトグチ君に電話をし、今日の会場は1キロほど離れた 「こいと」 であることを知る。「分かりました、すぐに行きます」 と答えて電話を切りつつ 「歩きで来なくて良かったぁ」 と家内に言う。

それにしても、同窓会のお知らせに 「出席」 の返信をしたまま、その会場も開始時間も記録に留めず、ただでさえ忙しいセトグチ君におんぶにだっこの僕はほとほとダメな人間である。

その 「こいと」 には既にして、ほとんどの出席者が集まっていた。宴会についての教養に欠ける僕はエダタダシ先生の酌を受け、しかしお返しのお酌をするなどということはハナから頭にない。端からひとりずつ順番に回る自己の近況報告は、なにはともあれ皆の平安を知らせるもので悪くなかった。

雪が凍りついた夜の道を5分ほど歩き、二次会会場のカラオケボックス 「時遊館」 へ行く。同級生名簿には連絡先不明の空白が何人分かあり、セトグチ君よりその調査を依頼されていたが、そのうちの3人を僕は見つけ出したから、この点についてはほとほとダメな人間でもない。

昭和の時代には皇太子殿下に似ていたスズキノリユキ君は、だから元号が平成に変わってからは天皇陛下に似ている。このスズキ君の連絡先は検索エンジンにて発見をした。スズキ君は皆からさかんに 「変わった」 と言われていたが、彼が大学生になって以降もたびたび遊んでいた僕に、そのような感想はない。市民オペラの代表を務めるスズキ君は 「科学忍者隊ガッチャマン」 を朗々と歌い上げた

僕の名字はウワサワだが、同じ文字を書いてウエサワと読ませるウエサワヒデオ君とは多分、31年ぶりの邂逅だと思う。例弊使街道を土橋から追分地蔵へ向かって左側の暗渠はむかし、深い川だった。僕は自転車で併走するウエサワ君に幅寄せをし、彼の自転車をこの川へ突き落としたことを憶えている。運動神経に優れたウエサワ君は足を道路に、頭を向こう岸の土手に当てて、まるで自らをつっかい棒のようにして川への転落を免れた。助けてくれたのは、たまたま通りかかった知らない男の人だった。

小学校の6年生が以降36年を経るとはどういうことなのか。陽炎の立つ炎天下に裸足で野球をしていた子供が、いつの間にか演歌を歌うオヤジになっていたというのも変化のひとつには違いない

「それじゃ、そろそろ行きますか」 という声で目を覚ます。僕の長男よりも1歳年長になるセトグチ君のお嬢さんが運転するクルマにて、スズキ君は宿泊するホテルに、そして僕は自宅まで送ってもらった。スズキ君がクルマを降りる際にドアをガードレイルへぶつけても、笑って 「大丈夫です」 と答えるセキグチ君のお嬢さんは非常にできた人間である。自宅へ着きクルマの外へ出て白い新車のドアをなで回してみると、とにかく手に感じる傷はなかった。「ホントに大丈夫みたいですね」 と言いつつそのドアを閉める。

エレヴェイターを上がって居間の戸を開けたのは何時ころのことだっただろうか。入浴してなにも飲まず、推定で0時に就寝する。


 2005.0102(日) 市場が開くまで

5時30分に起床する。事務室へ降りていつものよしなしごとをし、7時に居間へ戻る。地面に凍った雪は残っているが、天気はきのうに続いて上々である。タシロケンボウんちのつまみ湯波の炊き物、黒豆、栗きんとん、津軽漬、昆布巻きを自分の皿へ取り分ける。「あら、飲まないで感心じゃない」 と家内が言う。「初売りの日に朝から飲んじゃぁマズイだろう」 と考えてのドライな朝飯である。水菜、ゴボウ、京人参、椎茸の下に鰤と鶏肉と大根を潜ませたお雑煮を食べる

7時45分に生花のカワムラコウセンさんが来て、店舗に下ごしらえのしてあった正月用の花を完成させる

午前中から昼過ぎにかけて客足は繁くなったが、大晦日の雪がたたってか、午後2時半以降には早くも店舗が閑散とし始める。それでも、暗い空から間断なく牡丹雪が降り続くような正月にはならなくて良かった。

次男の誕生日は先月27日で、鄙には希なフランス料理屋 "Finbec Naoto" に晩飯の予約を入れてあったが、長男の風邪が回復しないためキャンセルをした経緯があった。そうこうするうちオフクロにこの料理屋から正月営業の案内が届いて、そこには正月限定によるカレーライスとハヤシライスの案内があった。市場が開くまでの、簡便で安価なメニュなのだろう。

「12月にくらべればずいぶんと安く済んじゃうな」 と考えつつ初更、オヤジとオフクロを含めた6人にて慎重にクルマを走らせ、暗闇の中に三角屋根と白壁の浮かぶ料理屋へおもむく

2種のスープ、数種類のカレーライスとハヤシライスより各自が好みのものを選ぶ。次男の前には泡立つカボチャのポタージュが置かれまた僕の前にはオニオングラタンスープが運ばれた。トマト、ゆで玉子、水菜、ベビーリーフ、ルッコラ、大根のサラダを前に酒が欲しくなるが、今夜のメシの内容であれば断酒で行けると判断をする

3食すべてがカレーでも良いと考える次男はもちろん、カレーライスの 「特製」 を指定した。僕は牛タンのハヤシライスを選び、またたく間にこの皿を空にする付け合わせはウチのらっきょうのたまり漬と胡瓜のたまり漬だった

「金柑のコンポート」 と 「焼きリンゴのパイ」 から後者を選択すると、そこにはココナッツのシャーベットが添えられていた。ココナッツの香りは、どちらかといえば得意ではない。コロンボの "YMCA" に逗留し、ほとんどの料理にココナツオイルを用いる食堂でメシを食べたときには閉口した。食堂自体がココナッツの匂いを発しているのである。しかしこのシャーベットほどの量であれば、むしろその香りを楽しむこともできようというものだ。エスプレッソにて締める

帰宅して入浴し、牛乳を400CCほども飲んで9時30分に就寝する。


 2005.0101(土) 一年の計は元旦にあり?

小さくない地震に目を覚ます。居間へ行きテレビのスイッチを入れ服を着る。「もう起きるの?」 と家内が訊く。5時25分の起床であれば、それほど奇異なことでもない。事務室へ降りてコンピュータを起動する。

「ウェブショップで、1年にこれくらい売れたらいいなぁ」 と漠然と考えていた数字は奇しくもきのう大晦日に達成された。そのとき急に思いついて、トップペイジに 「新年最初のお客様には、片山酒造の原酒柏盛1本をプレゼントいたします」 と載せたが、早くもその該当者がいらっしゃるのではないかと受注用のブラウザを開いたが、そこには大晦日の閉店後から午前0時までに入ったご注文があるばかりだった。

その、大晦日の夜に発信されたご注文を発送伝票にし、また既に作っておいた新年用のトップペイジをサーヴァーへ転送する。更にきのうの日記を作成して、これもサーヴァーへ転送する。

一段落をして外へ出てみれば、日光宇都宮道路の状況を知らせる電光掲示板には、いまだ全面通行止めの表示が消えない。「そんなに深い雪でもねぇけどなぁ、それとも更に重要な道路の復旧に、人や機械が優先して振り向けられているのだろうか」 と考えているところに除雪車が近づき、それは国道121号線を鬼怒川方面に去った

元日の空は快晴に近い晴れである。長男、次男と共に精進のお雑煮を仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神の5ヶ所に供えて歩く。きのうから屋根の下に置いたホンダフィットにて如来寺へ行き、犬の足跡しかない新雪を踏んで墓参りをする。雪の下から線香入れを掘り出し、そこに線香を置く。

9時にようやく居間へ戻る。墓地の雪にめり込んだズボンの裾が濡れているけれどそれは気にしない。ちょうど1年前に蔵出しをされた喜久水酒造の 「高橋良吉」 をエスプレッソ用の茶碗に注ぐ和三盆糖を振った黒豆鄙には希な和菓子屋 「久埜」 の栗きんとん津軽漬昆布巻きお雑煮をその酒肴とする

昼前より家族4人で追分地蔵尊へ行き、また瀧尾神社へ行く。瀧尾神社では昇殿をしたが、祝詞奏上については寝ていたためなにも憶えていない。玉串を奉奠して靴を履く。鳥居をくぐってタカハシさんちの露店で焼そばを買うが、次男はそのまま参道をジグザグに歩いてリンゴ飴、綿飴、焼きソーセージ、鶏の唐揚げ、バナナチョコを次々と所望する。

帰宅してその焼そばを肴にビールを飲む鶏の唐揚げにもすこしつきあう焼きソーセージにも仕方なくつきあうバナナチョコについては眺めるだけにする。縁日にリンゴ飴を初めて見たのは小学生のころだが、その毒々しい外観に圧倒されて遂にこの齢まで食べてみたことはない。その毒々しい赤い玉を次男は美味そうにバリバリと噛み砕いていく

午後1時より3時間ほど眠って目を覚ますと、長男は版画による200枚の年賀状を完成させていた。そのまま事務室へ降り、またウェブショップの受注作業をする。「新年最初のお客様には片山酒造の原酒柏盛1本を」 は、福島県の男のお客様へ贈られることになった。長男を呼んで蔵へ入り、あした売る商品の手入れをする。

「一年の計は元旦にあり」 という説教めいた箴言が好きでない。今日1日を自堕落に過ごせば、それが大晦日まで尾を引くというのか? 本日は朝昼と既にして2度の飲酒をしている。「一年の計は元旦にあり? だからどうした」 と考えつつワイン蔵へ行き、棚からシャンペンを引き抜いて居間へ戻る。 その "Pol Roger" を抜栓し、親戚からもらった、フランス料理屋 「オーベルジュ」 のおせち料理をその酒肴とする。家内と子供はチョコレイトフォンデュをデザートにしたが、僕は手を出さなかった

入浴して牛乳を300CCほども飲み、9時30分に就寝する。