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2001

2000

一壺の紅の酒一巻の歌さえあれば それにただ命をつなぐ糧さえあれば
君とともにたとえ荒屋に住もうとも 心は王侯の榮華にまさるたのしさ
Omar Khayyam

 2016.0229(月) 品質

「郵便局で買った切手は自らの手でハガキに貼る。それを局員に手渡しつつ、自分の目の前で消印を押させる。そこまでしないと、局員はこちらの知らないあいだに切手を剥がして金に換えてしまうから、ハガキは永遠に届かない」ということを、むかし旅の途中のインドで聞いた。

僕はまさか「いま、オレの目の前で消印を押せ」とまでは局員には言わなかったけれど、1980年も、またその翌々年の82年も、インドから出したハガキはおおむね届いていた。

「自分に年賀状の習慣は無い。届いたそれに対しては旅先から返事を送る」とは、今月14日の日記に書いたことだ。そしてその14日には早朝から12枚のハガキを書き、切手代を添えてホテルのフロントに托した。

きのう「MGフェスティバル」の会場で、覚えのある何人かに訊くと、しかしハガキはその全員に届いていなかった。1枚あたり200から300文字を手書きしたハガキ12枚は、いまだホテルに置き去りにされているのかも知れない。あるいはどこかに捨てられ、切手代180バーツは誰かの懐に吸い込まれたことも考えられる。

おととしはバリ島のホテルにやはりハガキの投函を頼み、それも届かなかった。旅先からのハガキは今後、チェンライの、エジソンデパートの中にある郵便局の出張所でのみ投函することを決める


朝飯 「ポンヌッフ」のカレーライス(大盛り、生玉子トッピング)、スープ(特注)

昼飯 「こづち」のオムレツ定食

晩飯 刻みキャベツと生のトマトを添えた牡蛎フライ"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"、"TIO PEPE"


 2016.0228(日) 鎮静

MGを学ぶ人たちのお祭「MGフェスティバル」の1日目はマネジメントゲームの3期までの経営、そして2日目は講演に充てられる。きのうは用事があったため、僕は2日目からの参加になった。その講演の内容は長くなるからここでは説明しない。とにかくミヤタマサカズさん、チバヒトシさん、ニシジュンイチロー先生によるそれらは、僕に新しい世界を開かせる、とても意義あるものだった。

ところでMG40周年の今年は参加者が96名にも上った。感想文を書き終えたその全員が、三々五々帰路に就くかといえばそうでもない。MGを学ぶ人たちは、とても仲が良い。「5.5期」と呼び習わされるいわば打ち上げに流れる人がほとんどではないか。

しかし今月11日の日記にも、またきのうの日記にも書いたことだけれど、僕は気ままにしていることを好む。あるいはまた、勉強のあとは、熱した脳と神経を鎮めたい気持ちもある。

よって三浦海岸から新橋までの電車の中ではひとりで本を読む。その新橋ではきのうとさして変わらない酒と肴にて、やはりひとりでカウンター活動をする。


朝飯 「吉利庵」のわかめ蕎麦たぬきトッピング

昼飯 「マホロバマインズ」の昼のお膳

晩飯 「玲玲家園菜3号店」のお通しの、ほうれん草の油和えジャガイモのニンニク油炒めセロリの水餃子羊肉とパクチーの蒸し餃子、「紅星」の「二鍋頭酒」(生)、キンミヤの焼酎(生)


 2016.0227(土) 改宗

初更、英会話教室のチラシをひばりヶ丘の駅前で受け取りつつ礼を述べると「どういたしまして」に続けて「どちらの国から?」と、その色の黒い人は僕に英語で問うた。

僕の見た目にはどうも国籍不明のところがあるらしい。そしてそれは大抵、便利な方に作用する。

僕の見た目は海外において、僕に何かを売って、あるいは僕と何かの関わりを持つことによって利益を得ようとする人たちに、それを躊躇させる効能があるらしい。あるいはまた、行った先の人々に溶け込むことができる。これらふたつのことは、勝手気ままにしていたい僕を、煩わしさから遠ざけてくれるのだ。

ところで先の、色の黒い人には何も感じなかったけれど、そのちかくで同じチラシを配っていた色の白い人には、何やらシューキョーの匂いがした。自分の家のお墓のあるお寺も、また初詣に行く神社も「宗教関係」には違いない。そして、日ごろ触れているそのような宗教と、そうでない宗教の区別については、日本人は極めて無頓着であり、また極めて排他的である。

英会話教室のチラシには、よくよく注意をしてみれば、やはり宗教団体の名が印刷されていた。

日本人は、自らに責任や面倒が発生しない限り異教には無頓着であるけれど、そうでない場合には極めて排他的になる。「容易じゃねぇだろうな」と、チラシを配っている人たちには思う。あるいは彼らにしてみれば「好きでやってるんだから、いいじゃねぇか」ということなのかも知れない。


朝飯 揚げ湯波と小松菜の淡味炊き、人参とルッコラのサラダ、昆布の奥縄風炒め、きのう「玄蕎麦河童」から持ち帰った天ぷら、たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を薬味にした納豆、めんたいこ、メシ、茄子の天ぷらと三つ葉の味噌汁

昼飯 3種のおむすび

晩飯 「味坊」のジャガイモのサラダ羊肉のクミン焼き5種の香り野菜のサラダ「紅星」の「二鍋頭酒」(生)


 2016.0226(金) 厄年?

「あなたは今年、厄年です」と大書したハガキが甘木庵に届いたことがある。差出人は厄除けで有名なお寺だった。「まるで不幸の手紙じゃねぇか」と、それを見るなり僕は苦く笑った。

瀧尾神社で今月21日に開かれた初会議の折、ことし還暦になる旨を雑談の最中に口にすると「ウワサワさん、今年、厄年ですよ」とタナカノリフミ宮司が目を丸くした。よってきのうの春季小祭では、手水所のちかくに立てられた厄年表をしげしげと眺めた。

「男 小厄 25歳」と、その年表にあることから「あなたは今年、厄年です」のハガキが届いたのは1980年のことと知れた。もちろん、厄除けなどはしなかった。そしてそれは、男の大厄と言われるかぞえ42歳のときも変わらなかった。

しかし今にして振り返れば、節目節目にお祓いを受け、それを自らの用心に繋げることは、意味のある行いに違いない

それにしても「やっぱり厄年ってのはあるんだよ、タイの深南部に行ったのが、そもそもの間違いだったんだ」というようなことにならなかったのは幸いである。


朝飯 たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を薬味にした納豆、揚げ湯波と小松菜の淡味炊き、人参の細切りサラダ、しもつかり、トマトとブロッコリーのソテーを添えた目玉焼き、メシ、豆腐と若布と長葱の味噌汁

昼飯 揚げ湯波と若布と三つ葉のうどん

晩飯 「玄蕎麦河童」の酒肴盛り合わせ厚焼き玉子鴨焼きかけそば、2種の日本酒(冷や)


 2016.0225(木) お願い

総鎮守瀧尾神社の、2015年度当番町の住吉町が、2016年度当番町の平町に諸事を引き継ぐ会議は、同神社にて今月7日に行われた。責任役員として僕はこれに出席をし、しかし夜の直会は辞退した。翌日00:20発のタイ航空機に乗るべく羽田に向かわなくてはならなかったからだ。

日本の年度は4月1日に改められる。しかし神社のそれは事実上、引継ぎ会議の翌日だろう。平町による初会議は、4日前の21日に行われた。そして今日は早くも春季小祭、つまりこの秋の五穀豊穣を祈る祈年祭が催行され、僕も参列をした

瀧尾神社の責任役員は定員が6名のところ欠員が1名で現在は5名。本日の出席は僕ひとりだったため、直会の挨拶は必然的に僕が指名をされた。

昨夜の雪は、深夜に至って強い風でも吹いたのか、道路や駐車場など平らで滑らかなところに降ったそれは、朝には消えていた。しばらくすると空は晴れ上がり、白銀の山々はその空を映して青く輝き始めた

その、朝の景色を思い出して「本日は、お足元の悪い中」という決まりの文句は挨拶から外した。そうして当番町および各町内の上席の方々には、ことしも神社をお助けいただきたい旨、お願いをする


朝飯 しもつかり、 たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を薬味にした納豆、ほぐし塩鮭、明太子、生のトマト、メシ、若布と長葱の味噌汁

昼飯 玉子と長葱を具にしたうどん

晩飯 焼き牡蠣パン、人参の細切りサラダ、ブロッコリーのソテー、パンチェッタ、チーズ、"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"、"TIO PEPE"、"CAMUS XO"の瓶に入っているけれど中身は違うコニャック(生)


 2016.0224(水) 暑さ寒さの客観性

「今日は暖かくなるに違いない」と高を括りつつテレビのニュースを視るうち「今日は寒い」ということを、戸外に立った女子アナウンサーが伝え始めた。東京の人の「寒い」は概してアテにならない。

アテにはならないけれど、本当に寒くなったら困る。よって先ほどまで頭にあった服を、より低い気温に耐えられるものに変更すべく、クローゼットの前に行く。

年末から現在までの冬は例年になく暖かかった。よって4つある冬用の帽子は2つしか使っていない。また、冬の上着についても、着たのはホッファーのチロリアンジャケットのみで、シェラデザインのマウンテンパーカも、またハリスツイードのジャケットも、昨春クリーニングから戻って以来、使っていない。

春が間近に迫っているにもかかわらず、今から冬物を下ろす気はしない。しかし女子アナウンサーは「寒い」と言っている。結局は店の外などを掃除するときの、つまりは労働用のジャンパーを着て自転車に乗る。

所用のあった聖橋のたもとのあたりは別段、寒くもなかった。「シンスケ」の「鮭の焼漬け」は、750円で手に入れることのできる新しい天体だ。そうして北千住20:13発の特急スペーシアに乗り、下今市に着いてふと外に目を遣れば何やら白い。

改札口を出ると、雪の勢いは存外に強かった。駅前の四角い郵便ポストを見る限り、積雪は12センチほどはありそうだ。そして駐輪場に停めた自転車にまたがり、いまだ柔らかい雪に細いわだちを作りつつ帰宅する。


朝飯 たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」、しもつかり、納豆、ベーコンエッグ、メシ、大根と若布と長葱の味噌汁

昼飯 「こえど」の鮨あれこれ

晩飯 「シンスケ」のあれこれ、タルヒヤ


 2016.0223(火) 少しは楽しみにしている

美味いけれど中毒にはなりたくないから、あるいは、中毒にはなりたくないけれど美味いから、煙草は年に4本と決めて吸う。今年の1本目は"GOLD MOUNT"という未知の銘柄で、今月11日にナラティワートの宿坊でイスラムの高僧にもらった。

「遂にタバコを止められなかった人の末路」といったおもきの醜悪な写真がタイのタバコの外箱には大きく印刷をされている。ところが"GOLD MOUNT"にはそれが無かった。マレーシアとの国境は目と鼻、という場所柄を考えれば、正規にか不正規にかは知らないけれど、それはタイ国外から運ばれた可能性が高い。とにかく美味いタバコだった

美味いタバコといえば、カンボジアの大衆タバコ"ARA"も捨てがたい。空港の免税店ではいずれ外国のそれしか手に入らないだろうと、僕は街の雑貨屋で1カートンを求めた。もちろん自分のためではない、帰国してからの土産として、だ。

6月に行くビルマでは葉巻が名物らしい。タバコや葉巻は不思議と、僕は熱帯の湿熱の中では吸う気がしない。よって雨期の最中にある現地ではそれに火を点け咥えることはしないかも知れないけれど、すこしは楽しみにしている。


朝飯 しいたけのたまりだき、しもつかり、じゃこ、トマトとベーコンのオーブン焼き、メシ、若布と長葱の味噌汁

昼飯 「大貫屋」の塩ラーメン

晩飯 パン、豚の腸と腸詰めと白花豆のスープ、チーズ、"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013""CAMUS XO"の瓶に入っているけれど中身は違うコニャック(生)


 2016.0222(月) 賞味期限あるいは冷蔵庫の掃除について

先週の土曜日は、賞味期限が3ヶ月前に切れているヨーグルトを食べた。どうということもなかった。そして今日は、冷蔵庫の掃除をした。

ドアの、魚醤やメイプルシロップのこびりついたトレイはお湯で洗って元に戻した。長いあいだ使っていない調味料は、これからも使うことは決して無いだろうから片端から捨てた。おなじものがいくつも開封してある使いかけの食材は、ひとつの場所にまとめた。

「なんでこんな設計、したんだ」と、外れないことをいぶかしく感じていた野菜用のバケットは、奥の骨組みごと引き出したら見事に外れた。大きさからして台所の流しでは無理なため、これについては風呂場で洗うこととした。むろん、このバケットの中からも、いくつかを捨てた。

あるにもかかわらず更に買うことが、後の勿体なさを生む。冷蔵庫を小さくすれば、食材の無駄も減るだろう

昨年の4月15日に賞味期限の切れたすぐきは、いまだ問題なく食べられるに違いない。おなじく昨年の12月23日に賞味期限の切れた島豆腐は数日以内にも、タイ風のスープか炒め物に使いたい。


朝飯 たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」、しもつかり、納豆、プティトマトと一緒に焼いたベーコンエッグ、メシ、若布と長葱の味噌汁

昼飯 牛肉粥、塩昆布、梅干

晩飯 パン、豚の腸と腸詰めと白花豆のスープ、チーズ、"TIO PEPE"、"Fattoria di Vetrice 1988"


 2016.0221(日) いわゆる「先生」

1982年が明けていまだ寒いころ、否、場所はバンコクだったから暑くても寒いことはない、とにかく僕はヤワラーの楽宮旅社にいて、貧乏旅行者たちとあれこれ話をしていた。

この小さな集団の中に、今も乃木坂にある高級ステーキ屋に勤めていたと本人は言う、僕よりすこし年かさの男がいた。便所のちかくの部屋でもあてがわれようものなら、その臭気に耐えかね夜も眠れない落宮旅社にいて、その愛嬌たっぷりの太ったアニキはコンクリートの床にあぐらをかいて寛ぐ達人だった。

なぜかこのアニキに僕は気に入られ、あるとき酒に誘われた。トゥクトゥクに乗って出かけた店の名は「クラブ愛」、金主は日本料理屋「華」の料理長だった。状況からして場所はタニヤだった可能性が高い。しかし日本の駐在員が作り上げた歓楽街タニヤの、現在からすれば考えられないほど、周囲は静かだったような気もする。

席に女は侍らず、カラオケも無かった。だからその点でも、我々の飲んだ店は現在のタニヤのそれとは遠く隔たっている。カラオケは無かったけれど、鰻の寝床のように細長い店のほぼ真ん中にファランのピアノ弾きがいた。

「オレ、あの白人よりピアノ、上手いですよ」と言うなり「だったらオマエ、弾いてこい」とアニキは僕を促した。店の責任者には誰かが話を通したのだろうか、僕が近づくなりファランは苦笑いを浮かべつつ席を立った。そして僕はその電子ピアノで、今となっては思い出せない曲をひとつ弾いた。

酒を飲む場所にはほとんど、まともなピアノ弾きはいない。

おととし10月5日の日記に以下がある。

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日の暮れかかるころ、警察官舎の砂利の広場を横切ってチャオプラヤ川沿いの料理屋"YOKYO MARINA & RESTAURANT"へおもむく。電子ピアノのいわゆる「先生」が来る前のこの店には、ディオンヌ・ワーウィックのバート・バカラックメドレーが流れて、旅の最後の夜にふさわしい心地の良さだ。
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ちょうど1週間前、この店には昨年とおなじ、クリスティの「イエローリバー」が流れていた。そして18時30分になると、いつもの「先生」が来て、いつもとおなじ、プレスリーの何とかという曲の弾き語りを始めた。僕が聴きたいのは、ディオンヌ・ワーウィックのバート・バカラックメドレーである。

そのCDがきのうamazonから届いた。よって夜はこれを聴きつつきのう仕込んだスープを肴に紅白の酒を飲む。"I say a little prayer"の音程の悪さには辟易するけれど、なぜ彼女はこの曲だけ下手なのだろう。スープは至極、美味い。


朝飯 たまり漬「お婆ちゃんのホロホロふりかけ」、しもつかり、納豆、ベーコンエッグ、メシ、大根と若布と長葱の味噌汁

昼飯 「やぶ定」のカレー南蛮蕎麦

晩飯 パン、豚の腸と腸詰めと白花豆のスープ、チーズ、"TIO PEPE"、"Fattoria di Vetrice 1988"


 2016.0220(土) 時間の配分

きのうは6時20分に起床してから朝食を整え、これを食べ終えたのが7時05分だった。7時20分には、出勤してくる社員のため事務室のシャッターを上げる必要がある。よって少しく忙しい気分がした。

今朝は製造現場での仕事があったため、5時に起床した。このこともあり、時間の余裕は十分だった。

その、朝食のためのソーセージや玉子やほうれん草を焼くに際しては、フライパンは使わず、材料は耐熱の器に入れてオーブンの火で炙った。きのうアルコールで掃除したばかりのレンジまわりを、飛び散る油で汚したくなかったからだ。

そして"Fattoria di Vetrice 1988"の栓を抜いてから店に降りる。このワインは抜栓してすぐに飲もうとすると、出来の悪いシードルのような小便臭がする。何ごとも事前の準備が肝要である

昼ごろから雨が降ってくる。その雨のいまだ止まない中を終業後、買い物に出る。そして帰ってスープの仕込みを始める。明日の今ごろ、このスープが美味くなっているか否かについては分からない。


朝飯 たまり漬「お婆ちゃんのホロホロふりかけ」、しもつかり、ほうれん草とソーセージと玉子のオーブン焼き、メシ、椎茸と若布とほうれん草の味噌汁、いちご

昼飯 トースト、ココア

晩飯 パン、生のトマト、煮込みハンバーグ、チーズ、"Fattoria di Vetrice 1988"


 2016.0219(金) 手帳の更新

タイから帰ってくるとすぐに、まるで堰を切ったように、左右のかかとの、これまでふさがっていたアカギレがパックリと割れた。かかとだけならまだしも、これもアカギレのたぐいなのだろう、両手の親指の爪が肉から剥がれ加減になり、結構、痛む。

かかとの割れ目にはすぐに岡山の名薬「ハクシン」を塗り込みバンドエイドを貼った。しかし手の指ともなれば細かい作業に差し支えるから、しばらくは我慢をしていたけれど、やはり「ハクシン」を塗り込み、バンドエイドで覆った。

むかしのバンドエイドは剥がれやすかった上、そのころ僕は製造現場で仕事をしていた。よってバンドエイドに重ねて更に、ニチバンの絆創膏を巻く必要があった。しかしJohnson&Johnsonだかデンマークの工場だかの研究開発により、ここ数年のバンドエイドの進歩は大したものだ。

旅をしている最中には手元から放さない手帳の、3冊目を先日のタイ行きで使い切った。使ううち傷む個所は分かっている。よって今回のそれには予め、その部分を透明のテープで補強した

忘れ物を防ぐため、また必要なものを一目瞭然にするため、その新しい手帳の後ろから2ページ目には歴代のそれと同じく、車内または機内または船内に持ち込むもの、あるいはまた街歩きのときに携帯するものを、それぞれ書き込む。新しいバンドエイドはしなやかに指を覆って、文字を書く邪魔は一切、しなかった。


朝飯 目玉焼き、たまり漬「お婆ちゃんのホロホロふりかけ」、ソーセージとほうれん草のソテー、メシ、椎茸と若布と長葱の味噌汁、いちご

昼飯 トースト、ココア

晩飯 焼き豚と長葱のプリックナムプラー和えパン鶏のトマト煮、"TIO PEPE"、"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"


 2016.0218(木) 便利と不便

僕はメッセンジャーは常に、facebookに連動させてコンピュータでのみ読み書きし、スマートフォンには、そのアイコンこそ常駐させているものの、着信を知らせる設定などはこれまでしていなかった。

ところが今月12日にナラティワートからバンコクに北上した際「おなじ街にいながら日本を経由して電話をするのはバカバカしい」とコモトリ君に言われ、ホテルで朝、あれこれいじくり回した経緯があった。

そうしたところ、古くは2011年からのメッセージが、まるで滝の水か土砂降りのような勢いで入ってきた。そうしてそれが落ち着いてみると、直近の3通はすぐに返事を書かなければいけないたぐいのものだった。よってそれらには即、返信を送った。

仕事のメールさえ「スイマセン、毎日は確認しないものですから」という信じがたい人間が、友人知人の中にさえ何人もいる。今回はそのような輩の、僕は仲間入りをしてしまった、ということだ。

むかしからのPCメールに加えてケータイメール、SMS、ツイッター、facebook、メッセンジャー、LINEと、文字による連絡の方法は増えるばかりだ。これらを一元管理するサービスはないものか。最新の連絡手段は手軽ではあるけれど、その本文を後々、特定の語句で検索する機能に劣り、僕には不便な点も多い。


朝飯 納豆、トマトのサラダ、鰯の梅煮、たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」、生玉子、メシ、若布と椎茸とトマトの味噌汁、いちご

昼飯 じゃこ、塩昆布、牛肉の淡味煮を添えたお粥

晩飯 焼き豚パン豚肉とキャベツの煮込、"TIO PEPE"、"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"


 2016.0217(水) 83円

先月の5日に続いて今日も、所属する団体のひとつに退会を希望する手紙を書く。「悪く言われないために払う会費ってのも、あるんだぜ」とは、ある識者の意見だ。まぁ、そういうこともあるだろうけれど、先月と、それから今回の団体は、そのような種類のものではない。

もう1通、僕にハガキであれやこれや知らせてくる京都のお寺には「本人そろそろ老齢に達しますため」と、今後の宛先は長男にするよう便せんに記す。そして封筒に収めて即、郵便局まで行って、これら2通を投函する。

終業後、今回タイにいるあいだに記録をしておいた金銭の出納を、メモ帳からコンピュータに転記をして計算をしてみた。その結果は以下である。

前回繰越 26,909.5バーツ
今回入金 31,708バーツ
今回出金 13,806バーツ
次回繰越 44,811.5バーツ

これに対して実際の現金残高は44,785.5バーツだった。差額は26バーツ。7日間の使途不明金が邦貨にして83円とは立派なものではないか。

なお、未遂に終わったけれど、14日に遭遇したひったくりについては、街歩きの際の持ち物を更に少なくし、手提げではなく、胸に密着する形の超軽量バッグに収めて防ぐことを考えている。


朝飯 しもつかり、鰯の梅煮、たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を薬味にした納豆、糸こんにゃくの甘辛いため、メシ、豆腐と若布と万能葱の味噌汁、いちご

昼飯 しいたけのたまりだき、梅干し、塩昆布を添えたお粥

晩飯 焼き豚パンボルシチ、"TIO PEPE"、"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"


 2016.0216(火) 味噌汁、お粥、フランスパン

朝、7日の日曜日以来、9日ぶりの味噌汁を飲む。味噌汁を欠いては生きてはいけない、そのようなことはないだろうけれど「やはり美味いものだな」とは思う。

明日から23日の火曜日まで、日本橋の高島屋東京店では「老舗名店味紀行」が開かれる。そして今日は、その準備日に当たる。用度品や商品の一部を積んだトラックは、11時30分に出発をした

こう言っては何だけれど、この催しに東京マラソンが重なると、売上げは激減する。今年の東京マラソンは28日の開催だ。またこの1週間は、天気も穏やかに推移をするらしい。よって、そのふたつの点における心配は無い。

今日は昼にお粥を食べ過ぎ、夜になってもそれほどの空腹は覚えなかったけれど、結局のところ、フランスパンは1本まるごとをこなしてしまった。明日の昼食は少なめにすることを決める。

来週の火曜日までは、自炊である。多分、同じようなものを食べ続けることになるだろう。好きなものばかりなので、特段の問題は無い。


朝飯 しもつかり、五目白和え、鰯の梅煮、めんたいこ、糸こんにゃくの甘辛いため、メシ、椎茸と若布とズッキーニの味噌汁

昼飯 めんたいこ、じゃこ、梅干し、たまり漬「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を添えたお粥

晩飯 ミネストローネパン"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"


 2016.0215(月) 記憶の彼方に

着陸は定刻より10分早い、タイ時間4時45分、日本時間6時45分だった。以降の時間表記は日本時間による。

浅草09:00発の下り特急スペーシアに乗り、約100分の後に下今市に着くと、雪が舞っていた。服装は出かけるときとおなじ、半袖Tシャツに長袖Tシャツを重ね、ウィンドブレーカーを着て一丁上がりの3枚だ。スーツケースから取り出すことを面倒に感じて、木綿の帽子とスカーフ代わりの麻のバスタオルは身につけていない。

この寒々しい格好でスーツケースを曳き、背にはザックを背負って歩いて帰る。きのうまでの蒸し暑さは、とうに忘れている。早くもからだは日本の冬に順応をしたらしい。

自宅の食堂に新聞紙を敷き、そこにスーツケースを置いて、先ずは車輪をアルコールで拭く。それから本体の部分もアルコールで拭く。水拭きでは消毒にならないから、というわけではない、アルコールは噴霧器に入っているから便利、というだけのことだ。

そうするうち雪の勢いは極端に増し、家々の屋根を白く覆ったけれど、ほんの1、2時間で止んだ。あさっての水曜日からは、日本橋高島屋での出張販売が始まる。明日はその準備のため、4名が出発をする。タイでの7日間は一瞬にして、記憶の彼方に遠ざかってしまった。


朝飯 "TG682"の機内食

昼飯 「ふじや」の野菜麺

晩飯 栗のフルーツケーキ、"CAMUS XO"の瓶に入っているけれど中身は違うコニャック(生)


 2016.0214(日) タイ日記(7日目)

旅に出る前から気に病むひとつは土産についてであり、もうひとつはハガキについてである。

僕は年賀状は書かない。届いた年賀状のうち、肉筆による文字がひとつも無いそれについては読まずに捨てても罪悪感は覚えない。しかし友人知人からのものとなれば、さすがに無視はしがたい。そしてそれらへの返信は旅先で書く。

初日、ファランポーンの売店で値段を訊いた絵はがきは1枚25バーツの高値だった。ナラティワートの文房具屋にあったそれは中華風の赤や金色のグリーティングカードで、旅の最中に海沿いの街から送るにはふさわしくないように感じられた。

そうしてきのうまで焦燥してようやく、シーロム通りの雑貨屋に1枚10バーツのそれを見つけたから即、20枚を手に入れた。その20枚のうちの12枚を、今朝は2時間ほどかけて書き上げた。

大抵の年賀状は、写真や文字が印刷してあって、そこに差出人は数文字のコメントを添えるだけ。それに対して僕は、1通あたり200から300の文字を手で書いていくのだ。その仕事をこなした指は、曲がった木の枝のように固まり痺れている

その痛む指を揉みつつジャルンクルン通りに出て、一番食べたいのはお粥だけれど、この界隈にある有名店のそれについては、僕はいささかも美味いとは思わない。きのう午前中のみで店じまいしたぶっかけメシ屋にはシャッターが降りている。となればおなじくきのうのクイティオ屋だ。その店は有り難いことに日曜日の今日も営業をしていた。それを認めてすぐに道を渡り、鍋前のオネーサンに注文を通す。

ジャルンクルン通りの、サパーンタクシンからシーロム通りとの交差点までの西側は、バンコクでも特に混み合う一帯だろう。平日ほどではないけれど、今日も真っ直ぐには歩けないそこを辿ってホテルに戻る

返事を書いていない年賀状が、いまだ数通はある。しかしそれに力を注ぐ気力は残っていない。着替えて本を携え屋上に上がり、プールサイドで1時間と少々を本読みに充てる

来るときには8キロほどで軽快だったスーツケースも、今や、きのうロビンソン百貨店で買った土産を孕んで大層、重くなっている。それを曳き、ザックを背負い、ロビーに降りてハガキ12通に対して180バーツの切手代をフロントに払う。そしてまた、チェックアウトもする。

サトーンの船着き場にいると、座っているだけで汗がにじみ出てくる。ナラティワートの旅社の2階の、あの風の涼しさは何だったのだろう。

コモトリ君の住むコンドミニアムの専用船は、11時40分に来るはずだ。しかしその姿は見えない。と、おととし専用船の上で会話を交わしたことのあるアメリカ人が浮き桟橋の方へと歩いて行くのに気づいた。それを僕も追う。果たして今日の専用船は、木製の優雅なものではあったけれど、普段のそれとは似ても似つかない大きさだった

コモトリ君とは1時間後の船でサワディーの船着き場に渡るそこから中華街の古い街並みに入って行く。ドリアンの屋台が出ている。乾期は去りつつあるのかも知れない。そうしてヤワラーの通りに出ると、街は春節祝いの横断幕で満艦飾のありさまだった

これまた超満員の料理屋で昼食を摂り、賑わうヤワラーに背を向けてリバーシティを目指す。とある交差点を歩いているとき、後方でにわかにオートバイの排気音が高くなった。その直後、フルフェイスのヘルメットをかぶりオートバイに二人乗りしたうちの後席の男が左手で、僕が右手に提げているポーチを鷲づかみにした。

ポーチは"ISUKA"の登山用具で、極めて頑丈にできている。そのベルトは本結びの形に手首に巻き付けてあり、足元はサンダルではなく"trippen"の革靴だから踏ん張りが利く。左に走り去ろうとしているオートバイは車体を左に傾けつつ僕と綱引きをせざるを得ず、遂にはポーチを諦め逃げ去った。

「あんなろくでなしが、それもこんな白昼にいるとは。しかしオマエ、だから手提げなんか持っちゃいけねぇんだ」とコモトリ君は言うけれど、当方は少なくともカメラ、財布、メモ帳、ボールペン、iPhone、ハンカチ、緊急用の薬くらいは携行する必要がある。

ショルダーバッグはいかにも旅行者然として、客引きが寄ってきてうるさい。ポケットの多いベストは、蒸し暑いタイでは着たくない。バービアに群がるファランが多く穿いている、太ももの両脇にポケットの付いたパンツは嫌いだ。だったらどうするか。こと遊びについてなら、課題は増えれば増えるほど嬉しい。早速あれこれ考えてみよう。

リバーシティのすぐそばから渡し舟に乗る。すこし歩いてコモトリ君の家に戻る。そしてシャワーを浴び、きのうの日記を書きつつ夕刻の訪れを待つ

タイにおける僕の旅行を双六に例えれば「上がり」は常に、チャオプラヤ河畔の海鮮料理屋"YOK YO MARINA & RESTAURANT"だ。日本では滅多に飲まないハイボールが、この川のほとりではなぜか美味い。常連の席に届けられた「ハッピーバレンタイン」のプチケーキは、隣の家族連れにコモトリ君が譲った

空港には20時40分に着いた。搭乗ゲートに流れるアナウンスは、はじめ「ハネダ」を「ナリタ」と言い間違えていたからいささか不安になった。"TG777-300ER"を機材とする"TG682"は、定刻に36分遅れて23時51分に離陸をした。背もたれを倒さなくても、足元の奥行きは十分だ。そして間もなく意識を失う。


朝飯 きのうの昼とおなじ店のバミーナム(魚の餃子と揚げ湯波を入れてね特注)

昼飯 「香格里拉海鮮大酒楼」のディムサムあれやこれやハムとカニの焼きそば、シンハビール

晩飯 "YOK YO MARINA & RESTAURANT"のヤムウンセンタレートードマンクン海老のニンニク揚げ、サントリー角(ソーダ割り)


 2016.0213(土) タイ日記(6日目)

旅も半ばを過ぎれば、日がつるべ落としに暮れていくような気持ちなるものだ。しかし今回に限っては「首都に帰りさえすれば美味いメシが食える」という期待によるものか、いつものようには寂しさを感じなかった。

早朝に目を覚ましてきのうの日記の途中までを書く。「そろそろメシ屋は開くだろうか」という時間を見計らって、ホテルからジャルンクルン通りまでの、ソイジャルンウィアンを往く。通りに出たら右へ、つまりジャルンクルン通りとシーロム通りとの交差点方向へ向かって歩きつつ、アヒルの炙り焼きの有名な店で、それを載せた汁麺を食べる。

帰りの道すがら、きのうから気になっていたクリーニング屋の扉を叩くと、太ったビーグル犬が盛んに吠え、中にはオバサンと娘がいた。訊けばなじみでない客の洗濯も引き受けてくれるという。よって足早にホテルに戻り、まとめてある洗濯物を袋に入れて、来た道を引き返す。

出来上がりの時間は18時というので、その時間にはチョノンシーで待ち合わせをしている旨を述べると、引き渡しの時間を17時に早めてくれた。「いま、いくらかかるか計算しますか」と、綺麗な英語で穏やかに娘が言うので「その必要はありません、いずれ、そう高くはならないでしょうから」と答えると、娘は微苦笑を浮かべた。

ナラティワートの宿では、活字中毒の僕でさえ2冊を持参した本のどちらにも、手を触れさえしなかった。そのうちの1冊を持ち、屋上に上がる。そしてプールサイドの寝椅子で3時間ほども本を読む

途中、父親が席を外した隙に、カメラを勝手に持ち出したラテン系の男の子が、寝椅子でくつろぐハチミツ色のオネーサンに近づき、立ち位置を微妙に変えつつ何枚も写真を撮り始めたのは面白かった。将来は大した写真家になるかも知れない。オネーサンは子供相手に怒るわけにもいかず、苦笑いを浮かべるばかりである

朝、ジャルンクルン通りを北へ歩いて行くと、右側に繁盛しているぶっかけメシ屋があった。昼食はそこにしようと、ふたたび雑踏をかき分け歩いて行くと、しかしその店は午前中にすべての品を売り切ったらしく、売り台も客席も綺麗に掃除を施され、明かりも落とされていた。大した店である。今秋はかならず、捲土重来を期すこととする。

そして更にあたりを見まわすと、通りを挟んで反対側、つまりロビンソン百貨店側の「洽記珠宝行」という店の向かって右側に、客で鈴なりの汁麺屋のあることに気づいた。クルマの群れを縫うようにして道を渡り、その、タイ語だから名前は読めない店への階段を上がる。現場の責任者らしいメガネのオバサンに人差し指1本を立ててみせると、客席の奥を確かめ"Number eight!"と小気味よく僕に指示した。

運ばれたセンレックナムの汁をひとさじ掬って飲んで「なるほど、これは群を抜いている」と大いに感心をする。タイの汁麺は、卓上の4種の調味料を使って客が自分好みの味に仕上げてく。それだけに、最初から文句なしに美味い汁は少ないのだ。客は正直である。トッピングを特注した汁麺の値段を訊くと"Fortyseven!"と、またまたオバサンはカッコ良く決めた

ジャルンクルン通りを東側に渡り、中華食材屋「仁和園」で計5点の買い物をする。その重い袋を下げてホテルに戻り、今日になって何度目かのシャワーを浴びる。そしてようよう、きのうの日記を仕上げる。

この旅に出て初めてインターネットで為替を調べると、バーツに対して円が驚くほど上がっている。円とバーツの価格のあいだには米ドルのそれも絡んでいる。日本では何か、とんでもないことが起きているのではないか。そう考えて他のページも見ようとするのだけれど、このホテルのwifiは異常に遅く、それがままならない。取りあえずは、このようなときのために用意してきた日本円を、部屋の金庫から出す。

午前中に頼んだ洗濯物を取りに行くと、17時すこし前だったにもかかわらず、それは既にして綺麗に畳まれ袋にまとめられていた。料金は90バーツだった。タイパンツもアロハシャツも手拭いもすべて1点あたり15バーツ。これが6点で90バーツの計算だという。

「これが高いか安いかは、自分では分からないのですが」と、娘は朝と変わらない、丁寧で静かな英語で問うので「極めて理にかなった値段だと思います」と答え、その金額を支払った。これからも、首都のホテルはこのあたりに僕は定めるだろう。そのときにはまた、この洗濯屋を使おうと決める。

17時すこし過ぎに、サパーンタクシンからサラデーンまでBTSで移動する。そしてタニヤの酒屋で10万円を31,200バーツに替える。用事はそれのみにて、きびすを返すようにしてふたたびサラデーンの駅へと戻り、今度は隣のチョノンシーで降りる。

18時に待ち合わせた「永和豆漿」には、20分ほども前に着いてしまった。やがてコモトリ君が、そしてMG仲間で、たまたま2週間ちかくこちらに出張中のテシマヨーちゃんが、そして最後に下級生のアズマリョウタローさんが来る。そしてこの4人で気楽かつ真面目な会話を交わす

この宴がお開きになって後の僕は、ひとりシーロム通りへと出た。そして今回、初日から買おうとして買えなかった絵はがき20枚を雑貨屋でようやく手に入れる。また、ナラティワートでは遂にその店を見つけることのできなかった古式マッサージを入念に受ける。

チョノンシーからサパーンタクシンまでの、BTSで2駅の距離をホテルまで歩き通す。部屋ではバスタブに湯を満たし、ゆっくりと浸かる。


朝飯 「新記」のバミーナムペッ

昼飯 ジャルンクルン通りの繁盛店のクイティオナム(スルメと揚げ湯波を入れてね特注)

晩飯 「永和豆漿」のつきだしあれこれ、小籠包素炒麺牛肉麺、日本から持参した麦焼酎(ソーダ割り)


 2016.0212(金) タイ日記(5日目)

この宿に来たとき、2階の共有スペースには、ドイツ語とスペイン語のペーパーバックが各1冊、それに英国の風刺マガジン"PRIVATE EYE"数冊があった。縄張りの誇示ではないけれど、家を出た2月7日の日本経済新聞朝刊を、僕もここに残すそして上掛けを畳むなど整頓した部屋から荷物を持ち出し、階下に降りる。

きのうの心残りは、イスラム僧CHEK-MUHAMMAD師に声をかけられた屋台のパンを食べなかったことだ。金曜日はイスラムの休日で、今日は休みに違いない。しかし駄目で元々と件の寺の前まで出かけてみると、果たして夫婦らしいふたりは今日もパンを焼いていた

人気の店らしく、焼き上がりを待つ客が幾組もいる。そこに混じって僕も1枚、注文をする。僕の分を袋に入れつつ「どちらのソースにするか」という風に、ふたつ並んだ鍋を女の人が指さすので、それらの鍋のフタを開け、黄色い方ではなく、赤い方を選ぶ。そして財布から20バーツ札を1枚、5バーツ硬貨を2枚、手の平に載せて差し出すと、女の人はそこから5バーツ硬貨2枚のみを取った。

次はやはり、寺の前のコーヒー屋で熱いコーヒーを頼む。オヤジが何ごとか言うけれど、僕には一切、理解できない。火にかけられている寸胴を指し「ローン」と答えても、相手には通じない。オヤジが盛んに氷を指すので、しかたなく頷く

イスラムパンとアイスコーヒーは宿の、客だまりとでもいうべきところのテーブルで摂った。そしてナラティワートで食べたすべてのうち、美味かったものはこのイスラムパンだけだったことを思い知る。

さて、この街に入って以来ずっと僕の頭の中にあった心配は、街から15キロ離れた空港まで、どのような方法で辿り着くか、ということだった。しかしおとといの夜、この家の住民のうち、僕の知る限りただひとり英語を話せるオバサンが、モータサイの存在を教えてくれた。そしてきのう、そのつもりで街を観察していると、なるほどタイの他の街には比べようもないけれど、モータサイも、またソンテオも、数台は運行していることが分かった。

今日の飛行機は12:25発だから、空港へは11時25分までに着けば良い。しかし交通の手段はいまだ確保できていない。行動は、早くて早すぎることはない。

宿の前の道を、おとといオバサンが指した北に向かって歩いて行くと、なるほどモータサイの運転手を示すベストを着たオジサン3人がいた。その3人の誰にともなく「パイ、サナビーン」と声をかけると、モータサイの運転手というのは、仲間内で仕事を平等にまわすところがある、ひとりのオジサンが別のオジサンに促されて自分のオートバイのステップを外した。僕は宿の名を伝え、オジサンばオートバイを最徐行させて僕の後を着いてくる。

先ほど帳場に預けておいたスーツケースを外の歩道に持ち出す。そしてそれをモータサイのシートに置き、その後ろに僕がまたがる。いきおい僕の尻はシートの後端に近くなり、スンガイコーロクのときとおなじく、かなり危険な体勢になる

オジサンは、街なかでは45キロだった時速を郊外に出ると65キロに上げた。そして兵士が常駐する検問をふたつ越え、街から空港までを21分でこなした。最後は練兵場の門のような入口で、僕までボディチェックを受けるオマケ付きである

11時25分までに来るよう指定されていた飛行場には、呆気なく9時41分に着いてしまった。しかしこれで良いのだ。"Air Asia"のオネーサンは、僕が日本でプリントした紙をナイフで二分した。その一方がボーディングパス、というわけだ

僕は小さな空港で、飛行機まで歩いて乗ることが好きだ。僕が機内に持ち込むスーツケースの中の焼酎は、この空港での2回のX線検査を悠々と通過した。街や道路の警備は厳重でも、空港がこれではいささか問題なのではないか。

"AIRBUS A320-200"を機材とする"FD3131"は、定刻に僅々4分遅れの12:29に離陸をした。シートピッチの短さはまぁ、90分ほどの飛行であれば、どうということもないやがて眼下にチャオプラヤ川が見えてくる。13:43の着陸は、定刻より12分はやかった。

1982年を最後として遠ざかっていたドンムアン空港は、見違えるように綺麗になっていた。しかしその南端から外へ出ようとすると、通路や壁には懐かしい部分も残っていた。タクシーチケットの売り場には長蛇の列ができていた。もとよりタクシーに乗るつもりはない。

一旦、外へ出てローカルバスの乗り場が分からず、ふたたび空港内に戻って"information"に案内を請う。係の男はチューインガムを噛んだまま「クロスで道の向こうへ渡って停留所で待つ」と言ったけれど、30数年前の記憶を辿るまでもなく、市中心部へ向かうバスは道のこちら側に来るはずだ。

またまた先ほどと同じ出口から外へ出る。"information"の男が「近い」と言った歩道橋は、タイ人なら決して歩かない距離の向こうに見えている。スーツケースを曳きつつ行くと、その歩道橋の下はまた、バスの停留所になっていた。英語の話せそうなオニーチャンに「ダウンタウンは向こうですか、それともあちらですか」と問えばやはり、道など渡る必要は無かったのだ。

僕の下調べではファランポーンまで行くという、29番のバスが近づいて来る。停まると思ったそのバスは、しかし速度を落とさず走り去った。おなじ停留所にいた、地元の中学生数名が話しかけてくる。「いまの29番、乗ろうとしたら停まらなかったよ」と言うと「バスを停めるときには、こう」と、腕を斜め下に下げ、そこで上下させる動作を教えてくれた。次の29番は間もなく来た。僕は中学生に教えられたとおりにバスを停め、彼らに見送られて14時43分に、それに乗り込む。

車掌が近づいて来て行き先を訊く。29番は長い距離を運行するため、一律の料金ではなかったのだ。

「ファランポーン駅まで」
「ファランポーンには行きません」
「えっ?」
「※%△×◎… 駅 …※%△×◎」
「???」
「戦勝記念塔だったら?」
「そこでいいや」
「19バーツ」
「了解」

ローカルバスの車掌は英語など使ってくれない。そこがまた良いのだ

その戦勝記念塔には15時42分に着いた。空港から実に59分間の乗車だった。しかしタクシーに乗っても、いずれ道は渋滞している。だったら安いだけ、面白いだけ、ローカルバスの方が得ではないか。

サパーンタクシン方面行きのバスを探して歩きながら、記念塔のロータリーに沿って、まるでディズニーランドのモノレールのように、BTSのゆっくり走っていく姿が見えた。その瞬間「そうだ、その手があったじゃねぇか」と思いつく。BTSなら渋滞知らずだ。

通りかかった女の子に駅までの行き方を訊くと、しかし教えられた道筋は、どうも合理性に欠けるようだ。よってその逆の方面に回り込みめでたくビクトリーモニュメント駅に達する

途中サイアムで乗り換えても、サパーンタクシンには20分で到着した。そしてジャルンクルン通りを目指して階段を降りる。「バンコクの雑踏と喧噪よ、こんにちは」である

ホテルには16時37分に着いた。着陸から何と3時間。しかし好きでしていることだけに、どうということもない。初日に預けた荷物を受け取り、部屋に落ち着く。そしてシャワーを浴びて新しいシャツを着る。サトーンの桟橋に17時10分という、コモトリ君との待ち合わせには余裕で間に合った。そしてチャオプラヤエクスプレスを使う人の列にふたりで並ぶ。

「オレ、これ、乗ったことねぇんだよ。乗り方、教えてくれよ」とコモトリ君が言う。バンコクに10年もいながら、チャオプラヤ川の乗り合い船に乗ったことがないとは恐れ入った。運転手付きのクルマがあったとしても、僕ならこれに乗らないわけにはいかない。バンコクの、大好きな交通手段である

地元のオジチャンやオバチャンにあれこれ訊きマハーラートの船着き場から舟でワンランに渡るそしてアメ横を思わせるワンランプラザを抜ける。目指す料理屋「クルアラカントーン」は、しかし廃業をして、いまはカフェに改装をされていた。

「おめぇが行きてぇって店は、去年のムーカタも、おととしのイサーン料理も、何年か前のチムジュムも、ろくなことはねぇな」とコモトリ君には言われるけれど「行きたい」と思ったら、今回のナラティワートもそうだけれど、どうにかして行ってみないうちは気が済まないのだ。

そしてその、「クルアラカントーン」を居抜きで買ったらしい"Ta-ling Bar"で、サトーンあたりよりも確実に涼しい川風に吹かれつつ、久しぶりに泡の立つ酒を飲む


朝飯 イスラムパン、アイスコーヒー

晩飯 "Ta-ling Bar"の豚挽き肉の包み揚げクンオップウンセントムヤムタレー、シンハビール、「サントリー角」(ソーダ割り)


 2016.0211(木) タイ日記(4日目)

5時10分、はるか遠くでコーランの詠唱が始まる。その5分後に、今度はちかくで、やはりそれが始まる。対岸の山の向こうから朝日が昇ったのは、それから1時間半ほども後のことだ

この宿に着いたとき、部屋の扉を開けたまま寝ていたファランと思われた青年は、翌朝に挨拶を交わしてみればファランではなく、しかしアジア人でもなく、そしてどこから来たのかとも、僕は訊かなかった。

その、気のよさそうな青年はいつの間にか部屋を引き払ったらしい。それからまた、きのう2時間ほども情報交換をしたアシダキンゴさんは今朝、20キロほど離れたところにあるという、僕の知らない街へ向けて自転車で出発をしていった

朝食を済ませ、コーヒーでも飲もうと、時計台から"THANON PICHITBAMRNG"を南に歩いていると、マスジット・クラーンの前の、イスラムパンを売る屋台でやおら「英語、遣えるか」とオジサンが声をかけてきた。

僕はいわゆる「人ぎらい」で、ひとりで勝手にしていることを好む。まして旅先で初見の人間に着いていくなどということは決してしない。しかしこのオジサンについてはなぜか、感じるところがあった

「お茶でも」と誘われるまま路地を辿り、招き入れられたところは涼しく清潔な宿坊で、オジサンはイスラムの高僧だった。僕はタバコとコーヒーをご馳走になり、オジサンとは1時間以上も話し込んだ。

次のお祈りがあるだろう12時30分にはいまだ間があったけれど「そろそろホテルに帰る」と100バーツ紙幣を取り出す。するとオジサンは手の平を僕に向けて固辞するので「これはお寺への喜捨」と説明すると、オジサンは僕を外に促した。そして僕の背中に手を触れつつ隣接の境内に案内し、喜捨箱のあるところまで連れて行ってくれた。先にも書いたことだけれど、僕の、イスラム教徒への共感と同情は多分、一般よりも隨分と強い。

午後は宿の、共有スペースのデッキチェアをベランダに持ち出してくつろぐ。この家の宿泊棟はほとんど、バーンナーラー川の水面に建っている。ここで川風に吹かれていると、活字で知るのみではあるけれど、まるで阿片に酩酊しているかのように、何もする気は起きず、食欲も湧かず、トロトロと、いつまでも眠り続けることができる。ここは極めて危険な宿だ。対岸は鬱蒼とした緑に覆われている。下流には、川がシャム湾に注ぐ河口が見える。暑くもなく、また寒くもない。ホゥーイッ、ホゥーイッと啼く土地の鳥の声を聞くうち、またまた眠りに落ちていく

夕刻、宿を出てまるでコウモリの大群のようにツバメの飛ぶ空の下を歩いていく。そして手に提げた焼酎の飲めそうな、つまりイスラム教徒のいない中華メシ屋に席を探す。残りの焼酎は、あとどれほどだろうか。

下宿人を除いた客は、いまや僕だけになった。その宿のベランダで、今度は初更の風にしばし吹かれる。そして部屋に入って早々に寝る。


朝飯 "THANON PHUPHA PHAKDI"と"THANON PICHITBAMRNG"を貫通する市場のクティオ屋のセンレックナム

昼飯 宿のちかくでイスラム教徒が営む店のお通しの3種の生野菜、パックブンファイデーン、カイダーオ、にんにくとパクチーのスープ、メシ

晩飯 "ANG MO"の豚モツと野菜とキノコの炒め物茄子と豚挽き肉の炒め煮、日本から持参した麦焼酎(オンザロックス)


 2016.0210(水) タイ日記(3日目)

きのうは晩飯も摂らないまま、また部屋の灯りも点けたまま、19時台に寝てしまった。そしてときどきその灯りに気づきながらも、今日の午前1時までは眠り通してしまった。日常であればこれ以上は眠れないところ、寒さを感じないため使わずにいた肌掛けをかけると流石に暖かく、今度はその暖かさを心地よく感じて2時から明け方までふたたび眠ることができた。

おとといからきのうにかけて、つまり日本を出てからこの宿に着くまでのメモが大変な量になっている。はやく日記にしなければ、収拾のつかないことになる。そう考えて、いまだあたりが明るくなる前から2階の共有スペースにコンピュータを開く

2階にある6室のうち、僕とおなじ川に面した部屋には、きのうファランが扉を開けたまま、パンツ1枚で寝ていた。夜になるとそのファランは部屋から消え、朝になった今も戻ってきていない。開け放ったままの扉の奥には、彼の持ち物らしいバックパックが見えている。「向かうところ敵無し」の感じである。

一方、川に向かって左側の、川からもっとも離れた部屋には、きのう、白髪頭で日に焼けた、とても感じの良い人が出入りをしていた。英語で挨拶をすると英語で返してくれたその人は、日本人のような感じもするけれど、そうでない感じもまたした。

9号室のファランについても、また12号室の国籍不明の人についても、どこの誰と詮索をするつもりはない。僕は元々そのような性格は持ち合わせていない。あるいは拘わらないことこそ礼儀とも考えているからだ。

2階の客は僕もふくめて3人とばかり思っていたところ、やおら11号室からイスラム教徒の男がボストンバッグを持って現れ、日記を書き続けた疲れを癒やすため僕の立っていたベランダまで来て、その景色を一瞥した。挨拶をしても大した反応はない。それよりも、この男はきのうの夕刻、街で僕に声をかけてきた男と同一人物ではないだろうか。なにか不思議の世界に紛れ込んだような気持ちでいるうち、男は階下に降りていった。

英語で挨拶をしても、口の中で独りごとを言うほどの反応しか示さなかったことから「多分、英語は理解しないのだろう」と独り合点をしたその男はしかし、2階にふたたび戻ってきて"Open?"と僕の顔を覗き込んだ。僕は合点をして彼と共に階段を降り、ほんのり明かりの点いた部屋を従業員用のものと推して声をかけると果たして、きのうのオニーチャンが出てきた。そしてオニーチャンも何やら理解をした風に、通りに面した鎧戸を開けた。

この宿は21時から明朝6時までのあいだ鎧戸を閉めることになっている。しかしきのうは20時台からその戸はなかば閉じられ、今朝は6時をだいぶ過ぎても開けられなかった、ということだ。

そうこうするうち流石に腹が減って、朝の街に出ていく。そして時計台から"THANON PICHITBAMRNG"を北へと歩き、きのうの夜はイスラム教徒たちで賑わっていた、気楽なメシ屋で汁麺を食べる

その飯屋を出てふとはす向かいに目を遣ると、きのうの夕刻には誰もいなかったマーケットにオートバイが蝟集している。道を渡り、そのまま中に入ってみれば、菓子、、肉、野菜、雑貨、衣類と、その規模は中々のものだ。そして「なるほど、ここは朝、あるいは昼までの市場だったか」と得心をする。

この街については、いまだ調べ足りないことがいくつもある。奥に金色の仏塔のある"THANON PADUNGARAM"もそのひとつだ。そしてそこまで足を延ばして「やはり自分の興味を惹くようなんものはなかったか」と、来た道を戻る

きのう「この街にはタイマッサージが無いのね、バスで来るとき、遠くにはひとつ見えたけれど」と不満を口にすると「ホテルに行ったらどうかね」と、1階に下宿するオバサンは僕の盲点を突く意見を述べた。そういう次第にて、この街でいちばん大きな"IMPERIAL NARATHIWAT HOTEL"を訪ね、マッサージルームの有無を訊いてみた。するとフロント係はにこやかに、しかし即座に"NO MASSAGE"と答えた。ナラティワートはやはり、タイにあって、しかしタイではないのだ。

そうして旅社のちかくまで戻ってくると、子供たちの仮装パレードに出くわした。道を渡れないまま見物をしていると、そのうちひとりの子供が僕にパンフレットをくれた。別の子供はボウフラを殺す薬をくれた。それらを見て彼らのパレードは、蚊が媒介するリンパ系フィラリア症の撲滅を訴えるものということが分かった。水たまりの上に柱を立て人の棲んでいる地域では、ボウフラを殺す薬は対症療法にしかならないような気がするけれど、まぁ、仕方のないことなのだろう

最小限のメシしか食べず、しかし普段からすれば考えられないほど歩いている。昼食の後に水を浴びると眠気を覚え、夕刻まで眠ってしまう。きのうから今朝にかけてあれほど寝たというのに、更に眠れるとは驚きべきことだ。

昼寝による遅れを取り戻そうと、目覚めてふたたび日記を書いていると、そこにきのう英語で挨拶を交わした、とても感じの良い、日本人に見えるけれど日本人でもなさそうな人が帰って来た。目下の僕の困りごとは、あさって12日に空港へ行く脚が確保できていない、ということだ。

これ幸いと、僕が泊まる以前からここに滞在しているらしいその人に英語で問うと、ややあって「日本の方ですか」と返された。日本人ではなさそうと考えていたけれど、相手もやはり日本人だったのだ。

その人は正月すぎに日本を出て自転車でマレーシアを南下、シンガポールから今度は北上して、ナラティワートからタイに入ったという。道理で日に焼けているわけだ。それから1時間ほどはあれこれ話をしただろうか。その人は自転車で旅をしていることもあり、結局のところ、空港への行き方は知らなかった。

2日続けて晩飯を抜くわけにはいかない。安全策として、華僑が経営し、華僑しか来ないだろう店を選んで入る。そして2種の海鮮料理にて焼酎を飲み、宿へと戻る。

宿の入口ともいえる、4人掛けのテーブルが5つ6つ置かれた空間にはパジャマを着た見慣れないオバサンがいた。訊けばこの、通りに面した棟の2階の住民だという。オバサンはこの宿で、僕がはじめで出会った英語を話す人だ。よって空港までの行き方を訊けば「簡単だよ、モータサイで行けば良いんだ、40バーツか50バーツくらいのものだろう」と教えてくれたけれど、モータサイなどこの街のどこにいるのか

この街ではモータサイもソンテウも見かけない。荷物や人の運搬には、オートバイの脇にリヤカーを付けた車両が用いられている。しかし情報が皆無だった先ほどまでとは異なり、何となく目の前が開けた気がした。オバサンの言うとおりモータサイがいるのかいないのか、明日はそのあたりについて調べてみようと思う。

2階の共有スペースでふたたびコンピュータに触れていると、夕方に話し込んだ日本人が部屋から出てきて、ふたたび話が始まった。彼は明日、ここから20キロほど離れた街を目指して出発をするという。彼の方からfacebookの話が出たので僕は自分の名前を紙に書き、彼に渡した。そして彼の名前をfacebookで検索し、友達申請をする。

共有スペースには、夜になると蚊が現れる。それを避けるようにして、22時過ぎに就寝する。


朝飯 "THANON PICHITBAMRNG"の市場はす向かいにある、壁の無い広い飯屋のセンヤイナム

昼飯 "THANON PICHITBAMRNG"のマスジットクラーンはす向かいにある中華メシ屋のバミーイナム(豚の臓物を入れて麺は大盛りにしてね特注)

晩飯 "MANGKORN TONG"のプラーカッポンヌンマナーオトードマンクン、日本から持参した麦焼酎(生)


 2016.0209(火) タイ日記(2日目)

02:05 SRAT THANI
02:40 BANNA
03:00 BAN SONG
04:15 THUNG SONG JUNCTION
05:56 PHATTA LUNG

このようにノートに記録できたのは、各々の駅で停車したことに気づき、起きて駅名を確認したからだ。しかし徹夜をしたわけではない。ノンエアコン二等寝台の寝心地は良く、たとえデッキまで出て写真など撮っても、席に戻って横になれば、すぐにまた眠れるからだ。

"PHATTA LUNG"での停車時間が割と長いことを知っているらしい乗客は、三々五々、線路に降りて寛いでいる。僕もその真似をして外へ出て、狭い便所でするより気持ちが良かろうと立ち小便をしようとするのだけれど、続いてデッキに出てきたオネーサンがいつまでも去らないため、そのまま車内に戻る。

6時03分、飲み物とカップ麺を売りに来たオジサンからコーヒーを買う。価格は20バーツだった。6時25分に"KHAO CHAISON"を通過。夜が明け始めている。道が雨に濡れている。6時50分、きのうの発車時には綺麗だった便所がさすがに汚れてきたらしく、客室までアンモニア臭が漂い始める。よって便所まで行き、ドアを閉めて戻る。用を済ませた後に便所のドアを閉める習慣が、鉄道の旅客には無いらしい。

行く手の左右にはゴムの林が整然と続く。かと思えばそれは水田に、また密林に変わる

7時47分、ハートヤイ着。ハジャイといった方が通じが良いかも知れない。プラットフォームに国歌が流れる。それを追いかけるようにして8時の時報が鳴る。タイではこの時間には国歌が鳴り終えるまで起立をして待たなければならないと聞いていたけれど、中にはいい加減な者もいることが分かった。

ハートヤイはタイ南部最大の街だ。プラットフォームには手押し車に果物を満載した売り子が何人もいて、大きな声を張り上げている。ここではまたガイトードが名物らしく、それとカオニャオをひとつずつ買う。それにしてもこの組み合わせが50バーツとは、隨分と高い。

ハートヤイを出ると、乗客はめっきり減っていたと同時に男ふたり女ふたりの混成による兵士が自動小銃を持って乗り込んでくる。手持ちのiPhoneは、いまだ電波を遮断されていない

08:58 CHANA
09:29 THEPHA
09:47 PATTANI
10:01 NA PRA DU
10:30 YALA
11:02 RAMAN

11時20分、"RUSO"の駅の線路を隔てた反対側には緑色のモスクがある。11時45分、ファランポーンから一緒だったイスラム教徒のオバサンが"MARUBO"で下車していく。

11:58 TAN YON MAT
12:13 CHOAIRONG。左手に"BUKIT ISLAMIC SCHOOL"の看板を掲げた学校が見える。僕の乗る車両の乗客は女性兵士を除けばいまや僕もふくめてふたりだけだ

11:37 SUNGAI PADI
そして12時57分、遂にタイ最南の駅スンガイコーロクに着く。定時に遅れること2時間12分。出発から23時間55分を経ての到着である

先ずは駅を出て、落ち着いてあたりを眺め回す。マレーシアとの国境まで歩いても行けるここは、イスラム暦の週末は特に、国境を越えてきたマレーシアの男達が酒色の限りを尽くすかどうかは知らないけれど、まぁ、そのような街と聞いている。そして僕の目的地はここではなく、シャム湾に面したナラティワートだ。

スンガイコーロクについての資料は、ロンリープラネットの2003年版からコピーした地図1枚きりだ。それによればナラティワート行きのミニバンは駅前を横切る"THANON ASIA 18"を西にすこし行ったところだ。よってそのあたりまで歩くも、停留所らしいものは無い。よって慌てることなく目の前の、ここがタイであることが信じられなくなるほどマレー語だらけの看板を軒から提げた料理屋"aida RESTORAN"に腰を落ち着けコカコーラを注文する

そしてそれを飲み終え、若く色白の、愛嬌も誠に良い女の子にバスの乗り場を訊くと、駅に少し戻ったあたりを指して「あのあたり」というようなことを言う。よってそのあたりまで行ってみるけれど、どうにも腑に落ちない。ちかくにいたオジサンに同じことを訊くと、今度は道のはす向かいを指して「あのあたり」と言う。

仕方なく道を渡ってみるものの、携帯電話や保険の店があるばかりで、バスが停まる雰囲気は皆無だ。こうなったら駅まで戻って再確認とばかりに、敷石の凹凸の激しい歩道は避け、コンクリートで舗装された、線路の見える裏道に入る。そしてそこからふたたび"THANON ASIA 18"に戻ろうとしているときに、小さな何匹もの子猫に餌をやっているオバサンが僕を見て「なにか困っていることがあったら遠慮なく訊いてくれ」という目をした。

僕は飽きることなくナラティワート行きのバスの出る場所を教えて欲しいと、オバサンに訪ねた。するとオバサンは「バスの発着所はここから西に1キロ行った先。スンガイコーロクからナラティワートまではバスで概ね1時間。次の出発は17時」と教えてくれた。

いくら軽量の機内持込サイズとはいえ、スーツケースを曳いて1キロを歩く気はしない。それにしても次の発車が17時とは、これからまだ4時間もあるではないか。しかしとにかく、そのバスの発着所とやらまで行かなければ話にならない。

そう考えつつ"THANON ASIA 18"に出て駅を目指して歩き始めると、遠くでモータサイの運転手が手を振り僕を呼んでいる。「なるほどモータサイか」と考えつつ更に近づいていくと、後ろから別のモータサイが来て停まった。運転手の服も靴もひどくみすぼらしい。

「ナラティワートに行くバスの停留所」と声をかけると運転手は大きく頷き「シーシップバー」と答えた。即、運転手の背中と僕の腹のあいだにスーツケースを挟むようにしてシートにまたがる。

客がかぶらなければならないヘルメットは前部の籠に入ったまま、運転手の左手には吸いかけのタバコが挟まれたまま、その状況に気づいて「いまオレが後ろに落ちたら、路上に仰向けに倒れて後頭部は粉砕骨折だわな」と考える。旅の危険はむしろ、身近なところにあるのだ

子猫に餌をやっていたオバサンは1キロと言ったけれど、とてもではない、モータサイは"THANON ASIA 18"を2キロ以上3キロ未満ほど西に走ってようやく、ツーリストポリスと建物を共有するバスターミナルに着いた。中に足を踏み入れると非常に清潔な、いまだ真新しい発券所があり、その6番がナラティワート行きの売り場だった「切符は70バーツ、出発は14時」とイスラムの髪覆いを着けたオネーサンに言われて「助かったー」と一気に胸をなで下ろす

バスのプラットフォームではまた、タイ人のオニーチャンが声をかけてきて、イミグレーションの職員として、タイとマレーシアの国境に3個所ある勤務先で各々1ヶ月ずつ働く、2日勤務して2日休み、出身はチェンライ等々、問わず語りに教えてくれる。「実家がチェンライで勤め先がスンガイコーロクじゃ、何千キロも離れて大変じゃん」と驚くと「警察官は任地を選べないの」と、北部の出身らしい白い頬を彼は緩ませた

14時発と伝えられたミニバンがプラットフォームを離れたのは14時42分だった。途中いくつもの検問を抜けながら、また幾人かの乗客を途中で降ろしながら、ナラティワートのバスターミナルにはきっちり1時間後の15時42分に到着をした。

「ここからはソンテウで市中心部に向かうのだろうか」とあたりを見まわしても、ソンテウやトゥクトゥク、モータサイのたぐいはどこにもいない。しかし仕方が無い。数人の客に続いて僕も降りようとすると「ホントにここで降りちゃうんですか」という顔を隣のオニーチャンがする。はじめ14人だった乗客は、4人に減っている。

運転席から降りた運転手がミニバンの前を回って左側のドアから客席に半身を差し入れ、何ごとか言う。もとより英語は通じない。僕はここで、コピーによるナラティワートの市街地図を取り出し運転手に手渡しつつ「ホー・ナリカー」と、時計台を意味するタイ語を強く発してみた。すると隣のオニーチャンは「なるほど」という顔をし、運転手はそのまま運転席に戻った。「覚えていて良かったー」の瞬間である。

ミニバンが緑色のイスラム寺院の向かいに停まったとき、前方の時計台は15時40分を示していたけれど、僕の時計は15時57分になっていた。時計台のある交差点から川のありそうな右つまり東に歩き、突き当たりを今度は左つまり北へと進む

2003年版のロンリープラネットで、この街の宿として筆頭に紹介されていた旅社はすぐに見つかった。1階は商店、2階は住居という、東南アジアの商業施設としては典型ともいえる木造家屋が、僕の目と心を喜ばせる。

右にジュース用のシロップやスナック菓子、左に飲み物用の冷蔵庫を置いた入口から、4人用のテーブルが5つ6つ置かれた薄暗い板の間を進むと、右奥の事務室からオニーチャンがにこやかに出てきた。泊まりたい旨を伝えると「パスポート」とひとこと、オニーチャンは言った。オニーチャンは英語はほぼまったく話せず、片手の指を5本、もう片方の手の指を4本立てて「ナイン」と、3泊分の宿泊料を告げた。僕は1,000バーツ札1枚を差し出し、100バーツ1枚を受け取る。

かつては食堂だったらしい板の間から右は事務室、左は帳場の狭い木製の通路を抜けるとその先にはオートバイ5台を置いた四角い部屋その先に渡り廊下がまるで桟橋のように延び、右手には水場の先にトタン張りの部屋がC、B、Aと順に並んでいる。

ホーンナムつまり便所兼水浴び場を右手に見た先の宿泊棟には部屋が左右に3室ずつ。そして川に面した奥まで進んでUターンをするように階段を昇る。その階段を昇りきって振り向くと、目の前にはふたたび川。そして1階とおなじ配置で計6室があった。

オニーチャンは左奥の、つまり川に面した角部屋のドアを押した。部屋の二面にある窓の一方からは、幅およそ500メートルほどはあるだろうバーンナーラー川が見渡せる。そしてその窓からは川風が絶えず吹き込んでくる。下宿人のいる1階のA、B、Cと1から6までの9室を除けば実質上の客室は2階の6室。そのうち2室しかない、川に面した部屋をあてがわれるとは実に幸運である。オニーチャンが去るなり僕はスーツケースから必要なものを取り出し、部屋の各所に格納した

さて残るは晩飯である。日本から持参した紙パックの麦焼酎をお茶のペットボトルに移し、ステンレスのコップと共に手提げ袋に入れる。それを持って宿の前の通り"THANON PHUPHA PHAKDI"を北へ、そこから"THANON SOPHAPHISAI"を西へ。四つ辻に出たら"THANON PICHITBAMRNG"を南へ時計台を越えて更に歩くイスラム寺のマスジットクラーンから県庁舎まで進んで"THANON PADUNGARAM"を東に目指せばバーンナーラー川に突き当たりそこは川に沿った細長い公園になっている

こうして足を棒のようにして街を探索した結果、およそどこの食べ物屋にも、店主として、働き手として、あるいは客としてイスラム教徒がいる。とてもではないけれど、焼酎の飲める雰囲気ではない。そして立ち止まってみれば、からだは疲れているものの、食欲はまったく無い。

「食欲が無いとは、食べない方が良いというからだの発する信号」という言葉を思い出し、今夜はメシを摂らないことに決める。そして宿に戻り、水を浴び、せめて焼酎だけは飲もうかと考えたけれど、それも止めて19時すぎに就寝する


朝飯 ガイトード、カオニャオ

昼飯 コモトリ君が持たせてくれた「アンリシャルパンティエ」のマドレーヌ2個 


 2016.0208(月) タイ日記(1日目)

きのうの目覚めは午前2時35分だった。ということは22時間も眠っていないことになる。"BOEING 747-400"を機材とする"TG661"は、定刻の00:20に19分遅れて離陸をした

5時に目を覚まして歯を磨く。そろそろダナンの上空に差しかかるころだろう。5時30分、機内の灯りが点されると同時に熱いおしぼりが、次いで水やジュースが配られたけれど、これは断って朝食は摂る。

機は6時30分に降下体制に入った。スワンナプーム空港の天気は曇り、気温は18℃とアナウンスがある。着陸は定刻の05:25より17分早い日本時間7時8分、タイ時間5時8分だった。以降の時間表記はタイ時間による。

エアポートレイルリンクの乗り場には6時すこし前に達した。始発は06:00発と聞いていたけれど、それは3分ほど遅れて発車をした。

エアポートレイルリンクは、いまだ明けていないバンコクの街を東から西へと進む。パヤタイでBTSのスクンビット線に、サイアムで同シーロム線に乗り換える。王族の遺した宮殿だろうか、その鬱蒼とした木々の向こうに朝日が昇り始める

ホテル最寄りのサパーンタクシンには7時8分に着いた。途中でまごつくことがなければ、空港からここまでは1時間で来られるのだ。高架と平行する、トンブリー側からの橋の上には、出勤のためのクルマにより大変な渋滞が起きている

駅からホテルまでの道は頭に入っている。そして12日から予約してある旨のバウチャーをフロント係に示し、家を出るときから仕分けしておいたバンコク用の服や、ここまで履いてきた靴をベル係に預ける。そうするうち迎えに来てくれた同級生コモトリケー君に従い、朝食の後、サトーン桟橋08:40発の舟で彼の君の家に向かう

きのう家を出るとき、僕は半袖Tシャツに長袖Tシャツを重ね、その上にウィンドブレーカーを着た。今年のタイは異常気象で朝は特に寒いと聞いていたけれど、この格好のままバンコクを歩いても暑さを感じないことに驚いた。太陽が天球の中腹まで昇っても、寒暖計は25℃以上には上がらない

コンドミニアムの11:30発の専用船で、今度はヤワラーの桟橋「サワディー」に向かう。折しも春節にて、その正月風景を中継でもするのか、ヤワラーにはテレビの中継車が多く集まっていた。

そのヤワラーからタクシーで移動したファランポーンでは、先ずは案内所で時刻表をもらう。行き先を女性オフィサーに訊かれてスンガイコーロクとコモトリ君が答えると、彼女はその時刻表にボールペンで何やら書き始めた時刻表はタイ語によるためそのバンコクとスンガイコーロクのところに駅名を英語で加えてくれたのだ。ここまでしてもらって「英語の、無いんですか」とは言えない。

そしてプラットフォームに出て、当該の列車が入線しているかどうかを確かめる。僕は鉄道ヲタクではないけれど、アジアの南方では特になぜか、鉄道で旅をしたくなるのだ。そうしてすべての準備を完了し、コモトリ君と駅前の食堂でシンハビールの小瓶をそれぞれ1本ずつ飲む

今度はひとりで駅に戻り、切符を取りだし確認をする。バンコクから南本線東線の終点スンガイコーロクまでの距離は1,150キロ、冷房を備えない二等寝台車の運賃は677バーツである

手持ちのバーツのうち20,000バーツ、日本円が急騰したときの両替用として持参した11万円余をコモトリ君に預けた僕の財布には6,639.5バーツのみがある。3泊4日分の資金としては、十分な額だろう。

第171列車は定刻の13:00ちょうどに音も無く発車をした間もなく乗務員が検札に来る

タイの二等寝台車は寝台が進行方向と平行して、車両の両側に縦に並ぶ。夜は下段の寝台になる場所に、昼はひとり用の座席が向かい合う。下段の旅客は進行方向に向き、上段の旅客は進行方向に背を向けて座る。座席の幅は70センチほどもあって、とても楽だ。僕の向かい側には白人のオジサンが来た。挨拶をしたけれど、相手はヘッドフォンを着けているため、反応は薄い

櫛形のプラットフォームを持つ趣のあるファランポーンは、数年後にはバンスージャンクションに中央駅の地位を譲るという。13時30分に停車したそのバンスージャンクションでは、新しい駅舎なのだろうか、大規模な工事が進められていた

目の前の白人は、コモトリ君が持たせてくれたおむすび2個を食べ終え、おなじく支那竹の煮たものをつまみ始めると、別の席へと去った。そして14時44分に着いたナコンパトムからは、お坊さんが僕の前に座った。これはなかなか困ったことである

徐々に速度を落とし、右への支線と別れて間もなく、列車はまるで何かに衝突でもしたかのように、大きな音と共に停まった。駅の名前は時刻表には無い"BAN PONG"だった。時刻は15時08分。いきなり警察官が乗り込んできて、髪覆いをしたイスラムの女の人の荷物を調べ始めた。僕の卒業勉強は「イベリア半島のイスラム」というものだった。そのこともあって、イスラム教徒への、僕の共感や同情心は一般よりもすこし強い。急いでいるらしい臨検係はほどなく隣の車両へと移っていった。

大きな踏切は、そこが街にちかいことを示している。そしてそのような踏切を越えると必ず、すぐに駅が見えてくる。その"PHOTHARAM"でお坊さんはショルダーバッグから切符の分厚い束を取り出した。そしてそれを見ながらなにごとか呟きつつ僕に笑いかけ、そしてどこかに消えた。

この、時刻表によれば停まるはずのない"PHOTHARAM"で、列車は1時間ほども停車をした。プラットフォームにアナウンスは流れるけれど、生憎と僕はタイ語を解さない。そして騒ぐ乗客はひとりもいない。線路に降りると、空気は暖かく、風は爽やかだった。そして16時27分、列車はふたたび走り出した。窓の外は緑、また緑である

大きな街が現れたと思っていたら、そこが"RATCHABURI"だった。時刻は16時50分。定刻は15:52だから、既にして1時間25分も遅れている。ここで17時になるのを待って、ファランポーン正面から入って中ほど右側のクーポン食堂で詰めさせた2つの弁当のうちの、先ずはカオカームーを取り出す。そしてそれを肴に日本から持参した麦焼酎を生で飲む。

隣のボックスにはイスラム教徒の女の人がいる。遮壁のお陰で僕の弁当は陰になって見えない。それにしても、豚足のトロトロ煮を肴に酒を飲むなどは、彼女たちからすれば大堕落者の所業である。

タイの地方鉄道は、すべてかどうかは知らないけれど、ほとんど単線ばかりではないだろうか。よって上下線がすれ違うときは、主に駅を利用することになる。17時18分に着いた"PAK THO"でも、ファランポーンを出てから何度目かの入れ替えが行われる。

17時52分、"PETCHABURI"着。ここでもうひとつの、茄子と魚のカレーライスを取り出し、こちらも焼酎の肴にする。道中に食べるものがなくては困る、あっても不味くては困ると弁当を用意したけれど、細かいことにこだわらなければ、弁当は先のラーチャブリーでも、またこのペチャブリーでも、プラットフォームに売り子がいるから、もしものときには困らない。

時刻は18時を過ぎた。インドシナに特有の、石灰岩の山の向こうに夕陽が落ちていく。いつの間にか眠り、列車が止まった気配で目を覚ます。右側の車窓からは綺麗に整備された公園のようなものが見えている。どこの駅なのか確かめようと連結部分まで歩いたところで列車は走り出した。手提げ袋から慌ててカメラを取り出し、シャッターを切る。そのとき資料で見覚えのある、フアヒンの駅舎が後方に去った。夏の離宮を持つ街であれば、なるほど駅前の尋常一様でない美しさも理解できようというものだ。

1時間ほども謎の停車をした"PHOTHARAM"で降りたとばかり思っていたお坊さんが、向かいの席にふたたび戻ってきた。上座部仏教のお坊さんは食事は午前にしか摂らない。その目の前でメシを食べ、酒を飲むことは憚られる。だから今日の午後、お坊さんが僕の向かいに座ったときには困惑をした。しかし上手い具合にその飲酒喫飯のあいだだけお坊さんはどこかに消えていてくれた。偶然とはいえ有り難いことである。

19時30分、乗務員が座席を寝台に作りかえるため、後方から回ってくる。その手際は恐ろしいほど良い。閉所の好きな僕は寝台が整うなりそそくさととこに潜り込み、通路とは緑色のカーテンで隔てられた空間に落ち着いた。

22時45分、"CHUMPHON"でまた上下線の入れ替えが行われる。そして以降の記憶は無い。


朝飯 "TG661"の機内食バンラック市場ちかくのフードコートのカオトムムーサップ

昼飯 コモトリ君が持たせてくれた梅干しと海苔のおむすび2個

晩飯 ファランポーン駅のクーポン食堂で詰めたもらったカオカームー同カオゲーンカイダーオ、日本から持参した麦焼酎(生)


 2016.0207(日) 苦と楽の関係

還暦を迎え、会社に出勤する日数も減って楽になったことを記念して旅に出た人の画像と文章をウェブ上に見た。羨ましかった。かてて加えて僕のごくちかくにも、今秋、南のどこかで海に潜る者がいる。「そうであれば」と僕も、普段は出かけない2月にタイ行きの予定を組んだ。ただし今回は、通い慣れた北部へは行かない。

この日記を昨年の9月24日まで遡ってみれば、それはあたかも水が高いところから低いところへ流れるように、あるいは僕の歩く速さに合わせて次から次へと何人もの従者が扉を開いていくように、ことは滞りなく簡単に進んだ。

人生訓話を語る人、箴言めいた言葉を発し続ける人、経営の先生。そのような人たちはしばしば「困難こそ楽しい」というようなことを言う。しかしそれは実は、人を苦から一時的に救うためだけの詭弁なのではないか。実際には、苦労など皆無のところにこそ楽しさはあるのではないか。

そう考える僕もこと旅においては、安楽なそれはどうにもつまらない。面倒や不快や脳を激しく回転させなくてはならない瞬間があってはじめて旅は面白くなる。よって今回はおなじタイでも、これまでの北ではなく、初見の南を目指すこととした。

一昨年はすべての宿からの、この日記の更新が可能だった。しかし昨年は逆に、すべての宿でそれが不可能だった。今年の宿が、そのどちらに転ぶかは分からない。

とにかく事故でも起きない限り、明日の早朝には僕はバンコクにいて、昼すぎにはファランポーンから2等寝台車で南本線を下り始めている筈だ。

ところでタイの深南部にはここ2週間ほどずっと、雨が降り続いている。スマトラ島、ボルネオ島、マレー半島。そのあたりに広がった雲が、いつまでも晴れないのだ。熱帯雨林と熱帯モンスーンの境界付近であれば、それも当たり前なのかも知れない。


朝飯 鮭の昆布巻き、ブロッコリーのソテー、納豆、トマトのスクランブルドエッグ、メシ、大根と大根の葉と若布の味噌汁

昼飯 牛肉粥、しその実のたまり漬、梅干

晩飯 「まぐろ人雷門出張所」の鮨あれこれ


 2016.0206(土) 美味さの荒利総額

1985~1994年の10年間に食べた中で最も美味いと感じたものは大阪のおでん屋「たこ梅」の鯨のさえずり、1995~2004年の10年間では、ある冬の晩のウチの湯豆腐、2005~2014年の10年間では、銀座の鮨屋「よしき」の飛竜頭だった。

さて2015年からの10年間においては、それは何になるか、案外、ありふれたものになるような気もする。

ところで家にいる限り、ほとんど毎日飲む味噌汁。これがかなり美味い。その味噌汁の美味さを荒利"M(1)"と考えてみる。おとといもきのうも今日も、そして明日も多分、それは美味い。よってその回数"Q"は数えきれず、とすれば美味さの荒利総額"M(1)×Q"は、とてつもなく大きなものになる。

対して10年に一度の頻度で出現する驚きの美味は、その荒利"M(2)"こそ大きいものの、回数"Q"は10年のあいだにたったの1だ。とすればその美味さの荒利総額"M(2)×Q"は、朝ごとに積み上げる味噌汁の"M(1)×Q"には到底、かなわない。

そんなことを、facebook上で人とコメントを交わすうち思いついた。収穫、である。


朝飯 鮭の昆布巻き、ほうれん草のソテー、じゃこ、しその実のたまり漬を薬味にした納豆、トマトのソテーを添えた目玉焼き、メシ、豆腐とズッキーニと「のげのり」の味噌汁

昼飯 「ふじや」の味噌ラーメン

晩飯 「はま寿司」のあれこれ、麦焼酎(お湯割り)


 2016.0205(金) 時間泥棒

「今日、そちらの方面で数社をまわる予定にしていまして、御社には午後1時ごろ伺えるんですけれど、お話しできる方はいらっしゃるでしょうか」という電話が、昨年いちどだけ接触をしたことのある会社の営業係から11時20分に入る。

僕は午後1時から始まる研修に参加をする。長男は研修の会場を整えるため、急ぎ足で会社を出て行ったばかりだ。そのことを伝えると「どなたか他にはいらっしゃらないでしょうか」と相手は食い下がる。

「他の者はすべて、仕事中です」と答えて更に「11時20分に電話をしてきて午後1時に会ってくれって… こちらに来ることは何日も前に決めているわけでしょ、なぜそのとき連絡をいただけなかったのか」と気持ちが納まらず続けると「ですからそちらで何軒かまわらせていただくということで…」と、答えになっていないことを、慇懃さの中にも多少の怒りを感じさせる口調で先方は繰り返した。

他の国については知らないけれど、日本にはこの手の営業係が多すぎる。一体全体、人の時間についてどのように考えているのか。

研修は夕刻まで座学、以降はウチと、もうひとつの会社を20名を超える参加者の方々に見ていただき、貴重な意見をいただきつつ18時30分に完了した。そしてそのまま徒歩で日光街道を下り、懇親会場「コスモス」の階段を上がる。


朝飯 揚げ湯波と小松菜の淡味炊き、鯵の干物、油揚げと大根と人参の炊き合わせ、しその実のたまり漬を薬味にした納豆、メシ、シジミと万能葱の味噌汁

昼飯 「やぶ定」のカレー南蛮蕎麦

晩飯 「コスモス」のあれやこれやそれや白ワイン赤ワイン


 2016.0204(木) 本職であれば

年の瀬が近づくと、売上げの一部が有意義な活動をする団体への寄付になる、という若布を買う。まとめて買って、社員に配って余った分がウチの冷蔵庫に入る。

僕はいわゆる食感ヲタクで、鳥獣の皮や内臓、キノコ、そして海藻は大好物である。最も好むスープは味噌汁で、若布もたっぷり在庫されていれば、毎朝の味噌汁にそれを使わない手は無い

しかしこれは主に「見栄」に属する感情によるものだけれど、毎朝おなじ具の味噌汁を食卓に載せることは憚られる。よって若布を使いながら、且つその具を少しずつ変える、ということを、このところはしている。

きのうの味噌汁の具は若布と揚げ湯波とズッキーニで、今朝のそれは若布と揚げ湯波と万能葱だった。こう書いてみると、威張るほどの変えようではない。

朝に余った米のメシを昼に煮てお粥にするとは、つい数ヶ月前から始めたことだ。朝、ホテルの、これは日本にいるときに限ってのことだけれど、朝食会場に普通のごはんとお粥があれば、僕はごはんを選んでお粥には見向きもしない。しかし昼に食べる自製のお粥はなぜか好きだ。

自社の味噌や漬物を使った料理を考える、ということをしばしばする。その結果はウェブショップのコンテンツや紙の宣伝媒体として使う。レシピを案出しながら作りもせず、だから食べもしない、ということも多い。食べなくても味は想像できるからだ。

「こういう風にお使いになると美味しいですよ」と店頭でお客様にお伝えをしながら、しかし作りも食べもしてこなかった「豚肉のひしお炒め」を、今夜は家内に作ってもらった。結果は上々だった。本職であれば、食べなくても、味は想像できるのだ。


朝飯 ソーセージと赤ピーマンのソテー、豆腐の卵とじ、揚げ湯波と小松菜の淡味炊き、白菜漬け、メシ、若布と揚げ湯波と万能葱の味噌汁

昼飯 お粥、昆布と牛蒡と蓮根の佃煮、じゃこ、梅干し、しその実のたまり漬

晩飯 厚揚げ豆腐の網焼きキャベツの千切りと人参のグラッセを添えた豚肉のひしお炒め、メシ、いちご、芋焼酎「伊佐実」(お湯割り)


 2016.0203(水) ないないづくし

先週土曜日の雪から天気は素早く回復し、今朝も空は青く美しい。月は南の中天にある。気温は低く、日の出が近づいても鳥は啼かない。

このところ朝の味噌汁を作るのは、すっかり僕の役目になった。鳥獣の骨や野菜を長く煮ることを必要とする西洋のスープ、夕方から舟形の石臼と、これまた石の太い棒でスパイスを擦りつぶし、錬るカレー文化圏のペーストなどを考えれば、味噌汁とは、伝統に則ったとしても、最も簡単に作れる汁だと思う。

ダシは前夜、鍋の水に煮干しを沈めておけば、それでこと足りる。若布は食感を愉しむため、ほとんど刻まない。野菜はこれまた食感を愉しむため、薄く刻んでほとんど煮ない。味噌は家族から「薄い」と文句が出るほど、ほんの少ししか使わない。この「ないないづくし」の味噌汁を熱々で飲むのが僕の好みだ。

そうして4階から1階までエレベータで降り、開店前の駐車場を見て回る。試食のための楊枝が落ちていれば手で拾う。ちり紙や煙草の吸い殻があれば、病気がうつったり手がニコチン臭くなったりすることを避けて、ほうきとちりとりを、その置き場まで取りに行く。

店の入口の書は先月14日に「賀正」から「春燐」に掛けかえられた。冬は夏の次に好きな季節ではあるけれど、春は春で悪くない。そういえば今日は節分だった。


朝飯 しその実のたまり漬を薬味にした納豆、白菜漬け、ほぐし塩鮭、油揚げと大根と人参の炊き合わせ、メシ、若布と揚げ湯波とズッキーニの味噌汁

昼飯 きつねうどん

晩飯 「コスモス」のトマトとモツァレラチーズのサラダアメリカ産牛肉のステーキチーズの盛り合わせ"Cono Sur Chardonnay 2014"、"Glenlivet 12Years"のハイボール、家に帰って「はちや」のロックバウム、"CAMUS XO"の瓶に入っているけれど中身は違うコニャック(生)


 2016.0202(火) 旅の荷物の準備法

来週月曜日の朝はバンコクにいる。昼すぎからは列車で南を目指している。荷造りは、いまだ何ひとつしていない。しかし慌てることはない。

旅の持ち物はコンピュータにデータベース化してある。そこから今回、必要なものを選び出し、紙に出力し、午後、自宅に戻る。そしてその紙にある全97品目を、ボールペンや蛍光ペンでチェックを入れつつ整えていく

南方への荷物を軽くするため、バンコクでしか使わないものはバンコクに置いていく。「カイゼン」だか"QC"だか知らないけれど、それらには「バンコク」、「南」と大書した紙を貼りつけ一目瞭然とすべきだろう。しかしそこまでするか否かについては決めていない。

日焼け止めのクリームは、一度は薬専用の袋に入れながら、思い直して取り出した。南の国で肌の日焼けに苦しんだことは、これまで一度も無いからだ。昨秋はチェンライからチェンマイに下る乗合自動車に、ひどく咳をする男がいて、これが後の体調不良を招いた気がする。よってこれまでは持たなかったマスクを携帯用のポーチに入れる。

本は2冊もあれば十分だろう。首都でも買えない美味いラオカーオは、南に行くほど更に買えない。よって焼酎を持参する。南方から首都に戻る"LCC"では、荷物は機内持込に限る。このことにより残余の焼酎は持ち帰れない。4日分の1リットルもあれば十分だろう。

解決していない問題は、スーツケースとデイパックの、どちらを首都に残し、どちらを南方に持って行くか、ということだ。どちらにも一長一短があり、いまだ決められずにいる。


朝飯 大根と人参と油揚げの炊き合わせ、刺身湯波、しその実のたまり漬を薬味にした納豆、白菜漬け、ほぐし塩鮭、ソーセージと2種のピーマンのソテー、メシ、豆腐と若布と万能葱の味噌汁

昼飯 ラーメン

晩飯 トマトとレタスとズッキーニのサラダチーズだけのピザ生ハムとマッシュルームのスパゲティ"Chablis 1er Cru Christian Moreau 2013"チョコレートケーキ、"CAMUS XO"の瓶に入っているけれど中身は違うコニャック(生)


 2016.0201(月) 魚ばかりか

きのうは宿に着くなり屋上の露天風呂へ行き、上がりしな脱衣所で体重を量ると59.3キロだった。0時前に今度は1階の風呂に入り、体を温めた。

この2週のあいだは体調管理に努め、いつも以上に早寝をしてきた。その反動か、今朝にかけては4時間弱しか眠れなかった。そしていまだ暗いうちにまたまた1階の風呂へ行く。

朝食の後、部屋に戻って机上の案内を読むと、露天風呂も朝から入れるとあった。よってここに来て4回目の入浴をする。きのう鮟鱇鍋の締めに雑炊を3杯、今朝は珍しい天心汁などもあって、ごはんをおなじく3杯、食べた。その結果かどうか、体重は59.9キロに増えていた。

宿を9時前に出て、会社には昼前に戻った。午後は日常と変わらず仕事をし、17時すこし前に、頼んでおいた刺身を小倉町5丁目の「魚伸」まで取りに行く。

10日ほど前に素晴らしい山葵を戴きながら、繁忙によりそれを口にすることができなかった。本日はようやくそれをすり下ろし、魚ばかりか湯波の刺身にも添えて、大切に味わう。


朝飯 「まるみつ」の朝のお膳天心汁

昼飯 鍋焼きうどん

晩飯 大根と人参と油揚げの炊き合わせ、刺身湯波と温泉玉子の冷製、ほうれん草の胡麻和え、刺身盛り合わせ、「片山酒造」の樽酒(冷や)