デジタル社会の 「中世」 と 「ルネッサンス」

1999年12月6日 朝日新聞夕刊 11面
神としてのコンピューター 「新しい中世」到来の予感 篠田達美

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ぼくたちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか。 このゴーギャンの最後の大作の題、あるいはシェンキビッチの『クォヴァディス』(主よどこへいきたもうか)を思わせる事柄を、ずっと考えていた。

次の時代とは何だろうか。 「新しい中世」である。

かつての神中心の中世の後、人間中心のルネッサンスが来て、また、人間中心を退ける新しい中世に入るのである。今度の神はコンピューターだ。

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僕はこの文章を読んで、いろいろなことを考えた。想念の触媒として読む文章。

テッド・ネルソンが 「ホームコンピューター革命」 を書いたとき、司祭は大型コンピュータを扱う専門家だったけれど、篠田達美はこの文章中で、Eメイルも可能な携帯電話を、現代の巫女と位置づけている。

身体も自我も、携帯電話という拡張機能と並列している現在の多くの人々。

自転車を片手運転しながら携帯電話を耳に当てている学生は、ウェルズが描いて見せた人類の未来像を想起させるものか?

しかし僕はここで、篠田達美の文章にスルリと入り込んでみる。

コンピュータが民衆のものではなかった1970年代前半までの世界、司祭が民衆を支配していた1970年前半までの世界は、不格好な手作りコンピュータ 「オルテア」 の出現で、終わりを告げた。

篠田達美は、人間がコンピュータに支配される世の中を 「新しい中世」 と表現している。しかし「オルテア」の出現こそ、篠田が言うところの 「ルネッサンス」 だったのではないか?

しかしてこの 「ルネッサンス」 を、我々はいつまで維持し続けることができるのか?

あるいは、コンピュータが無ければ何もできない? 現在にあって、実は 「ルネッサンス」 と 「新しい中世」 は、同時に存在して進行していくものなのかも知れない。

時代は次々に、様々な形の波を起こして、我々を困惑させ、また楽しませもする。

波乗りをするヤツもいれば、岸辺に立って波を見つめる者もいる。 また、波の存在を背中に感じつつ、しかし波乗りをする人間や岸辺に立つ人間には伺い知れない海底の洞穴で、静かにしたたかに生息する怪物も、またいるかも知れない。

「ルネッサンス」 と 「新しい中世」 が、同時に存在して進行していくのではないか? とする僕の考えについて、Macで原稿を打つ篠田達美は、どう返答するだろう?

少なくとも篠田自身は愛用のMacによって、ひとつの 「ルネッサンス」 を手に入れたのではないか?

この朝日新聞の文章からは、篠田達美が自身のエッセイ集 「歩く女」 の中で示したと同じく、大いに楽しみながら知的散策をしている形跡が伺われる。


歩く女 アルベルト・ジャコメッティ
「歩く女」 篠田達美 淡交社 より
1999.1206