2024.10.2(水) タイ日記(7日目)
先日、コインランドリーへ行って以降に着た衣類をIKEAのトートバッグに詰め込む。外出をする際に使うセブンイレブンのエコバッグには、ナムニャオの赤い汁やら、きのう雨上がりの道をサンダルで歩きつつ飛び散らしたらしい泥が付いていた。タイパンツを穿こうとすると、これにも泥の粒がたくさん跳ね上げられていたから、エコバッグ同様、こちらも洗うことにする。
コインランドリー”Otteri”には6時50分に入った。液体洗剤の自動販売機に10バーツ硬貨を入れて、5バーツの液体洗剤を買う。「おつりのボタンはここかな」と、灰色の四角いボタンを押すも、何も起きない。「おつりの出ない販売機だったか」と、しかたなくもう1袋を買う。
洗濯機の使い方は、先日、係のオネーサンがテキパキと代行してくれたから、いまだ不明の点はいくつかあったものの、無事に動き出した。先日の使用料は50バーツだったにもかかわらず、今朝は30バーツだった。「早朝割引きか」としばらくは得をしたつもりでいたものの、後から、それは選んだ水温が今日はデフォールトの”COLD”だったためと気づく。
洗濯機はそのままにしてホテルに戻り、食堂へ直行する。前夜、外から戻った際に受け取ったはずの食券が、今朝は見あたらなかった。机の下の冷蔵庫の裏まで調べて、しかし見つからなかった。それをフロントのオネーサンに話すと「部屋の鍵を係に見せていただければ大丈夫ですよ」と教えられて拍子抜けをした経緯が今朝はあった。
朝食の最中に雨が降ってくる。しかもその勢いは強い。食堂の出口に広げてあった傘をさしたまま「そこのランドリーまで」とベル係のオジサンに断ってから外へ出る。乾燥機が止まるまでの30分間は本を読んで過ごす。ちかくには「8時30分から20時までは毎日、洗濯、乾燥、畳みを無料で引き受けます」と書いた黒板が置かれている。ビックリ仰天のサービスである。
きのうの日記にも書いたことだが、部屋のwifiは極端に遅い。更には頻繁に切れる。椅子は化粧台のスツールのようなもので、これまたコンピュータを使うには適していない。よって試しにロビーに降りて、ここで日記を書いてみる。wifiの速度は驚くほど高かった。途切れもしない。これでは、ホテルの人には客の苦労は分からないだろう。
朝の雨はスコールだったらしく、すぐに上がった。常夏の空と雲を愛でるべく、10時45分よりプールサイドに降りる。
昼食は、何年ぶりかの食堂に出かけて摂る。意匠を凝らした店にもかかわらず、汁麺の料金は安い。汁の中で煮込まれた、オクラのように粘性のある野菜はなんだろう。納豆のような発酵臭もする。変わったナムニャオを試したければ、こちらを訪ねるべしと思う。
16時を回ったところで”PAI”に出かける。足マッサージの前半の30分間は本を読む。後半の30分間は、うつらうつらして過ごす。オバサンには50バーツのチップ。ラオカーオとコップをエコバッグに入れ忘れたため、一旦、部屋に戻る。
空は相変わらず青い。雲は白い。昼のあいだは目立たなかったツバメがどこかからたくさん現れて、その空を縦横に、また斜めに切り裂くように翔びまわっている。
ナイトバザール奥のフードコートの、黄色い鉄のテーブルに開いた「百代の過客」の「いほぬし」の章に面白い部分を見つける。
……
彼が褒めるものが、常に最もよく知られた光景や音声などにかぎられるのは、いったいなぜであろう。どうやらこれは、中世の旅人に典型的な流儀らしいのである。彼らはまず、先人の歌によってすでに知られた場所へ行く。そして彼らがそこで褒めほそやすのは、桜かもみじにかぎられ、名もない丘に咲く名もない花の美しさには、一言一句も費やすことがないのである。
……
僕が思うに、このような「好み」はなにも、中世日本の旅人に限らない。時代を問わず国籍を問わず、大方の旅行者は有名どころに押しかけ、それ以外のものには目もくれない。「松島」は芭蕉が心奪われた様子で詠嘆したがために、現在の惨状を呈するに到ってしまったのだ。おなじ例は、世界中に数え切れないくらい存在しているだろう。
本を置くと、隣のテーブルでは若い男女がチムジュムを食べている。「君たちは先が長げぇから大変だな」と思う。「オレは先が短けぇから楽だな」とも思う。
部屋には19時24分に帰着。シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
昼飯 「パ・ヌワン」のカノムチーンナムニャオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのモツ焼き其の一、カイジャオ、モツ焼き其の二、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.10.1(火) タイ日記(6日目)
天気は小雨。本館と食堂をのあいだのプールサイドには、色とりどりの傘が用意してあった。9時を前にして、ふたたび雷鳴が聞こえ始める。今日の天気は、地元の予報によれば以下の通り。
……
それほど暑くはなく、曇り。朝に時どき雨と雷雨、午後も時どき雷雨。最高気温は28℃。夜は曇り。夕方に時どき雨と雷雨。夜遅くには所々で雷雨。最低気温は23℃
……
9時30分よりプールサイドに降りる。このホテルの寝椅子のいくつかはパラソルではなく半透明の樹脂製の屋根の下にあるから、雨でもそれほどは困らない。ところが実際には、足の先には雨が当たる、空は活字が終えないほどに暗い、それに加えて落雷も心配なことにより、9時47分に部屋へ戻る。部屋はその17分のあいだに綺麗になっていた。枕銭は、おろそかにすべきではないのだ。
雷雨はますます激しくなる。出るも入るもできない豪雨である。フロントのオネーサンに確かめたわけではないけれど、ホテルのレストランは朝食のみが対象ではなかったか。おとといの日記に書いたように僕は間食をしないから、チョコレートも煎餅も持参してはいない。「なるようにしかならねぇ」と居直って、きのうの日記を書くことに専念をする。
3階の僕の部屋に限ったことかも知れないけれど、それにしてもwifiが遅い。それどころか頻繁に途切れる。だから単語をいくつか書くごとにコントロールキーとSキーを押して文字を固定させる。画像のアップロードにも時間がかかるから、電波が渋いときには机を離れ、寝台に寝転がって、すべてが転送されるまで待つ。
突然、外で鳥が啼き始める。鳥は多く、夜明けと雨の止んだときに鳴く。窓辺に近寄るとやはり、雨は上がっていた。時刻は14時25分だった。さて昼食はどうしたものか。いま食べては夕刻の酒が不味くなるのではないか。しかし食べずにいて雨雲が戻ってくれば、昼も夜も食べられなくなる。
思い切って外へ出る。おとといマッサージ屋”PAI”のオバサンが「あそこは美味しい」と指を差して教えてくれたクイティオ屋までは、たかだか100メートルほどの距離だ。小栗康平の「泥の河」で田村高廣と藤田弓子が営んでいた食堂のような粗末な、といっては失礼だが、その店の汁麺のスープは、いかにもタイ人が好みそうな甘さだった。
16時をまわったところでふたたび外へ出て”PAI”の扉を押す。そして足をマッサージしてもらいつつ「百代の過客」の上編を開く。マッサージは健康のためではない。慰み、である。頼んだ1時間の後半は、うたた寝をする。オバサンには50バーツのチップ。
目抜き通りにはいまだ入ったことのない店がたくさんあるものの、ピザ屋だのステーキ屋だの中国人観光客を目当てに作られたのだろう火鍋屋などで飲み食いをする気にはならない。きのう16時30分ころ訪ねていまだ営業していなかった店への、ひとけのない、すこし不気味な道を往く。雨上がりの気温は多分、日本のそれよりよほど低いだろう。
18時もちかければ、果たして店は営業をしていた。前回とおなじく道に面したテーブルに着く。僕の顔を覚えていたオニーチャンが笑顔を浮かべつつ近づく。僕は彼に英語のメニュを持って来るよう頼む。タイの田舎、タイのメシ、タイの酒、そして活字が揃えば天国である。
英語では”STIR-FRIED EGGPLANT”、中国語では「紅焼茄子」と表記のあった一皿を肴にラオカーオのソーダ割りを飲みつつ、先ほどとは別のオニーチャンに「この料理はタイ語では何というの」と訊くと彼は「パッマクーワ」と答えたから「それはそうでしょう」と笑いそうになる。そのときの「百代の過客」は94ページ。「唐土へ行く人よりもとどまりてからき思ひは我ぞまされる」という歌を読んで「なるほど。しかしゲンナリだね」などとひとり感想を漏らす。
それにしても今日は、きのうとは逆に酒が捗る。小さなペットボトルにラオカーオは適量と思われる量しか入れてこなかった。残念という他はないけれど、飲み過ぎもいけない。料理とソーダと氷の代金は285バーツ。釣りの15バーツは店に残した。
落ちてきはじめた雨は、大粒ではあったものの、いかにも疎らだったから、慌てもしなかった。そして、来るときの道は避けて、遠回りでも人通りのある道を辿ってホテルに戻る。時刻は18時58分。夜はこれから、という時間である。
朝飯 “Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 名前を知らない食堂のバミーナム
晩飯 「ジャルンチャーイ」のパットマクーワ、ガイサップルートロット、カオトム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.9.30(月) タイ日記(5日目)
目を覚ましてちかくのiPhoneに手を伸ばし、見ると時刻は0時02分だった。幸いにも二度寝ができて、今度の時刻は3時8分。即、起床する。
このホテルのチェックアウトの時刻は12時。今日から宿は、川向こうの郊外に移る。景色は広々とするだろうけれど、利便性は著しく落ちる。よって雑用は午前のうちに済ませておく必要がある。
タイバーツは、日本を出るときには12,339バーツがあった。未明にカーテンを開けたまま窓の近くでこんなことをしては危ないのではないかと考えつつ数えた残金は7,724バーツだった。ということは、きのうまでの4日間で使ったお金は4,615バーツ。1日に均せば1,154バーツになる。
川向こうの不便なところへ行けば、これまでのように毎日マッサージを受けることもなくなるだろう。7,724バーツは充分以上と考えて、この街で日本円をタイバーツに換えることは放念する。雑用は朝食の動画撮影と自転車の返却と散髪のみになった。
朝食は、これまで1、2度だけ入ったことのある、目抜き通りの繁盛店へ自転車で出かける。いまだ7時を過ぎたばかりにもかかわらず、席は半分以上が埋まっていた。注文はタイ語に英語が併記された、値段入りの伝票に自分で記入する式だった。僕はカオマンガイを選んだ。そしてその鶏肉は大当たりだった。営業時間が長ければ夜にも来たいくらいだが、多分、午後には閉まるだろう。
ホテルに戻り、今度はホテルの朝食を摂る。川向こうの郊外へ行けば、店は疎らになる。川沿いのリゾートホテルともなれば多分、周囲とは隔絶された環境に違いない。食いだめをしておくことに如くはない。
オートバイと自転車を貸す”NICE RENTAL”の開店する8時が過ぎたことを確かめてから、自転車を通りにこぎ出す。ジェットヨット通りのそこまでの所要時間は2分。1,000バーツの預け金は無事に戻った。次は散髪である。
チェンライに来るたび、ということはないけれど、2015年ころから通っている、その名も”BARBER SHOP”という目抜き通りの床屋には9時10分に入った。先客は3名。何とそのうちのふたりが白髪染めを始めた。「白髪なんか、気にすることねぇじゃねぇか」と考えつつベンチで待つ。待ち時間が発生するとは思ってもみなかったから、本は持参しなかった。
鏡の前の椅子に案内をされたのは9時40分。髪と髭を2番のバリカンで刈り、顔と襟足を剃り、髪を洗い、眉を整え、耳の掃除を終えたのは10時25分。顔のマッサージは断って、料金は260バーツ。これで雑用はすべて完了した。
チェックアウトの時刻は12時。荷作りは早朝に済ませてある。直前までプールサイドで本を読む手もあるが、これから行く”The Imperial River House Resort”はコック川に面した広いプールが自慢のホテルだ。本ならそちらで読もうと、ザックを背負い、スーツケースを提げてロビーに降りる。
新しいホテルまでの距離は、Googleマップによれば3.7km。ホテルでタクシーを呼んでもらえば200バーツくらいのことは言われるかも知れない。よって外へ出て、ちかくの辻でいつも客待ちをしてるトゥトゥクの運転手に声をかける。彼の言い値の100バーツは、僕には安く感じた。というのも、2013年からしばらく、ナイトバザールのゲート前から2kmの距離にある当時のドゥシットアイランドリゾート、現在のザ・リバリーバイカタタニまでの、トゥクトゥクの夜の料金は80バーツだった。それがいつの間にか80バーツは昼のみで、夜は100バーツになった。それを思えば、まぁ、外人価格ではあるのだろうけれど、3.7キロメートルで100バーツは理にかなっている。
トゥクトゥクは並木道を抜け、タナライ通りを突っ切り、数週間前までは「決して近づかないでください」と警報の出ていたコック川を渡る。しばらく進んで右折。更に右折。しばらく行くと、ホテルの庭なのだろうか、耕す前の田んぼのような、荒れた土の上で仕事をする人たちが見えた。
「さーて、チェンライの後半戦は、川沿いでリゾートライフだ」と勇躍、乗り込んだホテルのロビーは限りなく清潔だった。フロントのデスクには丸メガネの若い女の人がいて、後ろには若いオニーチャンが立っていた。
「予約をしたウワサワです」と声をかけると、オネーサンは怪訝な顔をする。コンピュータの画面を確かめ、僕に向き直って「お客様、当ホテルは洪水の被害により休館中でございます」と言う。「なんと」である。
「予約サイトからはメールでお知らせした筈ですが」とオネーサンは席を立ち、数メートル離れたプリンターから出力された紙を取り「ノーリプライになってますね」と、僕にそれを見せた。
「ホテルの中をご覧になりますか」と、オニーチャンが僕に誘いかける。「そうですね」と立って、オニーチャンに続く。コック川に面した庭の、自慢のスイミングプールは確かに、川と同じ泥の色だった。「ここまで水が来たんですよ」と、オニーチャンは自分のふくらはぎのあたりを示した。
オネーサンに呼んでもらったタクシーは間もなく来た。価格は150バーツと教えられていた。数十分前にチェックアウトしたばかりのホテルの駐車場に着くと、運転手はクルマを降り、後方へまわり、僕のスーツケースを降ろすと、それを曳くための取っ手を延ばすまでしてくれた。僕は財布から100バーツ札2枚を抜き取り「おつりは要りません」と、それを運転手に渡す。チップの習慣のある地域が、僕は大好き、である。
夜から昼にかけてフロントにいる、細身で色白で可愛いオネーサンに、また泊まりたい旨を申し出る。「いつまでですか」とオネーサンは問う。カウンターの上のカレンダーの今月のページを跳ね上げ、10月のページを出す。そして「4日の金曜日まで」と、その部分を指しつつ答える。更に「直に予約するのと、この場でagodaから予約するのとでは、どちらが安いかな」と訊いてみる。「すぐには分かりかねますが、我々の価格は1泊900バーツです」と、オネーサンは即座に答えた。「そんなに安かったのか」と腹の中では驚くも、顔には出さない。「それでお願いします」とオネーサンには伝え、4泊分の3,600バーツはカードで支払った。
スーツケースは初日のオジサンが3階の、数十分前までいた部屋まで運んでくれた。オジサンには50バーツのチップ。僕は全身、汗でずぶ濡れである。
シャワーを浴び、ひと息をついて「待てよ」と考える。オネーサンには金曜日までの4泊と伝え、代金も払った。「しかし」と、コンピュータを起動して日程表を見る。果たして僕がチェンライにいられるのは3日の木曜日までだった。
“Vary Sorry”とフロントのオネーサンに謝って、先ほどの決済は中止にしてもらう。そして新たに3泊分の2,700バーツをカードで払い直す。オネーサンは嫌な顔ひとつせず対応をしてくれた。時刻は12時10分になっていた。
朝に食いだめをしたにもかかわらず、腹が減っている。しかし食べればふたたび汗は滂沱と流れるだろう。汗はかきたくない。しかし腹は減っている。結局は初日の昼の汁麺屋まで数百メートルを歩き、ふたたび大汗をかきつつ部屋に戻る。
ドナルド・キーン編「昨日の戦地から」は、きのう、ナイトバザールの奥のフードコートで読み終えた。次に控えるのはおなじドナルド・キーン著「百代の過客」の上編である。午後のプールサイドには日が差すものの、日の当たる太腿から下にはバスタオルを掛けて、これを読み始める。時刻は13時50分。しかし日は時を追うごとに角度を変える。遂にそれを避けられなくなった14時22分に寝椅子から立ち上がる。以降は部屋で続きを読む。
タイの一食は日本のそれにくらべて量が少ない。だからなのか何なのか、タイ人は間食をよくする、しかし僕はそれをしない。16時を過ぎるころには早くも空腹を覚え始めた。今日の夕食はどこで摂ろう。この街に入って2日目の夜の店などどうか。
ホテルから9分間を歩いて着いたジャルーンチャイは、Googleの情報によれば16時に開店のはずだが、人の姿は無かった。仕方なく大回りをして、結局はナイトバザールの奥のフードコートへ行く。きのうおとといとおかずを作ってもらった店は開いていたものの、酒やソーダや氷を売る店にはシャッターが降りていた。タイでは酒類は、11時から14時、17時から翌朝の8時までしか売ることはできない。15分を待って17時が来ると、シャッターはようやく上がった。しかし今日はなぜか、氷は無いという。
むかし新橋に「チューハイに氷は決して入れない」という店があった。「酒が薄くなるから」というのが店側の理屈ではあったものの、氷を欠くソーダ割りでは、気勢はまったく上がらない。明日以降にこんなことがあれば、セブンイレブンで氷を買って、それを持ち込むことにしよう。
部屋には早くも18時前に戻ってしまった。ラオカーオが捗らなかったせいか、眠気は0時すぎまで訪れず、ただ雷の音を聞く。
朝飯 「ナコンパトム」のカオマンガイ、“Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 「ラーン・ポージャイ・カオソーイガイ」のセンヤイナムニャオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのカオパットガイ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.9.29(日) タイ日記(4日目)
昨夜は早く眠りに就きすぎたか、いまだ23時35分に目を覚まして大いに焦燥した。2時30分や3時ならともかく、当日のうちに目を覚ましては、いかにも早すぎる。眠ろうと努めたものの眠れず、おまけにiPhoneはwifiは繋がらないからTikTokを観て時間を散じることもできない。枕元の灯りは接触が悪くて点いたり消えたりを繰り返した挙げ句、遂に消えたままになった。こうなると本も読めない。それに加えて胃が痛い。食べ過ぎだろうか。
寝台を降りて持参した薬の袋を開く。そこから新三共胃腸薬を取り出そうとして、毎朝の服用が義務づけられている血圧安定剤を、2日目から飲み忘れていたことに気づく。
消化剤を飲んで灯りを消すと何とか短く眠ることができ、三度目はかなり長く眠れた。ようよう起きてコンソメスープの素を熱湯に溶かし、それを飲みつつきのうの日記を書く。外はいまだ暗い。
僕の旅には大まかな日程表がある。朝食の後はその、要点のみ記したそれに従って、IKEAのトートバッグに洗濯物を入れる。このホテルに洗濯のサービスは無い。ただし目と鼻の先にコインランドリーがある。それはホテルを予約するときに確かめてあった。
24時間営業のコインランドリー”Otteri”では、係らしいオネーサンが掃除中だった。僕の姿を認めるなりオネーサンは”Wash and dry?”と声をかけてくれた。とても有り難し。洗濯機は容量の大きな順に18Kg用が3台、14Kg用が3台、9Kg用が2台あって、オネーサンはそのうちの9Kg用で洗い上がったらしい洗濯物をカゴに出してくれた。幸運、である。
それよりも先ずは洗剤を買う必要がある。その自動販売機の前までついてきてくれたオネーサンは「柔軟剤は必要か」と訊く。僕は「不要」と答える。液体洗剤の値段は5バーツだった。オネーサンは次に、紙幣を10バーツ硬貨に両替する機械を指した。ここで10バーツ硬貨10枚を得る。
水の温度は38~40℃、50~60℃、60~70℃の3種があった。「38~40℃の”COOL”で良いか」とオネーサンが訊く。日本のことを考えればそれでも充分だろうけれど、僕は50~60℃の”WORM”を指定した。すると洗濯機に「50」の数字が出たため、10バーツ硬貨5枚を差し込み口から投入する。洗濯時間は「26分」と表示された。
“Otteri”は南の国らしく、道路に面して開け放たれている。涼を得る道具は扇風機のみだから蒸し暑い。それでも店内の机に「昨日の戦地から」を開いて読み始める。高松宮の好意により皇居に招き入れられたオーティス・ケーリを案内したキノシタ侍従次長とは、自由学園でひとつ上のキノシタテルオ君のお祖父さんではなかったか。「キノシタ氏」の「温かいもてなし」については1ページ半も費やされているから、このことはキノシタ君に知らせて上げるべきだろう。
洗濯は26分より長くかかったような気がした。乾燥機は8台があった。そのうちの1台に脱水を終えた洗濯物を入れると、先ほどのオネーサンがまた来て「ここに50バーツ」と、またまた教えてくれた。温度帯は4種類があったものの、どうやら”HIGH”が標準のようだった。乾燥時間は28分と表示された。
その28分間を経て、オネーサンに礼を述べて”Otteri”を去る。時刻は9時20分になっていた。5分後にホテルの部屋でそれらを畳みながら、タイ入りをする際に履いていた靴下の片方の無いことに気づく。探しても探しても見つからない。25日の夜にボーディングパスを失いかけた、あの粗忽さをまたもや繰り返してしまったか。
“Otteri”に戻ると、僕の使った乾燥機は、既にして次の人の洗濯物を乾かしながら回っていた。洗濯機の方はいまだ誰にも使われていなかったため、中を覗き込むと、回転ドラムの上の方に、靴下のもう片方が貼り付いていた。それを取り出して高々と掲げる。オネーサンは「おぉ」と笑った。
10時30分より外へ出てジェットヨット通りへ向かう。きのうの貸しオートバイ屋で自転車を借りる。24時間で100バーツの料金は安いと思う。きのう言われた預け金1,000バーツもオバサンに渡す。
さてコロナの前までは、マッサージは”PAI”の他に、北はメーサイ、南はバンコクまで続く国道1号線沿いの高級店”ARISARA”に通っていた。今回の旅に先だって、再訪のためGoogleマップで調べたところ、別の場所にフラッグが立った。何かの間違いではないか。
ペダルを踏んで真っ先に向かったのは、その”ARISARA”だった。片側三車線の広い通り沿いに、見慣れた建物は確かにあった。自転車をステンレス製の靴脱ぎに鎖で入念に繋ぎ、階段を昇る。マネージャーは以前の怖そうなオバサンではなく、若くて太ったオネーサンになっていた。
「コーヴィットの前まで自分はここに通っていた。係はプックさん。プックはPOOK。彼女は今いるだろうか」と問うも、オネーサンには通じない。何度か繰り返すうち、オネーサンはスマートフォン取り出し、僕に向けた。「英語でですか」と問うとオネーサンは頷く。オネーサンは翻訳されたタイ語を一瞥して「あー」と、ようやく納得した。オネーサンが見せてくれたスマートフォンには「8ヶ月前にオーナーが変わって、その女の人も今はいない」とあった。先ほどお茶と共に出してくれた水のペットボトルの文字を読んで「今の店名はワンサバイ、ですか」と訊けば、オネーサンは頷く。なるほどそういうことだったのか。しかし今さら後戻りはできない。
“ARISARA”あらため”ONE SABAI”のオイルマッサージ2時間の料金は800バーツ。医療施術師といった感じのプックさんには200バーツのチップを上げていたけれど、今日のオバサンへのそれは100バーツに留めた。帰り道の左側には確かに、Googleマップが示す通り、現在の”ARISARA”があった。しかしドアを押してプックさんの在籍を確かめるまではしなかった。
まばらではあったものの大粒の雨が落ちてきたため、勝手知った裏道を急いでホテルに戻る。しばらく空を眺めても、雨は強くならない。よって思い切ってふたたび街に自転車を乗り出す。そしてきのうのガオラオ屋の道を隔てた真向かい、10年以上も通っているカオゲーン、つまりぶっかけ飯屋で昼食を摂る。料金はごはんにおかず3種を添えて70バーツだった。
とにかくタイにいる限り、なにかひとつのことをするたび汗だくになる。部屋へ戻るなりシャワーを浴び、クーラーの電源を入れる。僕のコンピュータの中にしかないデータを、事務係として今月より採用したヒロタイクコさんに処理してもらうため送って欲しいと、12時49分に長男からメッセージが届いていた。よって即、当該のものを送る。そのときの時刻は14時ちょうど。「急ぐときは電話」の鉄則に従って、長男に報告の電話を入れる。
プールサイドの寝椅子は快適でも、午後は日が差す。よって以降は部屋で静かにしている。そして17時を過ぎたところで本、ステンレス製のコップ、タイ航空のペットボトルに小分けしたラオカーオ、メモ帳、ボールペン、財布、iPhoneをセブンイレブンのエコバッグに入れて外へ出る。
「昨日の戦地から」の五百籏頭真による解説は秀逸。肴はきのうの夜の胃痛を思い出して一品に留める。
食べて呑んで目抜き通りに出れば、時刻はいまだ18時30分にも至っていなかった。この時間に帰って寝ては、また今日のうちに目を覚ましてしまう。そう考えて、帰り道の途中にある”PAI”に寄る。そして1時間の足マッサージを受ける。200バーツの料金は、バンコクでは考えられない安さだ。オバサンには50バーツのチップ。
今回の旅では、着の身着のまま、あるいは素っ裸で、部屋の灯りを点けたまま眠ってしまう、という粗相はいまだしていない。シャワーを浴び、パジャマを着て20時前に就寝する。
朝飯 “Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二
昼飯 ”Srikrung”の3種のおかずのカオゲーン
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのヤムサイタン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.9.28(土) タイ日記(3日目)
目を覚ましたのは3時台。起きたのも3時台。朝食までには間があるから、早朝には持参のコンソメスープを熱湯に溶かして飲む事が多い。
きのうの日記に片をつけたところで部屋のある3階から階段を昇って屋上に出る。なぜか東ではなく、南の雲が紅い。置かれた複数の洗濯機は、館内のリネン類を洗うためのものだろうか。このホテルの客室部分は3階までにもかかわらず、表の通りからは4階建てに見える。屋上に出てはじめて分かったことだが、4階部分は看板状のハリボテだった。
ハリボテといえば聞こえは悪いけれど、古い本体部分は残したまま外壁をモダンに飾り、庭にスイミングプールと食堂を新造し、客室は徐々に改装していく経営の手法は手堅く、また鮮やかだ。
8時13分よりプールサイドに降りる。10時43分までのあいだに「昨日の戦地から」の359ページから382ページまでを読む。ページが捗らないのは、僕の遅読癖に加えて、文中のあれこれを、脇道へ逸れつつスマートフォンで調べることによる。
きのうの夜は月も星も出ていなかったにもかかわらず、今日は朝からとても天気が良い。早いうちにプールサイドから引き上げたのは、あまりに暑かったからだ。
その炎天下に、帽子と紫外線防止用のメガネを身につけ出て行く。途中、ジェットヨット通りの貸しオートバイ屋に”Bicycle”の文字を認めて眺めていると、店主らしい女の人に声をかけられた。店の外にはオートバイ。自転車は店の奥に3台ばかりがあった。貸料は1日100バーツ。パスポートか1,000バーツを預かるという。とにかく徒歩では機動力が上がらない。営業は8時から18時まで、定休日は無し、ということまで確かめて店を出る。
昼食は、黄金の時計台のちかくに新しくできたガオラオ屋で摂った。チーク材はタイではもはや採れず、近隣諸国からの密輸に頼っているとは、20年も前から言われていることだ。よってチークではないだろうけれど、それ風の木材を多用した広くて清潔な店には従業員もたくさんいた。ガオラオ、特に肉団子は美味くて大いに驚いた。チェンライにはコロナの最中、あるいは直後より作られたと思われる、洒落て清潔そうな店がとても目立つ。
ラオカーオの残りはいまだ800ccはあるものの、明後日には街から見て川向こうのホテルに移る。よってガオラオ屋の帰りに時計塔から北へ歩いた右側の酒屋で愛飲の”BANGYIKHAN”1本を買う。以前はナイトバザールのちかくにあって、お爺さんとお婆さんが店番をしていた酒屋を使っていた。その店を若い人が引き継いで移転したのが今の店と、街の人からは聞いている。酒屋は奥に飲食のための部屋を持つほどに拡大していた。
大汗をかきつつホテルに戻る。昼食のためだけに、2キロメートル以上は歩いている。午後は部屋で静かに過ごし、夕刻より”PAI”に出かけて、今日は足のマッサージを1時間だけ受ける。代金は200バーツ。オバサンには50バーツのチップ。マッサージのチップはコロナ前から、バンコクでは1時間あたり100バーツは渡さないと、良い顔をされないような気がする。しかし田舎の、それも観光客の来ない店では、いまだ1時間あたり50バーツで悪くないような、これまた気がする。
空はいまだ充分に明るかった。よってマッサージの最中に読んでいた「昨日の戦地から」を、ナイトバザール奥のフードコートでも開く。
明治維新という名の革命は、外様大名の、それもそれほど身分の高くなかった若いサムライたちが中心になって成し遂げられた。日本の戦後は、アメリカに押しつけられた、あるいはアメリカに助けられての、いわば外からの革命だった。当時25歳だったオーティス・ケーリは式場龍三郎の協力を得て高松宮夫妻と会談を重ね、天皇のあり方を自分の理想にちかづけようと働きかけている。これなどは、薩摩と長州のあいだで必死の周旋を繰り返した若きサムライを彷彿させる事実ではないか。
ホテルに帰り着いた時間は記録していないものの、20時より前だったことは確かだ。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
昼飯 “Saharodh Pork Blood Soup,Clock Tower”のガオラオ、ごはん
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのヤムママータレー、カイジャオ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.9.27(金) タイ日記(2日目)
数学の好きな人は、解答にいたるまでの過程に感心があるだろう。プログラミングに興味のある人は当然、コマンドラインを読みたくなるだろう。「東京を深夜に発ち、チェンライへはおなじ日の午前に着いた」という移動の経過を欠いた紀行文を僕は好まない。だから僕の、旅の初日の日記はどうしても長くなるのだ。そしてこれを書くうち空が明るんでくる。
朝食の後はプールサイドに降りる。僕の海外でのホテル選びは、第一は日除けと寝椅子を備えたプールがあること、第二は便利な場所にあること、あるいはその場所への便利な交通手段が確保されていること。第三は価格、ということになる。このホテルの部屋は大したこともないけれど、プールサイドの寝椅子の本の読みやすさは天下一品だった。
持参した本は2冊。その1冊目は6月にタイに来たときからのもので、ドナルド・キーン編「昨日の戦地から」。いまだ20代だったドナルド・キーンやオーティス・ケーリたち日本語将校が第二次世界大戦直後のアジアに来て、観たこと、聞いたこと、また、したことを手紙で知らせあった書簡集である。今朝は、294ページまで読み進んだ6月の最終ページから、その28章「東京のオーティス・ケーリから青島のドナルド・キーンへ」の冒頭に戻って読み始める。
この本の醍醐味は、中国、朝鮮、日本をはじめとする東アジアの第二次世界大戦直後の姿、また日本のいわゆる”Big Name”から無名の人々に到るまでの戦中戦後の様子、それらが生の形で知れるところにある。また、いまだ感受性豊かな若い将校たちの、習得した言語が実際に使われている地域へ来ての個人的な感想も興味深い。
インターネットが身近になって以降は、本を読みながら調べごとができる。スマートフォンが発明されて以降は、その調べごとがプールサイドに寝転んだままでできる。まこと便利な世の中になったものだ。
朝食を充分に摂っていたこともあって、昼に到っても腹は空かない。権利落ち日にもかかわらず、日経平均は謎の大上昇。そのうち「自由民主党の次期総裁は石破茂に決定」のニュースが飛び込んでくる。とすれば株価は一旦は下げ。以降は神のみぞ知る、だ。
15時を過ぎたところできのうとおなじ”PAI”に出かけ、2時間のオイルマッサージを受ける。ナイトバザール周辺のマッサージ屋とは異なって、ここに観光客はほとんど来ない。よってマッサージのオバサンは英語を話さない。今日のオバサンは終わりがちかくなるころに到って「ごはんはどこで食べるか」と訊いてきた。「まさかメシをおごれと言っているわけでもないだろうな」と考えつつ「このちかくで」と答える。オバサンには100バーツのチップ。
夕刻の行動としては、マッサージにかかり、その足でメシを食べに行く、という順序が好きだ。そこには気分の楽さ、気分の自由さがある。
“PAI”のある目抜きのパホンヨーティン通りからジェットヨット通りへ。そこから夜の一人歩きはいかにも危なそうなカンクルントンホテル通りを経て、広いサナムビーン通りに出る。サナムビーンとは空港の意で、ここを南下すればむかしの空港に行き当たる。その通りを渡って、いまだ混み合う前の食堂のオニーチャンに声をかける。席は指された奥ではなく、道に面したところにした。
2013年の秋、暮らしている4階に、タンスは中味ごと捨てるような断捨離をほどこし、ほぼ全面を改装した。住んでいる環境が簡素化されると「自分の本当に好きなことは何だろう」という疑問が浮かんだ。結果はすぐに出た。「美味いメシと酒」、「本読み」、「日本語の通じないところへの旅」が、すなわちそれだった。タイの田舎へ来れば、その3つが同時に達成される。特にチェンライとは、なぜか相性が良い。
月がとても青かったから、というわけでもないけれど、帰りは遠回りをする。第一、今夜のチェンライには月も星も出ていない。
ホテルへ戻り、フロントで部屋の鍵を受け取って廊下へ向かおうとすると、その入口のガラスのドアに「静粛に」という意味の、タイ語、英語、中国語、ミャンマー語による張り紙があった。そういえば今日の午後、ロビーで男3人による大声のやり取りがあった。そのような行いへの、この張り紙は牽制なのだろうか。そしてその注意書きの中の「喧嘩」の2文字に特に関心を持ちつつ部屋への階段を上がる。
朝飯 “Blue Lagoon Hotel”の朝のブッフェ其の一、其の二、其の三
晩飯 「ジャルンチャーイ」のガイサップルートロット、マラパットカイ、ヤムウンセンムーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.9.26(木) タイ日記(1日目)
00:26 Airbus A350-900(35D)を機材とするTG661は、定刻に6分おくれて羽田空港を離陸。
前日の起床は2時台。よって今回はいつもとは異なって、睡眠薬は飲まなかった。アイマスクを着けたもののなかなか寝付けず、しかしいつの間にか眠りに入る。
02:25 目を覚まして目の前のディスプレイで現在位置を確かめる。何といまだ那覇の上空で、ゲンナリする。90分ほどしか眠れていないのではないか。しかたなく洗面所へ行くと歯磨きのセットが用意してあったため「ラッキー」とばかりに歯を磨き、使い捨てでない大きさのペーストはいただくことにする。そして席に戻ってまたまたアイマスクを着け、ヒマに耐えかねているうち幸い、ふたたび眠りに落ちる。
04:20 目を覚ますと機内は明るくなっていた。通路では朝食のワゴンが動き始めている。しかし機はいまだ、海南島の沖にも達していない。
04:25 朝食。腹八分目に留めて、すべては食べない。
05:02 ダナンの上空を通過。ここを過ぎればこちらのもの、という気になる。
05:40 「スワンナプーム空港まで30分」のアナウンスが流れる。
05:49 機が降下を始める。
05:59 バンコクの灯りがちかくなってくる。
06:00 車輪が降ろされる。
06:04 定刻より46分も早いタイ時間04:04にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
機を降りたら皆の歩いて行く方へ自分も歩いて行く。途中、多くの飛行機の行き先と搭乗口を示す大きな表示板が現れるものの、ここでそのようなものを見る必要はない。サテライトターミナルからメインターミナルへのシャトルトレインの乗り場までは、何も考えなくてもたどり着ける。
04:22 シャトルトレインがサテライトターミナルを発車。
04:25 その車両がメインターミナルに着。
これまた皆の歩いて行く方へと進んでいくも、集団はあるところで二手三手に別れた。バンコクで降りる人のための入国審査場の他に”Connecting Flights”と”Transfer Desk”の表示が複数の方向に出ているのだ。さて、自分はどちらへ進むべきか。するとちかくの頭上看板に”To Chiangmai,Chiangrai,Phuket,Krabi,Samui,HatYay,Tret”の文字が見えた。「デスク」までの距離は380メートル。動く歩道は調製中だった。
04:35 見慣れた入国審査場に、しかしいつもとは異なった方向から辿り着く。2014年、ここでかたわらの空港職員に「いつになったら開きますか」と問うたところ、彼は自分の腕時計の5の数字を指して「ファイブ」と教えてくれた。タイ航空の今朝のオバチャンは、4時55分にカウンターに着いた。上出来の仕事ぶりである。
5時を過ぎたところで順番に柵の中に入る。そしてオバチャンの助手のような女の子にパスポートと、ここからチェンライまでの搭乗券を差し出す。すると女の子は「ここまでの搭乗券も」と言う。羽田からの搭乗券は用無しと考えて、ザックの中に納めてしまっていた。それを取り出し見せて、そのカウンターを抜ける。僕には移動中の荷物は紙1枚まで減らす癖がある。「捨てなくて良かった」である。
05:05 タイ航空のカウンターから10メートルも離れていない入国審査場を通過。
05:15 保安検査場を通過。6月のときは羽田からの機内でもらった手つかずの水のボトルをここで捨てる羽目になった。 だから今回は、ミネラルウォーターは羽田での搭乗直後と朝食のときと、2回とも断っていた。飲み物は羽田で買ったソーダ水だけで充分だった。保安検査場を抜けたところでは、忘れ物、落とし物は無いか、入念に振り返った。TG130の搭乗口がA7であることは、途中の売店脇の表示板で知った。
05:20 A7ゲートに達する。
07:32 2時間以上を待ってようよう搭乗開始。外へ出てバスへ向いつつ「いやー、気持ちいいねー、いよいよだ」と、思わす独り言が口を突いて出る。
07:42 すぐそばに横付けされたバスからタラップを上がる。即、係のオネーサンに許可を得て、すぐ脇の洗面所に入る。席は窓際55Aのため、飛行中は動きたくないのだ。
08:44 Airbus A320-200(32S/3203)を機材とするTG130は、定刻に22分も遅れてスワンナプーム空港を離陸。
活字中毒でも機内に本は持ち込まない。活字は日本経済新聞の直近の書評と数日以内に興味を惹かれた紙面のみ。それを抜き出し四つ折りにし、クリアファイルに挟んでザックに入れている。9月21日の「リーダーの本棚」は小池百合子。彼女の座右であるというアルビン・トフラーによる「第三の波」の監訳者が徳岡孝夫と知って「へー」と意外の念に打たれる。
機はほぼ安定して飛び続け、やがてチェンライの郊外が見えてくる。今月12日には、チェンライ県を襲った洪水により、空港も閉鎖をされたという。その洪水の跡を見つけようと、窓に顔を近づける。
09:42 TG130は定刻より13分はやくメイファールンチェンライ国際空港に着陸。
09:59 回転台から荷物が出てくる。
10:01 スーツケースのX線による検査を受けてロビーに出る。
チェンライの空港では、国際線乗り継ぎ客の荷物の出てくる回転台にもっとも近い口を出ると、右手にタクシーの手配所がある。そのブースのオネーサンにホテルの名を告げる。オネーサンは即、ちかくにいたオジサンに声をかける。オジサンはオネーサンに、金額は分からなかったが紙幣を渡した。オネーサンは僕に「料金は200バーツ」と告げる。この価格はコロナ前と変わっていない。タクシーの運転手がオネーサンに手渡したのは、公定の紹介料だと思う。
10:08 タクシーが走り始める。車内のカーステレオからはタイの演歌が盛大に流れている。 道はまるで黄砂が積もったように茶色い。多分、洪水によって泥がアスファルト上に満ちたのだろう。その乾いた泥が風に舞って、外はとても埃っぽい。路傍のそこここには、洪水により使い物にならなくなった諸々が積み上げてある。しかしこの被害も、更に北の国境地帯にくらべれば、随分と軽かったのだ。
10:25 市中心部のホテルに着く。代金の200バーツは運転手に直に支払ったこともあって、チップは手渡さなかった。
チェックインは書類への記入もなく簡単に終わった。スーツケースを3階の部屋まで運んでくれたベルボーイには40バーツのチップ。ベルボーイは開いているカーテンを閉め、クーラーのスイッチを入れた。南の国では温帯以北とは異なって、日当たりの良さはむしろ忌避される傾向にある。
僕は旅に豪華さは求めない。むしろその逆と言っても良い。しかし今回のホテルにはクローゼットが無かった。セキュリティボックスも無い。その点だけは、ちと困る。貴重品は、スーツケースに入れて鍵を掛けるしかないだろう。
シャワーを浴び、腰にバスタオルを巻いて、既にして完成しているおとといの日記を公開する。それからきのうの日記に取りかかる。朝食は2食を食べているものの、そのうち空腹を覚えて堪らなくなる。時刻は11時45分。Tシャツを着てタイパンツを穿き、”KEEN”のゴム草履に足を入れる。
ホテルから目抜き通りに出て左へ歩く。すぐの交差点を左折してジェットヨット通りを右折。時計台を目指して北上すれば、右手にワンカムホテル、左手にはいつもの汁麺屋が営業中だった。僕の注文はバミーナムニャオ。カオソイと並んで北の名物であるこの麺の名店はチェンライにはいくつもあり、ある年には食べ歩きもした。その結果、僕には便利な場所にあるこの店のそれで充分と判断するに到った。辛さについてはどうなのだろう。「容赦ない」とも感じるし「それほどでもない」とも感じる。しかしからだは正直で、たちまち頭と顔から汗が噴き出てくる。価格は40バーツだった。
帰りは別の道を回って3軒ある両替所のレートを見ていく。気温は25℃くらいだろうか。バスターミナルの日陰に入り、ふたたび道へ出る。自転車が欲しいけれど、目に付いたレンタル屋はジェットヨット通りの1軒のみで、貸しているのはスポーツタイプのものばかりだった。それはさておきレートは3軒のうちバスターミナルの先の”Superrich Exchange Chiang Rai Night Bazaar”が1万円あたり2,237バーツでもっとも良かった。とはいえ民主党政権の時代はとんでもない円高で、1万円が4,000バーツ以上になったのだから、隔世の感は否めない。
部屋に戻ってシャワーを浴び、先ほどの薬味に使われていた生の玉葱の匂いをリステリンで洗う。ふたたび外へ出て、目と鼻の先の、2014年から行きつけのマッサージ屋”PAI”で2時間のオイルマッサージを受ける。料金は600バーツ。オバサンには100バーツのチップ。
またまた部屋に戻り、きのうの日記に引き続いて今日の日記のここまでを、18時12分までかかって書く。右手の窓の外は、気づけば随分と暗くなってきた。6月に残して持ち帰り、今回の荷物に含めたラオカーオを冷蔵庫から出す。そして今朝の、チェンライまでの機内で配られた水のペットボトルに小分けする。それと専用のステンレス製のコップをセブンイレブンのトートバッグに入れて外へ出る。
ナイトバザールの入口左側で甘味を売るオバチャンは、10年以上も前からまったく老けない。道の両側の、土産物を売る屋台は準備中のところもあり、夜はこれからなのだろう。
目抜き通りからナイトバザールに入ると、先ずは最初の野外レストランが左手に現れる。ここは雰囲気は最高ながら、僕はよほどのことがないかぎり使わない。無意識に避けている理由をつらつら考えてみれば、地元の庶民が客としていないから、ということになるだろう。その先を左に折れると、やがて右手に黄色い椅子とテーブルの広場が見えてくる。僕が頻繁に使うのはここで、2009年から通っている。
中国の団体様々なのは、いずこもおなじ。香り野菜や肉を土鍋で煮るチムジュムは金属製の大きな鍋に変わり、シャム湾からは800キロメートルも離れているにもかかわらず、具には巨大なロブスターなど派手なものが目立つ。そんな店の中に、以前と変わらない土鍋でこれを売る店を1軒だけ見つける。価格は15年前の80バーツから100バーツを経て現在は120バーツになっていた。注文をすると、刺青だらけのオニーチャンは「スパイシー? ノースパイシー?」と問う。当方の答えは「スパイシー、ナ」に決まっている。この鍋を肴にして、別の店で買ったソーダと氷で持参のラオカーオを割る。気持ちがみるみるほどけていく。この街にいられるのは、いつまでだっただろう。
徒歩で数分のホテルに戻り、フロントで部屋の鍵を受け取る。以降のことは、よく覚えていない。
朝飯 TG661の機内食、TG130の機内スナック
昼飯 「ラーン・ポージャイ・カオソーイガイ」のバミーナムニャオ
晩飯 ナイトバザール奥のフードコートのチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.9.25(水) あって良かった搭乗券
旅に出る日は常に忙しい。新宿高島屋での1週間の出張販売をこなした長男がトヨタハイエースで帰社した15時以降は特に、目の回るような慌ただしさだった。17時30分に閉店。店の掃除を隠居係のタカハシリツコさんと、先般、事務係として入社し、現在は商品を覚えるため販売係に配置転換をされているヒロタイクコさんに任せて4階へ戻る。そしてシャワーを浴び、着替えて事務室に降りる。
18時35分に予約をしておいたタクシーは、18時33分に事務室のシャッターを上げると、既にして店に横付けをされていた。
18:39 東武日光線下今市駅着
18:44 座席指定券を兼ねた特急券を持っていなかったことに気づいて、プラットフォームに立ったままiPhoneでそれを購入する。
18:49 けごん52号が下今市を発車。
5号車の予約した席へ行くと、パーカのフードをかぶったアジア系のオネーチャンがガムを噛んでいる。連れのオニーチャンに僕のiPhoneを見せて、彼女が占めているのは僕の席だと伝える。オネーチャンは「なにドジ踏んでんだよ」という一瞥をオニーチャンにくれ、僕には”Sorry”のひとこともなく気だるそうに立った。こんな礼儀知らずでも経済的な余裕さえあれば、海外旅行ができるのだ。オニーチャンは「スミマセン」と日本語で僕に告げて4号車へ去った。
20:20 けごん52号が北千住に着く。
20:22 ふたつ上の階から日比谷線の車両が発車。
20:38 その車両が人形町に着。
20:56 都営浅草線の急行羽田空港第1・第2ターミナル行が発車。
21:34 その車両が羽田空港第3ターミナルに着。
PASMOの残額が少なかったため、券売機で5,000円のみチャージしてエレベータに乗る。3階の出発ロビーには、全体的に人が少なかった。タイ航空のカウンターにいた旅客は3人ほどではなかったか。
21:45 そのタイ航空のカウンターでチェックインを完了。
21:50 保安検査場を通過。
X線を通過した自分の荷物を箱形のトレイから拾い集めつつ、数十秒前までは手にしていたはずの搭乗券が見あたらないことに気づく。あちらこちらを探すうち、僕の後に検査を受けたカップルの、森泉に似た白人の女の人が当該の紙片を僕に示す。僕は「有り難うございます」と日本語でお礼を言って、胸をなでおろす。ふたつ使ったトレイのひとつに残してしまっていたらしい。このような粗忽さは、時には命取りになるから要注意だ。
21:53 出国審査場を通過。
6月のタイ行きの際、これまで羽田空港には無かった、プライオリティパスで入れるラウンジを見つけた。プライオリティパスは、楽天のゴールドカードの持ち主なら誰でも手にすることができるカードだ。そのときは夕食を済ませていたものの「だったら次はここを使おう」と決めた経緯があった。
22:20 今日は迷わずその”SKY LOUNGE SOUTH”に足を踏み入れる。受付のオニーサンは僕の搭乗券を調べて「142番ゲートまでは、ここから10分から15分かかります」と教えてくれた。
プライオリティパスの持ち主が対象だからそれほど豪華というわけではないけれど、文句は言えない。そしておむすびはなかなか美味かった。酒類は飲み放題でも、僕は海外へ出る直前には飲酒はしない。食事をしたテーブルではまた、財布から日本円を出して貴重品入れの封筒にしまい、おなじ貴重品入れの別の封筒から1,000バーツ札1枚、100バーツ札5枚、50バーツ札1枚、20バーツ札5枚を出して財布に納める。
22:43 そのラウンジを出る。
23:00 途中の”BOOKS & DRUGS”でソーダ水を買う。
23:05 142番ゲートに達する。
23:38 搭乗開始。
23:43 60Hの席に荷物を置いて洗面所へ行き、腰に使い捨てカイロを貼る。前回、腰の調子が悪かったため、腰にカイロを貼ったら長く眠れた。今回も、そうなってくれれば有り難い。
朝飯 赤飯のおむすび、玉子焼き、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、なめこのたまり炊、トマトと若布と菠薐草の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 “SKY LOUNGE SOUTH”の2種のおむすび、カレーライス
2024.9.24(火) 千灯供養
きのうに引き続いて2時台の起床。2時30分より食堂でお湯を湧かす。おとといまでとは異なって、とてもではないけれど、寒くて窓は開けられない。4時前に到って遂に、足温器の電源を入れる。5時より、先週末からきのうにかけての「汁飯香の店 隠居うわさわ」のお客様の情報をコンピュータにデータベース化する。5時30分からは、何もすることがない。この「何もすることがない」という時間こそ貴重だから、僕は早寝早起きを励行するのだ。
いよいよ日の昇りそうな気配を感じて屋上に上がる。上半身は半袖のポロシャツ1枚、素足に草履では寒さに耐えかねるのではないかと懸念をしたものの、気温は耐えられる範囲の内だった。時刻は5時33分。天気が好転しつつあるのは有り難いけれど、寒いのは困る。否、寒さはさほど苦にしない。服に服を重ねることが嫌いなのだ。
日中は近隣の農家からの茗荷の納品が相次いで、事務室と蔵のあいだを忙しく往復する時間があった。茗荷は即、水洗いをされて塩をまぶされる。茗荷の買い入れは今月30日まで。できるだけ多くが届くことを、僕は願っている。
18時をすぎて、すべての社員が家路について後に外へ出る。そして自転車で日光街道を下る。追分地蔵尊の千灯供養は毎年申し込んでいるものの、昨年は何かの事情により来ることができなかった。このお祭は先祖供養のためと聞いている。僕は線香を供えつつ、それに加えて世界中の子供を守ってくれるよう祈る。「祈りって、通じるものですかね」と問われれば「それを言っちゃぁ、おしまいでしょう」としか答えようはない。
帰りにセブンイレブンへ寄り、昼に道の駅「日光街道ニコニコ本陣」の壁の宣伝で知った地元誌”monmiya”の10月号「隠れすぎ遺産 地元の人が教えてくれた! こんな日光知ってる?」を買う。
朝飯 「なめこのたまり炊」のフワトロ玉子、茄子とパプリカとピーマンの味噌炒り、納豆、菠薐草のおひたし、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、トマトと揚げ湯波と若布の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、夏太郎らっきょう、なめこのたまり炊、薩摩芋の蜜煮、牛肉と舞茸と糸コンニャクのすき焼き風、蓮根のきんぴら、秋刀魚の塩焼き、麦焼酎「こいむぎやわらか」(生)、梨
2024.9.23(月) いまだお彼岸の最中ではあるものの
2時台の起床。おとといときのうの日記を片づけたところで、おとといから始めた旅の荷作りを再開する。先ずはきのうの早朝に整えた薬品類を、もういちど点検する。バックパッカーをしていた1980年代と同様に、薬は多くの種類を多めに持つ。海外、それも地方で怪我や体調不良に見舞われれば、薬だけが頼り、ということにもなりかねないからだ。
持ち物の一覧表を手元に置き、ひとつひとつを専用のバッグやケースに入れるたび、一覧表にあるそれらを青いフェルトペンで消していく。現地で手に入らないものには、特に神経質になる。コンピュータの電源コードは、通電試験までした。そしてようよう、出発の直前まで使うもの以外をスーツケースとザックに納め終える。
9時を過ぎて、道の駅「日光街道ニコニコ本陣」への、本日2度目の納品をしつつ、目と鼻の先の如来寺へ寄る。そして大きなプラスティック袋とタライを手にお墓を目指す。駐車場にちかい古い方のお墓の黄菊や白菊は、19日に供えたときと変わらない瑞々しさを保っていたから一瞬、きびすを返そうになる。しかし「自分がしないで誰がする」と考え直して、7対の花立てから次々と菊を引き抜き袋に入れていく。花立ては水を捨て、水場で洗うため計14本をタライに入れる。新しいお墓、叔父と叔母のお墓の花と花立て、また線香立ても水場で洗い、元に戻す。
今月18日から出店をさせていただいている、新宿高島屋での販売が好調だという。現場に詰める長男からは日々、追加の商品の出荷個数を知らせる連絡が入り続けている。「勝ちに不思議の勝ちあり」と野村克也は言った。今回の売れ行きについては、多分、複合する理由があるのだろう。
朝飯 トマトとピーマンのソテー、スクランブルドエッグ、納豆、茄子とパプリカとピーマンの味噌炒り、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、キャベツと若布の味噌汁
昼飯 長葱と胡麻のつゆの素麺
晩飯 トマトとマッシュルームとパンチェッタのスパゲティ、パン、Chablis Billaud Simon 2018