2024年6月の日記30本
2024.6.30(日) 麺つゆの作成
美味いものを味わおうとすれば、手間ひまをかけることを避けては通れない。
たまり漬の「刻みザクザクしょうが」と同「おにおろしにんにく」を使ったステーキソースを作るときとおなじく、麺つゆを作るに際しても、その手間ひまを前にして、いささかひるむ気持ちが起きる。しかし冒頭に戻れば、それを乗り越えないと、美味いものにはありつけない。乗り越えさえすれば、それからしばらくは、のうのうと美味い味が楽しめるのだ。
1リットルの水に干し椎茸25グラムと昆布6グラムを沈めておくことは、きのうの夕刻にしておいた。以下は今朝の手順。
1.上記のだしから干し椎茸と昆布を引き上げる。ひと晩を置いて柔らかくなった椎茸は、石づきの下端を切り落としてザルに上げておく。
2.その鍋のだしを沸騰させ、保温の状態にして、血合いの入った厚削りの鰹節60グラムと宗田節20グラムを投入する。そして5分間を置く。
3.その鍋にフタをして1分間を置き、鰹節を引き上げる。昨夜の1リットルは、ここまでの行程で700ccになっている。
4.みりん100ccを投入。
5.かえし250ccを投入。
6.きび砂糖大さじ4杯を投入してよく混ぜる。
7.石づきの下端を切り落とした椎茸を鍋に戻す。
8.常温まで冷めたら専用の容器に入れて冷蔵庫に保管する。
今朝の1,050ccの麺つゆは、どれほどのあいだ保ってくれるだろう。ひと夏分の原材料は、確保済みである。
朝飯 茄子の揚げびたし、大根おろし、生玉子、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、若布と玉葱の味噌汁
昼飯 「やぶ定」の冷やしたぬき蕎麦(大盛り)
晩飯 モロッコインゲンのバターソテーを添えた鶏のトマト煮、3種のパン、Chablis Billaud Simon 2018
2024.6.29(土) いつの間に
「よく眠れた」という気持ちの良さと共に目を覚ます。時刻は5時30分だった。しばらく横になったままでいたものの、ふと気になって、東武線の下り特急を調べてみる。浅草6時30分発の空席は残りわずか。以降は9時30分発まで満席になっている。一瞬、愕然とする。気を取り直して洗面を済ませ、服を着る。そして外へ飛び出す。
浅草6時30分の下り特急リバティには、残り数分のところで間に合った。最近の東武日光線はすぐに満席になるから油断がならない。8時13分に下今市に着くと、空は晴れて、気温はきのうの東京より高かった。「やっぱりこうでなくちゃな」と、せいせいとした気分で会社に戻る。
午前に個人の支払いが発生して、事務机の引き出しから財布を取り出す。紙幣はことごとく湿っている。きのうの雨は、それほどひどいものだった。
駐車場の紅葉の根本に桔梗がたくさん咲いている。「さて、いつの間に」と、すこし驚く。ほとんど手入れをしない場所には季節の移り変わりが、より強く反映されるのかも知れない。
夜は家内と外へ出て、焼酎のソーダ割りを心ゆくまで飲む。
朝飯 道の駅「日光街道ニコニコ本陣」の「ニコニコむすび」
昼飯 にゅうめん
晩飯 「食堂ニジコ」のキュウリのからし和え、ピータン、油淋鶏、あんかけ焼きそば、麦焼酎「二階堂」(ソーダ割り)、家に帰ってからのシュークリーム、Old Parr(生)
2024.6.28(金) きわめて満足をして
「雨が大変ですね」と販売係のカワカミナオさんに声をかけられたときには、ただの挨拶と解釈をして「そうだねー」と相槌を打った。ところが銀座線の構内から地上に出ると、雨は到底、梅雨のものとは思われず、まるで台風のときのそれのように、風を伴って地面に吹きつけていた。
より小さく軽い道具が現れれば、元の道具には戻れない。mont-bellの傘がその典型で、長く愛用したものから新しく出た最軽量のものに替えると、そればかりを持つようになった。最軽量だけあって骨は細く、広げた面積は小さく、生地も薄い。ウインドブレーカーは持っているものの、それは畳まれ、他の衣類と共にスタッフバッグに納められて、更にトートバッグの中にあるから、路上で取り出して羽織るわけにもいかない。6丁目までの数百メートルを歩くあいだにTシャツの肩から袖にかけて、またズボンの膝から下も濡れてしまった。
玉川奈々福の「浪花節で三十年記念の会」の会場はギンザシックス地下3階の観世能楽堂。開場の17時30分までは、きのうとおなじく6階のフードコートでアイスクリームを食べつつ本を読む。
「團十郎と亀甲縞」などの演目を聴いて、20時15分に会はお開き。現在の浪曲界の第一人者は玉川奈々福、二番手は弟弟子の玉川太福と僕は考えるけれど、どうだろう。
今度はぬかりなく、Tシャツにウインドブレーカーを重ねてギンザシックスの裏口から外へ出る。雨はいまだに降り続いている。ひとつ裏の通りに出て西へ歩く。予約が難しい店も、一順目の客の帰るころにフラリと顔を出せば、カウンターに席を作ってくれた。そうして2、3の肴で白ワイン1本を飲み、きわめて満足をして、ふたたび雨の街へと出て行く。
朝飯 トマトのスクランブルドエッグ、コーンドビーフとズッキーニのソテー、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、ズッキーニの味噌汁
昼飯 「カルフールキッチン」の新しょうが弁当
晩飯 “Bistro Le Nougat”のオリーブ、ウフ・マヨネーズ、パン、カーン風トリップのトマト煮込み、ムスカデ
2024.6.27(木) 伊豆治療紀行(26回目の2日目)
「伊豆高原痛みの専門整体院」から1,000メートルの下り坂と100メートルの上り坂をこなすと、そこが城ヶ崎海岸の駅である。最後の上り坂に差しかかったところで11:05発の上り列車の近づく音が聞こえてくる。そこから走ったとしても間に合うはずはない。次の上りは45分後の11:50発。とはいえその待ち時間は、それほど苦でもない。城ヶ崎海岸の駅は大きなログハウスで、待合室には小さな本棚がある。その棚を物色するうち時間は意外と早く過ぎるのだ。
本は、最初こそ伊豆高原鉄道が置いたものだろう。しかしその後は駅の利用者が借りたり、あるいは不要の本を持ち寄ったりしているらしく、その内容はすこしずつ変わる。数ヶ月ほども間を置くと、ほとんどの本が入れ代わっている。司馬遼太郎の「殉死」はこの本棚で知り、帰宅してから購入して読んだ。そして今日は、むかし買おうとして買わずにいた素樹文生の「上海の西、デリーの東」の「バンコク94年3月25日」、「パンガン島のオーストラリア人」、「雨の森の奥深く」の3部からなるタイ編の34ページを45分のあいだに読み、しかしすべてのページを読みたかったから、結局はそれをトートバッグに入れた。
午後より新橋の大衆床屋で散髪をし、日本橋の丸善で時計のベルトの交換を頼む。係によれば、ベルトを取り付けるラグの変形を修正しないと新しいベルトは入らないという。よって時計は預けて、後日、受け取りに来ることとする。
空いた時間を調整するため、ギンザシックス6階のフードコートへ行く。ここでは同級生ウエキコータ君の会社のアイスクリームが食べられる。それを口へ運びつつ本を読むのが好きなのだ。ついでに地下3階の観世能楽堂へ降り、明日の玉川奈々福の公演の、終わりの時間を窓口で訊く。
家内と落ち合って夕食の後は、浅草19:19発の下り特急に乗り、21時すぎに帰宅をする。
朝飯 「亀の井ホテル伊豆高原」の朝のブッフェ其の一、其の二
晩飯 「鳥ぎん本店」のあれや、これや、それや、他あれこれ、「沢の鶴」の「本醸造生酒」(冷や)、サッポロ生ビール
2024.6.26(水) 伊豆治療紀行(26回目の1日目)
きのうの日記に書いた件につき、9時すこし前に郵便局へ行く。そして今日はじめての客として、通帳と払い戻しのための用紙と自動車運転免許証を窓口に出す。その現金を分厚いトートバッグに入れて会社に戻ると、家内は既にしてエンジンをかけたルノー・トゥインゴの運転席にいた。
これまた昨日の日記に書いた四六判の本は、北千住に着く前に読み終えてしまった。荷物が増えることを厭って予備の本は持たなかった。僕は、活字を欠くと、極端な手持ち無沙汰の状態になる。今朝の朝刊でも持って来れば良かったと思っても、もう遅い。
14時すぎに伊豆高原の駅に着く。今回の宿ははじめてのところで、場所は「伊豆高原痛みの専門整体院」に歩いて行けるところにある。よってレンタカーは借りず、タクシーを使おうとしていたところ、横腹に宿の名を書いたマイクロバスが、ちょうどロータリーに入ってきた。近づいて運転手に問えば、14時30分の発車だという。送迎バスの存在は予期していなかった。すぐに乗り込んで席に着く。
今回は、いつもの宿が高かった。他に候補を探すうち、これまでは「いかにも高そうだ」と感じていた宿が、意外や安い値を出していた。その値段は夕食と朝食を含んだものだから、他所での飲食代もかからない。そういう次第にて、決めた経緯があった。
整体院の予約は16時30分。治療台にうつぶせになった僕の両のかかとを外側に開き、次は足首、ふくらはぎ、膝の直下の順に押しながら「いいですね」と先生は言い、次は頭の方に回って先ずは首の左側、次は右側を押して「いいですよ」とふたたび断じた。
バンコクでの最終日に腰が痛み出し、帰国後に高熱を発したときには、腰は更に痛んだ。そのときのからだの不調をいまだ引きずっているのではないか、とすれば9,000ボルトを発する電子ペンによる治療は辛いものになる。それを心配していたものの、今日の電子ペンは僕に一切の苦痛を感じさせなかった。
昨年、タイから戻った直後の治療は楽だった。そして今日のそれも楽だった。タイへ行くと、伊豆の先生に教えてもらった太腿の3本の経絡を、マッサージのオバサンに強く押してもらう。それが膝には良いのだと思う。
入浴はホテルに入った直後に済ませておいた。よって夕食の後は口を濯いで即、就寝する。
朝飯 グリーンアスパラガスのソテー、目玉焼き、納豆、生のトマト、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、小松菜の味噌汁
昼飯「笹八」の爆弾おむすび、JAVA TEA
晩飯 「亀の井ホテル伊豆高原」の其の一、其の二、其の三、其の四、其の五、其の六、其の七、「中伊豆ワイナリー」の「伊豆シャルドネ」
2024.6.25(火) お金の在庫
会社の郵便貯金の残高が、ある程度のところまで積み上がってきた。よって資金移動をすべく、昼食を早めに切り上げて郵便局へ行く。払い戻しの用紙には、口座番号の記入が必要でなくなっていた。その用紙に通帳を添えて出すと「アッ」と窓口の人は声を上げ、焦燥の色を浮かべた。
現在、一度に払い戻せる現金の限度額は300万円で、それを超えるときには事前の連絡が必要なのだという。それは知らなかった。郵便局には結局のところ、明日の9時にまた来ることとなった。明日は下今市9時34分発の上り特急に乗ることになっている。なかなかの綱渡りである。
夕刻に店を閉め、すべての社員を送り出してから、明日の持ち物の準備をする。ホテルの枕が合わなかった場合に備えて圧縮できる形のそれを持つ。夏の着替えは小さな体積に収まって都合が良い。いま読んでいる本は四六判で嵩張るけれど仕方がない。明日の朝に小雨の予報が出ているものの、傘については悩むところだ。からだの片側に重みのかかる点においてトートバッグは好まない。しかし安直であること、またそれほど重さのある荷物でなければ、ここ数年はIKEAのそれを使うことが多い。
夕食は家では摂らず、僕が酒の取り寄せ係と書記を務める日本酒に特化した飲み会「本酒会」の、今月の例会場所へと向かう。
朝飯 茄子の揚げびたし、ミズの甘辛煮、牛蒡と人参のきんぴら、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、揚げ湯波とズッキーニと万能葱の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 「やぶ定」の酒肴あれこれ、盛り蕎麦、3種の日本酒(冷や
2024.6.24(月) 理想の団体旅行
道の駅「日光街道ニコニコ本陣」は、毎日が短期決戦だ。何をどれくらい買っていただけるかの数字は大体、分かる。しかし大体しか分からない。普段はそれほど売れないものが、いきなり売れたりする。たまたまその商品にお客様が集中したのか、あるいは一人のお客様がまとめ買いをされたのか。とにかく当方は売場を綺麗にし、商品を補充し続けるのみだ。そして今朝も、在庫を完璧にして会社に戻る。
午前、町内役員のシバザキトシカズさんが、町内のふたつの催しに使ったお茶の集金に来る。その際に、面白い話を聞かせてくれた。
慶應義塾大学でシバザキさんの在籍したサークルの親睦旅行が先日あった。行き先は台湾。集合場所は台北。そこまで聞いて「いいですねー」と思わず声が漏れる。現地での行動は、ほとんど自由。そしてたとえば夕食の場所のみ決めておいて、初更よりそこで歓談を成す、というようなものだったという。
おなじ学校で学んだ仲間も数十年を経るうち日本中、あるいは世界中に散らばる。だから集合場所を国内の一個所に決めないのは合理的だ。おなじサークルに遊んだ仲間でも、したいことはまちまちだろう。だから夕食の場所のみ決めて、というのも、これまた極めて合理的だ。
僕の考える理想の団体旅行が実際に存在するかどうかは、これまで不明だった。しかしそれは、やはりあったのだ。誰か僕をそんな旅行に誘ってくれないか。とここまで考えて「バンコクMGはそれに近いかも」と、思い当たる。
朝飯 炒り卵、ブロッコリーとウインナーソーセージのソテー、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、豆腐と三つ葉の味噌汁
昼飯 なめこのたまり炊、梅干、揚げ玉、煎り胡麻のお茶漬け
晩飯 「大昌園」のあれや、これや、それや、他あれこれ、「田苑酒造」の麦焼酎「田苑シルバー」(オンザロックス)
2024.6.23(日) 一概には言えない
タイから戻って1週間以上が経った。小遣い帳の検算は帰ってすぐに行うつもりだったものの、何やかやで遅れてしまった。本日はようやく、それをすることができた。結論からすれば、当然のことながら、気分はすっきりした。
昨年来の、手持ちのタイバーツは6,057バーツ。それに追加をするようにして、14年前に1ドルあたり91円で買った米ドルの残り1,034ドルを、今回はスワンナプーム空港で両替した。その合計は43,810バーツ。一方、11日間に使ったお金の合計は31,563バーツ。計算上の残高は12,247バーツのところ、実際の現金残高は12,339バーツで、不明の剰余金が92バーツ発生していた。足りないならともかく多いとは、首をひねるばかりである。
ちなみに使った31,563バーツのうち食費は8,837バーツ。いちど会食があって、それについては僕が全額を支払った。チップとして使った総額は2,445バーツで、全体の7.7パーセント。僕としては、いつもより少なかったかも知れない。
旅のあいだに小遣い帳を付ける人が、どれほどいるかは分からない。しかし帰ってから見返すと、これが結構、楽しめるのだ。
タイの物価は経済の発展と共に高騰し、同時に為替は円安で、どうにもならないという人がいる。僕からすれば、タイの物価、特に食べものはまだまだ安い。というか、以前が安すぎたのだ。為替については、たとえば2011年の円とバーツの交換比率は、今からすれば夢のように円が有利だった一方、日経平均は9,000円台を行ったり来たりしていたのだから、何が良いとは一概には言えない。
さて次の訪タイでも、お金は大して使わないだろう。手持ちのバーツに加えて1万円札の数枚もあれば、充分と思う。
朝飯 牛肉のトマト煮、納豆、牛蒡と人参のきんぴら、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、キャベツの味噌汁
昼飯 納豆と胡麻のつゆの素麺
晩飯 カレーライス、ゆで玉子、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、Old Parr(お湯割り)
2024.6.22(土) もうそんな季節
週末は雨の予報だったものの、夜から朝になろうとするあいだの空は僕を喜ばせるものだった。朝の空の最も美しくなる時間はほんの一瞬で、食堂で日記を書きながら、その頃合いを計る。いつまでもコンピュータにかじりついて時宜を逸する、ということが僕にはたびたびある。ふと窓に目を遣ると、空は前述の「ほんの一瞬」から1、2分ほど遅れてしまったように思われた。それでも屋上に上がる。
夏至のころの朝日は、東よりも随分と北に寄ったところから上がる。上半身は半袖のシャツ1枚。風は涼しさを通り越して少し寒い。空は、山の端から朝日が昇り始めると、その色は白く薄くなって、もう面白くない。今朝の空は、いまだ夜の藍色を残していて、良かった。
メールの取り込みは未明にいちど行っている。しかし虫の知らせにより、朝食の前にもう一度、回してみる。果たして「汁飯香の店 隠居うわさわ」に、数時間後の予約が入っている。そのお客様に予約は承った旨のお知らせをお送りし、同時に、既にして厨房で準備中の家内には、そのことを電話で知らせる。このお客様までにて隠居は満席。明日も満席である。
その隠居に8時30分のご予約をお入れくださった常連様にご挨拶をするため、9時を過ぎるころ店を離れる。お客様には昭和33年、吉田茂と石橋湛山が報徳二宮神社を参拝したときの写真をいただいて一驚を喫する。
隠居の帳場と奥の杉の間とのあいだには、昨年、清水の舞台から飛び降りる覚悟で手に入れた、麻のノレンが提げられていた。もう、そんな季節なのである。
朝飯 トマトサラダ、鮭の焼きほぐし、大根おろしを薬味にした納豆、牛蒡と人参のきんぴら、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、若布とキャベツの味噌汁
昼飯 納豆と胡麻のつゆの素麺
晩飯 チーズ、SMIRNOFF VODKA(生)、スパゲティボロネーズ、Chablis Billaud Simon 2018、ココナツのパウンドケーキ
2024.6.21(金) 夏はこれから
「1年でもっとも好きな日は」と問われれば、ためらうことなく「夏至」と答えるだろう。しかし今日は、今日がその日であることを、人に教えられるまで気がつかなかった。朝から昼にかけてはときおり霧のように細かい雨が降った。その天気のせいもあったと思う。
何日も前から、夏至の翌日からの気分の落ち込みを憂う投稿がSNSにあった。今日のSNSにもまた、同じような投稿が散見される。それらを目にするたび「夏はこれからじゃねぇか」と、背中をどやしつけたい気持ちになる。
今年は梅雨の入りが例年より遅いという。「だったらその明けは、例年より早かったらいいな」と思う。
年がら年中、晴れれば嬉しい。しかしそういうわけにはいかないから、雨は夜に降るか、降っても南の国の驟雨のように、ごく短く降って、すぐに上がって欲しい。今月5日の雨は典型的なそれで、田舎の食堂で料理を注文するころに風が吹き始め、やがて街道を濡らし、数十分後に止んで夕刻の明るさが戻った。今月12日の雨は、西瓜ジュースを飲む午後のひとときに僕の背後で降り、それを飲み終えるころには上がっていた。
夕刻、東南東の空に、旧暦5月16日の月が出る。
朝飯 豚薄切り肉と島豆腐のキムチ炒め丼、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、豆腐と三つ葉の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 トマトとキウイのサラダ、バンブー、2種の茸とグリーンアスパラガスのソテーと「たまり漬」によるソースを添えたビーフステーキ、CLOS DU MARQUIS 1986
2024.6.20(木) ルアットムー
「タイに来てすべきことは、すなわち何もしないこと」と、折に触れ言ったり書いたりしてきた。しかしまぁ、本当に何もしないわけではない。空気を吸わなくては死んでしまうし、飲み食いをしなければ身動きが取れなくなる。
「10分でできる頑張らなくても美味しい朝食」という和食の動画を「梅太郎」のアカウントでTikTokに上げている。海外へ行けばそれはできないから、代わりに現地の朝食を動画で撮って、時々SEへ送っていた。それらは僕がタイにいるうちから編集を終えるなり順次、TikTokに上げられ、数日前にすべてが揃った。
当方は動画で生活をしようとしているYouTuberではないから、機材はiPhone一丁で、ジンバルさえ持たない。7日の朝のお粥のオープニングは店へ行くモタサイの後席からのもので、その道中は揺れに揺れ、ブレにブレて、却って爽快な有様である。
いま、それらを見返してみると、やはり番外の、スズキの柑橘蒸しに「日光味噌ひしお」を添えた動画が最高の出来になっている。これは僕が解説と実演、撮影はコモトリケー君に頼んだもので、チャオプラヤ河畔の環境もゆったりと落ち着いていたから、出来映えが良いのも当たり前かも知れない。
さて次の朝食動画はどうしようかと考えれば、メーコック川を見おろす場所でのお粥が真っ先に頭に浮かぶ。お粥には豚の血豆腐を入れてもらいたい。しかしそのルアットムーの発音はいかにも難しい。「通じなかったらどうしよう」と、今から気を揉んでいる。
朝飯 グリーンアスパラガスとパプリカとウインナーソーセージのソテー、牛蒡と人参のきんぴら、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、コールスロー、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と万能葱の味噌汁
昼飯 納豆のつゆの素麺
晩飯 豚薄切り肉と島豆腐と韮のキムチ炒め、チャーハン、SMIRNOFF VODKA(ソーダ割り)
2024.6.19(水) パリパリと音がしそうなほど
それが壊れた今月1日から数えて18日後の本日、iPhoneはようやく「ほとんど」ではあるけれど、元に戻った。復旧できなかったひとつはLINE。保存していなかったパスワードを再発行させるべく、知る限りのメールアドレスを入力したものの、ことごとく撥ねられた。よってアカウントは仕方なく作り直した。
タイ全土の鉄道を網羅した路線図を便利に使っていた。しかし”Safari”で探した限りでは見あたらなかった。乗り換え案内などの機能を持たないただの図で、それはそれで使い勝手が良かった。更に探し続け、見つからなければ代替品に切り替えよう。
天気予報のアプリケーションは相変わらず”whathernews”で、これによれば、この7日間では今日がもっとも天気が良いらしい。当然のことながら、頭上には青空が広がり、空気はパリパリと音がしそうなほど乾いている。そして来週からは、いよいよ梅雨が始まるのだ。
らっきょうはいまだ、収穫を終えていない。降りすぎても降らなくても、胡瓜、茄子をはじめとする夏野菜はおろか、米まで心配なことになる。梅雨にはどうか、平和のうちちに通り過ぎていただきたいと願っている。
朝飯 生のトマト、目玉焼き、牛蒡と人参のきんぴら、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「こつぶちゃん」、メシ、豆腐と万能葱の味噌汁
昼飯 納豆のつゆで食べる素麺
晩飯 「古市庵」の稲荷寿司と押し鮨と海苔巻き、「朝日酒造」の本醸造酒「久保田百壽」(冷や)
2024.6.18(火) 空と喧噪
きのうの日記に書いた、旅の最中あるいは直後に気づいたことを積み上げたデータベースについて。今回は15行が新たに加わった。そのうちの一つは首都のホテルについて。
今回の前半はスラウォン通りのサラデーンちかく。もうひとつの宿はスクムヴィットsoi2の最深部で、最寄り駅はプルンチット。前者は交通至便。後者も、スクムヴィットの大通りへ出るまでの徒歩部分を除けば交通は便利だった。
東京は江戸以来の川や運河の上に高速道路を作った。バンコクはスクムヴィットやシーロムなど、大きな通りの上に高架鉄道”BTS”を作った。頭上を鉄道の走る通りを歩く限り、広い空にはありつけない。だからそのような場所にあるホテルはこれまで避けていた。しかし今回、プルンチットという駅を何度か使ううち、スクムヴィット線の沿線に宿を取る便利さに気づいた。
スクムヴィット線のもっとも賑やかな範囲は、西はサイアムから東はトンローまで。その双方から左右の人差し指をひと駅ごとに狭めていけば、中心はナナとアソーク。ナナは歓楽街で、一日中、喧噪が絶えない。アソークは繁華街かつ交通の要衝で、喧噪については変わらない。もっとも五月蠅い、空が無いとはいえ、高架鉄道の線路より高い位置の部屋に泊まってしまえばどうということもない。次回の首都の宿は割り切ってナナかアソークに決めようか、とさえ思う。
さてその時期はいつになるか。希望は秋。それなら先ずは最北部のチェンライにしばらく滞在したい。何をするかといえば、もちろん何もしない。活字とラオカーオの在庫は充分である。
朝飯 スペイン風目玉焼き、茄子の揚げびたし、揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、牛蒡と人参のきんぴら、ごぼうのたまり漬、らっきょうのたまり漬、蕪と胡瓜のぬか漬け、メシ、大根と万能葱の味噌汁
昼飯 胡麻のつゆの素麺
晩飯 グリーンアスパラガスとパプリカとエリンギのソテーを添えた豚の生姜焼き、トマトサラダ、メシ、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」
2024.6.17(月) 並べ替えの変更
旅から帰るたび、というかその最中より、その旅で知ったこと、成功だったこと、失敗だったことをコンピュータに入力してきた。ひとつのデータは3列を持つ1行にまとめる。もっとも左の列には今回であれば”2024.06″と日付けを、次の列にはそれが何に関するものか、すなわち交通、宿泊、食、道具、服装、薬品、デジタル等の区分けを、最後のもっとも広い部分には具体的なことを記す。
旅に出る前にはそれを紙に印刷し、熟読し、更にスーツケースに納める。データを一覧、印刷するときには、これまでは2列目の区分けで並べていた。しかし今回は、日付けの新しい順に並べた方が使い勝手は良い、ということに遅ればせながら気づいた。
データのもっとも古い日付けは”2013.07″だから11年前のものになる。そのあたりについては解決済みとか、あるいは既にして頭に刻み込まれていることが多い。逆に日付けの新しいものほど未解決、あるいは身に染みていないことが増えてくる。
この並べ替えの変更は画期的なことと、我ながら感心をした。しかしまぁ、こんなことを書いても「なるほど」と思う人はごく一握りに留まるだろう。
朝飯 菓子パン、牛乳
昼飯 大根おろしのつゆの素麺
晩飯 3種のおむすび
2024.6.16(日) そちらの方面に優れた人
1996年にパソコン通信による会議室の運営を始めた。同年、パソコン通信によるテキストのみのショップを開設した。1998年にウェブーページを試作し、翌1999年にそれをウェブショップに進化させた。2000年9月よりウェブログ、否、そのころはいまだそのような便利なものはなく、ハイパーテキストで書くことにより日記を始めた。2001年、当時は困難と言われていた、サイパンから日本への、電話回線を通じてのパソコン通信に成功した。そんなところから僕は、IT能力に長じていると思われがちだ。しかしそれは見当違いもはなはだしい。そちらの方面に優れた人が身近にいた、というだけのことである。
「壊したっていいんですよ、直せばいいんだから」と初代SEのカトーノマコトさんは言った。しかし取り返しのつかない「うっかり」もある。よって僕は、コンピュータやスマートフォンを新機に替えるときには常に、その一切をSEに任せてきた。
今月1日にディスプレイが反応しなくなったiPhoneは、同日のうちにアップルストアに持ち込んだ。係にはディスプレイの交換で済むと言われて実機を預けた。翌日ふたたび銀座を訪ねると、故障はディスプレイではなく内部の不調によるもので、当初に知らせた修理代より高くなるから直さずそのまま返すと言われた。僕は強く抗議をした。数時間後にはタイへ飛ぶ深夜便に乗るのだ。その結果、実機は交換となって、同型同世代の、まっさらなiPhoneを手渡された。
前述のように、僕はIT能力に優れない。旅の最中、iPhoneには必要最小限のアプリケーションをダウンロードしたのみで、それで写真を撮ったり、長い路地のどん詰まりに建つホテルについてはタクシーの運転手に場所の説明をしたりしていた。
SEのシバタサトシさんとは9時に約束をしていた。これまでは旧機と新機があったから、環境の移し替えは問題なく行えた。しかし今回は新機のみで、しかも僕は旧機のバックアップをコンピュータに残していない。それでもシバタさんは、できるだけの復旧をしてくれた。
オフラインでも使える海外の鉄道路線図および地図は、これから自分で徐々に、元に戻していくことになるだろう。不要なアプリーケーションは、できるだけはやく削除しよう。スマートフォンは、というか道具はすべからく、簡素なものが好きなのだ。
朝飯 菓子パン、牛乳
昼飯 胡麻のつゆの素麺
晩飯 茹でたブロッコリーと生のトマトを添えたカレーライス、らっきょうのたまり漬
2024.6.15(土) なぜか高熱
年に何度かあることだが、今月の1日は腰の調子が悪かった。鈍痛は温めると軽くなるところから、腰のすこし右寄りにカイロを貼った。カイロは翌2日も朝から貼り、タイへ向けて家を出る夕刻には、新しいものに貼り替えた。3日の「タイ日記(1日目)」には、羽田発の深夜便の中で、これまでになくよく眠れたと書いた。快眠は腰を温めたことによるものではないかと、半ば信じている。
腰の違和感は、タイに着くと同時に消え失せた。ぶり返したのは帰国前日の12日のこと。13日には、鈍痛は腰全体に広がった。
それでも帰国したきのうの夕刻までは、事務机に満載になっていた郵便物を仕分けし、道の駅「日光街道ニコニコ本陣」に商品を補充し、店には閉店時間まで立ち続けて翌々日の釣銭の準備までした。問題は今日、である。
朝6時に体温を測ると38.1℃。即、過去に処方された解熱剤を服用する。7時40分から社員を社内に迎え入れ、9時の体温は36.9℃。後のことは社員に托して耳鼻科のセキネクリニックへ行く。受けつけで測った体温は37.2℃。大変な混み用にて、呼び出しベルを手渡される。
走らないクルマのクルマのエンジンをかけっぱなしにしておくことが嫌いだ。だからクーラーを効かせた車内ではなく、外の木陰に立ってベルの鳴るのを待つ。呼び出されたのは1時間ほどが経つころだった。診察の結果、溶連菌などの感染症は無し。ということで処方箋を受け取り、帰る途中のハセガワ薬局にて薬を受け取る。
長男は今日明日と、東京に出張。家内は「汁飯香の店 隠居うわさわ」の営業日にて、店のことは社員に任せ、今日は休むことにする。
14時30分の体温は39.1℃。すかさず解熱剤を飲む。夕刻にかなり汗をかいたため、ここから快方へ向かうと期待したものの、18時の体温は38.3℃にて、またまた解熱剤を飲む。
朝飯 鮭の焼きほぐし、牛蒡と人参のきんぴら、ジャコと山椒の実の炒り煮、大根おろしを薬味にした納豆、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と若布の味噌汁
昼飯 胡麻のつゆの素麺
2024.6.14(金) 日本は真夏
03:05 目を覚ます。機は沖縄と九州の間を飛んでいる。
03:17 朝食が配られる。パン、コーヒー、果物、ヨーグルト以外はほとんど残す。
03:39 “Time to destination 01:00hrs”の表示がディスプレーに出る。
03:45 歯を磨く。
04:36 “Airvbus A350-900″を機材とする”TG661″は、定刻より19分はやく羽田空港に着陸。以降の時間表記は2時間をすすめて日本時間とする。
07:02 入国審査場を通過
07:32 回転台から荷物が出てくる。
07:33 税関申告所を通過。
07:39 京急高砂行き急行が発車。
とにかく腰が痛い。普段であれば、プラットフォームから改札階、改札階から地上へのエスカレータやエレベータについて気にすることはしない。しかし今日ばかりは例外である。プラットフォームにエレベータを備える人形町で日比谷線に乗り換え、北千住には8時42分に着く。
iPhoneは6月2日アップルストアで新機に交換してから元の状態には戻していない。よって東武線の特急券をスマートフォンで買うことができなかった。今日は金曜日。下りの特急は混んでいるのではないか。
東武線の特急乗り場へ行くと案の定「本日は大変に混み合ってます」の大きな立て看板が出ている。しかし幸い、09:43発の下り特急リバティにはすこしばかりの空席があった。即、これを確保してひとつ上の階の喫茶店に入り、きのうの日記の続きを書く。
今日の東京の最高気温は33℃だからバンコクと変わらない。沿線の景色は緑一色の夏そのもの。「いい季節になったなぁ」と、とても嬉しい。下今市駅までは家内に迎えに来てもらう。スーツケースは家内にトランクルームに積んでもらった。自宅での荷物整理の後は通常の業務に復帰する。
夜の酒は美味く飲めたが一方、高熱を発しそうな気配も感じる。入浴をして20時台に就寝する。
朝飯 “TG661″の機内食
昼飯 しその葉のつゆの素麺
晩飯 グリーンアスパラガスのマヨネーズ和え、牛蒡の甘辛煮、鮪の「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」漬け、大根おろしを添えた厚揚げ豆腐の網焼き、麦焼酎「こいむぎやわらか」(ソーダ割り)
2024.6.13(木) タイ日記(11日目)
短い夢を途切れ途切れに見ながら、途切れ途切れに眠る。夜はベランダの戸を開け、扇風機はもっとも弱く回しておく。朝方は、扇風機を止めようかと思うほどの涼しさだった。
今日は帰国日にて、6時より荷作りを始める。先週の金曜日に買った3本のラオカーオは徐々に量を減らし、今朝は数本のペットボトルに小分けをした。帰国後は次に備えて冷蔵庫で保存をするのだ。8時を過ぎるころ、急に気温が上がってくる。シャワーを浴び、部屋の扉を半開きにして風を通す。
8時45分、下はパタゴニアのバギーパンツ、上には半袖のポロシャツを身につけロビーヘ降りる。何度も階段を上り下りしたくないから、手提げ袋には財布とiPhoneの他に、本と紫外線を防ぐためのメガネも入れている。朝食はトーストとコーヒーと果物のみ。それでも身動きが取れないほど満腹になる。
食後はプールサイドで本を読む。手が疲れてきたら、本をiPhoneに持ち替えて、朝食の前に公開したばかりのきのうの日記を読む。誤字、脱字、言い回しの気になるところ等々、計18ヶ所を見つけるものの、コンピュータは部屋に置いたままだ。よって修正の必要なところは仰向けのまま手帳に記す。
今回、持参したドナルド・キーン編「昨日の戦地から」は、いまだ20代だったドナルド・キーンやオーティス・ケーリたち日本語将校が第二次世界大戦直後のアジアに来て、観たこと、聞いたこと、また、したことを手紙で知らせあった書簡集だ。これがべらぼうに面白い。今日までかけて293ページまで進んだ。惜しいことに27通目の「青島のドナルド・キーンから東京のテッド・ドバリーへ」では「注1」の注釈が抜けていた。
昼を過ぎたところでプールサイドから引き上げる。フロントにはおとといまでのオバサンがいる。きのう預けた洗濯物が仕上がっているかどうかを、そのオバサンに確かめる。チェックアウトの時間を訊ねられて16時と答えつつ「仕上がっていれば嬉しい」と言葉を添える。オバサンは果たしてきのうとおなじ”LOCKERS”の看板の下の部屋から、洗い上がったシャツやその他を出してくれた。これで荷作りを完了させることができる。多いにありがたい。
部屋に戻ってきのうの日記を修正する。荷作りを終えれば何をすることもないから、風の通る部屋でベッドに仰向けになる。iPhoneでTikTokを開けば「タイに来たらすべき18のこと」という動画が飛び込んでくる。高級ホテル、名所、有名料理店を巡るそれを見ながら「タイに来てすべきことは、すなわち何もしないことでしょう」と、腹の中で呟く。
部屋のドアを開け放ち、スーツケースはそこへ置いたまま、ザックのみ背負ってロビーに降りる。ちなみにこのホテルではロビーを”FOYER”と記している。古風な英語なのだろうか。ベルのコーナーにいたのは先日のオジサンではなく、オニーチャンだった。大きく赤いプラスティック板に”D-7″と白く彫られた部屋のキーホルダーを見せつつ、スーツケースを降ろすよう言う。きのう「そこを押されりゃ、誰だって多少の違和感はあるだろう」と感じた腰の違和感が、今朝からは腰全体に広がっている。枕を持参すべきなのかも知れないけれど、まさかそのような大きなものを持ち歩く気にはならない。オニーチャンには50バーツのチップ。おとといまでのレセプションのオバサンが笑顔で見送ってくれる。このホテルは、ある程度の時間であれば、レイトチェックアウトに追加の料金は取らない。
soi2に出てしばらく往くと、前からタクシーが来てすれ違う。小路の奥で客を降ろせば戻ってくるだろう。そう踏んで歩き続ける。その僕に、いつもタクシーを停め一発を狙っているオジサンが声をかける。無視をしても声をかけ続ける。小路の奥でUターンしたタクシーに、停まるよう合図を送る。それでもオジサンは声をかけ続ける。
タクシーの、助手席側の窓が開く。「トンローの駅まで」と伝える。僕の言葉を聞き取れない運転手が何やら言う。「トンローまでだよ」と、いまだ諦めない一発狙いのオジサンが運転手に教える。「250バーツ」と運転手は言う。「ミーター」と発すると、運転手は断ってきた。「250だってさ」と、僕はオジサンを振り向く。オジサンは「そのくらいは妥当な範囲だわな」という顔つきをする。「200バーツ」と値切ってみる。運転手は頷いて、助手席のドアを開ける仕草をする。一発狙いのオジサンは、人は良さそうだ。僕がスーツケースを助手席に載せることを手伝ってくれた。時刻は15時45分だった。
soi2からスクムヴィット通りに出れば、トンローは右の方向だ。しかし右折はできない。左折をしてすぐの、モーターウェイに沿った寂しい道をタクシーは南下する。「ラマシー」と運転手が呟く。なるほどラマ四世通りまで出て東に進む大回りしか経路は無い、ということなのだ。普段は、メーターで行く運転手のタクシーにしか乗らない。しかし重いスーツケースと腰の痛みを考えれば、今回は致し方が無かった。
「シェシバタ」とか”OKONOMI”などという日本系の飲食店のある裏道はスクムヴィットsoi38だった。そのまま北上をすれば、そこはトンローの駅である。途中、渋滞に阻まれたにもかかわらず、時刻は16時10分。案外はやい行程だった。
とにかく取りあえずは休みたい。スクムヴィット通りの北側に渡り、いくつも並ぶマッサージ屋のうちの一軒に入る。そして2時間のオイルマッサージを頼む。料金は950バーツ。オネーサンには200バーツのチップ。
帰国日の夕刻に、なぜ取りあえずトンローまで来るかといえば、理由はふたつある。ひとつは、できるだけ東、つまり空港に寄ったところからタクシーをつかまえると渋滞に阻まれづらいこと。もうひとつは「55ポーチャナー」の外の席でバンコク最後の食事をするためだ。
マッサージ屋を出てsoi55つまりトンローの通りを渡る。そのまま歩き続けて55ポーチャナーの、店の外に並べられたテーブルのうち最も東の席に着く。すこし離れた食器洗い場から「いや、まだ」という顔を従業員のひとりがする。僕は腕時計を指し「分かってる」と、こちらも頷いてみせる。タイ人の女の子のふたり連れは店員に何ごとか訊き、やはり外の席に着く。そして18時30分の開店を待つ。
そうするうち、東洋人の中年のカップルが向かい側から歩道を歩いてくる。オートバイがその女の人の真後ろに差しかかったあたりで警笛を鳴らす。女の人は驚き、大きな声で悲鳴を上げた。それに対して男の方は更に大きな声で怒鳴り返した。内容は想像がつく。「やだなぁ」と、思わず小さな声を漏らす。彼らの言葉がどこのものかは分からない。そしてタイ人の男は僕が知る限り、女の人を怒鳴りつけるようなことはしない。
外のテーブルで待っていた人たちは、開店と同時に店内に移動をした。歩道を往ったり来たりしながら待っていた人たちもまた、店の中に吸い込まれていく。彼らに先を越されては僕の料理が遅くなる。赤く染めた髪を妙な具合に結んだいつものオネーサンは、今日はいなかった。見慣れない若い女の子を呼び、先ずは春雨と烏賊のサラダを注文する。この料理をタイ語ではヤムプラムックという。その「プラムック」の発音が、これまた難しいのだ。プラの「ラ」は巻き舌にせずごく短く発声するから、ともすれば「パ」に聞こえる。「ム」は上の前歯で下唇を噛むことが肝要だ。それを昨年、タイ人に教わった。そのお陰か、今日はすぐに通じた。
店の中は開店と同時に八分の入り。外のテーブルにいるのは僕ひとり。暑いところが好きだから南の国に来ているのだ。タイでの食事はできるだけ外でしたい。暑いとはいえ別段、死ぬほど暑いわけでもない。20時に差しかかろうとするころ、あたりは急に涼しくなった。食事の代金は420バーツ。チップは置かなかった。
トンローのパクソイから北へ向かって西側の歩道を往く。soi1のちかくなるあたりで車道に立つ。スクムヴィット通りから左折してきたタクシーが、僕が合図をする前から停まる。運転手が助手席のドアを開ける。僕はそのドアを充分に開いてスーツケースを助手席に載せ「スワンナプーム空港まで」と伝える。後席に乗り込むなり「ミーター、ナ」と運転手はルームミラー越しに僕を見た。こういう模範的な運転手もいるのだ。時刻は20時ちょうどだった。
トンローを北上し、センセーブ運河を渡る左側に”SAPHAN”と外壁に大書したカフェができている。建物は古い工場風ではあるものの、新しく作ったようにも見える。突き当たりを右折。そのペップリー通りのどこかで左折。次に右折。高速道路のようなところをタクシーは疾走するものの、有料の道ではない。
うつらうつらするうちふと気がつくと、タクシーは空港の出国階に近づきつつあった。3番のところで停めるよう言う。メーターは255バーツ。100バーツ札を3枚出して釣りは要らないと言葉を添える。運転手は外へ出て左へまわり、助手席からスーツケースを降ろしてくれた。時刻は20時38分だった。
20:51 タイ航空のオネーサンにより自動チェックインを完了。スーツケースの重さは16.5キログラム。いつもの倍である。
21:05 保安検査場を通過。
21:08 出国審査場を通過。
21:20 空港の本来の建物と、出島のような建物を繋いでいるシャトルトレインが発車。このシャトルトレインの速度はかなり高い。出島までの所要時間は2分。突き当たりを左へと歩いて行く。
21:38 どん詰まりにちかいS104ゲートに辿り着く。
22:15 搭乗開始
搭乗券に示された55Cの席にザックを置き、歯ブラシを取り出し手洗い所へ行く。そこから出て席へ戻る途中、2020年3月のバンコクMGで一緒だったウチダリョウーイチさんに声をかけられて一驚を喫する。
23:11 “Airbus A350-900″を機材とするTG661は、定刻に26分遅れて離陸をする。
23:16 ポーンという合図の音と共に、椅子の背もたれを最大に倒す。上半身に寒さを感じて鼻と口にマスクをし、アイマスクもし、ウインドブレーカーのフードをかぶる。「まさか風邪じゃねぇだろうな」と、微かな不安を覚える。
朝飯 “THE ATLANTA HOTEL”の食堂”AH!”のトースト、コーヒー、フルーツの盛り合わせ(小)
晩飯 “55 Pochana”のヤムウンセンプラムック、オースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.12(水) タイ日記(10日目)
きのうの夜に記したメモにより、今日は行動をすることとする。
先ずはトンローのsoi8とsoi9のあいだのガオラオ屋で朝食の動画を撮る。次はトンローのsoi2ちかくにあって、2016年に中国の高台を買った店で、気に入ったものがあれば手に入れる。続いて2時間のオイルマッサージで太腿の筋をほぐしてもらう。大体、そんなところだ。
マッサージ屋の開店が10時とすれば、ホテルは9時30分に出れば良い。いまだ1時間以上も間があれば、プールサイドで本を読もう。もうひとつ、往復で156段の階段を上り下りするなら、用事は一度にまとめた方が良い。おとといフロントに預けて240バーツを支払った洗濯物の回収、およびきのう着た服の洗濯も、朝のうちに頼んでしまおう。
フロントの、きのうまでとは異なったオバサンは、複写式の伝票を受け取ると”LOCKERS”という案内板の下の部屋に消え、出したときとおなじ、おとといまで泊まっていたホテルのランドリーバッグを僕に手渡した。そこまでは良い。オバサンは伝票を手に「代金はまだ払っていませんね」と言う。「この日に払ったけど」と伝票の日付けを指す。オバサンは「それは預かった日の日付です」と聞く耳を持たない。「メガネをかけたオバサンに払ったけど」と言い返すと「それでは調べておきます」と、仏頂面である。伝票は返すよう手を伸ばすと「これを担当に見せて確かめます」と言う。複写式の伝票なら原本がフロントにあるはずだ。しかしオバサンは厳しい表情を崩さない。
そのままプールサイドで本を読む。泳ぐことはせず、小一時間ほどして部屋に戻る。
トンローへ向かうためふたたび階段を降りる。すると先ほどのオバサンは、今度は表情を180度かえて「代金はいただいていたそうです」と笑みを浮かべた。日本なら平身低頭の詫びが必要な場面だ。しかしここは「マイペンライ」の国である。このホテルで手書きの伝票を介して金銭のやり取りをする場合には、そこに必ず”PAID”と書いてもらう必要がある。
ホテルからsoi2の路地に出て北を目指す。声をかけてくるタクシーの運転手はいるものの、駐車して客待ちをしているとうことは、いわゆる一発狙いに決まっている。そのまま歩き続け、スクムヴィットの大通りが見えてきたところで左手のプルンチットセンターに入る。冷房の効いた館内を横切りつつ涼む算段である。空は晴れている。気温はそれほど高くなく、湿度は低い。バンコク最良の天気である。きのうモタサイでこなした1キロメートルを、今日は歩き通した。
プルンチットのプラットフォームから、あたりを眺める。直下に、奥にスイミングプールを備えた「ヴィラ」と呼ぶべき邸宅を見つける。一体全体、どのような人が住んでいるのだろう。ただし今となっては、高層のコンドミニアムの方が過ごしやすい気はする。
東へ4駅のトンローには10時6分に着いた。soi1のちかくに赤バスが駐まっている。乗り込んで、運転手に20バーツ札を差し出す。お釣りは12バーツ。つまり「ひと乗り8バーツ」は、コロナの前から変わっていない。 10時18分に発車したバスから外の景色を注意深く見る。骨董屋はいまだ開いていなかった。外を観察していたつもりが、soi9を過ぎてから天井の停止ボタンを押す。バスはグランドセンターポイントの前で停まった。
セブンイレブンと、向かって右は薬屋らしい建物のあいだに店を出したガオラオ屋は健在だった。数段の階段を上がったところで調理をしているオヤジの背中に「ガオラオは大盛り。ごはんは不要」と伝える。テーブル脇の壁、つまりセブンイレブンの外壁には、ガオラオは45バーツ、その大盛りは50バーツ、ごはんは5バーツ、その大盛りは10バーツの貼り紙があった。味は、コロナの入りばなだった2020年3月と変わっていない。旅をする者に与えられる、小さな幸福である。
トンローのパクソイに戻りながら、今度は通りの左側を往く。骨董屋は幸いシャッターを上げていた。この店の経営者は注意深く、引き戸には常に鍵をかけている。それを解いてもらって中に入る。引き戸のガラスにはマスクをするようシールが貼ってあったが、それはコロナ全盛のころのものを剥がしていないだけ、と解釈をした。第一、僕はマスクを持っていない。すると店の奥から女の人が現れて、なかなか高級そうな使い捨てのマスクをくれた。
マスクをして店の中を見ていく。呼吸により眼鏡が曇って不快である。それほど遠くないところで寝椅子のオバーサンが、マスクをしないまま気味の悪い咳をしている。かなり時間をかけて品物を見たものの、今回は欲しいものがなかった。中国の古い磁器よりも、どうやら名もない陶片の方に、より惹かれてしまう自分がいるらしい。
2020年3月、僕はウドンタニーにいた。オイルマッサージの値段が1時間350バーツと伝えると「それはバンコクの水準にくらべても高い」と、コモトリ君は言った。現在、トンローのオイルマッサージの値段は2時間で950バーツから、上は1,000バーツを軽く超える。BTSでひと駅を移動して、先週の金曜日にかかったマッサージ屋へ行く。そしてオイルマッサージを2時間、足の角質削りを30分、頼む。代金は1,150バーツ、オバサンには250バーツのチップ。
ホテルへ戻り、そのまま食堂の”AH!”に入る。そして西瓜のジュースをグラスではなくジャグで頼む。ジュースは1リットルまではいかないまでも、かなりの量があった。食堂のオネーサンは僕のために、扇風機の回転速度を最大に上げてくれた。本を読むうち、気づくと外には驟雨が降っている。危ないところだった。
“AH!”のメニュには朝食のためのあれこれの他、洋食はサンドイッチとフライドチキンとショートパスタ、タイ料理は多種の焼飯、多種のカレー、サラダは2種類ほどがあった。ビールはシンハ、チャン、リオの3種類を揃えているものの、オネーサンによれば、ワインは置いていないとのことだった。ジャグの西瓜ジュースは120バーツ。オネーサンには20バーツのチップ。
17時52分にふたたび外へ出る。スクムヴィットの大通りを歩道橋で渡りながら、この時間には西から東へ向かう三車線のうち二車線を、逆に東から西へ向かうクルマのために割いていることを知る。
おとといとおなじ店で今日はチムジュムを注文する。2019年のチェンライのチムジュムは、いまだ100バーツだっただろうか。そのころバンコクの屋台のチムジュムは200バーツだった。そして今日のチムジュムは、ひとりでは食べきれないほどの具の多さではあるものの、価格は450バーツになっていた。ソーダとバケツの氷を含めた代金は546バーツ。釣銭のうち4バーツはそのまま残す。
朝飯 トンローのsoi9のすこし南にあるガオラオ屋のガオラオ(大盛り)
晩飯 “Ja Aree Seafood”のチムジュム、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.11(火) タイ日記(9日目)
夜中に一度、汗だくになり、パジャマを脱いで裸になった記憶がある。きのうの就寝時に低速に設定した扇風機の風を、心地よく受ける。暑さは感じない。感じるのは暖かさのみだ。時刻は3時36分。「なんだ、冷房のあるホテルより長く寝られたじゃねぇか」と、自慢できることでもないのに、ひとり得意になる。
部屋に冷蔵庫はないから、卓上に置いた1.5リットルのペットボトルから生ぬるい水を飲む。きのうの日記は予想外に長くなり、書く時間もそれだけ長くかかった。暑さを感じてベランダのへの戸を開くと、外の方が気温は低い。よってその戸は開いたまま、廊下へ出るための扉もゴミ箱と革靴で挟んで開いたままにする。すると部屋には風が通り、存外に居心地が良くなった。
そのようなことをするうち、きのうの午後、膝をぶつけて怪我をしたベッドの鉄製の角に、またまた膝をぶつけてしまう。「うっ、またっ」と小さく叫びつつ膝に目を遣る。きのう傷を覆ったバンドエイドの、ちょうど傷の部分が破けて血も見えている。よってその穴の開いたバンドエイドを剥がし、アルコールは持参していなかったからイソジンで消毒し、新しいバンドエイドを貼る。そしてベッドの枠のその部分は「二度あることは三度ある」が起きないよう、スーツケースから取り出したエアキャップをあてがい、布テープで固定した。
腹が減っても食堂は8時30分からしか開かない。5階の部屋から78段の階段を降り、食堂には8時40分に入った。
きのうフロントにいたオバサンが、今朝はお運びをしている。そのオバサンにメニュを持って来てもらう。価格は意外や高く感じたものの、ひととおりのものを注文する。
フォークはオムレツ用とフルーツ用の2種類が置かれた。コーヒーは少ないと悲しいからポットで頼んだ。オムレツは、これまで見たことのない、平たい半月型をしていた。ベーコンはカリカリに焼くスタイル。トーストは1980年代のラッフルズホテルのそれを思い出させる焼き加減。ジャムは自家製。果物は「小」を選んでも、銀座や日本橋のフルーツパーラーの常識からすれば、信じがたいほどの量があった。
朝食の価格は、コーヒーが90バーツ、トーストが50バーツ、オムレツが50バーツ、4枚のベーコンが70バーツ、フルーツが80バーツの、計340バーツだった。チップは釣銭から20バーツをテーブルに残した。
朝の食堂にはフランス語を話すタイ人のオジサン、フランス人らしい女の人、それに白人の男の人の3名のみが客としていた。明日の朝食は、もうすこし軽くしても良いだろう。
11時15分にプールサイドに降りる。人は誰もいない。寝椅子と日除けを備えたプールサイドで本を読む、ということは僕が南の国でもっとも楽しみにしていることだ。それが旅の9日目にしてようやく実現する。ところでこのプールは、ロビーから庭を歩んで右側の水深は、呆気にとられるほど浅い。ところが築山のある逆の側は、恐らく2メートル以上の深さがある。子供を遊ばせるときには要注意である。また、プールサイドにはひどく荒れ果てたところもあるので、足元には注意をしたい。寝椅子では2時間ほども本が読めた。
14時15分に部屋を出る。soi2からスクムヴィットの大通りまでは、きのうの計測によれば徒歩で8分。距離は700メートルほどだろうか。とすれば最寄りのプルンチット駅までは1キロメートル。炎天下、よそ行きのシャツを着て、手にはラオカーオのニューボトルを納めたトートバッグを提げている。歩くにはいささか辛い。しばらく行くとモタサイの運転手が昼寝をしていた。よって声をかけ、プルンチットの駅まで行ってもらう。運転手の言い値は40バーツ。「高けぇな」と思ったけれど、20バーツ札2枚を手渡す。
プルンチットからサパーンタクシンまでは、サイアムで乗り換え。分かったつもりで来た車両に乗り込み、ふた駅先のアソークで、逆に乗ってしまったことに気づく。すぐに降りて向かい側のプラットフォームへ移り、サパーンタクシンには14時59分に着いた、。舟はサトーンの桟橋から15時10分の発。
コモトリケー君の部屋でしばし休んでから、川沿いの料理屋へ行く。河口までは数十キロメートルはあるだろうけれど、潮の香りが運ばれてくる。会食をするうち日はすっかり落ち、対岸のホテル、上がり下りする舟、また料理屋のそれぞれの灯火も、いつの間にか賑やかになった。
食後はコモトリ君の家に戻って小休止の後、同席してくださった方のクルマでホテルまで送っていただく。時刻は21時をこし回ったころと記憶をしている。
朝飯 “THE ATLANTA HOTEL”の食堂”AH!”のトースト、コーヒー、オムレツとベーコン、フルーツの盛り合わせ(小)
晩飯 “YO YOK RESTAURANT”のヤムウンセンプラムック、パットクンピックア、プーパッポンカリー、トードマンクン、プラーガポンヌンマナオ、カオパット、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.10(月) タイ日記(8日目)
きのうと変わらず0時と1時のあいだに目を覚ます。起きてきのうの日記を書いたり、疲れてベッドに戻ったりを繰り返す。バンコクに入って日記の面白い、というか悪くない推敲、校正の方法を身につけた。机のコンピュータで完成させ、公開した日記をベッドに仰向けになってiPhoneで読むのだ。旅の最中の日記は長くなるから、変換違いや書き直しによる文字の削り忘れも見逃しがちだ。書く道具と読む道具を変えることにより文章への客観性が増す、ということが今回の発見である。
5時を過ぎるころに荷作りを始め、数十分かけてそれを終わらせる。外が明るくなるころ外へ出て、どうしても思い出せない、きのうの夕食の店の名を確かめるため、スラウォン通りを行く。パッポン2の入口にあるマリファナ屋の名が洒落ている。持ち主はレハールのオペラのファンなのかも知れない。
部屋に戻ってきのうの夕食の場所の名を日記に入れ「公開」ボタンをクリックする。シャワーを浴びて、上は糊の効いた長袖のシャツ、下は紺色のパンツに黒い靴下。引き出しに温存したコードバンのベルトを締め、革靴を履く。その姿を鏡に映して「正に、馬子にも衣装だ」と感じる。
「しくじったらシャレにならない」ということが、旅の最中には次々と、まるでハードルのように前から近づいてくる。今日の午前に控えるそれは、この10日間でも、もっとも大きなものだ。朝食は、思いがけないことで失敗する確率を限りなく減らすため、別棟の高級ホテル”The Rose Residence”の食堂”RUEN URAI”で摂る。
9時23分に外の通りでタクシーをつかまえる。先日とは異なって、今日の運転手は僕の行き先「サパーンタクシン」を一発で聞き取った。しかしその後がいけない。首都のタクシーの運転手は、家族や友人とスマートフォンで雑談を交わしつつ運転をする例が、僕が気づいた限りでは昨年から増えた。運転手のその声が、スマートフォンのマイクへのものなのか、それとも客である僕への話しかけなのかの判断がつきづらいのだ。「右折」ということばが聞こえたので「左折でしょ」と返したところ、それは僕へ向けてのものではなかった。
今日の運転手は先日の運転手よりも早く、チョノンシーの運河にかかるところで左折をした。その先の、BTSの高架が大きく右へ進路を変える真下の、サトーン通りとの交差点で渋滞に巻き込まれる。ここで時刻は9時30分。仕事は本職に任せることの好きな僕も「スラウォン通りをもうすこし先まで直進した方が良かったんじゃねぇか」と恨めしく感じる。
ようやく渋滞から抜け出して道は流れ始め、やがて立体交差が迫る。と、運転手は何を思ったか「タクシン橋は渡るか」と、左手を山なりに動かす身振りをした。
「メチャイ、チャルンクルン、リャオ、クワー」
「チャルンクルン、リャオ、クワー?」
「チャイ」
まったく慌てさせる運転手だ。チャルンクルン通りとの丁字路を右折し、BTSの高架をくぐる瞬間に今度は左折の指示。運転手はあわててハンドルを左に切る。霧雨が降っている。「パイ、ターイ、ソーイ」と僕は、覚えたばかりのタイ語で路地のどん詰まりまで行くよう言う。サトーンの船着き場に着いたのは9時47分。メーターは97バーツだったから100バーツ札を渡しておつりは無し。「遅れるわけには絶対にいかない」という用事のあるときには、首都では鉄道を使うべきだろう。
約3時間後の12時44分に、チェックアウトを済ませてふたつの荷物を預けておいたホテルに戻る。貴重品の入ったポーチをスーツケースからザックに移し、それを背に共用のトイレで手を洗う。
ここで余談ながら。東京は1964年の東京オリンピックを前にして、運河の上に高速道路を架けた。これにより各所で空が失われた。バンコクは大きな通りの上に高架鉄道を作った。そのことにより、やはり同じく各所で空が失われた。スラウォン通りの上には幸い、高架鉄道は敷かれなかった。そのことによりこの通りはいまだ、むかしの面影を留めている。
昼のスラウォン通りは西から東への車線が渋滞する。その渋滞の中をタクシーが近づいてくる。タイのバスやタクシーは手を挙げるのではなく、腕を45度ほど下に伸ばして停める。運転手が車内から助手席を示す。スーツケースはトランクルームではなく助手席に載せろ、ということなのだろう。即、それに従い、今度は後席のドアを開けてすばやく乗り込む。
「スクムヴィットソイ2」と行き先を告げる。運転手は「150バーツ」と、取りあえずは自分の希望を述べる。「ミーター、ナ」と答えると「ミーター、オー」と、運転手は逆らわずにメーターのスイッチを入れた。初乗りの料金は35バーツ。
ラマ四世通りに出たタクシーは、MRTのクロントイ駅の直前で左折。高速道路に沿った寂しい道からプルンチットセンターの敷地内へと右折する。「この運転手は道を知っている」と、ここにきて初めて安心をする。soi2のどん詰まりにあるホテルには13時20分に着いた。メーターは89バーツ。100バーツ札を手渡して釣銭は不要と伝える。
1952年、ドイツ人の薬学博士により作られたアトランタホテルは、宿泊客以外の入館を固く拒んでいる。宿泊客以外はロビーにも入れず、食堂で食事をすることもできない。ただし犬、また猫は自由に出入りができる。天井で扇風機の回る古風なロビーはとても美しい。チェックインには、大時代的な、長たらしい文字の記入が要求される。フロントの照明は、文字を書くための充分な明るさを提供していないから、近視、乱視、老眼の人は苦労をするだろう。各種の支払いはすべて、その都度、現金により行われる。宿泊料は、これから僕が滞在しようとしている、冷房を備えないもっとも安い部屋で税込900バーツ。3泊分の2,700バーツはもちろん現金で支払った。
僕はこのホテルにベルボーイのいないことを恐れた。エレベータが無いのだ。しかしそれは杞憂だった。ベルボーイはシサッチャーナーライの窯跡から拾って来た陶片、および3本のラオカーオを入れたスーツケースを肩に担ぎ、最上階である5階まで上げてくれた。ちなみにロビーから5階までの階段は78段。ベルボーイには50バーツをチップとして渡した。
部屋は5メートル四方くらいの広さで、ベランダが付いている。シャワー室の壁はタイルが新しく、とても清潔だ。トイレの便器と水タンクは古風な意匠を保っている。貴重品入れは鉄製の机に溶接した鉄の箱で、鍵は客の持参による南京錠で閉める。錠を失くしたらパスポートもお金も取り出すことはできず、帰国もままならなくなるから、錠の隠し場所場所はノートに覚え書きした。
ドアの外側の取っ手に提げる札の”DO NOT DISTURB ME”には”THIS MORNING”と続けられている。恐らくは「午後まで寝ているなどの怠惰なことはしないように」とのことなのだろう。廊下の非常口の表示を辿っていくと、屋上に出るための木造のハシゴがあった。
部屋の中は蒸し暑く、扇風機を3段階の最高速で回しても、からだは汗まみれのままだ。シャワーを浴びると一時は涼しくなるものの、すぐにまた汗が吹き出す。「そんなホテルになぜ泊まる」と問われれば「仕事と勉強を除く挑戦、および痩せ我慢が好きだから」と僕は答えるだろう。
きのうまでの洗濯ものを、このホテルにはランドリーバッグなど備えないから、今朝までのホテルのそれに入れてフロントまで持っていく。先ほどチェックインの手続きをしてくれた感じの良いオバチャンは中味をひとつずつ数えつつ計算をしれくれた。A4の伝票を確かめると、初日からきのうまで首に巻いていたスカーフの代金を入れ忘れている。それを指摘するとオバチャンは”Already”と笑って、その分を伝票に新たに記入することはしなかった。洗濯代の240バーツも現金払い。「いつもニコニコ現金払い」は、むしろ気持ちが良い。
部屋とロビーの往復には計156段の階段の上り下りを必要とするから、複数の用事は頭の中で入念に組み立てる必要がある。「あ、忘れた」と、ふたたび部屋まで戻れば、またまた計156段の上り下りが発生するからだ。
その階段を降りて17時07分に外へ出る。soi2を北に歩いてスクムヴィットの大通りまでは8分がかかった。バンコクには。このような極端に細長い袋小路がそれこそ無数にある。袋小路だけに、となりの小路への抜け道は無いことが多い。
スクムヴィット通りの北側、soi1ちかくにある、屋根だけの、まるで倉庫のように巨大なメシ屋に入って、先ずはソーダとバケツの氷を注文する。目の前には大通りの喧噪がある。日本の夏の夕刻とおなじほどの気温が心地よい。
日本語なら春雨と海の幸のサラダとでもなる品は、きのうの店のそれの数倍の量があった。浅蜊の香辛料炒めがあるか否かをオニーチャンに問うと、オニーチャンは分厚いメニュ表を開き、作れる旨を示した。今夜の代金は492バーツだった。おつりのうち小銭の8バーツはその場に残した。
先ほどのオニーチャンにセブンイレブンの場所を問うと、何とそれはメシ屋の隣にあった。そこで1.5リットルの水を14バーツで買う。そしてそれを小脇に抱えてホテルまでの道を辿る。
78段の階段を上り、部屋には18時43分に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。それほど酔ってはいないため、ベッドに仰向けになり、iPhoneで調べごとをする。天井の扇風機の回転速度は最低にしておく。就寝した時間については、特に覚えていない。
朝飯 “RUEN URAI”の朝食其の一、其の二、其の三、其の四
晩飯 “Ja Aree Seafood”のヤムウンセンタレー、ホイラーイパットナムプリックパオ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.9(日) タイ日記(7日目)
目を覚ましたのは0時と1時のあいだ。二度寝ができて、2時間ほど後に起床する。
朝、ホテルの周辺を1キロメートルほど散策をする。ここ数年の政策に、日曜日ということも重なっているのだろうか、街の屋台は極端に少ない。タイ特有の、発酵したたけのこを炒めている屋台がひとけのないタニヤ通りに出ていた。よってここでごはんにおかず二品を載せてもらい持ち帰る。ドアを閉めた瞬間から、部屋の中にたけのこの発酵臭が満ちる。
「毎日がそうじゃねぇか」と言われればその通りなのだが、今日は更にすべきことはない。南の国への旅でもっとも楽しみにしているプールサイドでの本読みは、おとといの日記に書いたような理由でできない。外へ出てマッサージ屋を探し、結局は外れのない「有馬温泉」で2時間のオイルマッサージ、更に耳掃除もしてもらう。1,750バーツの請求は意外に高いと感じた。双方の施術をしてくれたオネーサンには半端だったが240バーツのチップ。
午後は、このところ延伸が著しい首都の鉄道の中でも、地下鉄のMRTに最寄り駅のサムヤーンから乗る。チャオプラヤ川を渡った先の、車内のアナウンスではターパーと聞こえるタープラーで乗り換え、僕の好きなラオカーオの銘柄とおなじバンギカーンで降りる。駅の位置は、着く前の車窓からの景色で何となくつかめた。
大きな通りを西に歩く。ピンクラオの橋に続く、これまた大きな通りに出たところで左に折れる。何を買うわけでもないものの、パタデパートに入る。そしてフードコート以外は何十年も前から変わっていないのではないか、という雰囲気の店内を巡回する。
橋を目指して更に歩く。夕刻まではいささか間のある時間から、通りに机と椅子を並べる店がある。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ここで酔っては帰りが心配だ。
チャオプラヤ川の堤防が見えてくる。覚えのある桟橋に降りようとすると、そこは工事中だった。木陰で涼んでいるようにも、またホームレスにもみえる裸足のオジサンが「そっちじゃないよ、向こうだよ」と身振りで教えてくれる。コンクリート製の大きな階段の下でオジサンを振り向くと、僕を目で追っていたオジサンは「もっと向こう」と、また教えてくれた。
新しい桟橋は、これまでの場所から100メートルほども下流にあった。桟橋の脇にはムーガタ屋ができていた。「こんなところで食べてぇな」と思っても、ムーガタはひとりで食べるものではないような気がする。
切符売り場にオネーサンがいる。サパーンタクシン直下の船着場サトーンまでの料金は30バーツ。オネーサンは”fifteen”と言うものの、よく聞き取れない。”fifty?”を訊き返すと、今度はオネーサンはOne Five”と言葉を替えてくれたから胸をなでおろす。現在時刻は16時57分。“fifty”では1時間ちかくも待たなくてはならない。
17時13分に、上流からオレンジ旗の舟が近づいてくる。それに乗り込もうとして、オネーサンに止められる。17時16分に下流から大型の舟が近づいてくる。横腹には”MINE SMART FERRY”と大きく書かれている。下流から来たため上流へ向かうものとばかり考えていると、オネーサンはそれに乗れという。
大型船は、屋根だけの吹きさらしではなく、窓には偏光グラスが嵌め殺しになっているから、乗っていても、面白くも何ともない。ピンクラオからはワンラン、ワットアルン、マリーンデパートメント前、ラチャウォン、「パタヤーン」と聞こえるサイアムパラゴン前を経由して、サトーンには17時45分に着いた。
川沿いの高級ホテル”Shangri-La”の裏を歩く。かつては僕もよく飲み食いをした、屋台で賑わっていた場所は”MA! BANGRAK BANGKOK STREET FOOD MARKET”と名づけられてすっかり綺麗になり、しかし人の姿は疎らだった。数年前にかかったことのある床屋も建物の改装に伴って、見違えるほど明るくなっていた。
サパーンタクシンからBTSに乗ったときには、チョノンシーで降りて散策をしようとなかば決めていた。しかし明日はホテルを変わる。荷作りは早朝にするつもりでいる。ということは、夜は遅くならない方が良い。そう考えて、チョノンシーでは降りずにサラデーンまで乗る。
「こんなこともあるだろう」と、本とラオカーオの小瓶は、ホテルを出るとき背中のザックに入れておいた。そういう次第にて、目についた店で夕食を摂り、19時30分に部屋に戻る。
腑に落ちなかったのは、夕食代のこと。伝票には520バーツの数字があった。よって500バーツ札1枚と20バーツ札1枚を「ちょうどで悪いね」とオカミに手渡した。ところがオカミは20バーツ4枚を釣りとして持って来た。何やら分からず、その80バーツはチップとして進呈した。ラオカーオは、160ccまでは飲んでいなかったと思う。
朝飯 屋台の弁当
晩飯 “HAPPY BEER GARDEN”のヤムウンセンタレー、オースワン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.8(土) タイ日記(6日目)
4時26分。ようやくまともな時間に目を覚ます。
今朝の食事は趣向を変えて、ホテルで摂ってみることにする。プールサイドにはランナー様式の木造建築があって、朝食はそこで供されているはずだ。ところが近づくと、中に人はいない。フロントに戻って確認をする。「外へ出て右へおまわりください」と、オネーサンは教えてくれた。
そこにはおなじ系列の、しかし僕のいる棟より遥かに高級なザローズレジデンスがあった。1960年代はじめに造られたらしい建物は、コロニアル調である。その玄関の重い扉を押す。右奥に食堂らしい入口が見える。歩を進めると、とても若くて綺麗なオネーサンが「屋内がよろしいですか、それとも屋外がよろしいですか」と笑顔を向けた。「外がいいですね」と答えて食堂を横切り、戸を引いて庭に出る。そこには名を知らない大木に混じってリラワディが枝を広げていた。
寛いで食事をする僕の足元に複数の猫が来る。タイのコンビニエンスストアの前には、客が出入りをするたび外へ流れ出す涼風を求めてか、犬の寝ていることが多い。それを追い払う人はいない。僕は一向に平気だが、犬嫌い、猫嫌いはタイにはいないのだろうか。まるで五代将軍の時代の江戸のようだ。
昼から夜にかけてはバンコクに住む同級生コモトリケー君と過ごすべく、9時30分に部屋を出る。スラウォン通りの歩道には、たくさんの屋台が並んでいる。そこからの香草やココナルミルクの香りを胸一杯に吸い込みつつ西へ歩く。
時にはタクシーも使おうと、サラデーンの方から近づいて来たタクシーを停める。時刻は9時38分。「サパーンタクシンまで行きたい」という僕の言葉を運転手は聞き取れない。4度、5度と繰り返して「サパーンタクシン」と運転手は確かめる。僕は「そうです」と答えて焦燥から解き放たれる。
10年ほど前に「サパーンタクシンのタクシンと、追放された政治家のタクシンの発音は、おなじですか」とタイ人に訊いてみた。「そりゃぁ、全然ちがうでしょう、タークシンとタクシンです」と相手は発音の違いを聞かせてくれたものの、僕にはよく分からなかった。「タイ文字を覚えると発音のしかたも分かる」とコモトリ君は言う。しかし今からタイの文字を覚えることは、僕には荷が重い。
タクシーの料金は51バーツだった。硬貨は嵩張るから財布には入れていない。50バーツ札と20バーツ札を出すと、運転手は「これでいいね」という顔をする。チップとしては多すぎると感じたものの、そのままタクシーを降りる。スラウォン通りからは9分の行程だった。
コモトリ君のコンドミニアムの舟は10時10分に来ると、知らされていた。いくつものホテルの舟に混じって10時12分に来た舟は、タイ文字の旗を立てているのみだ。一時、舟を係留するため桟橋に降りたオニーチャンに、コンドミニアムの名を伝えてみる。オニーチャンは2度目に頷いたから「まぁ、大丈夫だろう」と、舟に乗り込む。ただしコンドミニアムが間近になるまでは、少々の不安と共に波に揺られていた。
昼から夜にかけて僕と過ごすはずだったコモトリ君には急用ができたとのことで、昼食の後は右と左に分かれた。僕は街のマッサージ屋で時間をつぶすこととして、どこにでもあるようなマッサージ屋の戸を引く。からだをへし曲げ、関節をやたらと鳴らすタイマッサージは、月にいちどかかる「伊豆痛みの専門整体院」のワタナベ先生に禁じられている。2時間のオイルマッサージを頼むと、真っ黒でしわくちゃのオバーサンは2階へ行くよう促した。
マッサージが終わるころ「どこから来たの」と、担当のオネーサンに訊かれる。「このちかくから」と答えると「ニワトリ?」と、オネーサン不審な表情をする。「ちかく」はタイ語は「カイカイ」。オネーサンはそれを、鶏を意味する「ガイ」と聞き間違えたのだ。まったく難儀なことである。
コモトリ君とは15時45分に部屋で合流をして、夕刻よりタイの家庭料理をご馳走になる。そうしてコンドミニアム19時発の舟でサパーンタクシンに戻る。そこからシーロムまでは高架鉄道BTSを使う。シーロム通りからスラウォン通りまでは盛り場のタニヤを歩く。
部屋に戻ったのは19時45分。冷蔵庫には、きのうのゼロ本から、今日は3本のミネラルウォーターが納められていた。シャワーを浴び、水を飲み、パジャマを着て20時すぎに就寝する。
朝飯 “RUEN URAI”のトーストとコーヒー、サラダ、エッグベネディクト
昼飯「ミットフォーマーチャイ」のカオソイ(小)
晩飯 市販のシューマイ、コモトリケー君手作りのゲーンチューダオフー、同パットガパオムーサップ、メシ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)、マンクット
2024.6.7(金) タイ日記(5日目)
きのうの夜はおとといの夜と大して変わらず、いまだ日の変わる前の23時38分に目を覚ましてしまった。就寝時間が早すぎるのだろうけれど、夜遊びには興味が無く、早朝に日記を書くことが趣味であれば、どうしても現在のような時間の使い方になるのだ。それでも「前夜」のうちに目が覚めては早すぎる。何とかならないものだろうか。
スラウォン通りから80メートルほど奥に入ったこのホテルまで、表通りを行くクルマの排気音が聞こえてくる。雨が降っている。朝まで降り続けば厄介だ。そう考えてカーテンを引く。目の前の路地は濡れていない。旧いホテルの窓枠は木製で、広く開くことができる。トタン屋根に雨の落ちるような音は、隣のビルの屋上に置かれた室外機によるものだった。
薄い金属板を積んだリヤカーが路地を近づいてくる。しかしこんな夜中にそのような仕事をする人がいるだろうか。ふたたび起きて窓を開ける。その音もまた、隣の建物の室外機から聞こえてきていた。どこかのパネルが外れたままになっているではないか。
シサッチャーナーライでは鳥と爬虫類と虫の声だけが聞こえた。バンコクで聞こえるのはクルマと機械の音ばかりである。そして夜になれば、そこに嬌声が加わる。
6時前にホテルを出て、裏の路地からラマ四世通りに出る。お粥の”JOK SAMYAN”までの距離はGoogleマップによれば1キロメートルと少々。徒歩で往復するつもりでいたものの、路上にはモタサイの運転手が屯していた。即「ソイ・チュラロンコン11」と告げて後席の客になる。モタサイはとても危険な乗り物ではあるけれど、安楽さや手っ取り早さには勝てない。
ジョークサムヤーンでは、豚の内臓とピータンのお粥を注文した。すると日本語のできるオネーサンがメニュを持って来て「ミックスでなくていいですか」と訊く。多分、それが一番の人気なのだろう。僕は「クルアンナイとカイヨーマーのお粥でいいんです」と、当初の注文を通す。朝から臓物が食えるのは、僕のような臓物好きには嬉しい限りだ。
今日の予定は10時までにプロンポンに着いて、足の角質取りと脚のマッサージをしてもらうこと。次はおなじプロンポンにあるベトナム式の床屋で爪切りや顔剃りをしてもらうこと。それが済んだらゲートウェイエカマイの1階にあるマックスバリューでラオカーオ”BANGYIKHAN”を買うこと。その3件のみだ。
いまだ時間があるため、ことし新調したパタゴニアのバギーショーツを身につけプールサイドに降りる。このホテルのプールサイドにはきのうの日記に書いた、寝椅子と日除けが整っている。その寝椅子の背もたれを調整して仰向けになり、本を開く。ところが、である。蠅が多いのだ。払っても払っても常に4、5匹がたかってくる。堪りかねて足全体にバスタオルをかける。すると今度は腕や顔にたかる。「こりゃぁダメだ」と、ものの数分で退散することを決める。スイミングプールについてはバンコク後半の宿に期待するしかない。そこもまた蠅だらけだったらどうしよう。
部屋のベッドでまどろみながら、9時15分に設定したアラームに目を覚まされる。プロンポンまでは30分もあれば行けるだろうと踏んでいたものの、準備に時間がかかって9時40分に部屋を出る。
プロンポンに着いて、むかし家内とかかったことのあるマッサージ屋を目指す。場所はよく知っていたつもりが、スクムヴィット通りを往ったり来たりする。ようよう見つけて「soi39のひとつ西だったか」と、曖昧だった記憶を更新しようと努める。
足の角質けずりと脚マッサージの90分のコースは450バーツ。角質けずりから脚マッサージに移ったところで、それまで読んでいた本を閉じる。オバサンは骨と皮だけの痩身ながら、手の力は異常に強い。土踏まずの筋をこすられてその痛みに顔をしかめると、オバサンは小さく笑った。オバサンには150バーツのチップ。
タイは自由放埒な国と思われがちではあるけれど、酒とタバコに対する規制は日本よりよほど厳しい。酒は11時から14時、17時から24時までのあいだにしか買うことはできない。当初の予定では、プロンポンのマッサージ屋に10時に入って90分、そこから徒歩5分のベトナム式床屋で90分を費やしても、BTSでふたつ隣のエカマイで14時までに酒を買うことは可能と目論んでいた。しかしマッサージ屋には入れたのは10時25分だったから、当初の計画には無理が生じた。
移動の合理性は削がれるものの、先ずはエカマイを目指すこととした。そして駅と直結しているゲートウェイエカマイ1階のマックスバリューにて無事に、これまで飲んだラオカーオの中ではもっとも好きな”BANGYIKHAN”3本を手に入れる。僕の知る限り、このお酒はバンコクではBig-C、ピンクラオのパタデパート、そして今日のマックスバリューでしか手に入らない。価格は1本あたり157バーツ。タイバーツの現金は必要以上に持ち合わせているものの、クレジットカードを使えるところでは、それで支払うこととしている。
ふったびポロンポンへ戻ると昼が過ぎていた。朝食の時間が早かったこと、食べたものがお粥だったところから、いささか空腹を覚えている。2017年に初めて入った汁麺の名店「ルンルアン」は目と鼻の先だ。近づいていくと、出前を請け負ったGrabのオートバイが車道に密集している。客はテーブルに鈴なりである。外のテーブルのひとつに近づいて、既に座っている女の子に声をかけると、友だちが来るという。もうひとつのテーブルのオネーサンにおなじく声をかけてみる。オネーサンはニッコリ笑ってくれたから相席をさせてもらう。
7年前にはそれほど混み合わない店で僕の注文を笑顔で受けてくれたオニーサンが、今日は懸命に調理をしている。従業員の数はもちろん増えている。僕の注文は7年前とおなじバミーナムトムヤム。頬に白い粉を付けているから出身は近隣諸国なのか、あるいはタイでも東北の国境ちかくの出なのか、オネーサンはメニュ表を見せて器の大きさを問うた。タイの汁麺の本来のサイズはSのはずと、オネーサンにはそのアイコンを指し示した。
日本のラーメンの丼が大きくなったのは、1970年代に南下してきた札幌ラーメンの影響と、僕は考えている。バンコクの汁麺において、店によっては以前のピセーットつまり大盛りより大きな器が選べるようになったのは、ひとえに外国人観光客の要望によるものと思う。
今朝のお粥にしても、昼の麺にしても、名店と普通の店の味に極端な差は無いと、僕の舌は感じる。ただし名店と呼ばれる店が運を味方につけ、更に努力を続けていることは疑いようもない。ルンルアンの柱と壁には2018年以来のピブグルマンの表示が並べられていた。
ベトナム式床屋の90分で800バーツの価格は安いと感じた。店の設備は「こんなに金をかけては回収が大変だろう」と感じるほど充実していた。オネーサンには釣銭の200バーツをチップとして渡した。
プロンポンからアソークまではBTS、アソークで乗り換えたスクムヴィットからサムヤーンまではMRTで帰ってくる。BTSではこれまでその都度、1回限りのカードを現金で買っていた。しかしいささか面倒になってきて、今日は往路のアソークでRabbitカードを作った。その際、窓口のオネーサンには500バーツのトップアップを頼んだ。デフォールトで付いてくる100バーツでは、いくらも保たないからだ。カードのデポジットは100バーツ。有効期限は7年。改札口でのタッチ感度は、日本の交通系電子カードより鈍く、革製のカードホルダーに入れた状態では感知してくれなかった。
MRTは、このところクレジットカードを交通系電子カードとして使えるようになったとどこかで読んだため、それを試してみた。改札口でのタッチ感度はBTSとおなじく、革製のカードホルダーに入れた状態では感知してくれない。クレジットカードを駅の改札でむき出しにすることにも不安を覚える。しかし人は、結局は便利さに転ぶのだ。日本のSUICAやPASMOのような、BTSとLRTの共通カードが出てくれるのを待つばかりである。
15時40分に部屋に戻る。掃除を終えた部屋には、きのうとは逆に、3枚のバスタオルがあった。しかし冷蔵庫の水は補充されていなかった。このホテルのサービスにはアラが目立つ。フロントに降りてその旨を伝えると、間もなくオジサンがガラス瓶2本を持って来てくれた。ホテル側の不備にてチップは渡さなかった。
ラオカーオの在庫は充分になったものの、今日は趣向を変えてビストロへ出かけることにした。気温は日本の真夏の夕刻と変わらず、スラウォン通りまでの路地を気持ち良く歩く。
盛り場の、まるで貨車のような作りの店ではハウスワインの白を、メニュにはなかった500ccのカラフでもらう。「今日のお勧め」のポークシチューには心惹かれたものの、アンドゥイエットを注文しながら量を問うと、オニーサンは僕の腹具合を確認しつつ「大丈夫」と請け負った。
「楽だなー」と毎日、心がほぐれる。500ccのワインで「マオレオ」つまり既にして充分に酔ったものの、最後にリカールのパスティスを頼む。生で注文したそれは、オンザロックスに水を添えて運ばれた。まぁ、それがこの店のスタイルなのだろう。伝票の数字は1,040バーツだったため、1,100バーツを置いて店を出る。
部屋には18時40分に帰着。シャワーはもちろん浴びただろう。覚えていることは、何も無い。
朝飯 “JOK SAMYAN”の豚の内臓と皮蛋のお粥(画像は食べはじめた後のもの)
昼飯 “Rung Ruang”のバミーナムトムヤム
晩飯 ”French Kiss”のアンドゥイエット、カラフの白ワイン、リカールのパスティス(オンザロックス)
2024.6.6(木) タイ日記(4日目)
19時に就寝をすれば、目覚めも早い。「もう3時ごろになるだろうか」と枕頭のiPhoneを引き寄せたところ、いまだ日の変わる前の23時23分で、大いに焦った。昼夜逆転にも程がある。明かりを落として掛け布団を胸元まで引き上げ静かにするうち、いくらかは眠れたものの、いくらも眠れていないとも言える、それは短い時間だった。
夜が明ける前から荷作りを始め、すぐにでも部屋を出られる体制を作る。その上で水を飲んだり、あるいは持参した粉末スープを湯に溶かして飲んだりする。
スーツケースを曳きザックを背負って6時19分に外へ出る。食堂へ行くと「アハーン」と訊きつつ調理係のオバサンがものを食べる仕草をする。6時20分を指す腕時計をオバサンに見せる。「あー」と、オバサンは当方の時間の無さを理解したようだった。それでも「食べられるなら」と、トースト2枚を焼きつつ粉末のコーヒーと砂糖をカップに入れ、湯を注ぐ。オバサンは別途、ミネラルウォーターと出来合いのデザートを持って来てくれたものの、それには手は付けなかった。
「6時30分にタクシーが迎えに来るから、それより前にチェックアウトしたい」ときのう伝えたオネーサンが、やがてきのうとおなじTシャツを着て現れる。「ランドリー」とタイ風のイントネーションで確かめると、オネーサンは何かを思い出そうし、ややあって「そう言われてみれば」という感じで「あーあ」と声を出した。
オネーサンは、今朝は自動翻訳のためのスマートフォンを持ち合わせていない。よって「いくら」とタイ語で訊ねる。オネーサンはすこし考えて「20バーツ」と計算をした。
洗濯ものは、おとといに5点、きのうは3点を出した。その際に洗濯代を訊ねたところ、オネーサンはスマートフォンにタイ語を呟き、ディスプレーには「1点あたり20バーツ」と英文が浮かんだ。20バーツが8点なら160バーツだろうけれど、僕はオネーサンに言われるまま20バーツを支払った。このホテルには組織も伝票も何も無い。大丈夫なのだろうか。
6時30分にホテルの前に立つ。初日、6時30分の迎えを予約し、お金も払ったタクシーが来なかったらどうするか。しかし東の方から右にウインカーを出しつつそれらしいクルマが近づいて来たから胸をなでおろす。時刻は6時31分だった。
運転手は来たときとおなじ太ったオネーサンだった。しかしクルマはスズキからホンダに変わっていた。安全ベルトにドラえもんのカバーが付いていたり、ルームミラーに前方視界を遮るほどの数珠が提げてあるところからすれば、このクルマはオネーサンの私用車なのかも知れない。広い道に出るとホンダ車は時速80キロメートルを保って走り続け、空港には7時ちょうどに着いた。オネーサンには初日の分も含めて100バーツのチップを手渡した。
7時03分にチェックインを完了。すぐ脇の保安検査場では、スーツケースからザックに移したアロエジェルを「容量過剰」として没収されてしまった。それは昨年、ハジャイでひどく日焼けをした皮膚を鎮めるため、バンコクの薬局で買ったものだった。
08:25 ボーディング開始
08:29 屋根だけの電動バスで飛行機の際まで運ばれる。
08:30 飛行機のタラップを上がる。
08:41 “ATR72-600″を機材とするバンコクエアラインPG212は定刻より14分も早く離陸する。
09:14 これから30分でスワンナプーム空港に着く旨のアナウンスがある。
バンコクの近郊には極端に細長い矩形の農地が目立つ。その区画に工場や住宅の建てられたところも見える。機は徐々に高度を下げていく。
09:46 PG212は定刻より24分も早くスワンナプーム空港に着陸。全62席に対して、乗客は来たときより少ない22名だった。
10:30 回転台からスーツケースが出てくる。
10:40 タクシー乗り場のある1階へ降りる。
タクシーの発券機まで歩く通路には大型車、近距離、普通と、3本のレーンがあったので、真ん中の”REGULAR TAXI”の線の内側を歩いて行く。発券機の前に立つオネーサンは僕の姿を認めるなり発券機のボタンを押し「どちらまで」と訊ねた。「スラウォン通り」と答えると、オネーサンは頷いて51番の紙を手渡してくれた。
51番の駐車スペースに近づくと、小柄な運転手が近づいてきた。トランクルームのドアは開いたままになっている。そこへ納めるべくスーツケースを持ち上げた運転手は、その重さにうめき声を上げた。
「スラウォン通り、メリディアンホテルのちかく」と運転手に告げる。運転手は振り向きざま「500バーツ」と値付けをした。昨年の4月とおなじである。「ミーター」と僕は返事をする。「ミーターならそれに50バーツを追加」と運転手はたたみかける。空港使用料の50バーツは常識で、そんなことは僕も分かっている。
10:50 高速道路上で渋滞に巻き込まれる。
11:02 作業車を追い越して渋滞が終わる。
11:05 最初の料金所で25バーツを運転手に手渡す。
11:15 2番目の料金所で50バーツを運転手に手渡す。
11:20 ラマ4世通りに降りるランプで、またまた渋滞をする。
スラウォン通りに入ったところで僕は頭の位置を低くし、フロントガラスから周囲の建物に注意を払う。メリディアンホテルの前に達したところで運転手はトヨタカローラを停め「ティニー、ナ」とルームミラー越しに僕を見る。「チャイ」と僕は返事をする。
335バーツのメーターに対して、釣りは受け取らないつもりで400バーツを差し出す。運転手は律儀にも15バーツを返してよこした。時刻は11時44分だった。
タクシーを降りたところはメリディアンホテルの前でも、僕が泊まるのはそこではない。スラウォン通りを渡り、すこしサラデーン側に戻ってラマ4世通りへの抜け道に入る。これから4日間を過ごす宿は、そこにある安いところである。
南国のホテルに滞在するとき、僕がもっとも重視するのは、寝椅子と日除けを備えたスイミングプールがあること。それが首都であれば、2番目には鉄道の駅にちかいことが挙げられる。タクシーはできるだけ使いたくないのだ。3番目の条件は価格の安さ、ということになる。
東京に出張するときはドヤに泊まる、という勉強仲間がいる。落ち着くのだという。僕はドヤには興味は持たないけれど、街の真ん中にある古びたホテルは好きだ。やはり、気分が落ち着くのだ。今日の宿の、グラスのためのコースターは使い捨ての紙製ではなく、律儀にアイロンを掛けられた白いクロスだった。
風呂場を見ると、バスタオルは2枚あるものの、普通のタオルが無い。よってちかくの部屋を掃除していたオバサンを呼び、普通のタオル2枚を持って来てもらう。ホテル側の不備により、チップは渡さない。
セキュリティボックスの扉が開かない。よってフロントに降りて、小さなオバチャマにその旨を伝える。やがて設備担当のおじさんが来る。オジサンはマスターキーを使って扉を開こうとするも、蝶つがいが狂っているのか、なかなか開かない。オジサンはそれをようよう開いて「扉を上に持ち上げるようにすれば開く」というようなことを僕に説明した。こちらもホテル側の不備により、チップは渡さなかった。
シャワーを浴びてひと息をつき、何がしたいかといえば散髪である。本来であれば、床屋には出発直前の今月1日にかかる予定だった。しかしiPhoneの修理に時間を取られて叶わなかった。その散髪を、この午後にはしようと考えた。
先ずは検索エンジンで見つけた、タニヤの床屋を目指す。ホテルからの距離は400メートル。しかし当該のビルのエレベータは反応せず、仕方なく階段を昇った4階のフロアには空き店舗がいくつかあるのみだった。どこかに移転してしまったのだろうか。
ホテルに戻る頃には顔に汗が吹きだしていた。しかしそのまま今度は、今夜の食事の場所を探るべく、ホテルのある路地”Soi Na Wat Hua Lamphong”に戻って奥を目指すと驚くなかれ、ホテルのすぐ裏に椅子ひとつを置いた床屋があった。その椅子には散髪中の客がいたこと、また汗だらけでは床屋に申し訳ないところから、取りあえずは部屋に戻ってシャワーを浴び直す。
改めて床屋に出直すと、客の姿は消えていて主もいず、人の良さそうなオジサンが椅子に座っていた。オジサンは待ち客に見えたものの、そうでもないらしい。オジサンは親切にも奥に声をかけつつ僕には鏡の前の椅子に座って待つよう言った。オジサンの声には「ファラン」という言葉も混じったが、僕はガイジンではない。
「どちらから」と英語で訊くオジサンに「日本から」と答えるとオジサンは「ワタシノガクセイジダイノセンコウハニホンゴデシタ。シカシツカワナイウチニズイブントワスレマシタ」と、とても端正な日本語を発した。正に、野に遺賢あり、である。
やがて現れた主は色の黒い、余計なことは話さず、しかし親切心は持ち合わせている人だった。タイで床屋にかかるときにはいつも「ナンバー2のバリカンで髪も髭も刈ってください」と頼む。今日もそうしたところ、どうも最初の「ゲタ」ではさっぱり刈れない。主はゲタを徐々に短くし、最後は仕上げ用の短いバリカンにこれまた短いゲタを取り付けた。僕は、床屋にはうるさい注文をつけない。主の腕は悪くなかった。仕上がりは満足のいくものだった。代金は400バーツとのことだった。
いまだ待ち客用の椅子にいるオジサンに「アリガトウゴザイマシタ。アナタハマダニホンゴヲワスレテイマセン」と礼を述べると、オジサンはいかにも嬉しそうにニッコリと笑った。
夕刻、バンコクエアの機内でもらったミネラルウォーターの、空にしたペットボトルにラオカーオを小分けする。そしてそれと本をセブンイレブンのエコバッグに入れて外へ出る。午後、ホテルの裏手に見つけたフットサル場のようなフードコートには、僕の気の向く店は無かった。よって表のスラウォン通りからパッポン2を抜けてシーロム通り、そこから道を渡ってコンベント通りに至る。僕の求める店の条件は、ソーダとバケツ入りの氷が頼めて、更に本が開けることだ。
いまだ17時40分であれば、緑のソムタム屋は空いていた。よって外の見える席に着き、はじめに一品、次にショーケースまで歩いてふた品目を頼み、それを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。
帰りは酔っているため慎重に、地元の人と一緒にシーロム通りを渡る。そして部屋に戻ってシャワーを浴び、きのうと大して変わらない19時すぎに就寝する。
朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”のトーストとコーヒー
昼飯 “PG211″の機内食
晩飯 “Hai”のソムタムカイケム、ガイヤーン、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.5(水) タイ日記(3日目)
一度、寒さを覚えて目を覚ました気がする。1時間後に切れるよう設定したはずのクーラーが動き続けていたのだ。そのせいか、二度目に目を覚ましたときには喉に違和感があった。きのうの疲れが残っている、というわけではないものの、しばらくは横になったままでいる。数分後に時刻を確かめると1時23分だった。立って明かりを点け、専用の器にイソジンを水で薄めてうがいをする。
きのうパジャマ姿だったオネーサンは、今朝は上はキース・ヘリングの絵のあるTシャツ、下はジャージーのパンツを身につけていた。このホテルのランドリーは、洗いものをその日のうちに仕上げてくれることをきのう知った。よって今日も洗濯物をオネーサンに手渡す。また、明日は6時30分にタクシーが迎えに来る。だからそれよりも前にチェックアウトしたい旨を伝える。
このホテルには、フロントというものが無い。僕とホテル側の意思の疎通は、初日に迎えてくれたオネーサンと、朝、食堂にいるオネーサンのふたりのみ。残りの従業員は掃除のオバサン、食堂のオバサン、洗濯のオバサン、庭師のオジサンなどで、特に問題もなく運営をされているらしい。というか、とかくあれこれを問題視することの多い批判精神の旺盛な人は、ここには泊まれないだろう。
朝食の後は、きのうの日記を完成させて公開し、それをベッドに寝転んでiPhoneで読む。すると結構、いまだ校正が必要だったり、推敲の余地のある部分が見つかる。そのたび起きて化粧台ほどの小さな机に置いたコンピュータに向かい、文章の手直しをする。
朝食の皿には常に、5、6匹の蠅がたかっていた。日本にいれば気になることも、ここではそれほど気にならない。コンピュータを使えば、日本では見たこともない小さな蟻がディスプレーの上を横切っていく。そのたび持参した刷毛で、その蟻を払う。これだけ虫が多くても、蚊に刺されないのは不思議なことだ。
ベランダに出て目の前のヨム川と、その向こうに広がるジャングルを眺めるうち、バンコクエアラインから明日のフライトを知らせるショートメールが届く。日本を出る直前に新機に交換したiPhoneは、いまだバックアップから復元をしていない。だからこのSMSにはいささか驚いた。ウェブチェックインのためのURLも添えられていたため、即、それを済ませる。
旅の初日には18キログラムのスーツケースに辟易した。移動日である明日は、そのスーツケースをすこしでも軽くするため、衣類だけでもデイパックに移せないかと試してみる。また、いずれ起きてはいるだろうけれど、とりあえず明朝の5時ちょうどにiPhoneのアラームを設定しておく。
午後、部屋の扉がノックされる。開くと今朝のオネーサンが今朝の洗濯物を、オートバイで届けに来てくれていた。オネーサンには20バーツのチップ。とにかくタイでは、折に触れ心付けを手渡さないことには気が済まないのはなぜだろう。
今日は部屋掃除のオバサンは来ず、日に2本を約束されているミネラルウォーターも入らなかった。よって食堂へ行き、客席の冷蔵庫からその500ccのビン1本を取り出す。そしてちかくにいたオバサンに「今日の分」と身振りで示しつつ部屋に戻る。日本ではほとんど飲まない水も、南の国では必須である。
17時30分をまわったところで街道に出て、すぐ左手の食堂に今日も入る。風が吹いてくる。嫌な予感がする。店の若い人がふたりして、街道に面したシャッターを降ろす。空は晴れているにもかかわらず、雨が降ってくる。
ふた品を肴にしてラオカーオのソーダ割りを飲みつつ数十分が過ぎる。若い人は手慣れた様子で、今度はシャッターを上げる。降っていた雨は、やがて上がった。彼らは毎日、そのようにして店で売る雑貨を守っているのだろう。今日の勘定は160バーツ、心付けは20バーツを置く。
19時前に部屋へ戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”の朝の定食其の一、其の二
晩飯「プリィアオ」の卵豆腐の素揚げともやしの炒め、パットママームーサップ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.4(火) タイ日記(2日目)
素っ裸で目を覚ます。部屋の灯りは点いたままだったものの、クーラーは幸い切ってあった。時刻は1時。きのうの夜のことは、食堂でお金を払ったまでのことしか覚えていない。部屋へ戻り、シャワーを浴びるなり、ベッドカバーの上で眠ってしまったのだろう。
取りあえずは起きて、きのうの日記の続きを書く。旅の初日の日記はどうしても長くなる。「こんなものを誰が読むか」とは思うものの、これを書き上げないことには先へ進めないのだ。
4時15分に至って明かりを落とし、布団に潜ってみる。外からは鳥、ヤモリ、トッケー、また虫か爬虫類か鳥類かは分かりかねる、様々な声が聞こえてくる。そして眠れないまま6時にふたたび起床する。
きのうの日記を「公開」して、8時に食堂へ行く。きのう洗濯について訊ねたオネーサンが、タイシルクなのか化学繊維なのかは分かりかねるパジャマ姿で僕を待ち受ける。「パジャマで接客っ」などと驚いているようでは、タイを旅することはできない。そのオネーサンにきのう着たものを入れたプラスティック袋を手渡す。
オネーサンはスマートフォンにタイ語で何ごとかを呟く。ディスプレイには洗濯物の数を問う英文があった。「シャツとアンダーパンツと靴下の3点」と英語で答える僕の口元にオネーサンはスマートフォンを近づける。オネーサンはそのスマートフォンのディスプレイを見て頷いた。部屋の掃除についてもオネーサンは同様にスマートフォンを近づけた。僕は「ミネラルウォーターを2本とロールペーパーが欲しい」と英語で答える。オネーサンはディスプレイのタイ語を読んで、またまた頷いた。
「りざべーしょんふぉーかとーぷりーず」と、日本のビジネスマンがアメリカのホテルマンに話しかける、アメリカン・エクスプレスのテレビコマーシャルがむかしあった。「オー、ミスタカロー」と答えたアメリカ人は、テキサスの人だったのだろうか。テキサス人の英語だろうが日本人の英語だろうが、それを瞬時にタイ語に翻訳してしまう人工知能の優秀さには、舌を巻くばかりである。
今回、シサッチャナーライに来た目的は、ヨム川に沿った中世からの街道を自転車で遡り、42番窯と123番窯による博物館の周辺を散策することだった。ホテルからの距離は8キロメートル。今朝の天気予報によれば、最低気温と最高気温はそれぞれ27℃と33℃。降水確率は6パーセント。僕は目的を果たすことができるだろうか。
08:50 きのうの自転車でホテルを出発。街道はほぼ平坦。
09:00 “Tao-Mor Gate”を通過。疎林の作る日陰が心地よい。
09:05 “Ban Pa Yang Kiln Site”を通過。右手には日干し煉瓦による防塁、左手には環濠の跡が続く。
09:10 林を抜けて広い道に出る。右手の低いところにヨム川が望める。
09:23 大木の陰でひと休みをする。
09:29 博物館”Center for Study & Preservation of Sancalok Kilns”前を通過。
09:30 ふたたび疎林の中に入る。
09:35“Ban Koh Noi Kiln Site”に入る。
09:37 本日の目的地である、42番窯と123番窯を屋根で覆った博物館に到着。
ところで自転車による往復16キロメートルの走行を前にして、気になったのは水と手洗いについてだった。ホテルが部屋に置くミネラルウォーターはガラス瓶によるもので、フタの形状からして持ち歩きはできない。ナムパオ、つまりペットボトル入りの水を持参べきだろうけれど「欲しくなったら途中で買えば良い」と、高を括った。手洗いについては出たとこ勝負とした。
訪れる客は日に数名と思われる博物館の観覧料は100バーツ。入場券を手渡してくれたオバチャンは僕に屋内に入るよう促したが、その前にホンナム、つまり便所へ行きたい。その場所を訊くとオバチャンは数十メートルほども離れた、あずまやのような建物を指した。即、早足で近づいて用を足し、そのついでに顔を洗って汗を流す。その国へ行くとき、もっとも必要な言葉は挨拶などではなく「トイレはどこですか」だと、僕は確信をしている。
すっかりさっぱりして博物館に戻り、地中のかなり深いところから発掘をされた、ふたつの窯跡を見ていく。2019年の3月にも来たところではあるけれど、裏を返せば、また違った発見もあるものだ。
と、そのとき少し離れたところから掃除のオバチャンが僕に声をかけつつ右の人差し指1本を立てた。「ひとりか」と訊かれているものと理解をして、僕も返事をしつつ右の人差し指1本を立てる。オバチャンは僕に近づきメガネを見せる。それは先ほど、便所で顔を洗う際に脇に置いた僕のものだった。メガネはデンマークの”LINDBERG”に紫外線防止用のレンズを取り付けた、安くないものだ。いと有り難し。僕は固辞するオバチャンの手に50バーツ紙幣を握らせた。
帰り道は、10時08分に現地を出発し、途中、巨大な菩提樹の下で涼みたい気持ちは起きたものの、結局は休むことなくペダルを漕ぎつつけて10時42分にホテルに帰り着いた。これで僕の「街道をゆく」は完了した。今日の午後と明日は休養に充てよう。
昼食は抜く。僕は旅に出ると、空腹はそれほど覚えない。体内で最もエネルギーを必要とする器官は脳だという。腹が減らないのは、脳が雑事に煩わされないことによるのではないか。
南の国では、シャワーの後、素っ裸でベッドに大の字になり外を眺める、という日本にいてはできない贅沢ができる。汗は、シャワーを浴びてから40分ほどしてようやく引いた。
15時をすこし過ぎるころ、雨粒の、コテイジの屋根に落ちる音がした。やがて数分もしないうちに、雨は恐ろしいほどの勢いになった。風も強く、間近に見える椰子の葉は薙ぎ倒されんばかりに揺れる。いつまでも続くと思われたその雨は、小一時間ほども暴れると、いきなり、上がった。
17時30分に部屋を出て、きのうの夜とおなじ食堂へ行く。きのうは見なかった女の子が、何も言わないうちにグラスとバケツの氷を持って来る。料理はチャーハンと空心菜炒めを注文した。そしてそれを肴にして、持参したラオカーオのソーダ割りを飲む。
部屋には19時に戻った。シャワーを浴び、パジャマを着る。クーラーには1時間後に電源の切れる設定をし、今日こそはすべての明かりを落として就寝する。
朝飯 “Sisatchanalai Heritage Resort”の朝の定食
晩飯 「プリィアオ」のカオパットクン、パットパックブンファイデーン、豚挽き肉とパクチーのスープ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.3(月) タイ日記(1日目)
周囲が騒がしい。スチュワードが僕の前にテーブルを引き出し、朝食のお膳を載せようとしている。時刻は4時30分。これまでは3時ごろ、羽田を発った深夜便が台湾と海南島のあいだを飛んでいるときに目を覚ましていた。今回は随分とまぁ、よく眠れたものだ。
05:10 洗面所で歯を磨く。
05:42 「スワンナプーム空港まで25分」のアナウンスが流れる。
06:00 地上の灯りが近づいてくる。
06:12 “Airbus A350-900″を機材とする”TG661″は定刻より38分はやい日本時間06:12、タイ時間04:12にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
04:33 昨秋に開業した、新しいターミナルビルとこれまでのターミナルビルを結ぶシャトルトレインが発車する。
04:46 入国審査場を通過。
05:05 回転台からスーツケースを引き上げる際に転び、ちかくの男の人に助けられる。筋力が落ちているのだろうか。
05:20 到着階の2階から出発階の4階へ上がってバンコクエアラインのチェックインを完了。
荷物がグレゴリーのデイパックひとつになったところで地下1階へ降りる。エアポートレイルリンクの乗り場ちかくに並ぶ両替屋のレートはどこもかしこも変わらないようだが、米ドルの小額紙幣に他店より良い数字を出していたスーパーリッチの列に並ぶ。今回は日本円ではなく、2010年に1ドルあたり91円で買った米ドルの、いまだ残っていた1,034ドルを両替する。結果は以下の通り。
USD100(RATE36.55)×6=21.930THB
USD50(RATE36.55)×2=3,655THB
USD20(RATE36.45)×3=2,187THB
USD10(RATE36.45)×25=9112.5THB
USD1(RATE36.20)×24=868.8THB
TOTAL 37,753THB
これに手持ちのタイバーツ6,057バーツを加えれば総額は43,810タイバーツ。田舎で細々と過ごせば、ひと月くらいは保つ金額である。空港内では薬屋の”BOOTS”でビタミンCの錠剤を84バーツで買った。
さてスコータイ行きのバンコクエアライン”PG211″の搭乗口はA8。延々と歩いて保安検査を受け、更に行くと、そこはA6が行き止まりだった。係に搭乗券を見せて、保安検査場の脇から通路に戻る。そして来た道を延々と戻ってひとつ下の階に降りる。いまいちど保安検査を受けてA8のベンチに着く。時刻は6時35分。
そのまま座っていると、僕の名が呼ばれる。「搭乗券に記されたボーディングタイムは6時30分だが、さて…」と思案しつつちかくの係に声をかける。その女の人は即、外に停車中のワゴン車に僕を案内した。車内には運転手のほかに数人の女の人が乗っていた。これすなわち遅れ組、なのだろうか。最後の乗客として6時45分に機のタラップを上がる。
搭乗券に示された席は窓際の6Aだったものの、通路側6Bの乗客が窓際に移っていたため、スチュワーデスはその前の5Aに僕を座らせてくれた。振り向いて数えたところ、全62席に乗客は27名しか乗っていない。”ATR72-660″を機材とする”PG211″は、定刻より1分はやい6時59分に離陸をした。
やがてサンドイッチとクッキー、それにコーヒーが運ばれる。タイの国内線で供される軽食が好きだ。それらはおしなべて程が良い。「美味いものが食べたければ、地上に降りてから食べれば良いではないか」と僕などは考えるけれど、どうだろう。
離陸して数十分が経つと「水に魚あり、田に米あり、王は民に税を課すことなく…」とかつて謳われたスコータイが眼下に見えてくる。機は定刻より21分も早い7時39分にスコータイ空港に着陸。沖に駐められた機から、乗客はまるで遊園地の遊覧車のようなもので空港の建物まで運ばれる。荷物は別途、ピックアップのトラックにて同時に届いた。
さて僕が今回の旅でもっとも懸念したのは、スコータイの空港とホテルとのあいだの交通についてだった。ホテルは人里はなれた遺跡のちかくにあり、空港のシャトルバスのコースには入っていないことが予想されたからだ。しかし案ずるより産むが易し。シャトルバスのオネーサンに声をかけると、オネーサンは上役に、その上役はおなじ会社のタクシー係に声をかけ、話はすぐにまとまった。料金は片道1,000バーツ。いささか高いとは感じたものの、空港からホテルまでは22キロメートルもあり、四の五の言ってはいられない。
太った女性の運転手は、18キログラムのスーツケースを難なくトランクルームに納めてくれた。また運転席に乗り込むや後席の僕に振り向き、よく冷えたペプシコーラの缶を手渡してくれた。タクシーが空港の駐車場から走り出した時刻は8時22分。雨が上がったばかりなのか、道路はほどよく湿り、車載の室外気温計は27℃を示している。
僕が読んだ本によれば、インドシナのドミノ倒し的な共産化を懸念したアメリカが、タイには1960年代に徹底的な宣撫工作をした、そのひとつの結果が全国に張り巡らされた広い道路だという。嘘か誠かは知らないけれど、その道路を飛ばしてタクシーは8時50分にホテルの門をくぐった。驚くべき早さである。
林の中にコテージの点在する道を「アゴダー」と確かめつつ黄色いポロシャツのオネーサンが近づいてくる。「アゴダー」と僕はオウム返しに答えてホテルの予約票を出す。母屋の脇の守衛小屋のようなところでオネーサンはその紙を確認する。このホテルがコテージの形式であることは”agoda”のサイトで確認をしていた。中央棟にはタイシルクなどを売る設備もあったようだが、実際には機能していないらしい。
庭内には細く舗装した道が整備されているものの、それ以外のところは砂利または草のため、スーツケースの車輪が傷みはしないかと心配になる。案内されたNO.2のコテージは幅50メートルほどのヨム川に面して、居心地はなかなか良さそうだ。
シャワーは南の国ではおなじみの電気湯沸かし式だが、温度も水量も申し分ない。荷物を整理し、きのうの日記を完成させる。
11時30分、小径を伝って河床のような食堂へ行く。オネーサンやオバチャンなど3人が端の席で何やらしている。このホテルの社員は、基本的にはいつも、ここにいるらしい。スイカのジュースを注文し、オネーサンにはコンピュータをwifiに繋げてもらう。そして1時間とすこしを、今日の日記を書きつつ過ごす。ジュースは街の茶店で飲むより高い100バーツ。別途、チップの20バーツを置いた。
このホテルの客は、どうやら僕ひとりらしい。ひとつひとつのコテージに車止めが付いているところからして、モーテルのように使われることが多いのかも知れない。南の国ではよくあることだが、何をしているのか分からない男たちも数人ほどはいる。管理についてはそれほどうるさくないらしく、はじめに受付をした場所の脇にある自転車は、自由に乗ってかまわないらしい。
午後、6、7台ほども並ぶ自転車の中から1台を引き出して街道に出てみる。ペダルが馬鹿に重い。すれ違った地元の人が後輪を指さしている。パンクではないものの、タイヤの潰れ具合は限りなくパンクに近い。即、ホテルに戻って他の自転車に乗り換える。あたりは世界遺産の遺跡ではあるけれど、人の姿はまったく見えない。
夕刻、昨年の4月にタイから持ち帰って冷蔵しておいたラオカーオのペットボトルと本、財布、iPhoneをセブンイレブンのエコバッグに入れて外へ出る。そして15世紀に建てられた仏教寺院のひとつ”Wat Khok Singkharam”の前の食堂に入る。オジサンの差し出したメニュを入念に眺めつつ、鶏肉のガパオ炒めにごはんと目玉焼きを付けてもらう。ソーダとバケツの氷も追加する。鮨を肴に日本酒を飲む。マカロニグラタンを肴に白ワインを飲む。それと変わらずタイのメシを肴にラオカーオを飲むことも、また静かに楽しい。
食堂の客は僕ひとり。街道にはたまに、荷物のための台を脇に作り付けたオートバイが通るのみ。気温は日本の夏の夕方とおなじくらい。テーブルに開いているのはドナルド・キーンの若いころの書簡集「昨日の戦地から」。何もかもが、僕にとっては素晴らしい。
朝飯 “TG661″の機内食
昼飯 “PG211″の機内食
晩飯 「プリィアオ」のパッガパオガイカイダーオ、豚挽き肉とパクチーのスープ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2024.6.2(日) リンゴの国
お湯で湿らせた頭にシャンプーを垂らす。そして指で髪の毛をかき回す。しかし一向に泡立たない。シャンプーを追加しても、髪の毛が泡立たないことは先ほどと変わらない。「おかしいな」といぶかしみつつ夢から覚める。
外はいまだ明るみを帯びていない。iPhoneは銀座のアップルストアに預けたままだから起きて洗面所へ行き、低い棚の時計に目を遣る。時刻は3時23分だった。
仏壇へのお供えを済ませてから荷作りの仕上げにかかる。細かい説明は省くが、今回は持ち物が多い。割れ物を持ち帰るためのエアキャップ、通称プチプチの、60センチメートル角のものを2枚入れると、いつもの機内持込用リモアより6リットルだけ容量の大きなPROTEX FP-32Nは酒蒸しにされたハマグリのように口を開けたまま閉まらなくなった。仕方なく、エアキャップはグレゴリーのデイパックに移す。
ようよう閉めたスーツケースを持ち上げると、その重さは僕の旅行史上、かつてないほど重くなった。重量はスコータイで更に増すかも知れない。とにかくバンコクまでは我慢の一途だ。
それにしても、荷作りにこれほどの日数がかかるとは予想しなかった。繁忙により昼は働きづめだった。自由になる時間は早朝に限られた。それが荷作りの遅れたもっとも大きな理由である。
町内を掃除する勤労奉仕「クリーン大作戦」のため、7時に町内の公民館前に集まる。僕は店の前、国道121号線の真ん中の、クルマから投げ捨てたらしい空き缶その他の食べかすを公民館へ運び、分別をする。街の中心部には、ゴミは大して見あたらない。奉仕の作業はすぐに終わった。
17:30 数時間前に17時35分の迎えを予約したタクシーが事務室の前に停まる。普段なら後部座席に置くスーツケースを、今回はトランクルームに入れる。弱くない雨の降る中、運転手は外に出てトランクルームのドアを開けてくれた。
17:33 下今市駅着。運転手には50バーツ、もとい釣銭の200円を心付けとする。
17:38 「東急線内で発生したホームドア点検の影響により、東武スカイツリー線は押上と曳舟のあいだで不通」とのアナウンスがプラットフォームに流れる。
17:52 スペーシアX12号が下今市駅を発車。先代のスペーシアでは遅くて使い物にならなかったwifiだが、スペーシアXでは随分と速くなっていた。よってそれを使って今日の日記のここまでを書く。
19:35 スペーシアX12号が無事、浅草に定刻に着く。スーツケースが重いため、浅草では松屋のエレベータを使って地下に降りる。
19:48 地下鉄銀座線の車両が浅草を発車。
20:02 新橋に到着
20:15 傘を必要としないほどの雨の中を歩いてアップルストアに入る。
「きのうお見積もりをしたディスプレイの交換では、今回の不調は治らないことが分かりました。本体まで手を入れますと修理代は見積もり高くなりますため、今回はこのままお返しします」と、今日の緑のシャツの人は信じがたいことを口にしたから「いや、それは困る」と強く抗議をする。僕は今夜のうちに海外へ行こうとしているのだ。
ガラケーという言葉がある。iPhoneも実は「リンゴの国」というガラパゴスの中に存在しているのではないか。我々は、顧客と連絡を取ろうとすれば、携帯電話、固定電話、メール、手紙など、様々な通信手段を確保している。アップルストアの場合、iPhoneで連絡がつかなければ肩をすくめて両手を広げ、それでお終い、というところがありはしないか。
「お客様、そうなりますと、本体を交換するしか方法は無くなりますが」と言う相手に「そうしてください」と、間髪を入れず答える。いくらお金がかかろうが、iPhoneを欠いてはいかにも旅はしづらい。僕のようにコンピュータとiPhoneの二本立ならともかく、iPhone一丁の人ならその場で「頓死」だろう。
真新しいiPhoneは第2世代のSEということもあり、意外や安い37,400円。ガラスの強固な液晶カバーは6,800円だったから、双方を合わせても44,200円で済んだ。「やれやれ」である。
20:49 アップルストアを出る。雨が強くなっている。
21:04 快特羽田空港行きの車両が新橋を発車。車内にてとりあえず、使い慣れたカメラのアプリケーションをiPhoneにダウンロードする。
21:28 羽田空港第三ターミナルに到着。
21:33 タイ航空のチェックインの列に並ぶ。
21:45 チェックインを完了。スーツケースの重さは18.0キログラムだった。
21:52 保安検査場を通過。
21:55 出国審査場を通過。
今回の搭乗場所は、いつもとは反対側の105番ゲートだった。しかしそちらの方に飲食店は少ない。よって逆の、出国審査場を出て左側へ向かう。昨年の4月はいまだ「コロナ」の余波が残っていたから22時で閉店してしまった鮨の「魚がし日本一」に近づく。そして握り鮨を注文すると、いまの時間にそれは作れず、すべて丼になると言われた。それでは食べる気がしない。目と鼻の先のバーへ移動し、ホットドッグを今夜の食事とする。
来た道を戻って、とはいえ羽田空港も結構、広い。もうすぐ105番ゲートというところの右側にプライオリティパスのラウンジを見つけて大いに驚く。自分のカードと搭乗券を示して中に入り、料理や飲物を検分する。「だったら先ほどのホットドッグ代は使わずに済んだわな」と、損をした気になる。なおシャワーは1時間以上の待ちとのことだった
その更に先の、ビタミンCを買うため当てにしていたコンビニエンスストア”BOOKS & DRUGS”には残念ながらシャッターが降りていた。張り紙には「新型コロナウイルス蔓延防止のため」などと数年前の決まり文句があったから、長く閉まったままなのかも知れない。
22:55 105番ゲートに達する。乗客の数は意外や少ない。昨年の4月に目立った、タイから日本に遊びに来た人たちが帰る姿も見えない。彼らの旅は、桜の季節に集中するのかも知れない。
23:30 「間もなく搭乗」のアナウンスが肉声で伝えられる。
23:35 搭乗開始
23:41 窓際3列の通路側55Cの席に着く。窓際に人はいるものの、真ん中は空席らしい。すこし嬉しい。
朝飯 2 種5個のおむすび、らっきょうのたまり漬、サラダ菜と長葱とズッキーニの味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 “BAR RAGE”のチェダーチーズペッパーソーセージドッグ、コカコーラ(カロリーゼロ)
2024.6.1(土) 銀座、新橋、秋葉原
きょう、ママンが死んだ。否、オフクロは2014年10月15日に亡くなっている。死んだのはiPhoneのディスプレイである。朝一番からGUI、つまりGraphical User Interface、簡単にいえば指によるタッチに画面がまったく反応しなくなった。
4階にはwifiの電波が飛んでいない。普段はiPhoneを介してインターネットに繋いでいる。今朝はそれができないため、コンピュータを手に事務室へ降りる。そして日記の更新、「汁飯香の店 隠居うわさわ」の予約の対応、その他を行う。
6時を過ぎたところで次男に声をかけ、助けを求める。iPhoneのディスプレイが死んだ状態で、一体全体、どのようにしてアップルストアに修理の予約ができようか。次男は試行錯誤の末に自分の名前で12時45分の予約を入れ、QRコードの入った予約票をプリンターから出力してくれた。「助かった」である。
今日は元々、東京へ行く用事があった。銀座8丁目のアップルストアの入口で、ちかくにいた緑のTシャツの、いわゆる「スペシャリスト」に予約票を見せると、3階へ行くよう教えてくれた。
「いま何時ですか」と、3階でやはり緑のTシャツの人に訊く。iPhoneは使えず、腕時計の電池は切れている。「12時27分です」の返事に「予約は12時45分ですが」と伝えると「大丈夫です」と、その大きくいかつい人は優しく頭を下げた。
窓際の椅子で待つ僕に別の係が近づいて、手際よく問題を処理していく。ディスプレイを交換すべきiPhoneは15時30分に仕上がるとのことだったが、手渡しには顔写真の入った身分証明書が必要とのことだった。僕の悪い癖にて、そのようなものは携帯していない。明日にまた来ることを約して外へ出る。
新橋で腕時計の電池を入れ替え、自由学園男子部35回生の同窓会が開かれる秋葉原へ移動する。秋葉原とはいえJRの駅の中を上がり下りはしたくないので、新橋からは銀座線を使う。
15時からの同窓会は、今年の3月に亡くなった同級生イトーイクオ君を偲ぶためのものだった。人数は15名が集まった。会場の予約はセキグチヒロシ君が骨を折ってくれた。皆から集められたイトー君の在りし日の画像はアカギシンジ君がまとめ、次から次へと会場のディスプレイに大写しにしてくれた。会はしめやかに、また賑やかに続いて18時にお開きになった。
後は尻に帆かけて、ではあるけれど、末広町から乗った銀座線を次の上野広小路で降りて、数十分ほどのひとり飲みをする。そして浅草19時19分発の下り特急に乗り、21時すぎに雨の中を帰宅する。
朝飯 ジャコと山椒の実の炒り煮、コールスロー、ジーマミー豆腐、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬、ごぼうのたまり漬、メシ、サラダ菜と揚げ玉の味噌汁
昼飯 「小諸蕎麦」のたぬき蕎麦、ライス
晩飯「もつ焼でんアメ横店」の牛煮込み、お新香、シロのたれ焼き、梅割り焼酎
































































































































