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清閑 PERSONAL DIARY

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2018.9.30(日) タイ日記(6日目)

きのうの夜、腕や脚の痒さに耐えかね、目を覚まして枕頭のiPhoneを見ると、時刻は23時35分だった。「勘弁してくれよ」とばかりに部屋の明かりのスイッチを入れ、持参した蚊取り線香に火を点けた。そして薬袋から萬金油を取り出し、血を吸われた数ヶ所に塗り込んだ。

食堂棟の外の席で数人が声高に話していたこともあって、ふたたび眠ることができたのは、3時間後の2時30分のころだった。そのこともあって、今朝は6時をすぎてようやく目が開いた。朝の光を受けて、カーテンがうっすらと明るくなっている。

朝食は、いつもより遅い8時すぎに摂った。きのうの日記を書き終えて、10時30分にプールサイドに降りる。

今日から読み始めた服部正也による「ルワンダ中央銀行総裁日記」が、大変に面白い。いくら経験を積んだ日銀マンとはいえ、それが一国の中央銀行総裁に呼ばれるなどということがあるだろうか。時は1964年、奇しくもきのうまで読んでいた「南ヴェトナム戦争従軍記」と、おなじ時代である。

プールにいるあいだに100ページまで読もうとしたものの、84ページまで至って時計を見ると14時ちょうど。昼食が欲しくなるほど腹は減っていない。しかし体力を落としてもいけない。街へ出て汁麺を食べ、更にはドゥーリアンモントン、つまりドリアンのアイスクリームをデザートにする

マッサージを受けたい気持ちはあったものの、ホテルに戻り、日本から持参したあれこれを読んで過ごす。16時を過ぎると雷が鳴り、ベランダまで吹き込む大雨になった。雨はそれから2時間ほども降り続いたから、マッサージを受けずに帰ったのは正解だった。

チェンライに着いてから6日が過ぎようとしている。”Dusit Island Resort”に泊まっていた昨年までは、いつもコック川が目の前にあった。僕にとってチェンライの象徴のようなそのコック川を、今年はいまだ目にしていない。

空が夕刻から夜に変わるころ、それまでのタイパンツを普通のズボンに、ゴム草履を革靴に履き替え、街に出る。折良く近づいて来たタクシーを停め、川沿いの料理屋の名を告げる。

川床のような席から望むコック川は、雨期の水を満々とたたえて黒く流れていた。遠く左手に、国道1号線がこの川を跨ぐ大きな橋が白く見え、それを渡るクルマの灯りがゆっくりと動いていく。バンドの演奏が始まっても、特にうるささは感じない。目の前の風景は現実を離れて、とても静かだ。


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 “Pa Nual”のカノムジーンナムニャオ
晩飯 “Leelawadee”の竹虫の素揚げパックブンファイデーントードマンクンシンハビール


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2018.9.29(土) タイ日記(5日目)

今朝の鳥は5時15分から啼き始めた。その声は「キュイッ、キュイッ」だったり「ギィーッ」だったり「ポッポッポロー」だったりする。カーテンを開け、ベランダへの引き戸を全開にする。すると遠くから鶏の声も聞こえてきた。朝食の用意をしているのだろう、食堂棟には既にして灯りが点っている。

このホテルは、昨年まで泊まっていた、コック川の中州に建つドゥシットには較べるべくもないものの、結構、広い。その広さを銀座の地理で説明すれば、正門は中央通りに、そして裏門は旧電通通りに抜けている感じだ。裏門の方が目抜きのパホンヨーティン通りにちかいため、僕はもっぱら、こちらの方を使っている。

よって今朝は、このホテルに来たときにしか通らなかった正門まで庭の小径を歩き、その外を散歩してみた。道を渡ると風景は一気に郊外のそれになり、種々の竹籠を製造販売している店あるいは庭に置くコンクリート製の祠を売る店などが、途切れ途切れに並んでいた。また郊外型の、大きな食堂も目立った。

散歩から戻ると9時30分。ようやく薄日が差してきたところを見計らってプールサイドに降りる。

いま読んでいる岡村昭彦の「南ヴェトナム戦争従軍記」は、3月にフアヒンで読み始め、バンコクに移動するまでの数日間で256ページまでを読んだ。今回はその256ページから読み始めて、本日、最後の500ページに達した。

1965年4月、岡村は南ヴェトナム解放民族戦線の誤解からDゾーンのジャングルで捕虜となり、50数日間の厳しい監禁生活を耐えた。そして遂に、同戦線の副議長フィン・タン・ファットと念願の会見を果たし、親しく意見を交換した。その際、押収されていた3冊の本を彼に頼んで戻してもらうと、タン・ファットはそのうちの「魯迅選集」の扉にある魯迅の家族の写真を「じっと吸い込まれるように」見てから「もしできることなら、あなたがお帰りになるとき、記念として、この本を私にゆずっていただけないでしょうか」と岡村に頼む、この場面こそ「南ヴェトナム戦争従軍記」後半の白眉と、僕は感じた。

寝椅子で本を閉じるとポツリと顔に雨粒が落ちた。午後のスコールが来るのかも知れない。上半身にバスタオルを巻き付け、庭を歩いてロビーから40段の階段を上がって部屋に戻る。時刻は13時10分になっていた。

昼食を摂るため街に出る。食後は初日にも訪ねたマッサージ屋”PAI”で2時間ほどからだを揉んでもらう。係は今日もジェップさんだった。

チェンライでは土曜日の夜に、大きな市が立つ。それだけなく、広場に市民が集まり、地元の音楽を楽しみながら、飲み、食い、かつ踊って楽しむ。チェンライの滞在に土曜日が含まれるときには、僕はかならずこのサタデーナイトマーケットに出かける。早く行かなくては席が埋まる。すこし焦りつつホテルの裏口を出る。時刻は16時50分。

店を開きつつある露店のあいだをすり抜け、会場の広場には17時10分に着いた。案に相違して、席のほとんどは空いていた。市民は天気の行方を知っているのだろう、西の方で雷鳴が聞こえ、やがて雨が降り始める。僕はすぐちかくのセブンイレブンで買ったばかりのソーダと氷で席を確保してから大きな木の下に避難した。

幸いなことに、雨は間もなく止んだ。露店のひとつで鳥の心臓の串焼きを買う。別の露店で豚肉をバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたものを買う。席に戻ると「国王賛歌」がスピーカーから流れ始める。時刻は18時。僕は地元の人たちと共に起立をする

空が徐々に暗くなる。木々からはいつものことながら、異常なほど集まった鳥が、考えられないほど大きな声を発している。「空いてますか」と若いカップルに声をかけられて「もちろん」と席を勧める。19時にいつものバンドがステージに現れる。歌の達者な帽子のオジサンは今年も健在だった

タイ人は日本人よりもよほど、個人の多様性を認める。あるいは個人の趣味や嗜好、あるいは性癖に干渉しない。僕にはそのように感じられるけれど、実際のところはどうなのだろう。変化に富んだ市民による踊りの輪が、だんだんと大きくなっていく

広場にはいまや、1,000人を越えると思われる市民が集まっている。同席のカップルは去り、入れ代わるようにして、今度は老夫婦が来た。その奥さんが踊りの輪に加わるべく去ると、オジサンは手持ち無沙汰になったか、僕に盛んに話しかけるが、もちろん、何を言っているかはほとんど分からない。

「ホテルに戻る」と、オジサンの耳に口を近づけ、大きな声で伝える。銀糸を織り込んだ青いシャツのオジサンは「そうか」という風に頷いた。田舎の夜に眩しいほどの光を連ねた露店を眺めつつ、帰り道を辿る

今夜は遠回りをして、朝、散歩をした方に回ってみる。このあたりにはムーカタの店が多い。ホテルの正門に何時ごろ帰り着いたかは、酔いも手伝って、記録はしていない


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナムニャオ
晩飯 鶏の心臓の串焼、豚肉をバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたもの、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.28(金) タイ日記(4日目)

きのうとまったくおなじ、午前1時30分すぎに目を覚ます。おとといの夜も、そしてきのうの夜も20時すぎ就寝したことを考えれば、それほど不思議なことでもない。

きのうの日記を書こうとしてコンピュータを立ち上げると、ホテルのwifiが見あたらない。一時的に落ちているのだろう。心配なのは、キーボードの”E”キーの接触が、いきなり鈍くなっていることだ。帰国したらできるだけ早く、あるいは羽田空港から家に帰る途中にも、秋葉原の「LUMIX&Let’s note修理工房」を訪ねるべきかも知れない。

wifiが復旧するまでは、秀丸で日記を書くことも考えた。しかし二度寝をすることにして、今度は6時直前に起床する。鳥はやはり、きのうとおなじ5時50分すぎに啼き始めた。

普段は、少なくない量の朝食を摂っていても、11時が近づくころには著しく腹が空いている。しかしタイにいると、昼を過ぎても食欲は一向に湧かない。旅先では、からだは動かしても脳を働かせることはしない。だから腹も減らないのだろうか。今朝は試しにパンを抜いてみる。

このホテルのプールは、東側に幾本ものタビビトノキが育っている。そのため午前中は日影が多く、涼しい。そのプールで90分ほどを過ごす。昼は街に食事に出かけ、午後はふたたびプールの寝椅子に戻る。今日は岡村昭彦著「南ヴェトナム戦争従軍記」の、306ページから411ページまでを読むことができた

部屋に上がってシャワーを浴び、冷蔵庫から水を取り出そうとすると、その扉の内側に立てたガラス瓶が、冷蔵庫の構造上の不備から床に落ち、割れた。水はバスマットに吸わせたものの、ガラスのかけらは素手では取りきれない。よってフロントへ行き、掃除のオバチャンを寄こすよう頼む。

裸足で来たオバチャンには「危ないから」と注意してサンダルを履いてもらう。「水は20バーツ」と、掃除をするより前にオバチャンが口を開く。「何だよ、この冷蔵庫を見てみなよ、こんな設計だから、メイドの立てた瓶が滑り落ちるんだよ、それを何が20バーツだ」というような主張はしない。「だったら2本」とオバチャンに頼んで50バーツ札を渡す。

オバチャンは柔らかい箒で石の床からガラスのかけらを集め、更に分厚いタオルであたりを丁寧に拭いてくれた。そして廊下に出て、しばらくすると”Chang”社製ミネラルウォーターの、500ccの瓶2本を抱えて来た。オバチャンが10バーツの釣りを寄こしたので「要らない」と手で制すると、オバチャンはワイをして頭を下げた。しかし10バーツでは僕の気が収まらない。オバチャンには更に50バーツのチップを渡した。

17時55分にホテルの裏口を出る。そして歩いて2分ほどの洗濯屋を訪ねる。泊まっているホテルにはランドリーが無い。そのため毎日こまめに洗濯物を出す、ということができない。この店には今朝、日本を発ってからきのうまでの洗濯物を預けたのだ。価格は1キロで50バーツ。洗い上がった衣類は、朝とおなじセブンイレブンの袋に入れられ手渡された。この洗濯屋には、チェンライにいるあいだに、もう1度は来る必要があるだろう

「毎晩、ナイトバザールってのもなぁ」と、今日はウィアンインホテルはす向かいのルーフトップバーに上がってみる。バンコクのルーフトップバーは50階、60階にあるが、チェンライのそれは3階である。3階でも周りに高い建物はないから、見晴らしは悪くない。食べ物のメニュを取り寄せると、フレンチフライやポップコーンのたぐいが目立ったため、ここではビールだけにしておく。

そして結局は、今夜もナイトバザール奥のフードコートである。

数年前にガオラオを買って、あまり美味くなかった店に行列ができている。どうやら揚げ物で当てたらしい。揚げ物はさておき、僕の好物パッセンミーが大皿に大盛りになっている。それを40バーツで買い、次は飲物を売るブースでソーダと氷を、それぞれ20バーツと10バーツで買う。そうして鉄製の黄色い椅子に着き、今夜も静かに飲酒活動を行う


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 「ナコンパトム」のカポップラー
晩飯 名前を知らないルーフトップバーのシンハビール、ナイトバザールのフードコートのパッセンミーラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.27(木) タイ日記(3日目)

鳥の声が聞こえてカーテンを開ける。夜はいまだ明けてはいない。時刻は5時53分だった。そのままベランダへの戸を開け放つ。気温は高くもなく、また低くもない。

外が騒がしくなったため、日記を書く手を休めてベランダに出る。別棟に泊まっていたらしい団体が、ちょうど食堂棟に入っていくところだった。時刻は6時30分。1台、そしてまた1台と、大型バスが食堂棟に横付けをされる。団体客は1時間後の7時28分に、2台のバスに綺麗に収まってどこかへと去った。きのうの団体と、数分と違わない出発である

いまだ空の暗いうちに書き、朝食の前に「公開」ボタンをクリックしたきのうの日記に、朝食を済ませてから手直しを加える。そして今度は今日の日記のここまでを書く。時刻は9時42分になっている。

きのうの日記には「明日は休養に勉めよう」などと書いたにもかかわらず、10時40分に目抜き通りに出る。そしてエジソンデパートはす向かいのカフェで、きのうに続いて自転車を借りる。僕はまだ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”を諦めていない。

10時40分に自転車を借りたには訳がある。タイは日本にくらべてよほど、酒やタバコには厳しい。日中においては、酒は11時から14時までの3時間にしか買えないのだ。

先ずはバスターミナル前の”PRASOPSOOK ROAD”を東に進む。すると間もなく、ミャンマーとの国境メーサイからバンコクの戦勝記念塔までを結ぶ大動脈、国道1号線に出る。時刻は10時57分。そのまま南へ向けてペダルを踏む。

しばらく行くと左手に”Big C”の黄緑色の看板が見えてくる。金色の歩道橋の先、右側には”Central Plaza”の看板も、また見え隠れしている。時刻は11時01分。きのうの苦労は一体、何だったのだろう。ひとえに、僕の調査不足、あるいは「チェンライの地理は頭に入っている」とばかりに地図も持参しなかった、自分への過信によるものだ。

9年ぶりの”Big C”は懐かしかった。ラオカーオの売り場を訪ねると、量こそたっぷりあったものの、“BANGYIKHAN”は見あたらなかった。”BANGYIKHAN”は、バンコクではオンヌットのテスコロータス、あるいはピンクラオのパタデパートで手に入る。しかしオンヌットも、またピンクラオも、僕が泊まるバンラックからは、それほど近くない。

気を取り直して国道1号線を北へと戻る。バスターミナルへの道の入口を無視してそのまま進むと、左手に一軒家のマッサージ屋があった。店の名前は”ARISARA”。サンスクリット語だろうか。

興味を惹かれて自転車を乗り入れ、花壇を支える木の柱に前輪を鍵で固定する。6、7段ほどの階段を上がっていく。玄関には太った女将がいた。料金表のオイルマッサージは1時間で600バーツ。左手の椅子に腰かける僕を待ち構えていたように、紅色のタイパンツを穿いた女の人は湯の入ったたらいを床に置いた。女の人は、何かいわれがあるのだろう、泥と砂を混ぜたような石鹸で僕の足を洗った。

ふくらはぎの内側、そして太ももの外側を執拗に責め続けるという、これまで経験したことのない施術は満足のいくものだった。女の人には100バーツのチップを手渡した。先ほどまで愛想の良くなかった女将は、なぜかにこやかになっていた。

国道1号線からホテルまでの裏道を確かめながら、ふたたびパホンヨーティン通りに出る。そしてそれを越え、サナビーン通りも横切る。”SANKHONGNOI ROAD”を更に西に進み、soi4のパクソイをすぎてすぐの右側にある汁麺屋に自転車を駐める。注文したのはカノムジーンナムニャオムー。別皿の生のモヤシをすこし加えたら良い塩梅だったため、すべてを投入したところ、折角の麺の食感が分からなくなってしまった。何ごとも、過ぎてはいけない、ということだ。やがて屋根を打つ雨の音が聞こえ始める。

雨はいわゆる天気雨で、すぐに止むかに思われた。しかし一天にわかにかき曇り、とてもではないけれど、外へは出ていけない勢いになった。その場に立ちすくむ僕に、店の親切なオネーサンはステンレス製の丸椅子を持って来てくれた。35バーツの汁麺1杯を食べただけの「いちげん」の客に、タイ人とは思えない心遣いである。僕はその椅子で、40分ちかくは休んでいたと思う。

丸椅子から立ち上がり、オネーサンに礼を述べつつ椅子を店に戻したのが14時15分。クルマの跳ね上げるしぶきを避けつつカフェに着き、自転車を返す。今日のオニーチャンは、朝に預けた100バーツを引き出しにいれたまま、パスポートのみ返してきた。そこで「きのうは60バーツだったぜ」と言うと、折良くきのうのオネーサンが奥から顔を出した。「半日なら60バーツ」と、オネーサンが口を添える。僕は無事、お釣りの40バーツを手にした。

部屋に戻って時計を見ると14時41分。通常ならプールへ降りるところ、天気は冴えない。結局は夕方まで部屋にいて、主に本を読んで過ごす。

夕刻、きのう街の酒屋で買ったラオカーオ”YEOWNGERN”を持ち運び用のペットボトルに移そうとして金属のスクリューキャップを開けると、まるで輸入ウイスキーの「玉付き」のようなフタが瓶にはめ込まれていて、押しても引いても動かない。よってその瓶を手に1階へ降りると、廊下の向こうからホテルの従業員が歩いてきた。そこで彼に瓶の口を見せると「レストラン」と言う。

食堂棟に入って右側には大きな事務机がある。そこに近づき「これ、開けられますか」と問いかける。若いマネージャーは「そこまで真剣にならなくても」と思われる表情で「すこしお待ちください」と外へ出ていった。

そのまま立っていると、タイでは女でもウェイターと呼ばれるウェイトレスのひとりが何ごとかと近づいて来た。訳を話すと彼女はその瓶をどこかに持ち去り、外した内蓋と共にふたたび現れた。見事な手際である。礼を述べて本館への階段を上がっていくと、先ほどのマネージャーが先ほどの従業員を連れて食堂棟へ戻ろうとしていた。「ウェイトレスが開けてくれたよ。今夜はこれを持ってナイトバザールへ行くんだ」と説明する。「オー、ナイッ、パッサーッ」と、彼らは朗らかに笑い声を上げた。

間もなく落ちようとしている夕陽を真正面に望みつつ、懐かしい感じのする田舎の道を往く。昼でも人の少ないこの道だが、目抜き通りまではそう遠くない。そしてまたまたナイトバザールの奥のフードコートに席を占め、ひとりゆっくりと落ち着いて、飲酒活動に専念をする


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きトーストとエスプレッソ西瓜とパイナップル
昼飯 「パースック」のカノムジーンナムニャオムー
晩飯 ナイトバザールのフードコートのパッシーユームーサップラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.26(水) タイ日記(2日目)

チェンライの朝の空気は澄んでいる。このホテルには広い庭にランナー様式を模したいくつかの棟があり、そのうちの、僕は客のほとんどいない旧館に泊まっている。団体客は新館に案内をされているらしく、だからとても静かだ。

部屋のベランダから目と鼻の先の食堂棟の様子をそれとなく覗っていると、きのうからの団体客は、7時30分に大型バスに乗り込み去った。それを見届けてから、朝食を摂るため、その食堂棟に降りていく。

きのうの日記は9時までに完成させようと考えていたが、10時までかかってしまった。移動日の日記は、どうしても長くなるのだ。そしてようやく街に出て、先ずは馴染みの床屋で髪と髭を短く刈ってもらう。料金は、顔剃りと洗髪を含めて210バーツだった

エジソンデパートのはす向かいに新しいカフェができ、そこでは自転車の貸し出しもしていることを、きのう街歩きの最中で知った。若い女の子に「2、3時間」と伝えて料金を訊くと、60バーツとのことだった。真新しく整備の行き届いた自転車であれば、その値段は妥当だろう。

ハンドルの前の籠に、気に入ったタイパンツと日本から持参した生地、そしてきのう旅行社の親切なオネーサンに書いてもらったタイ語によるメモを入れて、旧時計塔横の市場の前に自転車を停める

きのう人のいなかった仕立屋には、男の老人と中年の女の人がいた。老人にタイ語のメモを手渡す。老人は老眼鏡をかけて、そのメモをゆっくりと読んでいく。そして女の人に二言三言なにかを言う。女の人は黙って首を横に振る。ここもまた、実は仕立屋ではなく、修理専門の店だったのだろうか。

老人は、きのう2度3度と歩いた、肉売り場を突っ切る通路まで僕を連れて行き、反対の方を指さした。そこはきのう、布地屋の、インド系のあるじが「仕立屋はそちらの方にある」と教えてくれたあたりだ。きのうは足を踏み入れなかった通路まで入ってみると、ミシンを置いた店があった。ふたりいたうちのひとりのオバサンにメモを差し出すと、オバサンは店主らしい、もうひとりのオバサンにメモの内容を伝えた。それを耳にしたオバサンはやはり、首を横に振る。もはやこれまで

“OVERBROOK HOSPITAL”のちかくに、スーツやドレスを誂える店のあることは知っている。しかしそのような店ならバンコクにもある。タイパンツの仕立てについては、バンコク在住の同級生コモトリケー君に頼ることを決め、一旦、ホテルに戻ってコモトリ君にその旨を記したメールを送る。

次はラオカーオだ。僕の最も好きなラオカーオは”BANGYIKHAN”だ。3月にフアヒンのテスコロータスで2本を買い、今回は500ccのペットボトルに入れて持参したそれは、明日にも尽きるだろう。そして目抜き通りの酒屋に、きのうこの酒は無かった。

ホテルから自転車をこぎ出し、パホンヨーティン通りを一路、南下する。しばらく走ればチェンマイまで延びる幹線道路沿いに巨大なスーパーマーケット”Big C”の看板が見えてくるだろう、そう考えてペダルを踏むも、目指す”Big C”の文字はなかなか現れない。「あまり深追いをすると、帰ってこられなくなるぞ」と、山で遊んでいたころ身につけた赤信号が脳に点灯する。しかし遂に、”Big C”ではなかったものの、タイ人は「センターン」と鼻に抜けるように発音する”Central Plaza”の看板が見えてきた。

その看板にはまた”Tops”の文字もある。”Tops”はタイ人が「ロータッ」と発音する”Tesco Lotus”や”Big C”よりも高級に寄った品揃えで、ラオカーオは置いていない可能性が高い。しかしここまで来たなら行ってみよう。駐輪場に駐めた自転車に鍵をかけ、首に巻いた麻のバスタオルで顔の汗を拭く。

「センターン」の中の”Tops”には、しかしやはり、ラオカーオは1種類しか置かれていなかった。またまた20分ほどもペダルをこぎ続けてホテルやバスターミナルのある旧市街の中心部まで戻り、次男とチェンライに来たとき見つけた小さな道を辿って花市場に出る。そしてそこの、これまた行きつけのイサーン料理屋でトムセーップを頼む。

5年前に家内と来たときには、いまだ子供のようだった女の子が、今は立派に調理場を仕切っている。そのオネーサンが、僕に何ごとか声をかける。多分、米は付けるかと訊いているのだろう。腹はそれほど減っていないので「マイカーオ(ゴハンは要らない)」と答える。すると今度はオネーサンの発する問いに「カオニャオ」という言葉が混じった。先ほどの僕の返事は間違っていたらしい。「マイカオニャオ(おこわは要らない)」と返す。オネーサンはまた、僕に分からないタイ語を発した。辛さについてのことと想像して「タマダークラップ(普通でお願いします)」と頼むと、オネーサンは得心した様子で鍋に向かった

それにしても、部屋に出入りするたび40段の階段を上り下りし、小さいとはいえプールを何往復も泳ぎ、1日に何キロも歩き、そして今日は自転車を1時間以上もこぎ続けた。いつもの僕からすれば大した運動量だ。それに加えて生姜やレモングラスや唐辛子をたっぷり含むスープを飲んで大汗をかいている。チェンライでの休暇は、健康に良いことずくめのような気がする。

自転車をカフェに返却しきのうの酒屋でラオカーオ”YEOWNGERN”を買う。30分ほど前に雷鳴の聞こえたときには、頭上には青空が広がっていたから、何も心配はしなかった。しかし気づくといつのまにか涼しい風が吹き始め、日の光はどこにも無い。

ホテルの裏口へと続く田舎道を歩くうち、大きな雨粒が落ちてくる。建築資材屋のトタン屋根は、その雨粒を受けて大きな音を立てている。すんでのところでホテルに戻る。そして水量の極端に少ないシャワーを浴びつつ「明日は休養に勉めよう」と決める。

プールサイドには15時30分に降りた。先ほどのにわか雨はまるで幻だったように、見上げる空はどこまでも青い。「タイパンツの仕立てはどうにかなるだろう」と、コモトリ君から電話が入る。そして17時まで本を読む。

ナイトバザールのフードコートは、きのうにくらべて静かだった。ホテルで330ccのペットボトルに入れ替えるラオカーオは、きのうも今日も、1度では飲みきれない。ホテルには、20時より前に戻った。いつ、どこにいても、早寝早起き、である。


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きトーストとエスプレッソ
昼飯 花市場にあるイサーン料理屋のトムセーップ
晩飯 ナイトバザールのフードコートのヤムママー品書きには”ANGUS BEEF”と書いてあった牛串の照り焼きラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2018.9.25(火) タイ日記( 1日目)

今夜の機材は新しく、照明はタイ航空のイメージカラーに合わせたか紫色で、バブル期の遙か以前に流行ったサパークラブを思わせた。通路を進むと、僕の席69Hは最後尾の通路側で、ほぼ言うことは無い

00:37 “AIRBUS A350-900″を機材とする”TG661″は、定刻に17分おくれて離陸。
00:45 ベルト着用のサインが消えたため、椅子の背もたれを最大に倒してデパスとハルシオン各1錠を飲む。

04:05 機がかなり揺れている。というか、今夜は離陸の少し後からほぼずっと揺れ続けたような気がする。そのため眠りは浅い。
04:45 完全に目が覚める。周囲の乗客はすっかり寛いで、なにやら賑やかだ。
04:48 洗面所へ行くため靴を履こうとしているところに朝食の配膳が始まる。
05:10 3つ並びの席の真ん中の空席に食べ終えたお膳を置き、洗面所で歯を磨く。
05:22 ダナンの海岸線が近づきつつある。ここを過ぎればバンコクには1時間で着く

“TG661″は、定刻より18分はやい日本時間06:32、タイ時間04:32にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。

04:52 機から出て空港の通路を歩き始める。
04:54 国際線から国内線に乗り換えるためのパスポートコントロールに達する
05:08 バンコクエアウェイズのカウンターでチェックインを完了。搭乗ゲートはA9。
04:14 パスポートコントロールを抜ける。
04:22 保安検査場を抜ける。

タイの空港の保安検査場では多く、靴を脱ぐことを要求される。靴を脱ぎ、靴下で床に立つと、床の汚れが靴下に付き、その汚れは靴の中底に付く。それが嫌だから裸足になろうとすると「そこまでは…」と係が僕を制止する。”No problem”とか適当に答えつつ靴下を脱ぐ。裸足になれば、床の汚れは足の裏に付く。しかしこのときの足の裏の汚れは、後に履く靴下の内側を汚すのみで、靴の中底は汚さない。僕が更に神経質であれば、専用のゴム草履を用意するところだが、そこまでは流石にしない。

指定されたA9ゲートに向かう途中、バンコクエアウェイズのラウンジが左手に現れる。同社のボーディングパスさえ持っていれば、誰でも入れるラウンジだ。ここの電源付きカウンターにコンピュータを開き、きのうタイ航空機に乗り込んでから現在までの日記を書く。このラウンジのwifiは、羽田空港のそれより格段に速い

コンコースのトイレを使い、ラウンジに戻ると、入口のオネーサンが僕のボーディングパスを見て「もう搭乗が始まってますよ」と言う。そこに記されている搭乗所時刻は06:45。現在時刻はいまだ5時台。「せっかちもいいところじゃねぇか」と、今度はカウンターではなくソファに落ち着き、エスプレッソを飲む。

いよいよ席を立ってA9の搭乗口を目指す。通路を突き当たりまで進むと、しかしそこはA6だった。スワンナプーム空港で困ったことが起きたときには、薄紫色の上着を着た、タイ航空の職員を頼るべし。ちょうど前から近づいて来たオバチャンに「A9って、どこですか」とボーディングパスを見せると「オーッ」とオバチャンは一瞬、眉間に皺を寄せてから「一旦、A1ゲートまで戻ります。そこを左に折れて、下の階に降りてください」と、もと来た方を指した。それにしても、オバチャンが眉間に寄せた皺の意味は何だったのだろう。

オバチャンの説明は的確だった。A9ゲートに足を踏み入れるか入れないかのところで係らしきオネーサンが近づいてくる。そのオネーサンにボーディングパスを見せる。オネーサンは即、僕をカウンターに案内する。カウンターの係はパスのバーコードを読み取り、外に停まっているワゴン車まで僕を連れて行ってくれた。ワゴン車には僕のほかにもうひとり、中年の男が乗った。ワゴン車は間もなく走り出し、飛行機の下まで我々を運んだ。搭乗者名簿を手にしたオネーサンが外からワゴン車のドアを開けてくれる。僕はザックを背負ってタラップを昇り、機内へと入る。

古くて小さな飛行機の座席に着くと、気分はようやく落ち着いた。それにしても、なぜ皆、それほど急ぐのか。念のため、iPhoneの時刻表示と腕時計を確かめてみる。iPhoneが示すバンコク時間は7時19分、腕時計のそれは6時19分。バンコクに着いて2時間遅らせるべき時計の針を、僕は誤って3時間も遅らせていたのだ。バンコクエアウェイズの係は、よくもまぁ、僕を待っていてくれたものだ

“AIRBUS A320″を機材とする”PG231″は、定刻に12分おくれて07:37に離陸した。雲の上を1時間ほども飛べば、タイも最北部に達する。眼下に「常春の国」は晴れている。機は定刻より10分はやい08:45にメイファールン国際空港に着陸をした。

タラップを降りて徒歩で空港ビルに入る。乗客たちに混じって通路を往くと、僕の胸の”BAGGAGE CLAIM”のシールに気づいた、唇にピンク色の紅を差したオニーサンに声をかけられる。同じように呼び止められたオバチャンとふたりでオニーサンの後に着いていく。見慣れた回転台には驚くべし、既にして僕のスーツケースが回っていた。国際線からこの国内線に乗り換えた乗客は、どうやら僕とオバチャンのふたりだけだったらしい

チェンライでいつも泊まる”Dusit Island Resort”に部屋を確保できなかった事情については、7月4日の日記に書いた。はじめて泊まる”Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”を、空港を出てすぐ左側にあるタクシー申込所のオネーサンは即、理解して運転手を呼んだ。運転手は僕のスーツケースをタクシーの際まで運び、丁寧な手つきでトランクに収めた。

ホテルには20分ほどで着いた。運転手には50バーツのチップを手渡した。レセプションのある建物からオニーチャンが出てきて僕のスーツケースを持つ。チェックインが済むと、オニーチャンはそのスーツケースを最上階の3階まで運び上げてくれた。このホテルにエレベータは無い。このオニーチャンにも50バーツのチップを手渡す。

部屋は予約時に指定したとおり3階の角部屋だった。デスクの真ん中に置かれたパナソニック製のテレビを持ち上げると意外に軽い。よってこれを箪笥の上に片付ける。4つもある枕は、そのうちの3つを部屋の隅のソファに重ねる。素早く部屋を、自分ごのみのそれに変えていく。

さて今回、僕は木綿と麻の混紡の、紺色の生地を持参した。手持ちのタイパンツは4本。そのうち特に形の気に入っている1本が、この5年間の使用により古びてきた。持参した生地は、この1本とまったくおなじものを、チェンライのどこかで作ってもらうためのものである。

その生地と見本のタイパンツをプラスティックの手提げ袋に入れて街に出る。そして馴染みの旅行社で、バンコクに移動する日のタクシーを予約する。その際、係のオネーサンに、この街でタイパンツを作ることについて話す。色の黒い、愛嬌のある顔つきのオネーサンは、僕の望むことを紙にタイ語で書いて、手渡してくれた。大いに有り難し。

タイの田舎の街は、その中心に時計塔を持つ例が少なくない。旧時計塔の横の市場まで歩いて仕立屋を探す。しかしどうにも見つからない。生地のほかに糸なども売る大きめの店に入ると「何かお探しですか」とでも言っているのだろうか、インド系のあるじに声をかけられた。仕立屋を探していると答えると、紙に何やら書いてそれを僕に手渡し「この先で、この紙を見せれば、誰かが教えてくれる」というようなことなのだろう、なにか説明しつつ通路の先を指で示した。

教わった通り、すこし先の、Tシャツなどを売る店のオバサンにそれを見せると、はす向かいの、調味料などを売るオバサンに何ごとか訊く。オバサンはもと来た方を指して「サイムー」と言う。「サイ」は「左」の意味だが「ムー」とは何だろう。

教わったあたりの、やはり布地を売る店の、耳たぶにピアスをした静かなオニーサンに先ほどのメモを見せる。オニーサンは腰掛けから立ち上がり、市場の中心部の、肉や魚を売る場所を横切り始めた。「そっちじゃないと思うけど」などとは言えない、そのまま着いていくと、市場の屋根の尽きるあたりに、異なる種類の3台のミシンを備えた店があった。礼を述べるとオニーサンは特に表情は変えず、自分の店の方へときびすを返した。

その仕立屋には、しかし人はいない。昼食中なのだろうか。当方の旅は、そう急ぐものでもない。わら半紙に青いインクの判を捺した名刺を箱から取り、出直すことにする

既にして1時間以上も歩き続けている。腹も減っている。いま食べたいのは、何といってもバミーナムニャオだ。市場からホテルに戻る道すがら、ジェッヨッ通りの通い慣れた店に入る。今日のバミーナムニャオは、昨年のそれより隨分と辛い。気温はそう高くないものの、噴き出る汗が止まらない。ホテルに帰ると即、本日2回目のシャワーを浴びた。

プールサイドに降りたのは13時28分。本を読む合間に25メートルほどのプールを6往復する。やがて日差しが弱まって、涼しい風が吹き始める。部屋に戻って本日3度目のシャワーを浴びる。

行きつけのマッサージ屋”PAI”は、ホテルの裏口を出て西に真っ直ぐ歩けば、その道がパホンヨーティン通りと交わる左手前の角にある。そのガラス戸を押し、脚と肩のマッサージを頼む。係は馴染みのジェップさん。1時間のマッサージが終盤にさしかかるころ、テレビに国王賛歌が流れ始める。時刻は18時、ということだ。マッサージ代はバンコクでのそれより隨分と安い200バーツ。ジェップさんには50バーツのチップを手渡す。

“PAI”を出て、この街の目抜きであるパホンヨーティン通りを北上する。間もなく右手にナイトバザールの入口が見えてくる。この街での夕食は大抵、ナイトバザールの奥の、野天のフードコートで摂る。いつものオバサンの姿は見えなかったから、それがオバサンの店かどうかは確かめられなかったけれど、とにかくチムジュムを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。その楽しさ、気楽さは、何とも喩えようがない

ホテルに戻る道の真正面に、大きな月が見えている。今夜は十六夜だったかも知れない


朝飯 “TG661″の機内食“PG231″の機内食
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナムニャオ
晩飯 ナイトバザールのフードコート32番ブースのチムジュム、3月にフアヒンのテスコロータスで買った残りのラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2018.9.24(月) 空港へは何時に

04:35 起床
04:51 仏壇に花と水とお茶と線香を供える。
04:56 きのうまでの衣類や今朝まで着ていたパジャマなどを洗濯機に入れて回す。
05:14 きのう書いたおとといの日記を「公開」にする。
05:56 きのうの日記を書いて「下書きとして保存」にする。

06:03 東の空の雲の隙間から、やおら、太陽が現れる。
06:10 朝食の準備を始める。
06:48 朝食を食べ終える。
06:50 食器を洗い、シンクを排水口まで掃除し、レンジ周りはアルコールで拭く。
07:10 店舗に降りて冷蔵ショーケースの覆いを外し、シャッターを上げる。

07:28 おとといの朝食を会社のfacebookページに上げる。
07:35 道の駅「日光街道ニコニコ本陣」の売り場を拭き、本日の納品数を決める。
08:10 定時に5分さきがけて店を開ける。
08:50 道の駅「日光街道ニコニコ本陣」に本日1回目の納品をする。
11:20 タイに持参する辛ひしお1Kgをフクダナオブミ製造顧問に詰めてもらう。

13:45 外食にしようと考えていた昼食を、思い直して自宅で摂る。
14:15 タイに持参する荷物の最後の確認をする。
14:43 道の駅「日光街道ニコニコ本陣」に本日2回目の納品をする。
14:58 如来寺のお墓へ行き、20日に供えた花を片づけて、花立ても洗う。
16:02 製造係のイトーカズナリ君と、あした蔵出しする商品の数を決める。

16:08 きのうの日記を「公開」にする。
16:17 きのうの朝食を会社のfacebookページに上げる。
18:00 閉店。
18:18 キャッシュレジスターを締め、売り上げ金を金庫に仕舞う。
18:27 4階の自宅に戻り、朝から用意しておいた服に急いで着替える。

18:39 長男の運転するホンダフィットで東武日光線の下今市駅まで送ってもらう。
19:00 定刻に3分遅れて特急スペーシアが下今市駅を発車。
20:49 定刻に4分おくれて特急スペーシアが浅草駅に到着。
20:01 都営浅草線の車両が浅草駅を発車。
21:44 都営浅草線の車両が羽田空港国際線ターミナル駅に到着。

21:57 タイ航空のカウンターでチェックインを完了
22:05 待機人数19人、待ち時間80分で、シャワーを諦める。
22:13 保安検査場を通過。
22:16 パスポートコントロールを通過。
22:34 夕食。

23:07 105番ゲートに達する。
23:11 サイフから日本円を出して封筒に収め、別の封筒から1,650バーツを財布に移す。
23:40 搭乗開始。
23:42 今日の日記を完成させて「公開」にする
23:44 今日の朝食を会社のfacebookページに上げる。


朝飯 納豆、「みょうがのたまり漬」を薬味に「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」をかけた冷や奴、生玉子、じゃこ、明太子、メシ、豆腐と長葱の味噌汁
昼飯 トースト、トマトとキャベツのサラダ、牛乳
晩飯 「魚がし日本一TOKYO SKY KITCHEN店」のばってら鮨


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2018.9.23(日) 筆の先も乾かないうちに

家内の作り置いた常備菜は、家内が新宿タカシマヤに8日間の出張をしているあいだに、ほぼ枯渇した。その家内は19日の水曜日に帰宅し、翌20日の夜に成田空港へと向かって去った。以降の朝食は、冷蔵にあるちまちまとしたものを、おかずにしている。おかずが冷たくても、ごはんが温かく、味噌汁が熱ければ、不満は全く感じない。

今朝のごはんは、隨分と地味なものになった。まるで、あるとき銀座で入った小料理屋で、近くに住むらしいお婆さんが食べていた夕食のような風情だ。しかし僕も齢62に達したことを考えれば、食事はこのくらい簡素な方が良いのかも知れない。

このところ続いていた雨は、ようやく止んだ。午前の早い時間から空は晴れ始め、気温も上がった。そのこともあってかどうかは不明ながら、今日は多くのお客様に恵まれた。有り難い限りだ。

店舗入口右側の季節の書は、先々週に「鬼灯」から「秋惜」に掛けかえた。惜しむべき秋は、いつごろまで続くだろう。

「食事はこのくらい簡素な方が良いのかも知れない」などと書いた舌の根も、否、筆の先も乾かない夜にはソーセージやミートローフをフライパンで焼き、それらを肴に白ワインを飲む。


朝飯 「みょうがのたまり漬」を薬味に「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」をかけた冷や奴、じゃこ、明太子、メシ、キャベツと若布の味噌汁
昼飯 うどん
晩飯 刻みキャベツと生のトマトを添えた焼きソーセージとミートローフ“Petit Chablis Billaud Simon 2015”


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2018.9.22(土) 人を一発で納得させる言葉

以前は、きのうの日記を今日の昼ごろにウェブに上げていた。このところは、おとといの日記を今日の早朝に上げることが多い。今朝は、やはりおととの日記を書いて「公開」ボタンをクリックし、続いてきのうの日記を書き上げた。これからの3日間は特に、日記を遅らせるわけにはいかない。

来週月曜日の夜は羽田空港へ行く。翌朝はタイの最北部に着いている。現地のwifi事情によっては日記の公開が遅れる。よって月曜日の日記は当日のうちに、見える形にしておきたい。そのような理由から、日記は遅らせたくないのだ。

「誰が読むでもない日記にそれほど気を遣うことがあるか」と問われれば「趣味だから」としか答えようは無い。

ところでこの「趣味ですから」は、なかなか便利な言葉だ。以前、ダイエットを宣言しながら一向に痩せない人が、SNS上でやんわりとからかわれていた。からかわれた当人は「ダイエットは趣味ですから」と、笑い混じりに返していた。なるほど痩せようとする行為そのものが趣味であれば、たとえ痩せなくても、誰に責められるものではない。

その「趣味ですから」に似た言葉を数ヶ月前に聞いた。その人は敏腕の経営者で、繁盛店をいくつも作る。しかしそれに飽き足らず、難しい条件の下に新しい店を開いて塗炭の苦しみを味わっていた。「儲かっている店がいくつもあるのに、どうしてそんなことをするんですか」と訊いた僕に対する答えが「ビョーキっすねぇ」だった。「あ、ビョーキじゃしょうがねぇ」と、僕は納得をしたものだ。


朝飯 納豆、生玉子、明太子、みょうがのたまり漬、すぐき、メシ、トマトと小松菜と若布の味噌汁
昼飯 ラーメン
晩飯 アオキマチコさんにもらった「趣味の店」の3種のフライ、刻みキャベツ、チューハイ


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2018.9.21(金) 「温め酒」は秋10月の季語

きのうの夜は閉店前に会社に戻り、社員とのミーティングをこなした。3台のキャッシュレジスターは、そのうちの2台が既にして締められていたため、売上げの計算は、割と早く終わった。そして19時30分に、家内を下今市駅に送った。家内は今日から1週間ほどインドネシアへ行く。中々の忙しさである。

そして今朝は、長男が関西へと向かった。家内も長男もいなければ、僕はひとりで夕食を摂る。きのうの昼の恨みを晴らすわけではないけれど、卓上には日本酒に合いそうなものばかりを並べた。

ところでバンコクでは、2年ほど前から路上の屋台が排除されつつある。屋台は、そこに住む人たちには便利、旅行者にとってはまことに風趣を感じるものながら、中には歩道を占有して人は車道を歩かざるを得ないようなところもあるから、当局の方針も、分からないではない。あるいはまた、裏にはそれ以外の事情もあるのだろう。

屋台街の中でも、トンローsoi38のそれを失ったことは特に痛い。トンローはバンコク中心部の東側に寄ったところで、そこまで足を延ばす機会が僕には無かった。おととし始まったバンコクMGの会場はトンローで、以降、年に一度はトンローで数日を過ごせるものの、失ったものは戻ってこない。

それはさておきそのトンローでおととし、昼日中も内側から鍵をかけっぱなしの骨董屋を見つけた。良いものばかりを扱っていることはガラス越しにも分かる。その骨董屋で僕は、磁器の高台に目を付けた。「清代最後期のもの」と店の人は口を添えてくれたが、そのようなことはどうでも良い。

いま、その器はらっきょうを食べるときの専用として使っている。日光の畑で収穫してひと月も経たないうちに蔵出しする「夏太郎」とは味わいの異なる今夜の塩らっきょうは、今月末にも売り切れるかも知れない。


朝飯 塩鮭、納豆、生玉子、すぐき、明太子、みょうがのたまり漬、メシ、小松菜と若布の味噌汁
昼飯 「成喜」の広東麺
晩飯 ウルメイワシの網焼き、納豆、トマトと胡瓜のサラダ、塩らっきょう、明太子、穴子の佃煮、「浅舞酒造」の「天の戸夏田冬蔵純米吟醸」(燗)


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