democratic computer

1970年代の最後期に、ある有名な会社の起業者と海外へ旅行をしたことがある。

この人、まったく英語が話せない。しかしながら英語を話さなくてはいけない場面は、旅行中、随所にあらわれる。起業者の採った方法は、自社に通訳を常駐させることだった。

ちなみにこの通訳、英語の会話能力においても頭の回転においても、それは優れた人だった。

ただし、通訳は24時間、自分を助けてはくれない。「いつでも」 「どこでも」 の成就は、人を頼りにしては生まれない。



コンピュータを使えない経営者は、そこここにいる。そして、経営者がコンピュータを使えるということと、その会社が儲かる体質にあるか否かということとの間には、何の規則性もない。

優秀なSEと優秀なアナリスト、そして優秀な実行者がいれば、経営者がコンピュータなど使えなくても、会社は儲かるだろう。

ただし経営者にとって、この状態は 「いつでも」 「どこでも」 の自立した状態には、ほど遠い。



物を作って売る会社の場合、材料倉庫(merchandiser)、工場(productivity analisys & control)、営業所(market research)という3か所の、どこに配備されたコンピュータが最も儲けに貢献するか? という問いがある。

正解はどうも、工場のコンピュータらしい。しかして中小企業の工場に、優秀なSEと優秀なアナリストを配備することが可能だろうか? たとえ可能だとしても、司祭の命令で動くのは、まっぴらご免だ。

ワーカーが知的に自立する簡便な方法は、コンピュータを使いこなすことだ。それも、自分の専門を助けるだけの端末ではない。会社の経営を上から見下ろす、俯瞰型のコンピュータだ。

端末とは、奴隷の使う道具に他ならない。

「いつでも」 「どこでも」 使える俯瞰型のコンピュータは、いまやワーカーの必携品だ。



しかし僕のこのような文章は、もう既に十分、時代遅れになものになっているだろう。

いまや 「長靴をはいたネコ」 のような知的ワーカーが、長靴や安全靴や地下足袋をはいて、現場はおろか会社を、コンピュータを使って俯瞰する時代に入っている。


コイタ・ミー坊
2001.0501