季節

夕刻のビールを美味く飲むために、昼過ぎからは水分の摂取を控える。こういう行為は、いまや中年以上の人にしかみられないものだという。若い年代は机上にペットボトルを置き、水分を少しずつ口に含むために、1日中、乾いた状態にはないらしい。

「食事とは何か?」 という質問に対する、20歳代前半の人に最も多い答えは 「エネルギーの摂取」 だという。そして彼らは多く食事の時間を決めず、なにかしら少しずつ、口に運んでいるらしい。

体をいつも平準化された状態に置き、消化管にものを貯め込まない。まるで鳥類のような習性。

そして僕は、美味い物を味わうためなら多少の禁欲は辞さない、前世紀の人間だ。

1月の 「人日」、3月の 「上巳」、5月の 「端午」、7月の 「七夕」、9月の 「重陽」 の五節句のうち、「人日」 と 「重陽」 は、ほとんど世の中から姿を消した。

5月の更衣(ころもがえ)や9月の十五夜を行事として残している家が、いまどのくらいあるだろう。中元や歳暮も、いつまで続く習慣かはわからない。

僕は小さなころから、生活に区切りをつけることを嫌った。ある決められた日に、特別な意味を持たせることを嫌った。できることなら四季のない亜熱帯の国で、無責任な旅人として暮らしたい。

この点においては、僕は1900年代の中頃から、既にして21世紀の人間だったのだろう。

飢えもなく、乾きもない。季節の喪失、あるいは時に意味を持たせることへの、無意識の嫌悪感。平準化された社会と時間。

しかし人はまた、区切りの好きな生き物でもある。以前はなかった季節の行事をつぎつぎと作り、みなで大騒ぎをし、みずからもまた参加をする。

今世紀においては、ある種の伝道者が、社会のメリハリや、本来は天の運行によるべき 「季節」 を恣意的に作り出していくだろうということを、僕はうっすらとした不気味さとともに感じ始めている。


平準化された社会
2001.0901