数値

カラブリア産の丸まると太ったオリーヴの塩漬けを2、3個も小皿へ盛り、ガラスの馬上杯にドライシェリーを満たす。マティーニに使われるものにくらべて4、5倍ほども大きいその実を少しかじっては、淡い黄金色の酒を飲む。

インドシナのある国の、政情についての本を読む。クーデターの発生する頻度の、年を追った一覧表がある。

南のある島の、地勢についての本を読む。海鳥の糞による肥料の、年間出荷量の一覧表がある。

北欧のある国の、捕鯨についての本を読む。クジラの、年ごとの捕獲量の一覧表がある。

その度に、コンピュータにその数値を打ち込み、グラフにしてみる。あるいは移動平均を算出して、それもまたグラフにしてみる。ただの数値が、まるで絵画のような現実味を帯びて、目の前に表れる。

世の中のほとんどの文章には、数値が含まれている。我々は、数値に囲まれて生きている。

「多くの人は、文章を読んでいく過程において、そのペイジに数値が現れたとたん、それを飛ばして、その先に進む」という話を以前、耳にしたことがある。本当だろうか? そういう意見を述べる人ほど、実際には統計的な客観性無しに何ごとかを決めつける傾向がありはしないか?

数値ほど、面白いものはない。ただし世の中には、どうでも良い数値も、いくらかは存在する。

オマル・ハイヤームは酒を売る人々について、「このよきものを売って何に替えるのか腑に落ちない」 と言った。僕にしてみれば、女の人に齢や体のサイズを訊く人が、一体それをなにの足しにするのかが腑に落ちない。

見慣れない形の木樽に、カラブリア産のオリーヴの実を山積みにして売っているイタリア男に、その塩分濃度を訊いているオバサンがいる。オバサンはその濃度の多寡によって、食べるか食べないかを決めるのだろうか? この行為もまた、僕の腑に落ちないものだ。

しかしまわりを見回せば、いまや地下鉄の吊り広告にもスーパーマーケットにも、数値化された女の人や食べ物の情報は満載されている。とすれば、その種の数値はどうでも良いものなのではなく、それらに興味のない僕が、世の中に取り残されているということなのだろう。

そういうようなことを考えながら、僕はまたオリーヴの実を少しかじり、何杯目かの淡い黄金色の酒を飲む。


カラブリア産のオリーヴ
2003.0301