撮影行

草むした空き地にまるでジンベイザメのような、しかし錆びてほころびたクルマが放置されているのを何日か前に目にした。ボディはシルヴァーで、トップの一部はシボ革を模した黒いビニールだった。「落ちた夜露がいまだ乾かないうちに写真にしたら面白そうだ」と思いつつそのときは通り過ぎたが今早朝、カメラにフィルムを詰め外へ出る。

空き地まで来てみると、そこに目指すクルマはなかった。「捨てられていたわけではなかったのか」と考え、すこし先の公園まで歩いて丸く剪定された針葉樹を撮る。絞りを開放にするとシャッター速度は500分の1秒になった。やがてあたりの光量が増すに連れ絞りを2.8、実際にはない3.5の付近、4と小さくしていく。

食べこぼしで汚れたスモックの胸元にカメラを提げることに気が向かず、それを脱いで半袖のTシャツ1枚でじっと光の調子が変わるのを待つのはいかにも寒い。20分後にふたたびスモックを着て元の道を引き返す。

強い光源を背後に置いたとしか思われないほど、からだの周囲から白い光を発している人を見たことがある。「まるで光背を背負った仏像ではないか」 と驚いたがまた 「見る者が違えば、この人はただのしなびた年寄りに過ぎないのだろうな」 との認識もあった。

土漠の彼方から昇る太陽は地表近くの空気を透過するうち直視してもまぶしくないほどにその光を柔らかくして、河岸に集まった人たちの顔をオレンジ色に照らす。その太陽を見て手を合わせる者、底に炭火を仕込んだサモワールでお茶を売ることに没頭する者、あるいはまた赤土の地面に痰を吐く者。

同じ人物を見て、しかしすべての者の網膜に、その像が等しく映るわけではない。同じ景色を見て、しかしすべての者の脳裏に同じ感懐が浮かぶわけでもない。同じ人物を撮しても写真には撮した個々の影がかならずつきまとい、同じ景色をフィルムに定着させてもそこには撮し手の感情があらわれる。「どうにかして人を、景色をそこにあるまま複写したい」 と考えて、しかしそれは相当に難しい作業であることを知る。

「動いているのは祈祷旗(タルチョー)なのか、それとも風なのか。動いているのはただ、おのれの心である」 とは、いにしえのラマ僧のことばだった。


John Begg
2005.1201