浜松町 「秋田屋」

短くない歴史を持ち、いつも繁盛し、だから多くの人が知っている。にもかかわらず、グルメ本には決して出ない。秋田屋は、そういう店のひとつだ。

JR浜松町駅の北口を出る。芝大門へ向かって増上寺参道の左側を歩く。まず見えてくるのは、換気扇から水平に吹き出しているモツを焼く煙だ。次には、歩道に置かれた黄色いビールケイスのテイブル。

更に近づくと、そのにわか作りのテイブルを前に立ったまま飲み食いをし、談笑するおとなたちの声が聞こえてくる。

秋田屋で席を得るには、夕方5時のはるか以前に店を訪れる必要がある。

ムッチリとして太いコブクロ、来るたびに注文せずにはいられないトンスジ煮込み、円錐形に高く美しく盛られた浅漬け。

「玉、砕ける」 という開高健の短編がある。開高と香港の新聞記者である張との会話、および開高の思惟から導き出される独白が、綾をなした小説。

この張が、たまたま香港に立ち寄った老舎に、革命中国における知識人の生活について訊ねるシーンがある。老舎は答えに窮する。そしてそのうちに、重慶か成都にあるらしい、数百年も火を落としたことのない鍋料理屋の話を始める。

巨大な鉄釜に、野菜やらウシの頭やらブタの足やらを放り込んで、グラグラと煮立てた食べ物。客はそのまわりに群がり、自らヒシャクで椀に盛って、立ったまま、ひたすらその煮込みをむさぼり食う。まるでゴッホの 「馬鈴薯を食べる人々」 のような顔をして。

秋田屋の使い込まれた飴色のカウンターへ着くたびに、あるいは歩道に張り出した雨よけの下へ立つたびに、小鉢に盛られた唐辛子の粉を見るたびに僕は、この老舎が3時間にわたって細妙巧緻に語ってみせたという鍋料理屋のことを思い出す。

そして僕は壁の品書きを眺め、注文を店員に伝え、酒を頼み、小さく折り畳んだ新聞に目を落とす。

付記すれば、秋田屋では天井からつり下げられたクーラーの上面にまで、ホコリひとつ見あたらない。この店には古今亭円菊が銭湯で磨き上げた、志ん生のハゲ頭のような風格さえ漂っている。

秋田屋 秋田屋
秋田屋
〒105-0013 港区浜松町2-1-2 TEL.03-3432-0020
日曜日・祝祭日・第三土曜日休み 15:30~21:00
2001.0201