根津 「鷹匠」

文京区根津2丁目界隈は、1965年までは藍染町と呼ばれていた。ここに丁子屋という古い染物屋がある。そしてその隣に半間ほどのエントランスを持つ店が、蕎麦の鷹匠だ。

朝7時に、本郷龍岡町の甘木庵を出る。春の日差しは既にして目に温かい。不忍通りに沿って北北西に歩を進める。横山大観の旧宅裏を抜け、地下鉄ひと駅分を歩いて根津に至る。

バス通りから一筋入れば、そこには手入れの行き届いた植木鉢の並ぶ路地がある。伝統的な東京の下町がある。僕は排気ガスの匂いを避けて、一本の細道へ入り込む。

垣根の隙間から、濃い緑の葉が空を目指している。エントランスを4、5間ほども歩く。引き戸を開け店に足を踏み入れると、右側に蕎麦打ち台、その奥に20数人分の板の間が広がっている。

お酒は鳥取県東伯郡東伯町の鷹勇。この冷やを麦藁手の備前の杯でゆるゆると飲む。突き出しは酒盗の青大根おろし添え。酒肴盛り合わせは、山芋の明太子和え、板わさ、卵焼き、エンドウ豆の黄身酢かけ。

オンドルのように温かい杉板の床が心地よい。朝8時過ぎから酒の飲める一日を嬉しく思う。出来の良い酒肴は、更に次の1合を求める。

鴨せいろが席へ届くと、杯を口に運ぶ手が停まる。鴨をかみしめ、蕎麦をすする。鴨をれんげに取り、山椒粉をかけて酒の肴にする。蕎麦だけを2、3度も、休みなくのどに送り込む。この店の、鴨せいろを食べた後のそば湯の美味さは、他に比肩するものがない。

室内には数百年もむかしのシンフォニーが流れている。女主人は、ひとり奥で仕事をしている。僕の他に客はいない。ふと後ろを振り返ると、ガラス窓を通して、懐かしい木造建築が迫る。

鷹匠を出るとき、僕は 「ごちそうさまでした」 と同時に 「ありがとうございました」 とも言った。この店の持つ空気とは、そういうものだ。そしてその空気を作っているのが、ここの女主人だ。

根津は小さなリバプールだ。古い町並みから、女の人の手になる不思議な空間が、次々に生まれている。この街の路地はこれから、ますます面白くなっていくだろう。

鷹匠 鷹匠
鷹匠
〒113-0031 文京区根津2-32-8 TEL.03-5834-1239
月曜日・火曜日休み 7:30~9:30 12:00~18:00
2001.0401