六本木 "CINQUANTA e CINQUANTA"

その短い生涯に、数千キロもの長い旅をする蝶がいるという。その蝶は、日本列島を北上する春の気配に逆らうように、南を目指して飛んでいくという。

頭の中に、やおら桜の大木が現れる。その花びらは淡く白くすこし紅色がかってグレイの空に綿菓子のように浮かんでいる。ただし幹の部分は、樹皮の模様を確かめられないほどに暗い。

暮色を増し始めた大通りから横町へ足を踏み入れると、盛り場に明滅する光を背にして歩く人の姿だけが、なぜか影絵のように暗転していく。その影絵の黒が、桜の幹へと重なっていく。

無数の看板の中からようやく、イタリア語で "Fifty Fifty" の意味を持つ1枚を見つけ、雑居ビルの階段を上がる。

強い蒸留酒から始めようと考えていた僕を制し、バーテンダーが Brunello di Montalcino "Castel Giocondo" 1997 の栓を抜く。「巨大な」としか言いようのないグラスに、その濃く赤い葡萄酒が注がれる。開店直後のバーの空気は綺麗だ。この時間にふさわしい酒を、店主は口開けの客に飲ませようと考えたのだろう。

固まりのように密度の高いその液体を口へ入れる。どこかから、獣皮の匂いが漂ってくる。息を吸い込んだり、吐いたり、グラスの中をのぞき込んだり、あるいは白い壁に視線を移したりしながら、徐々に僕は放心していく。

目の前に、上手い具合にひねって盛られたリングイネが運ばれる。深く青い皿の縁に、酒棚の明かりが反射している。松の実とアンチョビだけで味付けされた麺を、少しだけフォークに巻き取って食べる。まるでペイストのようになった松の実もあれば、半殺しのものもある。その様々な感触や脂を愉しみながら、ゆっくりと、固めの舌触りを確かめる。

どのくらいの時間が経っただろう、店の壁に古い映画が映されている。グラッパのグラスを置き、そのモノクロームの映像を横に眺めつつ店を出る。つづら折りの階段を降り、明るくにぎやかな交差点へ向かって坂を上がる。影絵のように見えていた人々が次第にその墨色を薄め、更にはそれぞれの原色を取り戻していく。

表通りで拾ったクルマは大きくうねる海面を越えるようにして芝公園の暗がりへ浸透した。どこからともなくダイアナ・クラールの "Cry me a river" が聞こえる。オレンジ色の尖塔をかすめ、スピンネーカーをへこませながらタックするクルーザーのように、やがてクルマは頭を下げつつ左へと方向を変えた。暗闇が背後に去っていく。"Cry me a river" はようやく間奏のギターを迎えた。

CINQUANTA e CINQUANTA
CINQUANTA e CINQUANTA
〒104-0061 東京都港区六本木3-9-3 TEL.03-3408-5054
日曜日定休 18:00~6:00
2003.0401