迅いカメラ "Rollei 35 S"

カルティエ・ブレッソンはレンズの絞りをほぼ5.6に固定していたという。彼にはまた、シャッターダイヤルの125分の1のところに紅いネイルエナメルを点字のように盛っていた、という神話も存在する。そしてその絞りとシャッタースピードを念頭に置いてあのスナップショット 「ムフタール通り 1952年」 を眺めてみれば 「なるほどこれが沈胴式ズミクロン50ミリ、絞り5.6の味わいか」 と、コダックのインスタマチックからその道に足を踏み入れたカメラ小僧は年甲斐もなく胸を高鳴らす。

小さなカメラを握って夜の中に立っている。得体の知れない水が絶えず頭上から落ちるビルの谷間とか、曇りガラスを透かしてかすかに人の気配のうかがえる法律事務所とか、浚渫船に打ちつける暗い波などの風景にどこか心を動かされるたび、トライXを仕込んだその小さなカメラのシャッターを切る。

無骨な自転車に乗る老人がメルセデスに追突をされ路上に放り出された。老人は広東語で何ごとかをわめいているが窓に黒いフィルムを張ったメルセデスから人の降りる気配はない。落魄した藩王の城のヴェランダで、ケロシンランタンの火屋に二羽の蛾が争って鱗粉を散らしている。まるでバラックのようなタイ式ボクシング場の通路を行くと、大きな傷のある腹の上でシャツの裾を結んだ男が 「ファイターの控え室に入れてやるよ」 と米軍の英語で誘いながら目は笑っていない。

街を歩きながら遠くのことを考えている。自分がクレーの絵の中に小さなヒトガタとして迷い込んでしまったように意識は現実を離れているが、頭の芯だけは冴えている。あるいはそれも錯覚なのだろうか。不意にカモメが飛来して運河の上を滑っていく。 「決定的瞬間」 の後ろ髪をつかんだ "Rollei 35 S" はそのとき、"Sonner 2.8/40" 奥のレンズシャッターを素早く開閉させて乾いた音を発した。

迅いカメラ
2004.0801