明治時代の日光は、殖産興業政策によって沸き立ちました。


江戸期、足尾銅山には幕府の銭座が置かれるなど活況を呈していましたが、明治10年以降、古河財閥がここを開発し、銅山はさらなる発展を遂げました。
多くの労働者が雇用され、県内最大の人口規模を誇る町が、山あいに形成されました。
大規模な人口を支えるため、今市は物流や商業のまちとして、足尾への物資運搬の拠点になりました。
当店も例外ではなく、大量の味噌や醤油を馬車に積んで足尾に配達していたようです。

 商品としての漬物づくり、最終工程として必要なのが「包装」です。
地域の小学校の社会科見学をうけいれる際、1トン入りの桶を見せて「このまま持って帰りたい人!?」と聞くのが定番になっています。

が、実際の商品作りには、必ず包装が必要になります。

 包装容器の進歩の歴史は、食品販売の歴史と手に手を携えています。

キリスト教聖書に、ぶどう酒を革袋に入れて持ち運んでいたという記述があったりしますが、「完成された食品をパッケージ化された状態で購入する」食べ物は、ビン詰め・缶詰の登場を俟たなければならないでしょう。



 17世紀初頭、ナポレオン軍への後方支援の必要から、ビン詰めや缶詰が考案されました。
その50年後、これもフランスですが、パスツールが100℃以下でも微生物を不活性化できる技術を開発。ここで包装技術の基礎が出そろいました。

 日本でポリ袋による漬物の小分け製品が発売されたのは、1962年、東海漬物の「きゅうりのQちゃん」を嚆矢とします。
まだまだオケ単位での流通がが主流だった時代です。
当店がたまり漬を大々的に販売し始めたのも同じころ。当時は店頭での量り売りスタイルでした。
とはいえ、当時を知る人によれば、上澤梅太郎は「これからはオケじゃない、『ひとパリッいくら』で価値がつく時代になるぞ!」と息まいていたそうです。

 「『おいしい』って、どういうことだと思う?」。ある画家からの何気ない問いを、いま一度考え直している。

 おいしさには三つの異なった側面がある(と思う)。ひとつ「生理的」、ふたつ「心理的」、そしてみっつ「フーディー的」、と仮に名づけたい。
1、生理的欲求を満たす物質からは満足を得やすい。
食品科学の発展は主にこの部分を解き明かしてきた。
一方、1の条件にかかわらず、喫食時の雰囲気や、生活習慣・思想信条などによって、味の感じ方は大きく変化する。
これらをおいしさの「心理的」側面と位置づけたが、前者は心理学的な問題であり、後者は社会学的な関心といえるだろう。
生理的には美味しくとも、心理的に不味いものもある。
逆も然り。