明治に入ると記録も記憶も充実してきます。


前回登場した幕末の当主上澤藤左衛門の実子・上澤藤作は、キヨとの婚姻後に早世。


キヨの後添えとして、高百地区の八木澤家より、慎一郎が婿に来ます。


慎一郎は嘉永元年の生まれで、若いころは日光山(現在の二荒山神社・輪王寺・日光東照宮)で僧兵をしていました。


慎一郎が20歳のとき戊辰戦争が勃発。


旧幕府勢は輪王寺の門主・北白川宮を東武天皇として立て、徳川家の聖地である日光山は、最終決戦の準備が進められつつありました。


 天保七年(一八三六年)、漬物店の店主が著した『四季漬物塩嘉言』には、「古漬け原材料を調味液に漬け替える」レシピが紹介されています。


現在の古漬け製品のほとんど全てが、この製法を踏襲しているといっても過言ではないでしょう。


塩抜きすれば食べられる塩蔵野菜を、さらに調味液に漬けて風味を増強するのですから、江戸期の人々にとってみれば相当に贅沢な製法だったのではないでしょうか。


このような製法は、古漬けを使用して浅漬けを作っているようなもの、とも言えます。


古漬けの発酵臭や深い旨味を生かしつつ、浅漬け的に風味を付与する。今風にいえば「マシマシ」です。


このようなマシマシの発想は、文化が爛熟し、経済的に上げ潮のときに作られるものです。



 成熟した都市生活の帰結として、江戸の人を悩ませたのが脚気でした。


現在ではビタミンB1欠乏症だとわかっていますが、疫学的に実証されたのは明治の末。


しかしながら、ぬか漬けを食べると脚気になりにくいとの噂から、江戸の街ではぬか漬けが流行しました。


ぬか漬けは、浅漬け的な製法(生野菜を低塩の漬け床に漬けて生のまま食べる)をとるものの、漬け床自体が激しく乳酸発酵を続けています。


浅漬け/古漬けの分類からいくと、非常に特異かつ奇抜な製法とも思えます。


このような珍しい漬物が、日本の家庭での漬物の代表格であり続けていることは、とても面白いことだなあと思っています。