トップへ戻る

MENU

お買い物かご

清閑 PERSONAL DIARY

< 古い日記へ   新しい日記へ >

2020.3.6(金) タイ日記(5日目)

「人生も、半分が過ぎたと思うと寂しい」と、僕が2歳のときに入社をして、44年のあいだ勤めてくれたヒラノショーイチさんは言った。人生の半分が過ぎても、寂しいという気持ちは、僕には起きない。旅の日程の残りが半分を切ったときにこそ、僕は寂しさを覚える。本日は、今回の旅の中日にあたる。

5時45分にロビーに降りる。「いまチェックアウトをすると、6時からの朝食は食べられませんか」と、フロントのオニーチャンに訊く。「大丈夫です」と彼の答えるのを待ってからチェックアウトを頼み、また空港までの、6時15分発のシャトルバスを予約する。時刻は5時55分。「もう入れます」と、オニーチャンは食堂の入口を指し示してくれた。

フロントのオニーチャンには、気を利かせてもらって助かった。6時14分に食堂を出る。ベルボーイが僕のスーツケースを、ポーチに駐められたワゴン車まで運ぶ。チップは20バーツ。オニーチャンはそのまま運転席に着いた。雨が弱く降っている。ワゴン車は来たときのバスとは異なって、裏道を抜け、空港には僅々10分で着いた。スーツケースを降ろしたオニーチャンに、更に20バーツのチップを手渡す。

「シャトルバスの本数が少なすぎる。よって自分は150バーツをかけて、トゥクトゥクで空港へ向かった。バス代がただになるからこそ決めた宿だっただけに、納得がいかない」と、ホテルの予約サイトのレビューに書いた人がいる。

人にはそれぞれ行き先がある。空港からは何本もの便が飛ぶ。各々の都合に合わせて都度、ワゴン車を出していたら、無料は維持できなくなる。ホテルの客は、あなただけではないのだ。ほんのすこし頭を巡らせれば分かることを分からない人が、世の中にはたくさん、いる。

06:30 係員のいるカウンターはノックエアのそれのみ。よって空港ビルの中を、増設された新しいターミナルBまで移動をして、より座り心地の良い椅子で本を読む。
07:05 タイスマイル航空の搭乗手続きを完了。搭乗口は1番、搭乗時刻は8時25分。
08:41 搭乗開始
09:00 “AIRBUS A320-200″を機材とする”WE003″は、定時にウドンタニ国際空港を離陸

09:42 バンコクが近づいたことを示す、細長い農地が見え始める
09:53 “WE003″は、定刻より12分はやくスワンナプーム空港に着陸。
10:22 回転台から荷物が出てくる

僕の考えるところ、それは新型コロナウイルス禍によるものではない、これまでが高すぎたゆえに、アメリカや日本の株価は暴落、その後は低い位置での乱高下を繰り返している。その相場を上げるため、また諸々による景気の悪化を避けるため、アメリカは利下げをした。それにより、米ドルに対して円が高くなっている。

空港ビル地下1階に集まる両替所では、各店、月曜日の1万円あたり2,880バーツから、今朝は1万円あたり2,960バーツになっていた。それを見て、日本円の入った封筒から紙幣のすべてを取り出し、空いている”VALUE PLUS”でタイバーツを買う。日本円の残金は589円。PASMOを紛失したら、家には帰れない。

エアポートレイルリンクの改札口で、警備の兵士に体温計を額に近づけられる。体温は36.3度。ちかくに置かれたプッシュポンプ式のアルコールを、手の平と甲に擦り込む。

10:47 エアポートレイルリンクの車両が空港駅を発車。間もなく日本から電話が入り、次のラックラバンで下車する。ウドンタニーは雨がちで肌寒かった。一方、バンコクは晴れて、素晴らしい暖かさだ。
11:02 電話を終えて、2本後の車両に乗車する。「マイペンライ」の国民性を持つタイ人にもかかわらず、およそ8割が、車内ではマスクを着用している

終点のパヤタイで、BTSのスクムビット線に乗り換える。車内では、車両やプラットフォームを消毒する動画が流されている。僕も今回は、現地の人に不安感、不快感を与えないよう、公共交通機関の中では、マスクを付けるよう心がけている。

トンローの駅から徒歩5分のホテルには、昼前に着いた。ロビーに置かれた外気温度計は、33度を示している。トンローには、いまだ緑が多い。部屋の窓からも、それが望めて気分が良い

このところ、個人による旅先では昼食を摂らない。しかし今日は早朝から移動をしたせいか、腹が空いている。部屋を出て裏道を辿り、スクムビット通りまで出る。そしてsoi49のパクソイからプロンポン方面に30メートルほどいったメシ屋で汁麺を食べる。いつ来ても、上出来の汁麺だ

15時より17時までは、ホテルのプールサイドに降りる。そして旅の初日から読み始めた、石川文洋の「ベトナムロード」を読み終える。

それはさておき、ウドンタニーで3日つづけて受けたオイルマッサージの、油が肌に合わなかったか、強く擦られ揉まれた太股とふくらはぎに湿疹ができた。日本から持参した薬はまったく効かない。検索エンジンで調べたところ、それは帯状疱疹の薬だった。よってトンローの駅からBTSでふた駅を移動し、アソークのブレズ薬局で塗り薬を買う。価格は45バーツ。

トンローに戻ると時刻は18時10分。駅の歩道橋からスクムビットsoi38を見おろす。ここに屋台のひしめいていた時代を、僕は知らない。歩道橋を降りて、目と鼻の先のフカヒレ屋の2階に上がる。バンコクMGの主催者および参加者の一部は、既にして前夜祭を始めていた。その中に僕も混じり、2時間ほども歓談をする。

前夜祭を終えた面々は、三々五々、それぞれの目的に応じて移動をしようとしている。「講師を務める朝は、3時に起きて準備をする」というタナカタカシさんと、夜にからきし弱い僕は、ホテルに直帰である。soi15のホテルまで赤バスを使うタナカさんを見送ってから僕は、ひとり歩きの女の人なら恐がりそうな、薄暗いsoi1に入る。

ホテルに戻ったのは、20時30分のころと記憶する。シャワーを浴び、冷房の電源と部屋の明かりを落として即、就寝する。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二其の三“WE003″の機内食そのコーヒー
昼飯 「東明」のバミーナム
晩飯 「スクンビットシャークフィン」の焼売クンオップウンセンナマコの牡蠣油炒めフカヒレの玉子炒めフカヒレスープカオパップー、ビール、「サントリー角瓶」によるハイボール


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.3.5(木) タイ日記(4日目)

きのうと同じく、いまだ日の改まっていないうちに目を覚まし、長い夜を過ごし、眠れたのか眠れなかったの判然としないまま早朝に起き出す。今朝もまた雨が降っている。気温も、プールサイドに降りる気などまったく起こさせない低さである。

「蚊が入るから常に閉めておけ」との注意書きを無視して、部屋からベランダに出るガラス戸を開け放つ。僕の知るタイの雨は、降ってもすぐに止む。しかし今日のそれに限っては、いつまでも上がらない。旅の荷物の一覧表には「傘」と入力してあるものの、それを持参したことは一度も無い。今日は部屋で本を読むしか、過ごしようはないのだろうか

午前、コンピュータのメーラーを巡回させながら、宇都宮の旅行社からメールの入っていることに気づく。「バンコクからの帰国便に、フライトスケジュールの変更が生じた」というのが、その内容だった。往路は機材の変更、そして復路は時間の変更である。新型コロナウイルスによる世界規模の混乱は、いつ収まるのだろう。

明朝、バンコクへ飛ぶ飛行機の出発時刻は9時。空港へは、この街に入ったときと同じ”UDON CITY BUS”を使おうと考えていた。しかしきのうも今日も、朝は雨だ。もし明日も雨とすれば、センターンちかくの停留所まで、スーツケースを曳いて歩くわけにはいかない。フロントに降りて、カウンターに置かれた時刻表を見る。朝の便は6時15分。食堂が開くのは6時だから、朝食を摂るひまも無い。あるいは、トーストとコーヒーくらいなら、食べられるだろうか。

フロントから戻る途中、4階の廊下にメイドを呼び止め、部屋の掃除を頼む。彼女がリネン類を取りかえ床を掃き、またモップをかけるあいだは、邪魔にならないよう、安楽椅子で本を読んでいた。チップは汁麺1杯分の40バーツ。

雨は正午を過ぎてようやく上がった。どこかに喫茶店はないか。本を手に外へ出る。しかし思うような店は見つからない。”Pho Si Road”をかなり遠くまで歩いてから、商売は朝のうちに終えてしまったのだろう、ひとけのないタイイサーン市場の中を抜けてホテルに戻る

薄日が差してきたのをしおに、プールサイドに降りてみる。しかしやはり、上半身はだかでいられる気温ではない。キリの良いところまで読んでしまおうと考え、しばらくは本を開き活字を目で追い続けたものの、やはり寒い。1時間ほどで引き上げ、きのう出した洗濯物を洗濯屋へ取りに行く。そして以降の時間は荷造りに充てる。

18時が近づくころに外へ出る。駅前の、目抜き通りを隔てて北側にあるのが、初日と2日目に夕食を摂った”NIGHT PLAZA”、そして南側にあるのが”UD TOWN”だ。その奥まで入ってみれば、こちらの方が圧倒的に賑やかだ

おとといの仇を討つつもりで、カオカームーの店に近づく。鍋には火が入っているから、冷たいことはないだろう。ごはん抜きのカームーを注文する。オネーサンは、いかにもコラーゲンの多そうなところを薄く刻み、皿に綺麗に並べた上、澄んだ煮汁をかけてくれた。価格は、おとといの不味かったそれより安い50バーツ。

席を探しながら、小ぶりな鍋をつついている若い人たちに気づく。「それ、どこで」と訊くと、笑いながらすぐ脇を示す。店の名前は”Star Seafood”。「モーファイ…」と呟くと「トムヤムクン?」と、店のオニーチャンは勢いよく返してきた。反射的に「ナムサイ」と答える。僕はトムヤムクンは、ココナツミルクを加えた「ナムコン」よりも、澄んだスープの「ナムサイ」を好む。オニーチャンは笑顔で頷いた。こちらの価格は150バーツ。

トムヤムクンもカームーも、今夜のそれは大当たりだった。ウドンタニー最後の夜に当たりくじを引くことができて、とても気分が良い。

「チェンマイに、美味いドイツ料理屋があるんですよー」とか、バンコクで「カオソイ、カオソイ」と騒ぐ人を、僕は鼻で嗤う。しかしその僕も、気がついてみれば、シャム湾から600キロも北上したウドンタニーで、海のものを食べているのだ。

ホテルに戻ってシャワーを浴びると時刻は19時40分。即、明かりを落として寝台に横になる。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二其の三
晩飯 “UD TOWN”の”Star Seafood”のトムヤムクン(ナムサイ)カームーラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.3.4(水) タイ日記(3日目)

暗闇に目を覚まし「きのうとおなじ2時を過ぎたころだろうか、あるいは3時は回っただろうか」と考えながら、目はつぶったままでいる。

部屋の窓から大きな駐車場を隔てて250メートルほど先には、タイ特有のライブハウスであるタワンデーンが位置している。ベランダの直下には、きのうの日記にも書いたバービヤの集合体”Day & Night”がある。ホテルの建つサンパンタミット通りは、これまたバービア街だ。スピーカーの重低音は、それらのいずれかから発せられているものだろう。大柄な白人による野太い声も聞こえる。更にはトタン屋根を叩く雨もかまびすしい。

それらの音を数十分ほども聞き続けてから、サイドボードのiPhoneに手を伸ばす。時刻はいまだ、日の改まっていない22時26分だった。睡眠時間が2時間では話にならない。しかしどうにも気になる外の騒音である。

いくらかは眠れたかも知れないけれど、熟睡はしてない。とにかく4時に起床する。既にして書けていたおとといの日記に修正を加えつつ公開する。きのうの日記も完成させる。その勢いを保ったまま、今日の日記のここまでも書く。

朝食を済ませ、8時30分を過ぎるのを待って、ここ数日の洗濯物を提げて外へ出る。そしてきのう開店時間を確かめておいた、ホテルとおなじ通りにある洗濯屋に出かける。ポロシャツ2着、下着2着、靴下1足の洗濯代は31バーツ。「明日の午後1時か2時」と告げながら、なかなか上品な顔つきの女主人は僕に伝票を手渡した

それにしても、雨上がりの街は、僕のインドシナに対する感覚からすれば異様に涼しい。部屋のベッドに横になって本を読む。そして薄日の差してきたことを確認してから水着に着替え、プールサイドに降りる。寝椅子はほとんど乾いていた。時刻は10時30分。そこでまた石川文洋の「ベトナムロード」を開く。

ときおりポトリ、ポトリと音を立てて、頭上の木から花が落ちる。昨年のいまごろ訪ねたスコータイのホテルにも、この花が咲いていた。通りかかったホテルの人に花の名前を訊く。オニーサンとオジサンのあいだくらいの歳の人は「チャ(ツァ)ンパー」と教えてくれた。プールサイドには、白と赤のそれがある。白い方が圧倒的に、その甘い香りは高い。

「今日の昼は200ページまで」と決めて読み始めた本の176ページに「スアンロクは、一九七九年四月、猛烈なスピードで進撃をするベトナム人民軍とそれを阻止する最後の砦としてサイゴン政府軍との激戦が交わされたが」の一節がある。サイゴン陥落は1975年4月30日。だからこの「一九七九年四月」は明らかにおかしい。

区切りの良い201ページまで読んで部屋へ戻り、シャワーを浴びてからベッドに横になる。そしてiPhoneにgoogleを開いて「ベトナム戦争 スアンロク」と入れてみる。スアンロクの戦闘は果たして、1975年4月9日から同21日にかけての出来事だった。編集者は何をしていたのだろう。

「ペンが袋から落ちかけている」と初日に声をかけてくれたオバチャンのいるマッサージ屋に、今日も出かける。それは「タイマッサージは、3日つづけて受けるべし」という、チェンライのマッサージ師プックさんの言いつけを守ってのことだ。そして2時間のマッサージで、特に脛とふくらはぎを責められる。

きのうのカームーには、少なからず落胆をさせられた。失敗は繰り返したくない。初日の朝、空港からのバスを降りたあたりにホイトードの有名な店があることは、日本を出る前から知っていた。「こんなに海から遠いところでホイトードかよ」という思いはあったものの、夜はラオカーオのペットボトルを提げて、雨上がりの街を往く。

店の前の大鍋で炒りつけられる、生まれて初めて口にするホイトードは、評判の通り美味かった。英語のメニュの”Fried Oyster”に添えられたタイ語を店員に読んでもらうと「ホイトードゴンラー」と聞こえた。「ゴンラー」とは、ことによると潮州料理の「蠔烙」の音を、そのまま用いているのかも知れない。

2009年、27年ぶりに叶った訪タイのとき、着いたばかりのスワンナプーム空港で、心躍らせながら食べたパッタイには、そのあまりに甘い味付けに幻滅をさせられられた。以降はとても食指を延ばす気にならなかったそれを、ホイトードだけでは足りないから、今夜は賭けるつもりで注文してみた。果たしてこのパッタイも、またとても美味かった。さて、明日の夜はどこへ出かけよう。

ホテルに戻ってシャワーを浴びる。時刻は19時20分。盛り場の真ん真ん中にいながら、この時間から寝る馬鹿が僕である。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二其の三
晩飯 “Hoi Tod Je Huay”のホイトードゴンラーパッタイクンラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.3.3(火) タイ日記(2日目)

目を覚まして数秒を経てようやく、いま自分はウドンタニーにいる、ということに気づく。サイドボードにiPhoneを手探りする。時刻は2時ちょうど。就寝が20時であれば、この目覚めの時間も「むべなるかな」である。

海外へ出たときの、特に1日目の日記は長くなる。その日記を書くうち、ひどく腹が空いてくる。旅先にはいつも持参する粉末のコンソメスープを飲んで、その空腹を紛らわす。

明け方がちかくなるころ、妙な音に気づく。風がどこからか吹き出しているような音だ。しかし部屋の冷房は止めてある。風呂場の換気扇も止まっている。しばらくするうち、またその音が高くなる。部屋とベランダを隔てている二重のガラス戸を開いてみる。音は果たして、目と鼻の先にあるバービヤ街”Day & Night”の巨大なトタン屋根を、雨が激しく打つものだった。それにしても、ウドンタニーの天気はめまぐるしく変わる。雨期は、いまだ始まっていない筈ではなかったか。

長い日記を完成させてから食堂に降りる。プールサイドには卵料理を注文できる屋台が出ているものの、宿泊客が少ないせいか、そこに調理人の姿は見えない。

今朝は髪に寝癖ができていた。よってきのう、目抜き通りを駅へ向かう北側の歩道に見つけておいた床屋”LONDON”へ行く。2種のバリカンによる調髪と顔剃りで料金は200バーツ。僕はタイではいつも、バリカンには2番の下駄を履かせてもらう。しかしこれではすぐに長くなってしまいそうだ。次は1番で頼んでみよう

散歩をしながらホテルに戻り、以降は午後までプールサイドで本を読む。

きのう予約をしておいたマッサージ屋には15時前に入った。タイのマッサージは、古式であれオイルであれ、持ち時間の8割は足と脚への施術に費やされるような気がする。今日はふくらはぎの内側、脛の骨に沿ったところを長々と責められた。オバチャンの指は、コリを見つけると、そこに長く留まって、強く揉み続ける。その痛みに思わず、背筋に緊張が走る。脚のコリをほぐすために背中のコリがひどくなる、というようなことはないのだろうか。

マッサージの途中から、雨が激しくトタンの軒先を叩き始める。日に2度は雨が降る。その雨は日本の夕立とおなじく、いきなり落ちてきて、しかしすぐに止む。雨の弱くなったところで外へ出る。雨は、セントラルプラザの中を徘徊するうち、ふたたび強まった。しばらく雨宿りしてから、ようやくホテルへの道を辿る。

夜は、きのうに引き続いて、目抜き通りの駅ちかく北側のナイトプラザへ出かける。きのうとは異なるカオカームー屋で、そのごはん抜きを注文する。結果は失敗。味は悪くないものの、作り置きのため冷たい。おまけに粘度の高いソースが大量にかけてあって、味が濃すぎる。仕方なくそれを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。しかし今夜の食事がこれだけでは気が済まない。

きのうセンヤイパッキーマオを注文した店で、きのうの女の子にカオパックンを頼む。それで仕上げて、今夜の飲酒活動を完了する。

ホテルの建つサンパンタミット通りは、ウドンタニーにふたつみっつあるバービア街のひとつだ。客のほとんどは、からだに刺青を施した白人である。まるで浦島太郎だが、ここで遊ぶうち、いつのまにか年を経てしまったように見受けられる老人も少なくない。この街にはかつて、アメリカ軍の基地があった。しかしそれは、遠いむかしのこと。この街に白人の多い理由は何だろう。

部屋に戻り、シャワーを浴びると時刻は19時50分。夕刻に降った雨は気温をいちじるしく下げて、冷房の必要はない。即、明かりを落として就寝の体制に入る。


朝飯 “The Pannarai Hotel”の朝のブッフェ其の一其の二
晩飯 駅からの目抜き通り北側のナイトプラザのカームーカオパックンラオカーオ”RUANG KHAO”(ソーダ割り)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.3.2(月) タイ日記(1日目)

うつらうつらするうち、機は滑走路まで移動をして、やがてエンジンが轟音を発する。”AIRBUS A330-300″を機材とする”TG661″は、定刻に10分おくれの00:30に羽田空港を離陸。数分後に「ポーン」という音は聞こえたものの、シートベルトの着用義務が解除された旨の電光は掲示されない。やがて前の人が椅子の背もたれを倒す。それに倣って僕も背もたれを倒し、同時に胸のポケットに、飲みやすいようあらかじめ小さな袋に分けておいたデパスとハルシオン各1錠を服用する。

「あんた、両方のまないと効かないよ」とオフクロの遺したこの2種の薬は、効くときにはまこと、一瞬で効く。しかし今日に限っては、いつまでも効かない。後席の女の二人連れは、ようやく会話を止めた。ちかくの席にいるらしい小さな子供も、いちど叫んだきり静かになった。僕の席より後ろには、ラオスとミャンマーの若いサッカー選手たちが、静かに寛いでいる。それにしても眠れない。特に下半身が、毛布を巻きつけているにもかかわらず寒い。

03:55 ディスプレイに現在位置を探ると、機はいまだ台湾本島の最南端、つまり鵝鑾鼻のあたりを飛行中だった。いつもであれば、目覚めたときには、機は既にして海南島の東海上に達していることが多い。
05:35 いつの間にか機内が明るくなり、客室乗務員は熱いおしぼりを配り始めている。
05:50 朝食の配膳が始まる。
06:10 ダナンの海岸線からベトナムの上空に入る。ディスプレイには”BKK→1H5M”の文字。
06:11 洗面所で口をゆすぎ、歯を磨く。

06:15 客室乗務員がプラスティックの手袋をはめた手で、タイの入国カードを配り始める。別の客室乗務員は、これまた手袋をして、洗面所の扉の取っ手をアルコールで拭いている。

07:04 地上の明かりが見え始める。バンコクの上空には、ところどころに低い雲がある。
07:07 機体から車輪が降ろされる

“TG661″は、定刻より15分はやい日本時間07:10、タイ時間05:10にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。

05:29 新型コロナウイルスへの水際対策により、数日前に新設された体温測定装置の前を通過。ちかくに立つ複数の係員は「はいはい、どんどん進んでー」というような手振りで旅客を先へと急がせる。その脇を我々は重なり合って通過する。そんなことで、個々の体温など計れるものだろうか

05:35 入国審査場を通過。
05:38 5番の回転台の前まで行くと、僕のスーツケースは既にしてその上を運ばれていくところだった
05:48 到着階の3階から出発階の4階へ上がって”TG2002″への搭乗手続きを完了

手持ちの現地通貨は8337.5バーツ。僕はお金は大して使わない。普段であれば、これでしばらくは不自由しない。しかし今週末に参加をするバンコクMGの参加費用は、今回からバーツ払いになる。よって大事を取って、今日のうちに両替を済ませておくことにする。

06:06 エスカレータとエレベータを使って地下1階に降りる。そしてエアポートレイルリンクの券売機ちかくに並ぶ両替所の、各々の為替レートを見ていく。その結果、すべての店で1万円は2,880バーツ。即、ひとりの客も集めていない”Value Plus”で3万円のみを両替。消毒用のアルコール綿をオマケにもらう

今度はエレベータで一気に4階へ戻る。スワンナプーム空港に人の少ないことは羽田空港とおなじ。いつもはそこここに溢れかえっている中国人の姿は皆無。認められた団体は、インド人によるそれひと組のみ

06:28 保安検査場を抜けてB4ゲートに達する
06:48 搭乗開始
07:25 “AIRBUS A330-200″を機材とする”WE002″は、定刻に5分おくれてスワンナプーム空港を離陸。
07:40 客室乗務員により機内食が配られる。タイスマイル航空の質素な機内食が、僕は好きだ。

「新幹線の食堂車でステーキを食べる人が嫌いだ」と、山口瞳は書いた。一方、ある食味評論家は、女性客室乗務員と自分のあいだで交わされた、そのとき機内に用意されていた”Chateau Lascombes”を巡る、機知に富んでいるらしい、あるいは洒落ているらしい会話をどこかに披瀝していた。山口瞳とその食味評論家のどちらを心情的に支持するかは、人それぞれだ。

機窓から見おろすイサーンの大地は、畦で四角く区切られていることにより、それが農地ということは分かる。しかしその色はどこまでも乾いて赤い。色だけを見れば、それは農地というよりも、まるで土漠である

いまだ機内にいるうちに、タイバーツを納めた封筒を貴重品入れから取り出す。そしてそこから1,000バーツ札1枚、100バーツ札5枚、50バーツ札1枚、20バーツ札5枚を引き抜いて財布に移す。1,000バーツ札は、これを使う機会があれば、細かく崩すためのもの。100バーツ札は、もっとも使いでのあるお札。50バーツ札と20バーツ札はチップ用。これでもいろいろと考えているのだ。

08:00 “WE002″は定刻より25分はやくウドンタニー国際空港に着陸。
08:24 回転台に荷物が出てくる
08:28 空港の建物から外へ出る。

右手に目を遣ると、数十メートル先にバスが駐まっている。近づくに連れ、そのバスの正面に”UDON CITY BUS”の文字が見えてくる。開け放ったままの乗降口ごしに、サングラスをかけた運転手が僕に声をかける。分かったのは、男言葉で「はい」や「ですます」を表す「クラップ」のみ。「パイ、センターン?」とひどいタイ語を発すると、運転手はふたたび「クラップ」と答えつつ頷いた。料金の20バーツは運転席脇のプラスティックの箱に入れる方式だった。iPhoneのgoogleマップに仕込んだ、オフラインでも現在位置を特定できる仕組みは正常に働いている

08:35 バスが空港を離れる。
09:09 タイ人の発音では「センターン」となる”Central Plaza”が間近に見えてきたところで下車する。”Central Plaza”はちなみに、日本人の発音では「せんとらるぷらざ」となる。

わざわざ道を渡ってきたトゥクトゥクの運転手が、ホテルまで送るという。「歩いて行くよ」と僕は身振りで示す。オジサンは「オーッ」と笑いつつ去る。

予約を入れておいたホテルは「センターン」の前から歩いて3分ほどのところにあった。盛り場の真ん真ん中である。フロントのオバチャンは「4階のデラックスルームです」と、僕に419号室のカードキーを手渡した。スーツケースを部屋まで運んでくれたベルボーイには50バーツのチップ。時刻は9時27分。山田長政の時代を思わないわけにはいかない

水を飲む、スーツケースから衣類その他を引き出しに移す、シャワーを浴びる、日本から穿いてきたズボンをタイパンツに穿き替える、既にして完成していた一昨日の日記を更に整えて「公開ボタン」をクリックするなどのことをするうち正午に至る。

日本から履いてきた革靴をゴム草履に履き替えて外へ出る。暑いことは暑いものの、汗はかかない。ホテルのある通りから目抜き通りに出て、北側の歩道を歩きつつウドンタニーの駅を目指す。駅ではプラットフォームに入り、ロビーに戻って時刻表を確かめ、駅から西へ向かって延びる目抜き通りの写真を撮る。「そんなことをして面白いか」と問われれば、別段、面白くはない。面白くもなく、またつまらなくもないのが、僕の旅行である。

駅前から、今度は南側の歩道を伝って来た道を戻る。

「ペンッ」と、いきなり左手から声がかかる。声の主は、マッサージ屋の前に座ったオバチャンだった。タイのマッサージ師は、外で食事やおしゃべりをしながら客を待つことが多い。

タイパンツを褒めでもしたのかと、腰のあたりに手をやってみる。オバチャンは首を横に振って、僕が手に提げた、きのう北千住のマツモトキヨシで商品を入れてくれたプラスティック袋を指した。ボールペンの先端が袋を突き破って顔を出している。「なるほど、このことか」と、オバチャンに礼を言い、それまで提げていた袋を、そこからは抱えるようにして歩き出す。

そのまま100メートルほど進んだ左手に、屋台がふたつ軒を並べている。客の入りはそこそこだ。タイ航空の機内食は半分ほどを残していた。タイスマイル航空の機内食は、いつも「軽食程度」より少ない。即、店の女の人に「バミーヘン」と告げる。「肉は豚か」と訊かれて了承する。

やがて運ばれたバミーヘンは、これまで見たこともないものだった。麺はまるで日本のソース焼きそばのように色が濃く、またスープの色は、まるで番茶だ。そのスープをひとすすりすると、すごく甘い。その甘い汁に、麺に載せられた、湯がいた豚肉のすべてを沈める。麺に味付けは、ほとんどされていない。よって卓上の調味料を適当にかけて自分の味を作る。不味くもないが、美味くもない。価格は40バーツだった

親切を受けたお礼に、先ほどのマッサージ屋へ戻る。そしてオバチャンに「オイルマッサージ、2時間ね」と告げる。人生史上、最高に効く宇都宮の整体院の先生には「タイへ行ってもボキボキ系は避けてくださいね」と釘を刺されている。以来、僕はタイに来ても、関節技のようなものをいくつも繰り出す古式マッサージは受けない。オバチャンには、このところ宇都宮の整体院で責められ続けている、太股に走る4本の筋肉を、特に強くほぐしてもらった。そして明日の15時に予約を入れる。

ホテルのプールサイドには、午後の日差しがあった。フロントの人に教わって、目と鼻の先のフィットネスセンターからタオルを持ち出す。そしてそれを寝椅子に敷き、仰向けになって石川文洋の「ベトナムロード」を開く。頭上に咲く花は、あたりを甘い香りで包んでいる。僕の旅における、最上の時間である。

夕刻、部屋の机できのうの日記を完成させる。やがて日は落ちて、腹も減ってくる。昨年9月に余らせて持ち帰ったラオカーオは、ペットボトルに入れ替えて今回の荷物に含めておいた。そのラオカーオを、マッサージ屋のオバチャンがくれた、セブンイレブンのエコ袋に納めて外へ出る。

駅ちかくの夜市のうち、今日は北側のそれに足を踏み入れる。縦に長いフードコートの店を眺めつつ、もっとも奥に達する。右手の注文屋台が目に付く。立ち止まると、肌の黒い、メガネをかけた、髪の毛はチリチリに縮れた好もしい雰囲気の女の子が僕に声をかけつつメニュを差し出した。メニュはタイ語と英語で書かれていた。その”FRIED NOODLE”のところを指しながら「パッキーマオ」と言ってみる。女の子は嬉しそうに「チャイ、チャイ」と答え、肉は何にするかと訊いた。僕の答えは大抵、豚である。その注文屋台の対面にある飲物屋台でソーダとバケツの氷を調達する。

席に届いた皿に、麺は見えない。しかし目を凝らすと、野菜の影にセンヤイが認められた。「センヤイパッキーマオ?」と訊く。「チャイ」と女の子は、ふたたび嬉しそうに笑った。

名勝や奇景に興味は無い。星付きのレストランも世界遺産も要らない。アトラクションやアクティビティは面倒だ。地元の人の集まる夜市で、地元の人の食べるものを肴にラオカーオのソーダ割りが飲めれば、それで僕は満足だ。そしてそれこそが、僕の「観光」である

部屋に戻ってシャワーを浴びる。時刻は20時。三菱製の冷房に室温24度と1時間のタイマーを設定して就寝する。


朝飯 “TG661″の機内食“WE002″の機内食そのコーヒー
昼飯 駅からの目抜き通り南側センタンちかくの屋台のバミーヘン
晩飯 駅からの目抜き通り北側のナイトプラザのセンヤイパッキーマオ、カオカームー、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.3.1(日) いまだかつて

昨年春のダイヤ改正で、下今市18:57発の上り特急スペーシアは消えた。代わりに運行されるようになったのが、18:20発だ。ウチの閉店時間は17時30分。それからキャッシュレジスターを締め、退社する社員を見送って、となると、18時20分発はいかにも忙しい。よって今日の羽田行きには、次の19:30発を使うこととした。出発を遅らせての取り柄は、風呂に入ってから出かけられることだ。一方、この列車に遅れが生じると、羽田での搭乗手続きに間に合わない恐れも、またある。

19:30 リバティ48号が下今市を発車。
21:02 同車両が北千住に着。

東武日光線のプラットフォームからひとつ下の階に降りて、マツモトキヨシに入る。そこでリップクリームと、薬剤師の勢いに圧されて高価なビタミンCを買う。薬剤師によれば、安いビタミン剤は食料品の扱いで、薬品としての認可は受けていないのだという。そこからふたつ上の階に上がって夕食を摂る。

21:26 日比谷線の車両が北千住を発車。
22:32 人形町と泉岳寺で乗り換えて羽田空港国際線ターミナルに着。
22:40 タイ航空のカウンターで搭乗手続きを完了。

これほど閑散としている羽田空港は、かつて見たことがない。その異様な雰囲気が、東日本大震災の起きた2011年3月に、次男とベトナムへ行った日のことを思い出させる。

22:53 保安検査場を通過。
22:54 出国審査場を通過。
23:09 105番ゲートに達する。途中、ソーダ水を買った売店で安いビタミンCを見つけるも、時すでに遅し。
23:42 搭乗開始。機材変更のため65Cから60Jに指定替えされた席が、ここにきて更に50Jに変更される。
23:52 タイ航空661便の50Jの席に着く


朝飯 なめこのたまり炊によるなめこおろし、納豆、厚揚げ豆腐と小松菜の炊き合わせ、豚肉と切り昆布の炒り煮、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、メシ、浅蜊と三つ葉の味噌汁
昼飯 「幸楽苑」のつけ麺
晩飯 「吉野家」の牛丼並盛り、お新香と味噌汁のセット、生玉子


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.2.29(土) 既にして封緘済みの封筒に

水曜日の日記にも書いた通り、朝食に特化した「汁飯香の店 隠居うわさわ」は、3月20日(金)、21日(土) 、22日(日)の3日間に、関係各方面の方々をお招きして内覧会を催す。その招待状は長男が作り、宛名のほとんどは家内が筆で書いた。

一方、政府はおととい、新型コロナウイルスによる肺炎の蔓延を防ぐため、多くの人の集まるスポーツの試合や文化活動の、3月15日までの中止を国民へ向けて要請した。これを受けて、ウイルスを恐れてのものではない、この「非常時」に集まりを持とうとしていることへの懸念について、きのう電話をくださった方がいた。

よって今朝は、招待状の、既にして封緘済みの封筒に逐一、それについてのご説明を手書きするよう、隠居係のタカハシリツコさんに頼んだ。この根気の要る仕事に、タカハシさんは午前中のすべてを使った。僕はその封筒を、できあがった順にトートバッグに入れ、3回に分けて、計28名様にお届けした。なお、招待状のうち郵送するものについては、タカハシさんが手書きしたとおなじ文章を印刷して、同封することとした。

さて内覧会には、どれほどの方が来てくださるだろう。3日間、6回に分けて開く会は席数の関係から、いずれも10名様前後の、こぢんまりとしたものになる予定である。


朝飯 蓮根のきんぴら、豚肉と切り昆布の炒り煮、大根おろしを添えた厚揚げ豆腐の網焼き、目玉焼き、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、白菜漬け、メシ、トマトと揚げ湯波と大根の葉の茎の味噌汁
昼飯 バターとママレードと無花果のジャムとらっきょうのたまり漬のトースト、ヨーグルト
晩飯 「日光味噌のたまり浅漬けの素・朝露」を注した白菜漬け白菜漬けと豚三枚肉の鍋、麦焼酎「むぎっちょ」(お湯割り)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.2.28(金) 日本にいては叶わない

あさっての夜に羽田空港へ行く。そして日が変わって20分後のタイ航空機に乗る。そろそろ荷物を作らなければならない。

旅における、もっとも大きな楽しみは本読みだ。「本など、どこででも読めるではないか」と言われれば、本はプールサイドの寝椅子で、あるいは地元の人の集うメシ屋で読みたい。日本にいては、それが叶わないのだ。

これまでインドシナへ出かけるときには、ほとんど決まって、ベトナム戦争に関する本を読んできた。なぜベトナム戦争かといえば、小学生のころから高等学校を出てもなお、それが新聞やテレビで伝えられない日はほとんどなく、それらの活字や映像が自分の中に沈潜、蓄積をされていったせいかも知れない。

そのような本を持ちながら、なぜベトナムではなくタイなのかと問われれば、これまで何度か訪れたベトナムには雰囲気として「勤勉」があり、対してタイの、特に田舎には緩やかな空気が満ちているからだ。神経の慰撫には「勤勉」より「緩やか」さの方が断然、環境としては優れている。

今回は、石川文洋の「ベトナムロード」を選んだ。帯には「戦場カメラマン石川文洋が見た統一13年目のベトナム」の文字がある。これを僕は1988年に初版で手に入れ、しかし32年ものあいだ本棚に温存してしまった。それは、これも含めた多くの本は「将来、インドシナに行ける日が来たら、そのときこそ現地で読もう」と考えたからだ。ベトナムはそのあいだに「統一44年目」を迎えている。

「ベトナムロード」は参考文献の列記も含めて348ページ。本読みに費やせる日数は7日間。活字が尽きれば旅の愉しさは半減する。予備の本は、何にしよう。


朝飯 胡麻豆腐による冷や奴、鮭の焼き漬け、なめこのたまり炊によるフワトロ玉子、蓮根のきんぴら、トマトとレタスのサラダ、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、メシ、揚げ湯波と大根の葉の茎とのげ海苔の味噌汁
昼飯 バターとママレードと無花果のジャムとらっきょうのたまり漬のトースト、ヨーグルト
晩飯 「バーミヤン」のあれこれ、紹興酒(常温)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.2.27(木) トロール外出

住所録の管理にコンピュータを使っている人は少なくない。しかしその住所録を、都度、様々な条件に従って並べ替えている人は、それほど多くないと思う。たとえば出張に出かける際に、先ずは郵便番号、それから住所で並べ替えれば、目的の会社あるいは人の周辺に、様々な場所や組織の存在することが分かる。「だったらこの機会に、どこへも行こう、誰にも会おう」と、一覧で判断をすることができる。これを西順一郎は著書「戦略的マイツール入門」に「トロール出張」と表現した。

職業柄、僕は遠くへ出かけることはほとんどない。しかし街で用足しをするときにはいつも、この「トロール出張」を思い出す。そして「あそこへ行くなら、ここにも寄れる。だったらこの用事も済ませてしまおう」と、それらを紙に書き出し、クルマのダッシュボードに貼る。

今日もそのようにして、営業車のホンダフィットは車検の最中にあるから、代車の日産マーチの運転席に着く。

そうして出かけたまでは良かったが、本日、何ヶ所目かの法務局に日産マーチを駐め、歩き出したところで法人カードを持ってこなかったことに気づく。免許証、保険証、病院の診察券、法人印、銀行の通帳、おなじく銀行の入金帳は持ちながら、法人カードはカバンに入れ忘れた。ここで「トロール外出」は一旦中止。仕方なく会社に戻る。

たとえ街なかのこととはいえ、準備にはもうすこし、念を入れることにしよう。


朝飯 納豆、菠薐草のソテー、大根おろしを添えた厚揚げ豆腐の網焼き、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、鮭の焼き漬け、牛蒡と人参のきんぴら、メシ、ケープムーと大根の葉の茎と若布の味噌汁
昼飯 ラーメン
晩飯 鮑のバター焼き、ホウレンソウの胡麻和え、南瓜の煮付け、大根おろしを添えた鰤の照り焼き、蓮根のきんぴら、小海老とグリーンピースの天ぷら、らっきょうのたまり漬、「秋田清酒」の「刈穂渡船特別純米」(冷や)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2020.2.26(水) お客様に負うところ

13時30分に隠居へおもむくと、家内と長男は「リビングカマトク」のアキザワマサアキさんより厨房器具の使い方を教わっていた。おなじく「リビングカマトク」による食器はほとんど、数日前に洗われて食器棚に収まっている。僕は玄関を上がってすぐの6畳間で「ツクバ材木店」のツクバヒロミさんより名刺を受け取る。奥の6畳と8畳の部屋には本日、ツクバさんにより2棹のテーブルが据え付けられていた。

隠居には、今月21日より販売係のタカハシリツコさんが配置転換をされ、屋内の掃除はきのうまでにほとんど完了した。庭の灯籠の、傾きを直し接合部を接着剤で固定し、またそこここに点在した石を一ヶ所にまとめたスドー石材の仕事は、残すところわずかになっている。植木屋の「クリーンガーデン」は当初、6日間で仕事を終える手はずになっていたものの、池泉の土さらいに手間取って、その作業は今も続いている。

朝食に特化した「汁飯香の店 隠居うわさわ」の今後の予定は以下の通り。

・3月15日(日)、16日(月) 社員をお客様に見立てての練習
・3月20日(金)、21日(土) 、22日(日) 関係各方面の方々をご招待しての内覧会
・3月28(土) 新規開業

モダンなテーブルと椅子を築百数十年の建物に馴染ませるのは、我々なのか、お客様なのか。お客様に負うところが大きいと、僕は感じている。


朝飯 揚げ湯波と小松菜の炊き合わせ、納豆、大根おろしを添えた油揚げの網焼き、牛蒡と人参のきんぴら、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、牡蠣の佃煮、メシ、大根の味噌汁
昼飯 バターとママレードと無花果のジャムとらっきょうのたまり漬のトースト、ヨーグルト
晩飯 ジャガイモと玉葱のソテーの熱で柔らかくして食べるコンビーフ、TIO PEPE、人参と白菜とベーコンのスープ3種の茸のソテーベビーリーフのサラダハムステーキジャガイモのグラタンPetit Chablis Billaud Simon 2016団子、Old Parr(生)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

< 古い日記へ   新しい日記へ >

上澤卓哉

上澤梅太郎商店・上澤卓哉

2025

2024

2023

2022

2021

2020

2019

2018

2017

2016

2015

2014

2013

2012

2011

2010

2009

2008

2007

2006

2005

2004

2003

2002

2001

2000

蔵見学