2025.10.10 (金) 無意識の領域の具体的な理解
目を覚ましたのは4時台のなかば。起きたのは5時すこし過ぎ。きのうの朝から一転して、今日は涼しい、というか寒くさえある。
洗面所のカーテンの隙間から見る朝の空が美しい。廊下を伝って食堂に来て湯沸かしの電源を入れると即、階段室の鍵を外して屋上へ出る。東の中天には金星が光っている。西の中天には旧暦8月19日の、と言うべきか、あるいは18日の、というべきか分からないものの、月が丸々と、いまだ煌々と照っている。
数分後に階下に降りて、仏壇と自分のためのお茶を淹れる。東の窓に目を遣れば、朝の空は早くも死んだ鳥の、閉じられたまぶたのように薄く頼りなくなっていた。
オマル・ハイヤームの詩のどこかには「一瞬を生かせ」という警句がありはしなかったか。あるいはそれは、この古代ペルシャの文章を駅伝のたすきを繋ぐようにして訳してきた、そのうちの誰かが勝手に章立てた、そのひとつに付けた見出しだったかも知れない。
と、今日もまた、朝のことだけで397文字も連ねてしまった。その理由を考えれば、この日記の書かれる時間がほぼ早朝に限られ、そのときは正に”Real time”のため、筆が進む、否、キーボードを叩く指がよどみなく動くのだろう。
午後、今回の訪タイに持参したCampusの二冊のメモ帳のうち、A7の小さな方の、既にして使ったページを破って捨てる。そこにある文字のすべてはこの日記に残されたから、元の紙は、もはや不要なのだ。
その小さなメモ帳「A7変形普通横罫30枚(7mm×12行)」と、おなじA7サイズのRHODIA No11を事務机に並べてみる。RHODIAのメモ帳は、よくは覚えていないものの、20年ほど前に手に入れたもので、邪魔な表紙を取り去って後もなお僕には使いづらく、いまだ半分ほどのページが残されている。
日本では珍しくもないCampusのメモ帳の使いやすさは、開くとA7が2ページの広さになって、つまり1ページの倍の情報が俯瞰できる。それに対していわゆる「おしゃれな人」に愛されるRHODIAのメモ帳は、一度に目視できるのは1ページのみ。使ったページを後ろにめくると、本体の厚さにより、その裏の面積は本来の3分の2ほどの狭さになって、使う気にはならない。またページは1枚ずつ切り取られることが前提とされているから、必要なあいだは残しておく、ということが不自然に感じられる。それらの理由によりRHODIAのメモ帳には手が伸びなかった、ということが今回はようやく理解できた。
そしてまた、何気なくしている行いは、つらつら考えてみないと、その無意識の領域は曖昧模糊としたまま、ということが分かった。遅ればせながらの納得、である。
朝飯 玉子焼き、筑前煮、納豆、鮭の焼きほぐし、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「つぶより」(四つ割り)、ごぼうのたまり漬、メシ、三つ葉の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 万願寺唐辛子の網焼き鰹節かけ、秋刀魚の梅煮、筑前煮、めかぶの酢の物、鶏の網焼きの「日光味噌ひしお」添え、らっきょうのたまり漬「つぶより」(四つ割り)、「山本合名」の山廃純米「天杉」(冷や)