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清閑 PERSONAL DIARY

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2018.10.5(金) タイ日記(11日目)

チェンライからバンコクに南下して、空気の蒸し暑さに驚いた。チェンライの気温は常時、23℃から高くてもせいぜい28℃あたりを維持していたように思う。それがいきなりの30℃超えである。それでも夜は、ホテルの廊下や他の部屋が冷えているせいか、自室に冷房を回す必要はなかった。

8時を前にしてタイパンツにゴム草履を引っかけ、外へ出る。そしてチャルンクルン通りを北に歩く。シーロム通りとの交差点手前左側にあるいつもの店で、汁麺を朝食にする

北欧に住む人のように太陽に飢えているわけではない。しかし朝の雲は大きく裂け目を開き、地上には日が差している。にもかかわらず、部屋のベランダから遙か下に見おろすプールに人影は見えない。即、着替えてプールサイドへ行く。そしてここの寝椅子で2時間ほども本を読む。

昼は一旦、着替えて外に出る。チャルンクルン通りを朝とは反対の南へ歩き、左手にsoi57のパクソイを過ぎると、大きめの消防署が見えてくる。これを過ぎてすぐの左側に、好きなカオマンガイ屋がある。頼むのはいつも、茹で鶏と揚げ鶏を半分ずつごはんの載せたものだ。この店はスープも美味い。そのスープの、まるで鈴虫の鳴き声を思わせるような涼やかな香りのもとは何だろう。

午後は荷造りを早々に済ませ、ふたたびプールサイドに降りる。外に裸で寝転がって本を読むなどの贅沢は、今日を過ぎれば、すくなくともこの先半年は望めないのだ

ホテルは16時まで居残れるレイトチェックアウトにしておいた。ベル係に荷物を預け、先ずは朝の汁麺屋ちかくのマッサージ屋で脚と肩のマッサージを1時間だけ受ける。これはまぁ、夕食までの、時間調整のようなものだ。

実は昨年、サパーンタクシンから舟でチャオプラヤ川を遡る途中、右手に掘っ立て小屋のようなバーのあることに気づいた。舟に乗るたび観察をする限り、バーはいつも白人で鈴なりだった。興味を惹かれ、ことしの3月、泊まっていたオリエンタルホテルから歩いてこのバーを探してみた。バーはチャルンクルン通りsoi42/1の突き当たり、シャングリラホテルの宿泊棟とペニンシュラホテルの専用船着場のあいだに見つかった。

マッサージ屋からチャルンクルン通りを西へと渡り、すこし南に下ってsoi42/1に入る。店はチャオプラヤ川の護岸を跨いで越えたところを板張りの床にしていた。その、川に突き出すようにして渡されたカウンターに着き、ハウスワインの白を頼む。日暮れ時の川風は爽やかだ。

ワインは1杯に留めてビールに換えるころ、いきなり、無数の雨滴が空から斜めに線を引いて、此岸と彼岸とのあいだに紗の幕を張った。更に、その幕はまたたく間に川面を渡り、僕のビールと空心菜炒めに襲いかかろうとしている。

肩を叩かれて振り向くと、店のオネーサンは早くも奥まったところに僕の席を作っていた。「カウンターの方が良かったのに…」などと逆らうことはできない。ビールと空心菜には早くも、細かい雨の粒が風を伴って盛んに降りかかっているのだ。「驟雨沛然とはこのことか」と、小さな浮き桟橋の向こうに煙るチャオプラヤ川を、新しい席からしばし眺める

雨は、シンハビールの大瓶を飲みきるころには幸い上がったそこここに水たまりのできたsoi42/1からチャルンクルン通りに出てホテルに戻る。そして預けた荷物を受け取り、BTSの駅サパーンタクシンへのエスカレータを上がる。

19:05 ナショナルスタジアム行きの車両が発車する。
19:30 パヤタイ駅では今日も、プラットフォームに上がる人数を制限している
19:40 スワンナプーム空港行きの車両が発車する。

車窓から見える高速道路は、空港から街へ向かう路線も、また街から空港へ向かう路線も大渋滞をしている。金曜日の夜に、街と空港との間をクルマで移動することは避けるべし。これは、おととしの10月に得た教訓である

20:10 スワンナプーム空港着。
20:30 チェックインを完了
20:38 保安検査場を抜ける。
20:45 パスポートコントロールを抜ける。係官と旅客を隔てるアクリル板に”NO TIPS PLEASE”の張り紙をはじめて目にする。

21:29 指定された搭乗口D1Aに達する。外では強い雨が降っている。
22:46 空港ビルからバスで運ばれた先でタイ航空機に搭乗

“AIRBUS A350-900(359)”を機材とする”TG682″は、定刻に32分おくれて23時17分に滑走路を離れた。


朝飯 チャルンクルン通りの通い慣れた汁麺屋のバミーナム
昼飯 チャルンクルン通りの通い慣れたカオマンガイ屋のトムトーパッソム
晩飯 “Jack’s Bar”のヤムウンセンムーサップパックブンファイデーンハウスワインの白シンハビール

2018.10.4(木) タイ日記(10日目)

泊まっているホテルは、朝、掃除の際に500ccのミネラルウォーター2本を置いていく。しかしここにきた初日は暑く、計1リットルの水はたちまち飲み干された。よって正門前のセブンイレブンを訪ね「どうぜ8泊もするんだ」と、最も大きな1.5リットル入りのミネラルウォーターを買って戻った。

しかしその後は雨がち、曇りがちの涼しい日々が続き、また毎朝、僕からチップを受け取るメイドは、そのうち日に4本、計2リットルの水を置くようになった。

というわけで、初日に買った1.5リットルのミネラルウォーターには、ほとんど手を付けないままチェンライを去る。「格安だから」と大きな単位で物を買い、しかし遂に使い切れないという悪癖は、僕の宿痾である。

08:25 迎えのクルマがホテルに来る。
08:45 メイファールン国際空港に着く。
08:50 チェックインを完了
08:55 空港内の郵便局から、きのう書いた13通の葉書を投函する
09:05 空港内のドイチャンコーヒーでタイ北部最後のコーヒーを飲む

09:10 保安検査場を抜けて搭乗口のある部屋に入る
09:32 搭乗。
09:58 “AIRBUS A320″を機材とする”PG232″は定刻に13分遅れて離陸。
11:07 “PG232″は定刻より13分早くスワンナプーム空港に着陸
11:34 回転台からスーツケースが出てくる。

11時40分に1階に降り、整理券を発行する機械から55番の紙を受け取る。55番レーンにタクシーを停めていた運転手に整理券を見せる。運転手は僕のスーツケースを丁寧にトランクに入れてくれた。

後席に乗り込み行き先を告げると、運転手はその場所をスマートフォンで確かめ「500」と英語で言いつつ振り向いた。「正規の乗り場から乗っても、こんなにトッポい運転手がいるのか」と、いささか呆れながら「メーター」と指示する。「メーターだと高速代がかかるけど」と、今度は前を向いたまま運転手が訊く。「いいよ」と僕は返事をする。

走り出して分かったことだが、整理券にある運転手の名前と、車内にある営業許可証の名前が違っている。運転手はせいぜい40歳代だろう。営業許可証の写真は、どう見ても年寄りだ

12:00 最初の料金所で25バーツを運転手に渡す。メーターは161バーツ。
12:14 次の料金所で50バーツを運転手に渡す。メーターは203バーツ。
12:28 バンラックのホテルに着く。メーターは289バーツ。空港使用料の50バーツも含めて360バーツを手渡す。運転手は「コップンカッ」と礼を述べ、ホテルのベルボーイに指示されるまま、クルマをチャルンクルン通りへと向けた。

25バーツ+50バーツ+360バーツ=435バーツ。運転手の言い値で来るより昼食1回分ほどは得をした勘定である。

センターポイントシーロムのフロントでチェックインをしながら「部屋の用意ができますまで、15分ほどお待ちください」と言われて了承した。しかし実際の待ち時間は45分に及んだ。はじめ提示された18階の部屋は、いつのまにか4部屋しかない最上階のそれに格上げをされていた。館内の自動販売機で使えるクーポンも、カードキーに付けてくれていた。「どうせここはタイだ」と、大人しく待っていた僕への御褒美である

その部屋に備えつけの洗濯機で、溜まった衣類を洗う。このホテルの洗濯機を使おうとするたび「オレは実は、かなり頭が悪いのではなかろうか」と自信を無くす。洗濯機の側に置かれた使用説明書が全然、理解できないのだ。たとえばその2番目に”Turn program select to Cotton Eco”と書いてあるにもかかわらず、洗濯機のダイヤルのどこを探しても”Cotton Eco”の表示は見あたらない。他の宿泊客がこの「トリセツ」を理解しているというなら、やはり僕の頭が悪いのだろう

夕刻、帰宅途中の同級生コモトリケー君と、サパーンタクシンの船着場で落ち合う。そして彼の住むコンドミニアムの舟に乗る。11月9日に営業が開始されるというアイコンサイアムは左手に、いまだ建設の途上である。あるいはここもまた、はじめはタイ得意の「ソフトオープン」という形で開業をされるのかも知れない

これまで何度となく訪れた、コモトリ君の家から目と鼻の先の”YOK YO MARINA & RESTAURANT”は、なぜか跡形もなく消え去っていた。今夜は、それよりすこし下流にある、もう1軒の”YOK YO MARINA & RESTAURANT”まで行きいくつかの海鮮料理にて飲酒活動を行う


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きクロワッサン風のパンエスプレッソ
昼飯 “PG232″の機内食
晩飯 “YOK YO MARINA & RESTAURANT”のオースワンパックンガティアムプラームックパッポンカリー、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)

2018.10.3(水) タイ日記(9日目)

この街の目抜きパホンヨーティン通りが金色の時計塔のある通りと交わる北西の角に、感じの良い喫茶店があった。そこで出すより美味いコーヒーを僕は知らない。その店が、昨年秋にチェンライに来てみると、忽然と消えていた。赤い土がむき出しになった跡地には、ビジネスコンドミニアムが建設される旨の立て札があった。

今回、街で情報を集めたところ、店は名を”THE WANDERER”と改め、コック川の対岸に移ったことが分かった。よってクルマを頼み、行ってみることにした。一度道を知れば、次からは自力で訪ねることができるだろう。

国道一号線からひとつ西にある橋を南から北へと渡り、間もなく左折、そしてまた左折、突き当たったら右折。しばらく行った左手の駐車場でクルマを降りると、鬱蒼とした森の中に小径があった。雨は上がりつつあり、薄日が差しはじめている。小径は予想したよりも長かった。その先には記憶のある喫茶店よりはるかに規模を大きくした、しかし「なるほど雰囲気は確かに、こんな感じだった」という空間が広がっていた。

注文は、入口を入ったところのメニュを見て決める方式に変わっていた。今日はこの店のケーキを昼食としても構わないと考えていたところ、メニュには新たに、ランチの数々が加わっていた。よってその中から一品を選び、席に着く。

ほどなくすると停電になったため、窓際の明るい場所に移る。そして食事を済ませた後は、ことし届いた年賀状や暑中見舞いに返事を書く。

敵が送ってくる季節のハガキは、機械で印刷をされたものに、ほんのひと言が手書きで添えてあるのみ。それに対して当方は、すべて手書きで応戦をするのだ。敵の物量には敵うわけもなく、13枚を書いたところで右手がこわばり、続行は不可能になった

「あとは明日だ」とボールペンを置き、席を立つ。この店に入ってから2時間ちかくが過ぎていた。

午後はホテルのプールサイドに降り、本を読む。上半身はパラソルの影に隠れているものの、脚は日の光に曝され、耐えがたいほど暑くなる。そのたびプールに入って泳ぐことを繰り返す。

17時ちかくにホテルの裏口を出て西へと歩く。その道がパホンヨーティン通りと交わる南東の角のマッサージ屋”PAI”で、脚と肩のマッサージを1時間だけ受ける。そのマッサージが終わろうとするころ、テレビからは国王賛歌が流れ始めた。

雨がまた降り始めている。ことしのチェンライには雨が多い。お茶屋やイタリア料理屋やマッサージ屋の軒先を伝って北へと歩く。ナイトバザール奥のフードコートには、きのうより多くの雨除けテントが置かれていた。今夜はチェンライ最後の夜だ。ラオカーオのソーダ割りは、きのうに増してゆっくりと飲んだ

ホテルには20時前に戻った。そしてシャワーを浴びて即、就寝する。


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼き、エスプレッソ
昼飯 “THE WANDERER”のグリルドチーズサンドイッチダブルエスプレッソ
晩飯 ナイトバザールのフードコート32番ブースのチムジュムパッシーユームーサップラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


美味しい朝食のウェブログ集は、こちら。

2018.10.2(火) タイ日記(8日目)

夜半から降り始めたと思われる強い雨は、明け方になっても一向に止む気配を見せなかった。ベランダへの戸を開いたまま、きのうの日記を書く。小一時間ほどが経つと、やおら、鳩が鳴き交わし始めた。雨はほとんど上がったらしい。

食堂棟は、僕のいる本館とは目と鼻の先にあるとはいえ、濡れながら走る気はしない。その食堂棟から出て大型バスに乗り込もうとしている団体客は、傘を差していない。それを確認してから40段の階段を降りて、食堂棟へと向かう。

団体客は、明るいうちは、いわゆる「首長族」の村や黄金の三角地帯、にわか作りでも観光名所になりうることを証明したこの街のドル箱「白い寺」などを回れるだけ回り、大きなレストランで夕食の後、ホテルに来るものと思われる。そして夜が明ければ6時30分から朝食を摂り、7時30分に出発をしていく。このことにより、日中のホテルはとても静かだ。

その静かなホテルで本を読む場合、僕にはプールサイドが最高の場所となる。しかし今日の空はいつまでも晴れず、気温は低い。だったら本は部屋で読むかといえば、それもつまらない。もうひとつ、持参した服の数は最小限で、今日はまた洗濯屋へ行かなくてはならない。

先週の金曜日に使った洗濯屋へ行くと、オカミは留守らしく、亭主はどうも「3日間は休み」と言っているらしい。すこし離れた洗濯屋へ向かう。こちらは料金こそすこし安いものの、できあがるのは明朝だという。そう言われても、預ける以外に方法はないだろう、現在、僕はきのうとおなじシャツを着て、下着はもはや着けていない状態なのだ。

洗濯屋から大きな通りに出て、そこからシリコーン市場へと入って行く。先週の水曜日にトムセーップを飲んだイサーン料理屋では、鉄の炉に炭火を熾し、鶏や魚や豚肉を焼いていた。その、豚のロース肉の照り焼きで白ワインや軽めの赤ワインを飲んだらどれほど美味かろう。しかし旅先では、それが中々ままならないのだ。

その真ん中に標識が立てられ、あるいは木の植えられた、だから本来の機能を果たすことは永遠にあり得ないタイに特徴的な歩道を辿って街を往く。途中、観光客を集めるお寺の前を通るも、お寺の名前は分からない

この街に来た火曜日に休みだったおかずメシ屋「シートラン」は、今日も休みだった。そこから金色の時計塔に向かって1軒目か2軒目のやはりおかずメシ屋で、僕としては多めの昼食を摂る。今日は午前中にすこしばかり頭を使うことをしたため、腹が減っていたのだ。ホテルに帰る道すがら、いつもの酒屋でラオカーオ2本を買う

午後はマッサージ屋”ARISARA”に電話を入れ、先週の木曜日に強烈な施術を施してくれたプックさんを予約する。カタカナで書けば「プック」なのだろうけれど、その発音は難しい。「ピーオーオーケイ」と、ローマ字による表記も併せて太ったオカミには伝える。

ふたたび降り始めた雨の中、傘を差して”ARISARA”へと向かう。今日はオイルではなく2時間のタイマッサージを頼んだ。プックさんは、僕の尻の上の方や膝の裏にある、1円玉か10円玉ほどのコリをたちまち探し出し、それを鍛え抜かれた親指や肱で責めていく。その痛みに思わず体を震わせると「ここはツボなのだ」というようなことをプックさんは言う。そんなことは分かっている。当方はただ、耐えるばかりである。

“ARISARA”を去るころには、雨は止んでいた。昨年の秋に使った、チェンライとチェンコンを往復するバスとすれ違いつつホテルに戻る

ナイトバザールの奥のフードコートの椅子は、雨の溜まらないよう、すべて傾けて置かれていた。その野天のテーブルは避けて、屋根の下の席に着く。そして初日の晩以降は食べていなかったチムジュムを肴にラオカーオのソーダ割りを飲む。

いつもとは異なった道を選ぶと、大きめの器に満杯のパイナップルを10バーツで売る屋台があった。チェンライで収穫されるパイナップルの美味さは、タイ人の中でも有名らしい。しかし悲しいかな、たとえ美味くて安くても、それだけ沢山のパイナップルを僕は食べられない

部屋に戻ってシャワーを浴びる。そして即、寝台に上がって明かりを落とす。時刻は20時を回ったばかりだ。


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 イスラム寺のあるsoiとバンパプラカン通りの角から金色の時計塔に向かって2軒目か3軒目のおかずメシ屋の2種のおかず、豚のあばら肉とニガウリのスープ、ライス
晩飯 ナイトバザールのフードコート32番ブースのチムジュムラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.10.1(月) タイ日記(7日目)

午前中はほとんどプールにいて、本を読む。この2日間ほどは、地元の家族が水泳の指導者と共にこのプールに来て、ふたりの子供に熱心に水泳を仕込んでいる。よって僕の泳ぐ隙がない。まぁ、贅沢は言えない。

午後はクルマを頼み、後学のため、この街の高級ホテル2軒を調べる。

昨年まで泊まっていた”Dusit Island Resort”の上流対岸に見える”Wian Indra Riverside Resort”は、公共部分の、高い天井を持つ、木と漆喰によるコロニアル風の造作が魅力だ。しかし、これは日中の強い日差しを避けるための、南の国に共通のことだから仕方がないのかも知れないけれど、部屋は薄暗く、陰気だった

もう1軒の、アシスタントセールスマネージャーが案内してくれた”Le Meridien Chiang Rai Resort”は、とにかく”cool”だ。上級職は制服ではなく、スマートカジュアルの私服を着ている。しかし街までは前者のホテルとおなじく歩いては行けず、恰好ばかりで飲みづらいグラスにすこしだけのアイスコーヒーは、街で食べる汁麺の5倍以上の貨幣を要求する。金に糸目を付けず、このホテルの中でのみ楽しむ覚悟さえ決まれば最高の環境だろう。

ホテルに帰ってふたたびプールサイドに降り、本を読む。

ホテルの正門はす向かいに大きな食堂のあることは、おととい朝の散歩のときに気づいていた。日が落ちてから出向くと、そこはムーカタ屋だった。しかしすぐ脇にはおなじ系列の、普通の食堂もある。よってその腰かけに落ち着き、イサーン風のおかずにて飲酒活動を行う。注文した3品の合計金額は、しつこいようだけれど、メリディアンのアイスコーヒー1杯よりも、よほど安かった


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 名前を知らない食堂のカオソーイ
晩飯 名前を知らない食堂のソムタムタイガイヤーンヤムウンセンムーサップラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.30(日) タイ日記(6日目)

きのうの夜、腕や脚の痒さに耐えかね、目を覚まして枕頭のiPhoneを見ると、時刻は23時35分だった。「勘弁してくれよ」とばかりに部屋の明かりのスイッチを入れ、持参した蚊取り線香に火を点けた。そして薬袋から萬金油を取り出し、血を吸われた数ヶ所に塗り込んだ。

食堂棟の外の席で数人が声高に話していたこともあって、ふたたび眠ることができたのは、3時間後の2時30分のころだった。そのこともあって、今朝は6時をすぎてようやく目が開いた。朝の光を受けて、カーテンがうっすらと明るくなっている。

朝食は、いつもより遅い8時すぎに摂った。きのうの日記を書き終えて、10時30分にプールサイドに降りる。

今日から読み始めた服部正也による「ルワンダ中央銀行総裁日記」が、大変に面白い。いくら経験を積んだ日銀マンとはいえ、それが一国の中央銀行総裁に呼ばれるなどということがあるだろうか。時は1964年、奇しくもきのうまで読んでいた「南ヴェトナム戦争従軍記」と、おなじ時代である。

プールにいるあいだに100ページまで読もうとしたものの、84ページまで至って時計を見ると14時ちょうど。昼食が欲しくなるほど腹は減っていない。しかし体力を落としてもいけない。街へ出て汁麺を食べ、更にはドゥーリアンモントン、つまりドリアンのアイスクリームをデザートにする

マッサージを受けたい気持ちはあったものの、ホテルに戻り、日本から持参したあれこれを読んで過ごす。16時を過ぎると雷が鳴り、ベランダまで吹き込む大雨になった。雨はそれから2時間ほども降り続いたから、マッサージを受けずに帰ったのは正解だった。

チェンライに着いてから6日が過ぎようとしている。”Dusit Island Resort”に泊まっていた昨年までは、いつもコック川が目の前にあった。僕にとってチェンライの象徴のようなそのコック川を、今年はいまだ目にしていない。

空が夕刻から夜に変わるころ、それまでのタイパンツを普通のズボンに、ゴム草履を革靴に履き替え、街に出る。折良く近づいて来たタクシーを停め、川沿いの料理屋の名を告げる。

川床のような席から望むコック川は、雨期の水を満々とたたえて黒く流れていた。遠く左手に、国道1号線がこの川を跨ぐ大きな橋が白く見え、それを渡るクルマの灯りがゆっくりと動いていく。バンドの演奏が始まっても、特にうるささは感じない。目の前の風景は現実を離れて、とても静かだ。


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 “Pa Nual”のカノムジーンナムニャオ
晩飯 “Leelawadee”の竹虫の素揚げパックブンファイデーントードマンクンシンハビール


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2018.9.29(土) タイ日記(5日目)

今朝の鳥は5時15分から啼き始めた。その声は「キュイッ、キュイッ」だったり「ギィーッ」だったり「ポッポッポロー」だったりする。カーテンを開け、ベランダへの引き戸を全開にする。すると遠くから鶏の声も聞こえてきた。朝食の用意をしているのだろう、食堂棟には既にして灯りが点っている。

このホテルは、昨年まで泊まっていた、コック川の中州に建つドゥシットには較べるべくもないものの、結構、広い。その広さを銀座の地理で説明すれば、正門は中央通りに、そして裏門は旧電通通りに抜けている感じだ。裏門の方が目抜きのパホンヨーティン通りにちかいため、僕はもっぱら、こちらの方を使っている。

よって今朝は、このホテルに来たときにしか通らなかった正門まで庭の小径を歩き、その外を散歩してみた。道を渡ると風景は一気に郊外のそれになり、種々の竹籠を製造販売している店あるいは庭に置くコンクリート製の祠を売る店などが、途切れ途切れに並んでいた。また郊外型の、大きな食堂も目立った。

散歩から戻ると9時30分。ようやく薄日が差してきたところを見計らってプールサイドに降りる。

いま読んでいる岡村昭彦の「南ヴェトナム戦争従軍記」は、3月にフアヒンで読み始め、バンコクに移動するまでの数日間で256ページまでを読んだ。今回はその256ページから読み始めて、本日、最後の500ページに達した。

1965年4月、岡村は南ヴェトナム解放民族戦線の誤解からDゾーンのジャングルで捕虜となり、50数日間の厳しい監禁生活を耐えた。そして遂に、同戦線の副議長フィン・タン・ファットと念願の会見を果たし、親しく意見を交換した。その際、押収されていた3冊の本を彼に頼んで戻してもらうと、タン・ファットはそのうちの「魯迅選集」の扉にある魯迅の家族の写真を「じっと吸い込まれるように」見てから「もしできることなら、あなたがお帰りになるとき、記念として、この本を私にゆずっていただけないでしょうか」と岡村に頼む、この場面こそ「南ヴェトナム戦争従軍記」後半の白眉と、僕は感じた。

寝椅子で本を閉じるとポツリと顔に雨粒が落ちた。午後のスコールが来るのかも知れない。上半身にバスタオルを巻き付け、庭を歩いてロビーから40段の階段を上がって部屋に戻る。時刻は13時10分になっていた。

昼食を摂るため街に出る。食後は初日にも訪ねたマッサージ屋”PAI”で2時間ほどからだを揉んでもらう。係は今日もジェップさんだった。

チェンライでは土曜日の夜に、大きな市が立つ。それだけなく、広場に市民が集まり、地元の音楽を楽しみながら、飲み、食い、かつ踊って楽しむ。チェンライの滞在に土曜日が含まれるときには、僕はかならずこのサタデーナイトマーケットに出かける。早く行かなくては席が埋まる。すこし焦りつつホテルの裏口を出る。時刻は16時50分。

店を開きつつある露店のあいだをすり抜け、会場の広場には17時10分に着いた。案に相違して、席のほとんどは空いていた。市民は天気の行方を知っているのだろう、西の方で雷鳴が聞こえ、やがて雨が降り始める。僕はすぐちかくのセブンイレブンで買ったばかりのソーダと氷で席を確保してから大きな木の下に避難した。

幸いなことに、雨は間もなく止んだ。露店のひとつで鳥の心臓の串焼きを買う。別の露店で豚肉をバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたものを買う。席に戻ると「国王賛歌」がスピーカーから流れ始める。時刻は18時。僕は地元の人たちと共に起立をする

空が徐々に暗くなる。木々からはいつものことながら、異常なほど集まった鳥が、考えられないほど大きな声を発している。「空いてますか」と若いカップルに声をかけられて「もちろん」と席を勧める。19時にいつものバンドがステージに現れる。歌の達者な帽子のオジサンは今年も健在だった

タイ人は日本人よりもよほど、個人の多様性を認める。あるいは個人の趣味や嗜好、あるいは性癖に干渉しない。僕にはそのように感じられるけれど、実際のところはどうなのだろう。変化に富んだ市民による踊りの輪が、だんだんと大きくなっていく

広場にはいまや、1,000人を越えると思われる市民が集まっている。同席のカップルは去り、入れ代わるようにして、今度は老夫婦が来た。その奥さんが踊りの輪に加わるべく去ると、オジサンは手持ち無沙汰になったか、僕に盛んに話しかけるが、もちろん、何を言っているかはほとんど分からない。

「ホテルに戻る」と、オジサンの耳に口を近づけ、大きな声で伝える。銀糸を織り込んだ青いシャツのオジサンは「そうか」という風に頷いた。田舎の夜に眩しいほどの光を連ねた露店を眺めつつ、帰り道を辿る

今夜は遠回りをして、朝、散歩をした方に回ってみる。このあたりにはムーカタの店が多い。ホテルの正門に何時ごろ帰り着いたかは、酔いも手伝って、記録はしていない


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 「カオソーイポーチャイ」のバミーナムニャオ
晩飯 鶏の心臓の串焼、豚肉をバナナの葉に包んで蒸し焼きにしたもの、ラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.28(金) タイ日記(4日目)

きのうとまったくおなじ、午前1時30分すぎに目を覚ます。おとといの夜も、そしてきのうの夜も20時すぎ就寝したことを考えれば、それほど不思議なことでもない。

きのうの日記を書こうとしてコンピュータを立ち上げると、ホテルのwifiが見あたらない。一時的に落ちているのだろう。心配なのは、キーボードの”E”キーの接触が、いきなり鈍くなっていることだ。帰国したらできるだけ早く、あるいは羽田空港から家に帰る途中にも、秋葉原の「LUMIX&Let’s note修理工房」を訪ねるべきかも知れない。

wifiが復旧するまでは、秀丸で日記を書くことも考えた。しかし二度寝をすることにして、今度は6時直前に起床する。鳥はやはり、きのうとおなじ5時50分すぎに啼き始めた。

普段は、少なくない量の朝食を摂っていても、11時が近づくころには著しく腹が空いている。しかしタイにいると、昼を過ぎても食欲は一向に湧かない。旅先では、からだは動かしても脳を働かせることはしない。だから腹も減らないのだろうか。今朝は試しにパンを抜いてみる。

このホテルのプールは、東側に幾本ものタビビトノキが育っている。そのため午前中は日影が多く、涼しい。そのプールで90分ほどを過ごす。昼は街に食事に出かけ、午後はふたたびプールの寝椅子に戻る。今日は岡村昭彦著「南ヴェトナム戦争従軍記」の、306ページから411ページまでを読むことができた

部屋に上がってシャワーを浴び、冷蔵庫から水を取り出そうとすると、その扉の内側に立てたガラス瓶が、冷蔵庫の構造上の不備から床に落ち、割れた。水はバスマットに吸わせたものの、ガラスのかけらは素手では取りきれない。よってフロントへ行き、掃除のオバチャンを寄こすよう頼む。

裸足で来たオバチャンには「危ないから」と注意してサンダルを履いてもらう。「水は20バーツ」と、掃除をするより前にオバチャンが口を開く。「何だよ、この冷蔵庫を見てみなよ、こんな設計だから、メイドの立てた瓶が滑り落ちるんだよ、それを何が20バーツだ」というような主張はしない。「だったら2本」とオバチャンに頼んで50バーツ札を渡す。

オバチャンは柔らかい箒で石の床からガラスのかけらを集め、更に分厚いタオルであたりを丁寧に拭いてくれた。そして廊下に出て、しばらくすると”Chang”社製ミネラルウォーターの、500ccの瓶2本を抱えて来た。オバチャンが10バーツの釣りを寄こしたので「要らない」と手で制すると、オバチャンはワイをして頭を下げた。しかし10バーツでは僕の気が収まらない。オバチャンには更に50バーツのチップを渡した。

17時55分にホテルの裏口を出る。そして歩いて2分ほどの洗濯屋を訪ねる。泊まっているホテルにはランドリーが無い。そのため毎日こまめに洗濯物を出す、ということができない。この店には今朝、日本を発ってからきのうまでの洗濯物を預けたのだ。価格は1キロで50バーツ。洗い上がった衣類は、朝とおなじセブンイレブンの袋に入れられ手渡された。この洗濯屋には、チェンライにいるあいだに、もう1度は来る必要があるだろう

「毎晩、ナイトバザールってのもなぁ」と、今日はウィアンインホテルはす向かいのルーフトップバーに上がってみる。バンコクのルーフトップバーは50階、60階にあるが、チェンライのそれは3階である。3階でも周りに高い建物はないから、見晴らしは悪くない。食べ物のメニュを取り寄せると、フレンチフライやポップコーンのたぐいが目立ったため、ここではビールだけにしておく。

そして結局は、今夜もナイトバザール奥のフードコートである。

数年前にガオラオを買って、あまり美味くなかった店に行列ができている。どうやら揚げ物で当てたらしい。揚げ物はさておき、僕の好物パッセンミーが大皿に大盛りになっている。それを40バーツで買い、次は飲物を売るブースでソーダと氷を、それぞれ20バーツと10バーツで買う。そうして鉄製の黄色い椅子に着き、今夜も静かに飲酒活動を行う


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きエスプレッソ
昼飯 「ナコンパトム」のカポップラー
晩飯 名前を知らないルーフトップバーのシンハビール、ナイトバザールのフードコートのパッセンミーラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.27(木) タイ日記(3日目)

鳥の声が聞こえてカーテンを開ける。夜はいまだ明けてはいない。時刻は5時53分だった。そのままベランダへの戸を開け放つ。気温は高くもなく、また低くもない。

外が騒がしくなったため、日記を書く手を休めてベランダに出る。別棟に泊まっていたらしい団体が、ちょうど食堂棟に入っていくところだった。時刻は6時30分。1台、そしてまた1台と、大型バスが食堂棟に横付けをされる。団体客は1時間後の7時28分に、2台のバスに綺麗に収まってどこかへと去った。きのうの団体と、数分と違わない出発である

いまだ空の暗いうちに書き、朝食の前に「公開」ボタンをクリックしたきのうの日記に、朝食を済ませてから手直しを加える。そして今度は今日の日記のここまでを書く。時刻は9時42分になっている。

きのうの日記には「明日は休養に勉めよう」などと書いたにもかかわらず、10時40分に目抜き通りに出る。そしてエジソンデパートはす向かいのカフェで、きのうに続いて自転車を借りる。僕はまだ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”を諦めていない。

10時40分に自転車を借りたには訳がある。タイは日本にくらべてよほど、酒やタバコには厳しい。日中においては、酒は11時から14時までの3時間にしか買えないのだ。

先ずはバスターミナル前の”PRASOPSOOK ROAD”を東に進む。すると間もなく、ミャンマーとの国境メーサイからバンコクの戦勝記念塔までを結ぶ大動脈、国道1号線に出る。時刻は10時57分。そのまま南へ向けてペダルを踏む。

しばらく行くと左手に”Big C”の黄緑色の看板が見えてくる。金色の歩道橋の先、右側には”Central Plaza”の看板も、また見え隠れしている。時刻は11時01分。きのうの苦労は一体、何だったのだろう。ひとえに、僕の調査不足、あるいは「チェンライの地理は頭に入っている」とばかりに地図も持参しなかった、自分への過信によるものだ。

9年ぶりの”Big C”は懐かしかった。ラオカーオの売り場を訪ねると、量こそたっぷりあったものの、“BANGYIKHAN”は見あたらなかった。”BANGYIKHAN”は、バンコクではオンヌットのテスコロータス、あるいはピンクラオのパタデパートで手に入る。しかしオンヌットも、またピンクラオも、僕が泊まるバンラックからは、それほど近くない。

気を取り直して国道1号線を北へと戻る。バスターミナルへの道の入口を無視してそのまま進むと、左手に一軒家のマッサージ屋があった。店の名前は”ARISARA”。サンスクリット語だろうか。

興味を惹かれて自転車を乗り入れ、花壇を支える木の柱に前輪を鍵で固定する。6、7段ほどの階段を上がっていく。玄関には太った女将がいた。料金表のオイルマッサージは1時間で600バーツ。左手の椅子に腰かける僕を待ち構えていたように、紅色のタイパンツを穿いた女の人は湯の入ったたらいを床に置いた。女の人は、何かいわれがあるのだろう、泥と砂を混ぜたような石鹸で僕の足を洗った。

ふくらはぎの内側、そして太ももの外側を執拗に責め続けるという、これまで経験したことのない施術は満足のいくものだった。女の人には100バーツのチップを手渡した。先ほどまで愛想の良くなかった女将は、なぜかにこやかになっていた。

国道1号線からホテルまでの裏道を確かめながら、ふたたびパホンヨーティン通りに出る。そしてそれを越え、サナビーン通りも横切る。”SANKHONGNOI ROAD”を更に西に進み、soi4のパクソイをすぎてすぐの右側にある汁麺屋に自転車を駐める。注文したのはカノムジーンナムニャオムー。別皿の生のモヤシをすこし加えたら良い塩梅だったため、すべてを投入したところ、折角の麺の食感が分からなくなってしまった。何ごとも、過ぎてはいけない、ということだ。やがて屋根を打つ雨の音が聞こえ始める。

雨はいわゆる天気雨で、すぐに止むかに思われた。しかし一天にわかにかき曇り、とてもではないけれど、外へは出ていけない勢いになった。その場に立ちすくむ僕に、店の親切なオネーサンはステンレス製の丸椅子を持って来てくれた。35バーツの汁麺1杯を食べただけの「いちげん」の客に、タイ人とは思えない心遣いである。僕はその椅子で、40分ちかくは休んでいたと思う。

丸椅子から立ち上がり、オネーサンに礼を述べつつ椅子を店に戻したのが14時15分。クルマの跳ね上げるしぶきを避けつつカフェに着き、自転車を返す。今日のオニーチャンは、朝に預けた100バーツを引き出しにいれたまま、パスポートのみ返してきた。そこで「きのうは60バーツだったぜ」と言うと、折良くきのうのオネーサンが奥から顔を出した。「半日なら60バーツ」と、オネーサンが口を添える。僕は無事、お釣りの40バーツを手にした。

部屋に戻って時計を見ると14時41分。通常ならプールへ降りるところ、天気は冴えない。結局は夕方まで部屋にいて、主に本を読んで過ごす。

夕刻、きのう街の酒屋で買ったラオカーオ”YEOWNGERN”を持ち運び用のペットボトルに移そうとして金属のスクリューキャップを開けると、まるで輸入ウイスキーの「玉付き」のようなフタが瓶にはめ込まれていて、押しても引いても動かない。よってその瓶を手に1階へ降りると、廊下の向こうからホテルの従業員が歩いてきた。そこで彼に瓶の口を見せると「レストラン」と言う。

食堂棟に入って右側には大きな事務机がある。そこに近づき「これ、開けられますか」と問いかける。若いマネージャーは「そこまで真剣にならなくても」と思われる表情で「すこしお待ちください」と外へ出ていった。

そのまま立っていると、タイでは女でもウェイターと呼ばれるウェイトレスのひとりが何ごとかと近づいて来た。訳を話すと彼女はその瓶をどこかに持ち去り、外した内蓋と共にふたたび現れた。見事な手際である。礼を述べて本館への階段を上がっていくと、先ほどのマネージャーが先ほどの従業員を連れて食堂棟へ戻ろうとしていた。「ウェイトレスが開けてくれたよ。今夜はこれを持ってナイトバザールへ行くんだ」と説明する。「オー、ナイッ、パッサーッ」と、彼らは朗らかに笑い声を上げた。

間もなく落ちようとしている夕陽を真正面に望みつつ、懐かしい感じのする田舎の道を往く。昼でも人の少ないこの道だが、目抜き通りまではそう遠くない。そしてまたまたナイトバザールの奥のフードコートに席を占め、ひとりゆっくりと落ち着いて、飲酒活動に専念をする


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きトーストとエスプレッソ西瓜とパイナップル
昼飯 「パースック」のカノムジーンナムニャオムー
晩飯 ナイトバザールのフードコートのパッシーユームーサップラオカーオ”YEOWNGERN”(ソーダ割り)


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2018.9.26(水) タイ日記(2日目)

チェンライの朝の空気は澄んでいる。このホテルには広い庭にランナー様式を模したいくつかの棟があり、そのうちの、僕は客のほとんどいない旧館に泊まっている。団体客は新館に案内をされているらしく、だからとても静かだ。

部屋のベランダから目と鼻の先の食堂棟の様子をそれとなく覗っていると、きのうからの団体客は、7時30分に大型バスに乗り込み去った。それを見届けてから、朝食を摂るため、その食堂棟に降りていく。

きのうの日記は9時までに完成させようと考えていたが、10時までかかってしまった。移動日の日記は、どうしても長くなるのだ。そしてようやく街に出て、先ずは馴染みの床屋で髪と髭を短く刈ってもらう。料金は、顔剃りと洗髪を含めて210バーツだった

エジソンデパートのはす向かいに新しいカフェができ、そこでは自転車の貸し出しもしていることを、きのう街歩きの最中で知った。若い女の子に「2、3時間」と伝えて料金を訊くと、60バーツとのことだった。真新しく整備の行き届いた自転車であれば、その値段は妥当だろう。

ハンドルの前の籠に、気に入ったタイパンツと日本から持参した生地、そしてきのう旅行社の親切なオネーサンに書いてもらったタイ語によるメモを入れて、旧時計塔横の市場の前に自転車を停める

きのう人のいなかった仕立屋には、男の老人と中年の女の人がいた。老人にタイ語のメモを手渡す。老人は老眼鏡をかけて、そのメモをゆっくりと読んでいく。そして女の人に二言三言なにかを言う。女の人は黙って首を横に振る。ここもまた、実は仕立屋ではなく、修理専門の店だったのだろうか。

老人は、きのう2度3度と歩いた、肉売り場を突っ切る通路まで僕を連れて行き、反対の方を指さした。そこはきのう、布地屋の、インド系のあるじが「仕立屋はそちらの方にある」と教えてくれたあたりだ。きのうは足を踏み入れなかった通路まで入ってみると、ミシンを置いた店があった。ふたりいたうちのひとりのオバサンにメモを差し出すと、オバサンは店主らしい、もうひとりのオバサンにメモの内容を伝えた。それを耳にしたオバサンはやはり、首を横に振る。もはやこれまで

“OVERBROOK HOSPITAL”のちかくに、スーツやドレスを誂える店のあることは知っている。しかしそのような店ならバンコクにもある。タイパンツの仕立てについては、バンコク在住の同級生コモトリケー君に頼ることを決め、一旦、ホテルに戻ってコモトリ君にその旨を記したメールを送る。

次はラオカーオだ。僕の最も好きなラオカーオは”BANGYIKHAN”だ。3月にフアヒンのテスコロータスで2本を買い、今回は500ccのペットボトルに入れて持参したそれは、明日にも尽きるだろう。そして目抜き通りの酒屋に、きのうこの酒は無かった。

ホテルから自転車をこぎ出し、パホンヨーティン通りを一路、南下する。しばらく走ればチェンマイまで延びる幹線道路沿いに巨大なスーパーマーケット”Big C”の看板が見えてくるだろう、そう考えてペダルを踏むも、目指す”Big C”の文字はなかなか現れない。「あまり深追いをすると、帰ってこられなくなるぞ」と、山で遊んでいたころ身につけた赤信号が脳に点灯する。しかし遂に、”Big C”ではなかったものの、タイ人は「センターン」と鼻に抜けるように発音する”Central Plaza”の看板が見えてきた。

その看板にはまた”Tops”の文字もある。”Tops”はタイ人が「ロータッ」と発音する”Tesco Lotus”や”Big C”よりも高級に寄った品揃えで、ラオカーオは置いていない可能性が高い。しかしここまで来たなら行ってみよう。駐輪場に駐めた自転車に鍵をかけ、首に巻いた麻のバスタオルで顔の汗を拭く。

「センターン」の中の”Tops”には、しかしやはり、ラオカーオは1種類しか置かれていなかった。またまた20分ほどもペダルをこぎ続けてホテルやバスターミナルのある旧市街の中心部まで戻り、次男とチェンライに来たとき見つけた小さな道を辿って花市場に出る。そしてそこの、これまた行きつけのイサーン料理屋でトムセーップを頼む。

5年前に家内と来たときには、いまだ子供のようだった女の子が、今は立派に調理場を仕切っている。そのオネーサンが、僕に何ごとか声をかける。多分、米は付けるかと訊いているのだろう。腹はそれほど減っていないので「マイカーオ(ゴハンは要らない)」と答える。すると今度はオネーサンの発する問いに「カオニャオ」という言葉が混じった。先ほどの僕の返事は間違っていたらしい。「マイカオニャオ(おこわは要らない)」と返す。オネーサンはまた、僕に分からないタイ語を発した。辛さについてのことと想像して「タマダークラップ(普通でお願いします)」と頼むと、オネーサンは得心した様子で鍋に向かった

それにしても、部屋に出入りするたび40段の階段を上り下りし、小さいとはいえプールを何往復も泳ぎ、1日に何キロも歩き、そして今日は自転車を1時間以上もこぎ続けた。いつもの僕からすれば大した運動量だ。それに加えて生姜やレモングラスや唐辛子をたっぷり含むスープを飲んで大汗をかいている。チェンライでの休暇は、健康に良いことずくめのような気がする。

自転車をカフェに返却しきのうの酒屋でラオカーオ”YEOWNGERN”を買う。30分ほど前に雷鳴の聞こえたときには、頭上には青空が広がっていたから、何も心配はしなかった。しかし気づくといつのまにか涼しい風が吹き始め、日の光はどこにも無い。

ホテルの裏口へと続く田舎道を歩くうち、大きな雨粒が落ちてくる。建築資材屋のトタン屋根は、その雨粒を受けて大きな音を立てている。すんでのところでホテルに戻る。そして水量の極端に少ないシャワーを浴びつつ「明日は休養に勉めよう」と決める。

プールサイドには15時30分に降りた。先ほどのにわか雨はまるで幻だったように、見上げる空はどこまでも青い。「タイパンツの仕立てはどうにかなるだろう」と、コモトリ君から電話が入る。そして17時まで本を読む。

ナイトバザールのフードコートは、きのうにくらべて静かだった。ホテルで330ccのペットボトルに入れ替えるラオカーオは、きのうも今日も、1度では飲みきれない。ホテルには、20時より前に戻った。いつ、どこにいても、早寝早起き、である。


朝飯 “Diamond Park Inn Chiang Rai Resort”の朝のブッフェのサラダと目玉焼きトーストとエスプレッソ
昼飯 花市場にあるイサーン料理屋のトムセーップ
晩飯 ナイトバザールのフードコートのヤムママー品書きには”ANGUS BEEF”と書いてあった牛串の照り焼きラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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上澤卓哉

上澤梅太郎商店・上澤卓哉

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