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清閑 PERSONAL DIARY

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2025.10.1(水) タイ日記(7日目)

きのう寝に就いたのは19時34分。夢の中で窮屈さを感じつつ目を覚ます。寝台の上でも窮屈な格好で寝ていた。時刻は22時48分だった。幸いすぐに二度寝に入れて、今朝は2時5分に目を覚ます。

先ずはシャワーを浴びて、きのうの夜に塗ったアロエジェルを流す。次は歯磨き。使い終えた歯ブラシはスーツケースにしまう関係上、真新しいフェイスタオルで水気を完全に拭き取っておく。荷作りは、3時にはあらかた終わった。いつまでコンピュータにかじりついている悪癖が僕にはあるため、5時30分のアラームをスマートフォンに設定する。

06:10 「まだ早いかな」と考えつつ部屋を出る。レセプションで要求された支払いは850バーツ。精算書をくれないので問うと、僕が署名をした4枚の複写式伝票を見せてくれた。二度の朝食は一食が295バーツ、プールサイドバーでの二杯のスカイジュースは一杯が130バーツで、計算は合っていた。「木賃宿でもあるまいし、精算書くらい出してくれよ」と思う。

ロビーのガラス壁の向こうから、こちらのサッカーティームのものだろうか、黄色いTシャツを着たオジサンがしきりに僕を呼ぶ仕草をする。タクシーは既にして来ているようだ。「やはり早すぎたか。しかし空港へ行く時間が早すぎて悪い理由はそれほどないな」と、スーツケースを曳いてガラスの重い扉を押す。

06:14 スーツケースは黄色いシャツのオジサンがトランクルームに載せてくれた。ベルボーイではないのでポケットに用意した20バーツのチップは渡さない。運転手は小さなオバサンだった。

06:24 来たときの空港タクシーが27分間を費やした道を、オバサンは10分間でこなしてウドンタニー国際空港に到着。「タイ航空か」と訊かれて「そう」と答えると、オバサンはターミナルAに車を横付けした

ホテルのリムジンではないため、料金は250バーツだった。空港から市内までのタクシー代は200バーツ、市内から空港までのタクシーは250バーツとはチェンライのそれと同じにて、なにか協定でもあるのだろうか。

ノックエアとタイ航空のチェックインカウンターには、既にして人が着いていた。紫色の制服を身につけたタイ航空のオネーサンにチェックインの始まる時間を訊く。オネーサンは”Six fourty”とひと言のみの返事ではあったものの、マスクの上の目は三日月のように微笑んでいた。

06:45 チェックインを完了。

ちかくのコーヒーショップのショーケースには、サンドイッチやクロワッサンやデニッシュのたぐいがショーケースに並べられている。サンドイッチの価格は99バーツ。今回ウドンタニーでチップに費やしたお金は1,261バーツ。それでも99バーツのサンドイッチには手が出ない。それが僕の経済観念である。

空港内をターミナルAからターミナルBまで歩いて外へ出る。左手には低い管制塔がある。それを左手に見ながら更に歩く。するとすぐ左には空港の職員が使いそうな食堂があって、奧ではオバサンが何かを炒めていた。そのオバサンに近づいて「汁麺は?」と訊いてみる。「汁麺も、まだダメ」とオバサンは笑って答えつつ、麺を湯がくためと出汁を温めておくための、仕切りのある鍋のフタを開けて見せてくれた。「残念」のひと言である

07:15 保安検査場を通過。
07:17 エスカレータで2階へ上がり、1番ゲートと2番ゲートを備えた待合室に入る。
08:08 気配を感じて振り向くと、搭乗券には搭乗ゲートが「1」と示されているにもかかわらず、2番ゲートから搭乗が始まっている。タイの地方空港では良くあることだ

08:11 空港の建物からは沖駐めの飛行機までは歩いて行く
08:35 Airbus A320-200(32X/3205)を機材とするTG003は、定刻より5分はやくウドンタニー国際空港を離陸。

09:15 「バンコクまで15分」の機長によるアナウンスが流れて「え、そんなに早く?」と驚く。
09:22 車輪の降ろされる音がする。
09:23 TG003は定刻より27分も早くスワンナプーム空港に着陸。
09:42 タラップを降りてバスに乗る。
09:50 バスを降りて空港の建物に入る。
10:04 早くも回転台からスーツケースが出てくる。

10:12 到着階の三階から地下までは、エレベータで降りる。この空港のエレベータは待ち時間が長いため、急ぐときにはエスカレータを使うに限る。
10:15 空港と街をつなぐARLの車両がスワンナプーム空港を発
10:43 その車両がパヤタイに着。
10:50 BTSスクムビット線の車両がパヤタイを発。
10:58 その車両がナナに着。

11:05 スクムビットsoi8を徒歩で南に下ってホテルに着。四泊分の宿泊料10,200バーツはクレジットカードで払う。

小さなエレベータを5階まで使って部屋に入る。ベランダ付きのデラックスルームではあるものの、部屋の広さや年季の入った様子からすれば、せいぜい1,000バーツクラスの部屋だ。その2.5倍の実料金は、場所の良さや需要によるものだろう。そして僕はこのような、街の真ん中にある古くて小さなホテルが嫌いではない

12:10 部屋を出る。

スクムビットの大通りは、ナナの駅を跨線橋のように使って渡る。そしてsoi11に入ってすぐの左側に待機するモタサイの運転手に「ナナヌア、舟、センセーブ運河」と伝える。オートバイを発進させた運転手が僕を振り向いて何ごとか言う。何を言っているかは想像がつく。「舟に乗るなら、もっと近い船着場があるぞ」だ。僕はそれを知りながら、英語では”NANA CHARD”と表記されるその船着場のタイ語による発音が分からなかったから、そのひとつ西寄りの「ナナヌア」を指定したのだ。舟に乗れればどの船着場でも構わない。僕は「チャイ」と返事をした。soi11から”NANA CHARD”までの代金は50バーツだった。

東から上ってきた舟は、乗客で満杯だった。料金の徴収係に「プラトゥーナム」と告げる。乗船料は14バーツだった。いくつ目かの船着場でちかくの男が周囲に”Change boat”と促す。「ここで乗り換え?」と不思議に感じながら舟を下りる。多くの乗客は船着場から階段を上がって頭上の橋を目指している。雨が降り始めている。

乗り換えた舟でふたたび西へ向かい、いくつかの船着場を過ぎたところで「乗り過ごしじゃねぇか」と気づく。チェストポーチからiPhoneを取り出しGoogleマップを見ると、僕が降りるべきプラトゥーナムは、先ほど舟を乗り換えた船着場だったことに気づく。

そのまま為す術もなく終点のパンファーリーラードまで行く。強さを増した雨は船着場のベンチを後ろ側から襲い、遂には僕も席を立つ。頭上には「タバコを吸ったら5,000バーツの罰金」の看板が提げられているものの、タバコの強い香りがする。周りを見まわすと、僕のすぐ脇にいる白人の指に吸いさしのタバコが挟まれていた。看板が目に入らないのだろうか、あるいは「どうせ何も言われはしない」と、高を括っているのだろうか。

折り返しの舟に、人はいくらも乗っていない。近づいて来た料金徴収係に「駄目で元々」と、来るときに買った14バーツの切符を見せつつ「プラトゥーナム」と伝てみる。「あぁ」と彼は答えて、そのまま舟の後方へと去った

さてプラトゥーナムの船着場は、驟雨沛然どころではない。屋根の下にいても、強風に煽られた雨が吹き込んで、服が次第に湿っていく。雷光が光り、雷鳴も聞こえる。

プラトゥーナムに来たのは、このちかくにあるマッサージ屋の足の角質けずりが丁寧とウェブ上で知ったこと、もうひとつはスーパーリッチの本店で日本円をタイバーツに換えようとしたからだ。しかしとてもでなないけれど、傘を欠いたまま外へ出られる状況ではない。

しばらく考えて、プラトゥーナムでしようとしていたことは潔く諦める。バンコクではいずれ、帰るまでにすることはほとんど皆無なのだ。

プラトゥーナムから東へ引き返す舟の、料金徴収のオバサンには「アソーク」と伝える。舟の屋根からは雨が漏って、木の床を濡らしている。舟の周囲には雨やしぶきを避けるための厚いビニールが張り巡らされ、それが雨に濡れ、あるいは湿気で曇り、船着場の表示は一切、見えない

iPhoneのGoogleマップによりアソークが近いことを知って席を立とうとする。その僕を「危ないから」と、先ほどのオバサンが手で制する。アソークで舟を下りると、雨は弱くなっていた。そのまま100メートルほどを早足で歩いて地下鉄MRTのペッブリーに逃げ込む。そこからスクムビットまではひと駅。地下を歩けば高架鉄道BTSのアソーク。雨は上がって、人たちはアソークの大きな交差点を、なにごともなく渡っている。「ダッフンダ」である

そこからスクムビット線をナナへは戻らず、逆のプロンポンを目指す。そのプロンポンからトンローまでひと駅を乗り過ごしてプロンポンに戻る。駅構内の両替所スーパーリッチの円とタイバーツの交換比率は1万円が2,150バーツ。駅から降りてsoi24を南へ歩き、すこし行った右側の、まるで掘っ立て小屋のような両替所KFエクスチェンジでは1万円が2,190バーツ。よってここで10万円を21,900バーツに換える。

この両替に関して少しく葛藤があったのは、先月19日に「タイ中銀、バーツ変動抑制へ介入」のロイターによるウェブニュースを読んでいたからだ。

その本文には「タイ中央銀行のチャヤワディー総裁補は19日、バーツ相場の変動を抑制するため、介入を実施したと明らかにした。」とあった。この「変動を抑制」は、正しくは「バーツ高の抑制」に他ならない。中央銀行のこの「介入」は、果たしていつごろ効いてくるか。初日に続いて今日も10万円をバーツに換えれば、そのほとんどは今回の旅では余る。バーツ高が是正されれば円とバーツの交換率は今日より良くなる。しかし為替の動向は神のみぞ知る領域にある。悩みながらの両替だった。

14:50 今や日の差すsoi8を歩いてホテルに戻る。道の両側はタイ料理屋はもちろんのこと、白人相手の洋食屋に屋台も加わって、こと食べることに関してはまったく困らない場所である

それにしても、部屋を出た12時10分から部屋に戻る14時50分までの、2時間40分は何だったか。しかしナナからプラトゥーナムへの、新しい経路を開拓できたことは良かった。そして夕刻まではなにもしないで過ごすことを決める。

15:40 ふたたび部屋を出る。外からはときどき鳥の、僕の好きなホーイッ、ホーイッという声が聞こえている。

ナナからクルントンブリーまではBTSシーロム線で一本。そこでスカイトレインゴールドラインに乗り換えて、次のチャルンナコーンで降りる。ショッピングモール「アイコンサイアム」のグランドフロアにあるスックサイアムは、いわゆる「デパ地下」の遊園地だ。距離と時間を考えれば夢の夢ではあるものの、もしも社員旅行でタイへ来られたら、ここは訪問必至の場所である。

同級生コモトリケー君の住むコンドミニアムは、アイコンサイアムから見えている。「歩いて来いよ」とコモトリ君はLINE電話で伝えて来たものの、歩く気はしない。スックサイアムをしばらく逍遥して後はふたたびゴールドラインに乗り、ひと駅先の、終点でもあるクローンサーンを目指す。

コモトリ君の部屋からは、バンコクの街の広がりを、チャオプラヤ川を隔てて望むことができる。ここでしばしの休憩の後、コモトリ君のクルマでこの3月にも来たことのある小さな中華料理屋へ行く。

スクムビットsoi8のホテルまでは、コモトリ君の運転手が送ってくれた。時刻については、よく覚えていない。


朝飯 TG003の機内で配られたミルクティー味のあんこの大福、コーヒー
晩飯 “ROD TIEW”の蒸し鶏オースワンクラゲの四川風家鴨のほぐし肉の北京ダック風麻婆豆腐クンオップバミー、サントリージン翠(ソーダ割り)


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2025.9.30(火) タイ日記(6日目)

目を覚ますと部屋の灯りは点けたままになっていた。時刻は0時38分。それにしても外がうるさい。部屋の直下のバービヤ、である。

まるでコンサートのような、大音響の音楽が聞こえてくる。スピーカーの関係か、あるいはバービヤと部屋のあいだの建物の具合なのか、ギターよりもベースとドラムスの音が際だって届く。白人らしい男たちは「イエー」とか「ヒュー」と、歓声を上げている。女たちは、良く言えば哄笑、悪く言えば下卑た笑い声を立てている。

「毒を食らわば皿まで」の気分でベランダへの扉を開く。客の男はどうでも良いけれど、女の人には「そんな仕事を続けていたら、長くは生きられないぞ」と言って上げたい。もっとも刹那的に生きている彼女たちには、そのような忠言は届くはずもないだろう。

音楽はやがて”Hotel California”に変わった。白人たちは老いも若きもこの「懐かしのメロディ」を好んで、しかもその場にいる皆で歌う。「合唱かよ」と、独り言が漏れる。「まだやってるよ」の声も漏れる。騒ぎは4時を過ぎてようやく収まった。

きのうの日記を書きながら、時々は寝台に仰向けになって、スマートフォンを眺める。そこにタイのニュースも流れてくる。興味を惹かれたのは、大きな人工池のほとりのチムジュム屋に出かけたおととい夜の嵐について。その、なぜかギクシャクしている自動和訳は以下。

……
仏歴2568年9月28日(日)18:00~19:00
Lanna地区にブア・アロイの嵐からのモンスーン・トラックが襲った。Nong Khai州フォンピサイの多くの地域に風雨が吹く。Udon Thaniは、多くの地域で倒木を引き起こし、一部の地域で、消防ポールが倒れた。
……

イサーン北部、つまりノーンカーイやウドンタニーには、かなりの被害が出た模様だ。それにしても、どうもこのあたりには雨が多い。前に来た2020年3月は乾季の終わりだったにもかかわらず、ほぼ毎日のように雨の降ったものだ。

それはさておき部屋の直下のバービヤは、4時30分を過ぎてようやく静かになった。日に焼けて赤みを帯び、痛みを覚えていた胸から腹にかけては、アロエジェルの二度の塗布により、随分と楽になっている。

6時35分、きのうマッサージ屋のオバサンが貸してくれた傘を差して外へ出る。目の前のソイサンパンタミットには、客を待つでもないトゥクトゥクが目に入る範囲内に二台。目抜き通りにもちらほら。しかしウドンタニーには雨が多い。もし明日の朝に雨が激しく降っていれば、僕はかなりみじめなことになる。たとえ法外に思えても、空港への足はホテルのリムジンを使うことを決める。

朝食はきのうに引き続いてホテル一階の食堂”BLUE SILK”で摂る。朝食代の295バーツは屋台のスープの実に12倍ではあるものの、本を読みながらのゆったりとした食事には、何とも言えないくつろぎがあるのだ

プールサイドには10時に降りた。寝椅子の上ではずっと、メイドのオバサンに許可を得て部屋から持ち出したガウンを羽織り、首元はかたく打ち合わせていた。これ以上の日焼けは御免である。正午を回ったころに雨がポツリポツリと来て部屋へ戻る。以降は寝台の上で本を読む。ふと視線を窓に移すと空は晴れている。しかし再度プールサイドへ降りることはしない。

時を忘れてはいけないから、iPhoneには15時30分にアラームを仕掛けておいた。田舎にいるときの定番である白いTシャツとタイパンツ、これは首都の盛り場で100バーツで売られているモンペ状のものではなくプレー産の正真正銘の藍染めであるけれど、それを身につけロビーに降りる。

レセプションには初日に相手をしてくれたオバチャンと、女装のオジサンがいた。タイでは固い職場にも女装をした男は普通にいる。朝の食堂の受付も、男か女かの見分けはつかなかった。そういう人たちに特別な興味や態度を示すことは、紳士淑女の行いではない。「郷に入れば郷に従え」である。

マッサージ屋にはきのう貸してくれた傘と、ホテルのベルボーイに借りた傘の2本を携えていく。オバサンは今日も、2時間をすこし過ぎるまでマッサージを続けてくれた。

そのマッサージ屋から歩いて一分の、初日にも来たホイトードの、初日と同じ席に着く。おとといの夜とは異なって、今日はタイ航空のペットボトルに小分けしたラオカーオを忘れずに持参した。初日に「センタン」のトップスマーケットで買ったラオカーオは、愛飲の”BANGYIKHAN”にくらべればかなり強く口腔内を刺激するものの、不味いということはない。

部屋に帰り着いたときの時刻は19時16分。シャワーを浴びてプールサイドに降りたときとは異なるまっさらのガウンを羽織って19時34分に寝台に上がる。


朝飯 “BAN BUA”の朝のブッフェ其の一其の二其の三其の四
晩飯 “Je Huay Hoi Tod”の烏賊のトードカオパットラオカーオ”TAWANDANG”(ソーダ割り)


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2025.9.29(月) タイ日記(5日目)

いつものように真夜中に目を覚ましたものの、いつものように起きてきのうの日記を書くことはしない。枕頭に充電をしたままのiPhoneを手探りし、それでTikTokの動画を眺めるうち、いつの間にかふたたび眠りに落ちる。

さて明後日は、朝のうちに空港へ行かなければならない。このホテルのリムジンは350バーツ。今年3月の、トンローのホテルからスワンナプーム空港までのリムジンは、30キロメートルちかくの距離を高速道路代も含めて500バーツだった。それにくらべれば、直線距離で3.5キロメートルの空港まで350バーツは高すぎる。

下調べのため、7時すぎにホテル前のソイサンパンミットに出てみる。客待ちのトゥクトゥクはいない。目抜き通りまで数分を歩けば道端に複数台が見られたものの、ホテルは6時30分には出たい。その時間にも彼らは路上にいるだろうか。何とも悩ましいところだ。

今年の3月6日にはチェンライで、街で知り合ったタクシーの運転手に翌日の迎えを頼み、しかし指定の時間には来ず、名刺の電話番号も通じず、ホテルのベルボーイに急遽、別のタクシーを呼んでもらったことがあった。二度の失敗は、笑い話にはなるだろうけれど、気を揉むことも必定だ。さて、どうしよう。

今日の朝食はホテルで摂る。サラダとオムレツ、トーストとコーヒーでひと息をついてから、他の料理を見ていく。すると幾つも並んだポットの中に”Udon Vermicelli Soup”と札の立てられたものがあった。フタを開けてみれば、きのう屋台のオバサンから買ったとおなじ春雨と鶏肉のスープではないか。即、ちかくに積み上げられている陶製のボウルにこれを取り分け、席へ運んだことは言うまでもない。

次にこの街に来るときに必要になるかも知れないため、10時をまわったところでショッピングモールの「センタン」にあるという両替所を調べに行く。表口から入ると、すぐ右側に案内のカウンターがあった。ここのオネーサンに両替所の場所を訊く。オネーサンは、態度は柔らかながら、ひとこと”Down stair”と答えた。「階下」とはいささか大ざっぱすぎないか。そしてその地下一階を5分ほども歩きまわってようやく、駐車場の出入り口ちかくに”Super Rich”を見つける。円とバーツの交換比率は1万円あたり2,140バーツで、初日のスワンナプーム空港のそれと変わらなかった。

部屋に戻って参考までに、今日の相場を調べてみる。バンコクのスーパーリッチでは1万円あたり2,165バーツの数字が出ていた。その差は25バーツ。10万円を換えれば250バーツ。両替は、都合さえつけば、やはり首都でしておくに限るらしい。よく覚えておこう。

きのうの日記は意外に長くなって、書き終えると正午が過ぎていた。これを寝台に仰向けになってiPhoneで読み、例の如く誤字、脱字、綴りの間違いなどを逐一机のコンピュータで直すうち、たちまち14時がちかくなる。今日のマッサージの予約は、きのうの日記に書いた理由により15時に入れてある。今日はほとんど何もしないまま過ぎるだろう。

マッサージ屋には2時55分に着いた。オバサンは今日も、2時間の注文に対して2時間10分ちかくもマッサージをしてくれた。

マッサージの途中から降りだした雨は、いまだすこし残っている。きのうより一時間だけ早い上がりだから、街に暮色は訪れていない。オバサンの貸してくれた傘を差して、目抜き通りを東へ辿る。雨のせいか、気温はまるで日本の秋のようだ。「やだなー、涼しいなー」と、思わず声が漏れる。南の国へ来て涼しいとは、むかしの関西の漫才ではないけれど「逆やがな」である。

「明日の17時」と言われた洗濯屋には、2020年3月に相手をしてくれたオバサンがいた。そのオバサンに複写式の伝票を見せる。オバサンは仕上がった洗濯物を。鉄製のロッカーから出して手渡してくれた。

ところで特にひとりで旅に出たときには、昼食を必要としないことが多い。それは、朝にたくさん食べること、もうひとつは脳を使わないせいか昼になっても空腹を覚えないからだ。更に今日はプールサイドに降りなかったことが関係しているのか、夕食さえ摂らずに済みそうな腹具合である。しかし一日一食ではつまらない。

雨は傘を必要としないほどに弱まっている。しかしきのうのような大雨がいきなり襲ってきてもいけない。よっておとといも使ったホテルはす向かいのイタリア料理屋へ行く。

外の二人用のテーブルには、ヒマをかこつウエートレスが座っていた。その席を譲ってもらって先ずはおとといとおなじカラフの白ワインを注文する。それを確かめるオネーサンの”White?”は「ワイ」が強く発声された。タイ人の英語の発音は、日本人のそれにくらべておしなべて良い。「流石ですね」である。

食後は部屋に戻ってシャワーを浴び、アロエジェルを胸と腹と太腿に塗りたくるなどして19時46分に寝台に上がる。


朝飯 “BAN BUA”の朝のブッフェ其の一其の二其の三其の四其の五
晩飯 “da Sofia”のラザニアアラボロネーゼカラフの白ワイン


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2025.9.28(日) タイ日記(4日目)

暗闇に目を覚まして枕頭のiPhoneを引き寄せる。時刻は0時46分。極端な早寝早起きにより昼夜が逆転気味の僕にしても、いかにも早すぎる。しかし眠気は感じない。よって起きてコンピュータを開き、きのうの日記のあらかたを書く。

疲れと眠気を覚えて寝台に仰向けになる。時刻は2時18分。幸い二度寝ができて、カーテンの隙間から朝の光が漏れるころにふたたび目を覚ます。

南の国で気ままにしているようでも、机の前の壁には旅の最中の日程表を貼っている。今月が9月であることは分かるとしても、何日なのか、そして何曜日なのか、についてはアヤフヤになりがちだからだ。9月28日の備考欄には「クリーニング」と記してある。よって初日からきのうまでに溜まった洗濯物をプラスティック袋に入れて外へ出る。

ホテルからは目と鼻の先の、2020年3月にも頼んだことのある洗濯屋は8時30分に、もう仕事を始めていた。今朝は三人いるうちのひとりのオネーサンに、プラスティック袋を手渡す。オネーサンはその中味をひとつずつ取り出しながら、複写式の伝票を作ってくれた。一点ごとの洗濯代は、ハイネックの長袖シャツが30バーツ、半袖のTシャツは25バーツ、下着のパンツは5バーツ、靴下も5バーツで、計125バーツをオネーサンに支払う。できあがりは明日の17時とのことだった

この洗濯屋からソイサンパンミットを目抜き通りへ向かって更に歩くと、間もなくコインランドリーがある。その壁の値段表を見れば、洗剤が5バーツ、もっとも安い洗濯代は40バーツ、乾燥代は50バーツだから、その日のうちに洗い上がらないことを許容すれば、時間を見計らって何度も足を運ぶ必要のない点、また綺麗に畳んで手渡してくれる点において、洗濯物のすくない僕にとっては明らかに、洗濯屋の方が「勝ち」である

それはさておき、きのうのスープ屋のオバサンは、今朝もおなじところに屋台を出していた。きのう客だったオネーサンは、このスープを”noodle”と言っていた。その”noodle”がどのようなものかは分からなくても、今日はこれを朝食にしようではないか。それにしても25バーツとは、首都では考えられない安さだ。

屋台に近づいて、オバサンに20バーツ札1枚と10バーツ硬貨ひとつを手渡す。オバサンは「これも入れるか」とモヤシを指すので「チャイ」と答える。するとオバサンはそのモヤシをビニール袋に入れ始めたので、あわてて屋台の屋根からぶら下げた袋の中の、発泡スチロール製のドンブリを指す。オバサンは「あぁ」と答えてそのドンブリを袋からひとつ取りだし、そこにスープを盛大に盛り始めた。

それにしてもオバサンは、お釣りをくれない。「5バーツは?」と訊くと「特盛りにしておいたから」と、涼しい顔をしている。タイでは、細かいことを言うと嫌われる。更には人格さえ疑われる。僕は箸をもらい、その、ラーメンのドンブリに満杯ほどの量のスープを、そろりそろりと部屋まで運ぶ。そしてベランダのテーブルに古新聞を敷き、その上に置いた

ドンブリには大量の春雨、大量の血豆腐、それから出汁の元としての鶏の、胸から頭の直下までの骨が入っていた。その骨にはまた、少なくない肉が付いていた。これで30バーツ。「満足」のひとことだ

10時をまわったところで外へ出る。iPhoneには翻訳アプリケーションによる「私は日焼けをして、赤くなった肌が痛いです。これを鎮めるローションかジェルが欲しいです」とのタイ語を画像で保存してある。

地方としては巨大なショッピングモール「センタン」の地下一階へのエスカレータに乗ると、目の前には都合の良いことに薬局の”watsons”があった。よって即、そこに入って目についたオネーサンにiPhoneの画像を見せる。僕の経験からすると、このようなときのタイ人は、黙読をしない。常に音読である。そして「アロエはどうかしら」と、オネーサンはそれらしいものの置いてある棚に僕を先導し、更にはそこにある複数のジェルを吟味しだした。そして間もなく「After Sun Gellって書いてある!」と、緑色のチューブを僕に手渡した。僕は礼を述べて、それを本日最初の客としてキャッシュレジスターのカウンターに置く。ジェルは120ccの容量で229バーツだった

部屋に戻ってそのジェルを胸と腹と太腿、そして脛に塗りたくる。そしてパタゴニアのバギーショーツと紫外線除けのTシャツを身につけ二階のプールサイドに降りる。時刻は11時ちょうど。太陽は既にして高いところまで昇っている。その太陽の下で仰向けになりたいことはやまやまながら、今日のところは自重をして、本はプールサイドバーの日陰で読むこととする

日はますます高いところへ位置して、パラソルの影はもっとも小さくなる。ふと目を上げると、プールサイドバーの棚にはラオカーオの中で僕が最も好む”BANGYIKHAN”が六本あったから「分かってるね」と、思わず膝を打ちたくなる。部屋には14時に戻った。

15時50分に部屋を出れば、16時に予約をしているマッサージ屋には15時55分に着く。この店のオバサンは2時間で頼んでも、常に2時間以上を仕事に費やしてくれる。今朝の洗濯物の上がる時刻は明日の17時のため、明日のマッサージは15時に予約を入れた。

18時を過ぎたウドンタニーには夕刻の色が濃い。「センタン」の前の路上には、いつもおなじトゥクトゥクが駐まっている。そのオジサンに、これまたiPhoneに保存したチムジュム屋の画像を見せる。オジサンの言い値は80バーツ。目指す人工池のほとりには、10分と少々で着いた。

日曜日だからなのか、チムジュム屋は満席だった。この店で食べたい旨をオニーチャンに告げると、オニーチャンは紙に何ごとかを書いて手渡してくれた。その紙をタイパンツのポケットに入れて池の畔を歩く。

池畔を周回する道では子どもたちが自転車を走らせ、ジョギングをする人もすくなくない。遠くからマイクを通した威勢の良い声が聞こえてくる。コンサートでも開かれているのだろうか。そこまでの数百メートルを歩いてみる。声の主は果たして台の上から広場の人たちにエクササイズを指導するオジサンだった。

先ほどのチムジュム屋にはふた席の空きができていた。「助かった」である。しかし「ところが」である。客席から見える配膳カウンターの壁には何と”Non Alcohol”の張り紙がある。タイ航空のペットボトルに小分けしたラオカーオは、このようなときに限って部屋に置き忘れてきている。

タイは万事がいい加減に思われて、しかし酒とタバコに関しては日本よりよほど厳しい。この店は、あるいは酒による揉め事を店主が極端に嫌っているのかも知れない。

オニーチャンには水、チムジュムの小、臓物三種に烏賊、そして鶏卵ひとつを注文する。席に届けられた水のペットボトルはなぜか、異常に大きい。チムジュムのナムチムつまりつけだれは二種類、続いてもうひとつが置かれた。

土鍋のスープの煮立ってきたところで先ずは、ミントの葉やキャベツなどの野菜を投入する。それに半分ほど火の通ったところで別注のレバをすこしずつ入れ、固くなる前につまみ上げて野菜と共に皿に盛る。つけだれは、三種のうち最後に届けられた色の黒いものが抜群に美味い。「果たして食べきれるだろうか」と心配しつつ注文したすべてはスンナリと腹に収まった。代金は299バーツの安さで、大いに驚いた。否、驚いてはいけない、これがウドンタニーの標準なのだろう。

その、代金を払い終えるころにいきなり強い風が吹きつけてくる。この店の調理場と配膳カウンターは建物の中にあるものの、客席は野天で、屋根はビニールシート一枚だ。そのビニールシートは大きな音を立ててバタつき、仕舞には店の人の手に負えなくなった。雨も夕立のような勢いで降ってくる。ビニールシートは日本のブルーシートとは異なって日除けの性格が強く、客席の真ん中ちかくにいる僕の頭上からも容赦なく水が落ちてくる。

客席の周辺ちかくで食事をしていた人たちは雨を避けるために全員が総立ち。店員たちは彼らのテーブルをできるだけ店の中央へ移そうと、大わらわになっている。これが日本であれば「どうにかしろ」の怒声が客から飛ぶかも知れない。この過剰なお湿りに、しかしタイの人たちはおしなべて苦笑い、あるいは大笑いをしている。これぞ「マイペンライ」。

日本では、列車は定刻に出て定刻に着く。道にゴミは目立たない。タクシーの運転手がメーターのスイッチを入れず料金を交渉してくるなどは絶対に無い。ものを作る人たち、ものを売る人たち、サービスを提供する人たちは、消費者の要望にとことん応えようとする。そのような国民の真面目さにより、第二次世界大戦の敗戦国は奇跡の復興を遂げて経済大国になれた。しかし息は詰まる。だから僕は、ときどきタイに来たくなるのだ。

2014年6月6日にバリ島のデンパサールで懲りたことから、ここまで来たときのトゥクトゥクはちかくで待たせておいた。オジサンの言い値は来るときとおなじ80バーツだったものの、100バーツを手渡して釣りは求めなかった。ホテルには19時30分に帰り着いた。そしてシャワーを浴びるなどして20時45分に部屋の明かりを落とす。


朝飯 ホテル近くの屋台から持ち帰った春雨スープ
晩飯 “Pungpond Hot Pot”のチムジュム(小)、臓物三種、烏賊、ペットボトルの水


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2025.9.27(土) タイ日記(3日目)

目を覚まして枕頭のiPhoneに触れると時刻は1時36分だった。きのうの就寝が19時30分だったとすれば、睡眠時間は6時間。まぁ、妥当なところだろうか。直下のバービヤは、きのうほどはうるさくない。

起きてコンピュータを開いてきのうの日記の、きのうのうちに書いてしまったところからの続きを書く。初日の日記にくらべれば文字数は圧倒的に少なく済みそうではあるものの、ときおりは寝台に戻って仰向けになり、iPhoneでTikTokの動画を眺めつつ休んだりもする。

カーテンの隙間に朝の気配を感じれば、即、部屋の南側の二個所にあるカーテンを開く。空は晴れている。プールサイドには早めに降りることができるだろう。そしてきのうの日記を書き終える。

このあたりの、朝食を供する店が営業を始めるのは、おしなべて8時。それまでには、いまだ1時間30分ほども間がある。よって寝台に寝転がってきのう公開した「タイ日記(1日目)」をiPhoneで読むうち、単語の変換違いや英文のスペルの間違い、通りの名の文字の脱落、単なる打ち違えを次々と見つける。そのたび寝台から起き上がって、机に開いたコンピュータで修正をする。その回数は10や20ではきかなかったのではないか。結構、疲れた。

さて今回の旅では、ウドンタニーでもバンコクでも、宿泊に朝食は付けていない。よって8時を回ったところで外へ出て、今朝はきのうとは逆の、目抜き通りを目指して歩く。途中、オバーサンの屋台でスープが煮えていたため「ガオラオ?」と訊くと、客であるオネーサンは”noodle”と教えてくれた。それにしても、屋台の周りに椅子は無い。自前のものらしい器にたっぷりの汁を盛ってもらったオネーサンは、それを手に、この通りにはいくつもある白人相手の食堂のひとつ”FULL THROTTLE”の奥に消えた。

そのまま歩き続けて目抜き通りに出る。そして駅の方面つまり東を目指す。目に付いた、やはり白人相手の食堂の二人用の席に着き、オネーサンにメニュを頼む。届いたそれを開けば典型的な英国風の朝食で、三種あるうちのひとつを注文する。

サマセット・モームは英国の料理について
To eat well in England, you should have a breakfast three times a day.
と言ったらしい。しかし僕は、今朝のこれきりで充分だ。明日の朝は、別の場所で別のものを食べることにしよう。

道の向かい側にはなぜか、警察の車両が十数台も駐まり、警官のひとりは、それゆえに狭まった道路で交通整理をしている。僕は物好きにも道を渡る。その平和的な、緊張を欠いた様子は、テレビか映画に関係する人たちの送迎に警察が駆り出されているよう見えた

部屋へ戻り、朝とおなじ要領で「タイ日記(2日目)」にも修正を施す。天気は朝の「まぁまぁ」の状態からすれば雲が増え、太陽は地上を直射していない。プールサイドには11時に降りた。

本を読みながら「本当に便利だな」と感じるのはスマートフォンの存在だ。分からない言葉、知らない人物が出てきたら、寝椅子に仰向けになったまま、それについて調べることができるからだ。いわば自前の索引、である。

それはさておきホテル二階の屋外プールには、今日は様々な音が大きく聞こえている。目抜き通りでは警官が吹いているのか、笛の鋭い音がいつまでも止まない。直下の”THE SPORTS BAR & RESTAURANT”には白人の年配者が溢れんばかりに集まって、スポーツの実況らしいものを観ている。そして点が入るたびなのか、見どころが訪れるたびなのか、あるいはその双方によるのか、ときおり一斉に歓声を上げる。まったくうるさい限りだが、そのような場所にホテルを定めたのは自分なのだから、どうにもならない。プールサイドからは、14時に引き上げた。

部屋に戻って洗面所の鏡に向かうと、上半身にかなりの日焼けをしている。太腿から脛にかけても焼けているものの、こちらは皮膚が厚いのか、それほどヒリついてはいない。太陽は薄い雲の中にあり、それさえ僕はパラソルで避けていた。しかしながらの日焼けである。南の国の日差しはそれほど強いのだろうか。紫外線を防ぐTシャツは部屋を出るときには着ていくものの、プールサイドでシャツを着るほど情けないことはないため、寝椅子に横になる前に脱いでしまうのだ。

何年か前に日焼けを鎮めるためのジェルをバンコクで買い、しかしそれは昨年スコータイから首都へ戻る際、迂闊にも手荷物のバックパックに入れていたため、空港の保安検査場で没収された経緯があった。初日にラオカーオを買った「センタン」で、明日はおなじようなものを手に入れることにしよう。

16時からは、今日で馴染みになる店で2時間のオイルマッサージ。夕食はホテルのある通りで洋食を摂る。そして21時がちかくなるころに寝に就く。


朝飯 “GOOD CORNER”の英国風の朝食、オレンジジュース、コーヒー
晩飯 “da Sofia”のカプレーゼコルドンブルーカラフの白ワイン


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2025.9.26(金) タイ日記(2日目)

子供が激しく泣き続けているような声に目を覚ます。部屋の灯りは点いたまま、コンセントに繋いだiPhoneはTikTokの動画の流れるままになっている。今夜からは、寝る前に注意をしようと思う。時刻は1時14分。就寝がきのうの18時すぎであれば、睡眠時間は既にして充分である。

それにしても、これほど長いあいだ子供が泣き続けるとは尋常でない。一体全体、子供はどこで泣いているのか。それを確かめるためベランダに出てみる。その声は果たして子供の泣き声ではなく、直下に長く横たわる屋根の下からの嬌声だった。

ソイサンパンタミットに白人向けのバーが多いことは、2020年3月に、やはりこの通り沿いにあるホテルに泊まったときから知っていた。しかしウドンタニーに存在する二大バービヤ街の、ひとつが窓のすぐ下に位置していたとは。このホテルに裏を返すことがあれば、部屋は廊下を隔てた反対側にしてもらうことが肝要と、コンピュータの”TR”のファイルに覚え書きを残す。

さて、旅の初日の日記はいつも長くなる。その、きのうの日本時間0時すぎからのことを、旅には二冊を持参する手帳のうちの小さな方を手元に置いて、書き始める。バービヤからの嬌声は、3時がちかくなるころには流石に止んだ。

カーテンの隙間から光の漏れていることに気づいて、ベランダの入口と枕元にちかい窓の、二個所のカーテンを開く。天気は曇り。夜に降り出したらしい雨は上がっていた。

ベッドに仰向けになる休みを何度か挟みつつ、きのうの日記は8時5分に書き終えた。WordPressのエディタによれば、文字数は6,946に及んだ。今日の日記からは短く済むようになるとは思うものの、どうなるかは分からない。

6時23分に部屋から出て一階ロビーの重い扉を押す。止んだとばかり思い込んでいた雨は、いまだすこしは降っていた。ポーチの下にはベルボーイが待機する小さな囲いがあって、そこには複数の傘が用意してあった。よってそのうちの1本を借りて歩き始める。

日本にいるときから調べておいた小体で洒落た食堂は、窓の直下のバービヤ街とは別のバービヤ街のすぐ先に見つかった。テーブルが屋内と屋外にある店では、迷わず屋外に席を決める。南の国では、できれば南の国らしく食事がしたいからだ。そうしてこのあたりの典型的な朝食であるカイガタとパンとコーヒーを注文する。

カイは玉子でガタは鍋。味はまぁ、見た目で想像できる通りのものだ。数を選べるコッペパンは二つにした。そしてこのパンの焼き加減が良かった。その朝食を摂るうち、背中側のテーブルに着いていたらしい白人のオジーちゃんが、どこかへ行こうとしながら僕のテーブルの本に気づいて「何をお読みですか」と声をかけてきた。

ライオネル・バーバーの「権力者と愚か者」の背表紙には英語による書名と著者名がある。本を手渡しつつそれを見せると「ノベルですね」と言うので、そこから会話が始まった。

「いえ、これはフィナンシャルタイムの元編集長の日記です」の”diary”は、タイ人のイントネーションを真似てみた。

「良い本ですか」
「はい」
「翻訳ですね。訳もよろしいですか」
「悪くないです」
「ところで、どちらからいらっしゃいましたか」
「日本の日光です。東京から100キロメートルほど北の」

「彼女は日本へ行ったことがあるんです」と言うオジーちゃんの言葉に後ろを振り返ると、中年の女の人が微笑んでいた。

「まだ半分、楽しめますね」と、オジーちゃんはいまだ手にしていた本の、ヒモによるしおりに触れてから、それを僕の手に戻して「よい日をお過ごしください」とすこし頭を下げた。
「はい、あなたも」

外の席を見まわしてみれば、僕のテーブル以外はすべて、白人の年配男性とタイ人の中年女性による二人組ばかりだ。この街の朝から昼にかけては、ソイサンパンタミットの周辺に限られるのかも知れないけれど、そのようなカップルが目立つ。

ベトナム戦争の時代には、この街にアメリカ軍の基地があった。そのころのアメリカ兵には、戦後もこの街に住み続ける例が少なくなかったらしい。その歴史的な背景が、白人にとって暮らしやすい一部をこの街に作ったのかも知れない。

それにしても、イギリス人やアメリカ人は、自国語が世界のほとんどの地域で通じてしまう。それは便利ではあるだろうけれど、便利すぎてつまらない、ということはないのだろうか。もっとも声をかけてきたオジーちゃんは、連れの女の人とは流暢なタイ語で話をしていた。タイには随分と長いあいだ、住み続けているのだろう。

ところで僕の南の国での楽しみの過半はプールサイドでの本読みが占める。しかし外は雨。パラソルの下にいる限り雨は当たらないにしても、寝椅子は濡れているに違いない。そういう次第にて、二階のプールサイドには、雨の上がった昼すぎに降りた。

太陽は薄い雲の向こうにあるから、時が経つにつれてパラソルの縁から外れても、眩しさはそれほど感じない。からだが汗ばんだら小さなプールを一往復か二往復して汗を止める。そしてプールサイドバーのオネーサンに西瓜のスムージーを注文する

部屋に戻ったのは15時。シャワーを浴びてひと息を入れ、あたりを整頓してからガウンをTシャツとタイパンツに着替える。

ソイサンパンタミットから駅に続く目抜き通りを、駅とは反対の西へ歩く。セントラルプラザ、タイ人の発音では「センターン」となるショッピングモールの近くまで来ると、道の対岸に、きのうのオバサンの姿が見えた。こんなところでクルマに轢かれては先が無くなるから中央分離帯の緑地を越えることはせず、遠回りをして横断歩道を渡る。

2018年の秋に、背骨と右の肩胛骨のあいだに痛みを感じ、仕舞には鎮痛剤がなくては堪えられないほどになった。MRIによる診断から手かざしまで考えられるところはすべて回って、治してくれたのは結局のところ、今は伊豆に引っ越してしまっている、当時は宇都宮で開業をしていたカイロプラクティックのワタナベ先生だった。

その先生に「タイへ行ってもボキボキ系のマッサージは避けてくださいね」と言われて以降、僕はタイマッサージは遠ざけている。そして今日も2時間のオイルマッサージを受ける。きのう違和感のあった左の腰の一点は、オバサンの荒療治により劇的に改善をされた。

マッサージを受けるうち、屋根に雨滴の落ちるような音が聞こえ始め、それは間もなくとてもうるさくなった。「雨?」と天井を指すと「フォントン カー」と、オバサンは静かに同意を示した。

施術が終わったのは18時。雨の勢いは弱まった。とはいえいまだ余韻は残っている。オバサンは通りに出て、向かい側の車線で客待ちをしていたトゥトゥクを大声で呼んでくれた。中央分離帯の切れ目まで進んでUターンをしたそのトゥクトゥクが、僕の目の前に停まる。

駅に向かって左側の食堂街には2020年の3月にも来て、二度の夕食を摂った。夕刻の驟雨のせいか客のほとんどいないそこにひとテーブルを占め、ここ二日のあいだは不足気味の生野菜を盛大に食べる。

ホテルまでの数百メートルは徒歩で辿る、部屋に戻った時刻は18時56分。雨の涼しさにより汗はかいていないから、シャワーは浴びないままガウンを羽織る。きのうほどは酔っていない。よってコンピュータやスマートフォンをすこしばかりいじってから明かりを落とす。


朝飯 “MORNING HOUSE”のカイガタ、パン、コーヒー
晩飯 駅前の”Food Place”のヤムウンセンムートードラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2025.9.25(木) タイ日記(1日目)

僕の席62Hは右列最後尾からひとつ前の通路側。右列には三席があるも、窓際と通路側のあいだの一席は空いている。

00:38 Airbus A350-900(359)を機材とするTG661は、定刻に18分おくれて羽田空港を離陸。

「背もたれを元に戻してください」からどれほどの時間が経ったか、今度は「座ってください」との、英語による女の人の大きな声が聞こえたような気がする。しかし夜の機内で客室乗務員が大声の叱声を発するはずはない。幻聴だったのだろうか。

まったく眠れない。あるいはまったく眠れないような気がしている。目は、航空会社からただでもらえるアイマスクよりよほど優秀なそれにより光を遮断されている。それを外してディスプレーを確かめたらいまだ日本近海の上空でガッカリ、というようなことは避けたいため、とにかくアイマスクの内側で、かたくなにまぶたを閉じ続ける。

03:53 コーヒーの香りが鼻に届いて、アイマスクを取る。機内は既にして明るく、客室乗務員は、一般の乗客のそれよりも先に、特別らしい朝食を運んでいる。ディスプレーは、機が台湾と海南島のあいだを飛んでいることを示している。朝食は「照り焼きとライス」と「オムレツとベーコン」から前者を選んだ。

そのディスプレーの地図を見るうち、面白いことに気づく。ミャンマーの首都はネピドーでも、地図には以前の首都であったヤンゴンが、あたかも今でも首都であるかのように点を打たれている。その都市の名が、言語の違いにより異なっているのだ。

日本語ではヤンゴン。英語とイタリア語はYangon。中文簡体の「迎光」は、やはりヤンゴンと読むのだろう。ところがフランス語とドイツ語ではRanoonと表記されている。その理由は何だろう。僕の年代では、ミャンマーはビルマ、ヤンゴンはラングーンの方が記憶に強く刻まれているような気がする。

機の最後尾にちかい通路側の席の利点のひとつは、食事を終えたら即、自分のお盆を後方のギャレーに片づけられることだ。しかしそこに客室乗務員がいると、あまり良い顔はされない。彼らはトレーは、それを運んできたワゴンに収めたいからだ。しかしまぁ、僕は自分の自由を確保したい。そしてラバトリーで歯を磨く。

04:59 機がダナンの上空に達する。ディスプレーには”Estimated Arrival Time 4:06″と出たから思わず「いいぞ」と心の中で声を上げる。”Distance to Bangkok 794Km”の案内も見える。

05:42 「スワンナプーム空港まで20分。現地の天気は曇り、気温は28℃」のアナウンスが流れる。
05:52 地上の灯りが見えてくる。
05:59 車輪の降ろされる音が聞こえる。
06:02 TG661は定刻より48分も早い、タイ時間04:02にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。

04:21 機外に出る。
04:26 サテライトターミナルからシャトルトレインが発車
04:27 その車両がメインターミナルに着。
04:29 「人っ子ひとりいない」と表現しても過言ではない入国審査場を通過。
04:44 回転台から荷物が出てくる

この日記にはこれまで数え切れないほど書いてきたことだが、日本からスワンナプーム空港に飛び、そこからチェンマイ、チェンライ、プーケット、クラビ、サムイ、ハジャイ、トラートのいずれかへ乗り換える場合には、日本で機内に預けた荷物はそのまま最終目的地まで運ばれる。タイへの入国も、小さな審査場を通るだけで済む。

しかし上記以外のところへの乗り換えでは本来の、時間によっては長蛇の列のできる入国審査場を通り、預けた荷物を受け取り、到着階の三階から出発階の四階へ上がって乗り換えるべき航空会社でチェックインの上、ふたたび荷物を預ける必要がある。乗り換え時間の短い場合には結構な綱渡りにて、乗り継ぎの便に乗り遅れる人も珍しくない。

僕は、綱渡りは嫌いな方ではないものの、勿論、乗り遅れは避けたい。だから先ほどまで乗っていた機内でバンコクへの早い到着を知ったときには「よし、いいぞ」と喜んだのだ。

なお、こちらもこの日記にはたびたび書いていることだが、旅の楽しみは、行った先のみにあるものではない。準備も楽しければ、時には困難を伴う移動も、月日が経てば忘れがたいものになる。だから僕は、移動については時間も明確にして、その経過を細かく記すのだ。

さて元に戻れば、回転台から出てきた荷物を曳いてロビーに出るなりエスカレータを探して出発階の四階に上がる。タイ航空のカウンターは、これがタイのフラッグシップだからなのか、カウンターに冠されたアルファベットのもっとも若いところ、つまりいま僕の立っている場所からすればもっとも遠いところにあった。

04:57 タイ航空のオネーサンに助けられながら、自動チェックイン機でチェックインを完了。この機械からは、搭乗券と共に荷物に付けるバーコードも出力をされる。そのバーコードは、タイ航空のオニーサンが、スーツケースの取っ手に付けてくれた

05:05 出発階の四階から地下一階にはエレベータで降りる。空港と街を結ぶ鉄道ARLの乗り場ちかくに開いていた両替所は4ヶ所。交換率はどこも同じにて、もっとも空いていたカシコン銀行のブースで10万円を21,450バーツに換える。

1982年には、邦貨1万円は約1,000バーツになった。随分と円が弱く感じられるものの、当時の物価では、楽宮旅社の宿泊料はひと晩50バーツだったから邦貨にすれば500円。安食堂の料理はひと皿10バーツ、つまり100円に満たなかった。

その後は仕事が忙しいとか他にも色々とあって、次の訪タイは1991年。このときの円とタイバーツの交換率は記録していない。ただしマンダリンオリエンタルホテルの宿泊料は、邦貨にして一泊3万円ほどだった。本格的に訪タイを再開したのは2009年8月。このときは1万円が4,000バーツを超えた。屋台の汁麺は25バーツで食べられた。それが2025年9月現在では1万円が2,145バーツ。首都の汁麺は50バーツなら安い方だ。

つまり2009年から2025年までの16年間で、タイにおける円の価値は、汁麺換算で4分の1になった。これを嘆き、日本政府を呪う人も多々いる、しかし2009年8月の日経平均株価が1万円を切っていたことに対して、きのうの終値は45,630円なのだから、損得は正に「あざなえる縄のごとし」ではないか。

と、こういうことを連ねていると、日記はいつまでも書き終えることができない。よって主題に戻る。

05:21 出発階の四階に戻る
05:24 国内線の保安検査場を通過。
05:27 B8ゲートに達する

搭乗券にある搭乗時間は6時30分。退屈を感じるほどの大余裕だ。しかし羽田からバンコクまでの飛行機が今日より1時間おくれれば乗り遅れなのだから、この乗り換えはやはり、綱渡りに他ならない。

05:30 トイレの個室に入り、家から着てきたgicipiの襟の高いシャツ、それに羽田で重ねたジャージー生地のカーディガンとウインドブレーカーを脱ぎ、半袖のTシャツに着替える。タイの夜は、いまだ明けていない。

06:15 ロイヤルシルククラスおよび介助を必要とする人から搭乗が始まる。
06:35 冷蔵庫のように冷えたバスで沖まで運ばれ、飛行機のタラップを上がる
07:15 Airbus A320-200(32X/3205)を機材とするTG002は、定刻に15分おくれて離陸

機は先ず左に旋回をして南へ下る。サムットプラーカーンやチャチューンサオの、シャム湾に接する場所のほとんどは、魚や海老の養殖池と思われる

ところでこの便の、全156席のうち埋まっているのは5分の1ほど。それだけ空いているにも関わらず、右列最後部のひと席となりには、B8ゲートにいるときから怪しげな咳をし続けていた、服装や持ち物からすれば沈没組と思われるファランが座った

それはさておき、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により国境が閉鎖される直前の2020年3月の、ウドンタニーの農地はまるで土漠のように茶色かった。しかし今朝のそれは、一面の緑に覆われている。乾季と雨季とでこれほど景色が異なるとは、大きな驚きである

08:03 TG002は定刻より8分はやくウドンタニー国際航空に着陸。ちなみに「国際」とはいえ実際には、この空港に国際便は発着していない
08:11 機外に出る。
08:17 早くも回転台に荷物が出てくる

ロビーに出ると正面に案内のカウンターがあったため、タクシーの切符はどこで買うべきか訊くと、係は何ごとか答えつつ、はす向かいを指した。よって運転手らしい人たちの群れるそのブースに近づき、オネーサンに声をかける。

張り紙の数字を見て「200バーツですか」と訊いてみる。
「お客様、どちらまで」
「サンパンタミッ」
「それなら200バーツです。ホテルはお決まりでいらっしゃいますか」
「バンブア」
「かしこまりました」

料金は1,000バーツ札で支払う。大きなお札は釣銭の潤沢そうな場所で細かくしておくことが肝要だ。オネーサンは複写式の黄色い伝票を僕に手渡しながら、ちかくにいた運転手の一人に「バンブア」と告げた。

田舎の空港は、どこもかしこもそれほど大きくはない。極めてにこやかな運転手はその小さな空港の建物を出て、自分のクルマまで僕のスーツケースを曳いていく。

08:23 タクシーが動き出す。

ウドンタニーの空港は、極限までお金を節約したいバックパッカーなら、徒歩でホテルを目指すほど街に近い。僕も200バーツは惜しいけれど、まぁ、仕方が無い。

ソイサンパンタミットといえば、知らない人はいないほど有名な通りのはずで、バンブアも悪くないホテルだ。しかし運転手は幹線道路を行きすぎてUターンをし、以降はスマートフォンに口を近づけ「ロンレーム、バンブア」と繰り返している。更にはクルマを駐めて、ちかくの人に道を訊ねることまで始めた。ウドンタニーに来て、いまだ日が浅いのだろうか

しまいには「その先、右折」、「ここで左折」と、僕が指先で案内をする。バンブアは、ソイサンパンタミットに入って100メートルほどの右側にある。運転手はそれを見過ごして更に進もうとするから、僕は右を指して「ここ、ホテル、バンブア」と、慌てて声をかける。

08:50 直線距離にすれば空港の駐車場から3.5キロメートルほどのホテルまで、実に27分もかかって到着する。運転手は最後まで愛想が良かったものの、チップとしてポケットに用意した40バーツは渡さなかった。

ホテルの清潔なロビーの一角には、それほど大きくない受付のカウンターがあった。そこにひとりだけいたオバチャンに声をかけ、agodaの予約票を見せる。ホテル側の書類の僕の名前には誤りがあったため「ペンで書き直しましょうか」と問えば「その必要はありません」とオバチャンはその紙をカウンターの内側へ戻しつつ「いまは部屋の準備ができていません。しばらくお待ちください」と笑顔を浮かべた。「チェックインは14時ですもんね」と僕は答え、スーツとパックパックの預かりを頼む。

ロビーのソファに腰かけ「しかし」と考える。チェックインが14時とすれば、これから5時間もある。そのあいだ活字を欠いたままでいることはできない。オバチャンの許可を得て奥の部屋へ入り、スーツケースから読みさしのラオイネル・バーバー著「権力者と愚か者」および2020年3月にこの街のマッサージ屋のオバチャンにもらったセブンイレブンのエコバッグを取り出す。そしてそのバッグを提げて外へ出る。

気温はバンコクとおなじ28℃くらいだろうか。先ずはホテル前のソイサンパンタミットから目抜き通りに出て左に折れる。するとタイ国鉄のウドンタニー駅はすぐ目に入る。ここから4駅を北上すれば、そこはもうラオスである。ところで来年の3月には、このウドンタニーからチェンライへバスで行くことを決めている。そのバスについて調べるため、駅前からショッピングセンター”central plaza”南にある古いバスターミナルまでの5分ほどを歩く

この街からバンコクあるいはチェンライに路線を持つバス会社「ソンバットツアー」はすぐに見つかった。メガネをかけた太ったオネーサンによれば、チェンライ行きのバスが出るのは19時すぎ。出発の場所は”Number 4″とのことだったが、よく分からない。目と鼻の先のバスステーション1に足を踏み入れ、その4番プラットフォームにある札を見ても、行き先はチェンライではない。しかしまぁ、それについては来年の3月に、改めて訊いてみることにしよう。

歩くことに疲れてホテルへ戻り、ロビーのソファで本を読むうち、先ほどのオバチャンに呼ばれる。どうやら部屋の準備ができたらしい。時刻は10時ちょうど。オバチャンには、定刻の4時間も前から部屋に入れてくれることへの感謝として50バーツのチップ。部屋までスーツケースを運んでくれたベルボーイにも50バーツのチップを手渡す。

三階の部屋は小さなバルコニーを備えて、明るく綺麗だった。ベルボーイが去ったところで早速、部屋を自分ごのみにしていく。枕は4つも要らないから、3つはクローゼットの上の天袋に収めてしまう。テレビは見ないから、そのリモートコントローラーはテーブルの端に移す。そのテーブルに持参のジュエリートレーを組み立て、文房具やビタミン剤を置く。朝スワンナプーム空港で両替したタイバーツと前回の訪タイで余らせたタイバーツを合計し、そこから今日すでにして使ったお金を引いて、齟齬の無いことを確かめる。そのようなことをしてからシャワーを浴びる。

昼がちかくなるころ外へ出る。腹は大して空いていない。先ほどその前を通り過ぎたショッピングモール”central plaza”に入って地下へ降りる。するとタイではお馴染みのたくさんのフードコートがあり、しかし書店も複数あったから「この街の民度は結構、高いんだな」と感心したりする。前回あまらせたラオカーオは、ことによると今夜のうちに枯渇する。よって奧のスーパーマーケットに入り、酒類の棚から未知のラオカーオ1本を取り出す。これまで飲んだことのない”TAWANNDANG”という銘柄のそれは、720ccほどの容量で130バーツだった。

昼食は、できることならショッピングセンター地下のフードコートではなく、街の食堂で食べたい。しかし腹はいまだ減らない。ホテルへ戻るには遠回りにはなるものの、大きな通りを向かい側に渡る。そして駅のある方向へ歩き始めると間もなく、右手のマッサージ屋から声がかかる。

タイのマッサージ師は、大抵は店の外で休みつつ道行く人に声をかける。誰にでも分かるとは思うけれど、まともなマッサージ師とそうでないマッサージ師は、すぐに見分けがつく。声をかけてきたオバサンは前者に属するもので、すこし通り過ぎてからきびすを返し、2時間のオイルマッサージを頼む。飛行機の座席に座り続けたことが原因か、何となく感覚の怪しくなってきた腰の一点を、オバサンには特によく押してもらった。

オバサンのマッサージはなかなか上手だった。マッサージ代は600バーツ。チップは200バーツ。帰りしなに明日の午後4時にまた来たい旨を告げる。タイ語の時間の呼び方は日本語や英語にくらべて複雑なものの、覚えておいて良かった。時刻はいまだ14時20分。時間に追われがちな日本での日常を考えれば、大贅沢、である。

15時より二階のプールサイドで本を読む。日が徐々に傾いても日除けのパラソルは複数あるから、寝椅子を移れば問題は無い。明日はプールサイドのバーで、愛想の良いオネーサンに飲み物を頼んでみることにしよう。

16:15 部屋に戻ってシャワーを浴びる。南の国ならではの嬉しいひとつは、寝台に敷いたバスタオルの上で、裸で涼めることだ。

17:05 セブンイレブンのエコバッグに、タイ航空の小さなペットボトルに小分けした前回のラオカーオと本を入れて外へ出る。ちなみにこのエコバッグをくれたオバサンさんのマッサージ屋は、昼に調べたものの、残念ながら代替わりをしていた。

前回2020年3月に食べて美味かったホイトード屋は、驚くべきことに、今や英語と中国語に加えて日本語とハングルによるメニュまで揃えていた。しかし前にあったバケツ入りの氷はなぜか置かなくなっていた。そういう次第にてソフトドリンク用のクラッシュドアイスとプラスティック製のコップでラオカーオのソーダ割りを飲む。今夜の「トード」の中では特に烏賊が美味かった。

ホテルに戻ったのは18時10分。シャワーを浴び、クーラーは止め、枕元に本とiPhoneを置く。以降のことは、よく覚えていない。


朝飯 TG661の機内食TG002の機内軽食
晩飯 “Je Huay Hoi Tod”の烏賊と海老とムール貝と牡蠣のトードラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2025.9.24(水) 失われた夏を求めて

「失われた時を求めて」はマルセル・プルースト。僕の9月のタイ行きは「失われた夏を求めて」のものだ。

と、なにやら気取った書き出しではあるものの「失われた時を求めて」は、これを説明する短い文章に触れただけで、根気に欠ける僕は読む気にならない。それにしても、この壮大な物語の研究を趣味としたラオス最後の王サワーンワッタナーの、共産政府による再教育キャンプでの死は悲しい。

18時の終業後は今日の売上金を手早くまとめてキャッシュレジスターの数字と照合し、4階の自宅へ戻る。新宿高島屋の催し「美味コレクション・グルメフェス」に、準備日も含めれば9日間の出張をしていた長男は今日の夕刻に帰社したから、気持ちは大いに楽になった。シャワーと歯磨きに要した時間は5分。駅までは家内が送ってくれた。

18:50 けごん52号の車両が下今市を発。乗客のほとんどは海外からの旅客と思われる。
20:21 けごん52号が北千住に着。

20:26 日比谷線の車両が北千住を発。
20:42 日比谷線の車両が人形町に着。

20:45 都営浅草線の五反田方面西馬込行きが人形町を発。
20:59 その車両が泉岳寺に着。
20:59 京急本線急行羽田空港第1・第2ターミナル行きの車両が泉岳寺を発。
21:25 その車両が羽田空港第3ターミナルビルに着。

21:32 パスポートを自動チェックイン機にかざしてチェックインを完了
22:14 蛇行する行列に42分のあいだ並んで荷物あずけを完了。スーツケースの重量は9.4キログラムだった。

22:20 保安検査場を通過。
22:21 出国審査場を通過
22:25 108番ゲートちかくの”Sky Lounge South”に入る。

夕刻の空にツバメが群れ飛ぶ南の国へ行けるとは、僕にとっては盆と正月が一緒に来たようなものだから、いくら好きでも酒は飲まない。そして普段より一日はやく、きのうの日記を公開する

23:32 コンピュータを開くと時を忘れる悪癖が僕にはある。満席だったラウンジの客は、いつの間にか、ほとんどいなくなっていた。そして僕もラウンジを去る。

23:40 142番ゲートに辿り着く搭乗は既にして始まっていた。「危ない。危ない」である。
23:43 ボーディングブリッジを伝って僕もタイ航空機に搭乗し、62Hの席に着く。


朝飯 小松菜のおひたし、秋刀魚の梅煮、茄子の揚げびたし、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、トマトとキャベツと若布と揚げ湯波の味噌汁
昼飯 納豆と玉葱のつゆで食べる素麺
晩飯 “Sky Lounge South”のカレーライス、ルイボスティー


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2025.9.23(火) 秋

空気が湿気を失ったことにより、右手の親指の爪と肉のあいだが剥がれ、血の色が見えつつある。おなじ右手の薬指には、小さなアカギレができている。それらを軟膏で埋めてバンドエイドを巻くことを、今朝はデジタル機器に触る前にしなければならない。きのうの夜からそう考えていたものの、TikTokの「梅太郎」のアカウントにベトナムの食料品店が付けてくれたコメントに返信を付けるなどのことを、ついしてしまう。二本の指に処置が施されたのは、結局のところ「朝食の準備まであと10分」という際どい時間になってからだった。

日中の気温は、冷えた素麺の欲しくなるところまでは到らなかった。よって昼食はにゅうめんにした。「春過ぎて夏来にけらし」だから、かの歌は光り輝いているのであって、これが「秋来にけらし」では、まったく気勢が上がらない。僕が秋という季節から連想する言葉は「斜陽」や「凋落」に他ならない。

15時すぎに道の駅「日光街道ニコニコ本陣」へ、本日3回目の納品をする。その帰りに如来寺に寄り、本堂で塔婆をいただいてから、先ずは新しい方のお墓へ行く。白木に墨痕も鮮やかな塔婆を墓石の後ろに立てたら、三日前に供えた花を持参のプラスティック袋に入れる。次いで叔父と叔母のお墓の花も、その袋に入れる。双方の花立てを水場で洗ったことは言うまでもない。

そこから今度は古い方のお墓を訪ね、こちらは七対の花立てから花を引き抜き袋に入れる。花立ては、これまた持参の大きな洗面器で水場へ運び、洗って元に戻す。いまだお彼岸は過ぎていないものの日も傾くころであれば、花を片づけても問題はなかろうとの、勝手な判断である。

夕刻の空に飛ぶ鳥はいない。ツバメは夏の鳥ということになっているけれど、いまだ寒い頃に来て、しかし残暑を楽しむことなく南へ去ってしまうのはなぜだろう。

夜の焼酎はソーダではなく、お湯で割る。


朝飯 秋刀魚の梅煮、目玉焼き、茄子の揚げびたし、菠薐草のソテー、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と若布と揚げ湯波の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 豚薄切り肉と小松菜と厚揚げ豆腐ときのこの鍋、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)「本沢屋」の団子、Old Parr(生)


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2025.9.22(月) TDAC

辛うじて3時台の起床。食堂に来て先ずは南東に面した窓のカーテンを巻き上げる。すると空に明けの明星が見えたから「晴れた」のことばが思わず漏れる。次いで南西に面した窓も開ける。半袖のシャツ1枚、足元は裸足の格好で涼しさは感じるものの、いまだ寒くはない。

夜が明け始めていることに気づいたのは4時48分。一日の中で最も好きな時間は夜と朝のあいだにて、慌てて屋上へ上がる。朝の空は、すこし目を離しただけで著しく変わる。そのもっとも妙味のあるところを愛でようとすれば、ぐずぐずとはしていられないのだ。

食堂から見おろす国道121号線には、なぜかA4ほどの紙が散乱している。よって6時を過ぎたところで外へ出て、その紙を拾い集める。このような仕事は社員に頼むべきではなく、ヒマにしている僕がすれば良いのだ。

今月8日から始められた近隣の農家からのしその実の買い入れは、きのうが最終日だった。その、きのうの数字を午前の早い時間にコンピュータに入れて、初日からの合計をする。今年の買い入れ量は、昨年のそれを165キログラム超えていた。なお、茗荷の買い入れについては、今月の30日まで続けることにしている。

日中、今年の5月1日から外国人の入国者に義務づけられた、タイデジタルアライバルカード通称”TDAC”のページに、求められている情報を入力する。カードとはいえ自分のメールアドレス宛てに送られるそれはそれとして、紙にも出力をしておく。ちなみに今年5月12日のバンコクでの入国に際しては、そのQRコードをスマートフォンに出して審査場のカウンターに置いたものの、係官は見向きもしなかった。それはそうだろう、既にしてデジタル的に登録済みであれば、そんなものを見る必要は無いのだ。

なお旅行者の中には、僕の知り合いにもいるけれど、事前の準備を欠いたまま入国をしようとしたり、許可証の必要な地域に無許可で越境を試みる者がいる。”TDAC”の登録をし忘れると、空港の微弱なwifiや国境付近の不安定な電波を頼りに人差し指をスマートフォンに滑らせることになるから要注意だ。

ところで僕の日本国旅券の期限は来年の7月22日まで。旅券の、入国に必要な残存期間は半年と、多くの国で決められている。つまり来年の1月22日を過ぎれば、現在のパスポートは事実上の効力を失う。何ヶ月も前から航空券を確保する僕としては、年末の繁忙が始まる前に、更新の必要があるだろう。


朝飯 擂り胡麻、納豆、梅干、ほぐし塩鮭、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬のお茶漬け
昼飯 納豆と擂り胡麻のつゆで食べる素麺
晩飯 「コスモス」のトマトとモッツァレラチーズのサラダコンビネーションサラダドリアハイボール、TIO PEPE


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