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清閑 PERSONAL DIARY

2025.9.26 (金) タイ日記(2日目)

子供が激しく泣き続けているような声に目を覚ます。部屋の灯りは点いたまま、コンセントに繋いだiPhoneはTikTokの動画の流れるままになっている。今夜からは、寝る前に注意をしようと思う。時刻は1時14分。就寝がきのうの18時すぎであれば、睡眠時間は既にして充分である。

それにしても、これほど長いあいだ子供が泣き続けるとは尋常でない。一体全体、子供はどこで泣いているのか。それを確かめるためベランダに出てみる。その声は果たして子供の泣き声ではなく、直下に長く横たわる屋根の下からの嬌声だった。

ソイサンパンタミットに白人向けのバーが多いことは、2020年3月に、やはりこの通り沿いにあるホテルに泊まったときから知っていた。しかしウドンタニーに存在する二大バービヤ街の、ひとつが窓のすぐ下に位置していたとは。このホテルに裏を返すことがあれば、部屋は廊下を隔てた反対側にしてもらうことが肝要と、コンピュータの”TR”のファイルに覚え書きを残す。

さて、旅の初日の日記はいつも長くなる。その、きのうの日本時間0時すぎからのことを、旅には二冊を持参する手帳のうちの小さな方を手元に置いて、書き始める。バービヤからの嬌声は、3時がちかくなるころには流石に止んだ。

カーテンの隙間から光の漏れていることに気づいて、ベランダの入口と枕元にちかい窓の、二個所のカーテンを開く。天気は曇り。夜に降り出したらしい雨は上がっていた。

ベッドに仰向けになる休みを何度か挟みつつ、きのうの日記は8時5分に書き終えた。WordPressのエディタによれば、文字数は6,946に及んだ。今日の日記からは短く済むようになるとは思うものの、どうなるかは分からない。

6時23分に部屋から出て一階ロビーの重い扉を押す。止んだとばかり思い込んでいた雨は、いまだすこしは降っていた。ポーチの下にはベルボーイが待機する小さな囲いがあって、そこには複数の傘が用意してあった。よってそのうちの1本を借りて歩き始める。

日本にいるときから調べておいた小体で洒落た食堂は、窓の直下のバービヤ街とは別のバービヤ街のすぐ先に見つかった。テーブルが屋内と屋外にある店では、迷わず屋外に席を決める。南の国では、できれば南の国らしく食事がしたいからだ。そうしてこのあたりの典型的な朝食であるカイガタとパンとコーヒーを注文する。

カイは玉子でガタは鍋。味はまぁ、見た目で想像できる通りのものだ。数を選べるコッペパンは二つにした。そしてこのパンの焼き加減が良かった。その朝食を摂るうち、背中側のテーブルに着いていたらしい白人のオジーちゃんが、どこかへ行こうとしながら僕のテーブルの本に気づいて「何をお読みですか」と声をかけてきた。

ライオネル・バーバーの「権力者と愚か者」の背表紙には英語による書名と著者名がある。本を手渡しつつそれを見せると「ノベルですね」と言うので、そこから会話が始まった。

「いえ、これはフィナンシャルタイムの元編集長の日記です」の”diary”は、タイ人のイントネーションを真似てみた。

「良い本ですか」
「はい」
「翻訳ですね。訳もよろしいですか」
「悪くないです」
「ところで、どちらからいらっしゃいましたか」
「日本の日光です。東京から100キロメートルほど北の」

「彼女は日本へ行ったことがあるんです」と言うオジーちゃんの言葉に後ろを振り返ると、中年の女の人が微笑んでいた。

「まだ半分、楽しめますね」と、オジーちゃんはいまだ手にしていた本の、ヒモによるしおりに触れてから、それを僕の手に戻して「よい日をお過ごしください」とすこし頭を下げた。
「はい、あなたも」

外の席を見まわしてみれば、僕のテーブル以外はすべて、白人の年配男性とタイ人の中年女性による二人組ばかりだ。この街の朝から昼にかけては、ソイサンパンタミットの周辺に限られるのかも知れないけれど、そのようなカップルが目立つ。

ベトナム戦争の時代には、この街にアメリカ軍の基地があった。そのころのアメリカ兵には、戦後もこの街に住み続ける例が少なくなかったらしい。その歴史的な背景が、白人にとって暮らしやすい一部をこの街に作ったのかも知れない。

それにしても、イギリス人やアメリカ人は、自国語が世界のほとんどの地域で通じてしまう。それは便利ではあるだろうけれど、便利すぎてつまらない、ということはないのだろうか。もっとも声をかけてきたオジーちゃんは、連れの女の人とは流暢なタイ語で話をしていた。タイには随分と長いあいだ、住み続けているのだろう。

ところで僕の南の国での楽しみの過半はプールサイドでの本読みが占める。しかし外は雨。パラソルの下にいる限り雨は当たらないにしても、寝椅子は濡れているに違いない。そういう次第にて、二階のプールサイドには、雨の上がった昼すぎに降りた。

太陽は薄い雲の向こうにあるから、時が経つにつれてパラソルの縁から外れても、眩しさはそれほど感じない。からだが汗ばんだら小さなプールを一往復か二往復して汗を止める。そしてプールサイドバーのオネーサンに西瓜のスムージーを注文する

部屋に戻ったのは15時。シャワーを浴びてひと息を入れ、あたりを整頓してからガウンをTシャツとタイパンツに着替える。

ソイサンパンタミットから駅に続く目抜き通りを、駅とは反対の西へ歩く。セントラルプラザ、タイ人の発音では「センターン」となるショッピングモールの近くまで来ると、道の対岸に、きのうのオバサンの姿が見えた。こんなところでクルマに轢かれては先が無くなるから中央分離帯の緑地を越えることはせず、遠回りをして横断歩道を渡る。

2018年の秋に、背骨と右の肩胛骨のあいだに痛みを感じ、仕舞には鎮痛剤がなくては堪えられないほどになった。MRIによる診断から手かざしまで考えられるところはすべて回って、治してくれたのは結局のところ、今は伊豆に引っ越してしまっている、当時は宇都宮で開業をしていたカイロプラクティックのワタナベ先生だった。

その先生に「タイへ行ってもボキボキ系のマッサージは避けてくださいね」と言われて以降、僕はタイマッサージは遠ざけている。そして今日も2時間のオイルマッサージを受ける。きのう違和感のあった左の腰の一点は、オバサンの荒療治により劇的に改善をされた。

マッサージを受けるうち、屋根に雨滴の落ちるような音が聞こえ始め、それは間もなくとてもうるさくなった。「雨?」と天井を指すと「フォントン カー」と、オバサンは静かに同意を示した。

施術が終わったのは18時。雨の勢いは弱まった。とはいえいまだ余韻は残っている。オバサンは通りに出て、向かい側の車線で客待ちをしていたトゥトゥクを大声で呼んでくれた。中央分離帯の切れ目まで進んでUターンをしたそのトゥクトゥクが、僕の目の前に停まる。

駅に向かって左側の食堂街には2020年の3月にも来て、二度の夕食を摂った。夕刻の驟雨のせいか客のほとんどいないそこにひとテーブルを占め、ここ二日のあいだは不足気味の生野菜を盛大に食べる。

ホテルまでの数百メートルは徒歩で辿る、部屋に戻った時刻は18時56分。雨の涼しさにより汗はかいていないから、シャワーは浴びないままガウンを羽織る。きのうほどは酔っていない。よってコンピュータやスマートフォンをすこしばかりいじってから明かりを落とす。


朝飯 “MORNING HOUSE”のカイガタ、パン、コーヒー
晩飯 駅前の”Food Place”のヤムウンセンムートードラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


美味しいおうちごはんのウェブログ集はこちら。

  

上澤卓哉

上澤梅太郎商店・上澤卓哉

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