2025.9.28 (日) タイ日記(4日目)
暗闇に目を覚まして枕頭のiPhoneを引き寄せる。時刻は0時46分。極端な早寝早起きにより昼夜が逆転気味の僕にしても、いかにも早すぎる。しかし眠気は感じない。よって起きてコンピュータを開き、きのうの日記のあらかたを書く。
疲れと眠気を覚えて寝台に仰向けになる。時刻は2時18分。幸い二度寝ができて、カーテンの隙間から朝の光が漏れるころにふたたび目を覚ます。
南の国で気ままにしているようでも、机の前の壁には旅の最中の日程表を貼っている。今月が9月であることは分かるとしても、何日なのか、そして何曜日なのか、についてはアヤフヤになりがちだからだ。9月28日の備考欄には「クリーニング」と記してある。よって初日からきのうまでに溜まった洗濯物をプラスティック袋に入れて外へ出る。
ホテルからは目と鼻の先の、2020年3月にも頼んだことのある洗濯屋は8時30分に、もう仕事を始めていた。今朝は三人いるうちのひとりのオネーサンに、プラスティック袋を手渡す。オネーサンはその中味をひとつずつ取り出しながら、複写式の伝票を作ってくれた。一点ごとの洗濯代は、ハイネックの長袖シャツが30バーツ、半袖のTシャツは25バーツ、下着のパンツは5バーツ、靴下も5バーツで、計125バーツをオネーサンに支払う。できあがりは明日の17時とのことだった。
この洗濯屋からソイサンパンミットを目抜き通りへ向かって更に歩くと、間もなくコインランドリーがある。その壁の値段表を見れば、洗剤が5バーツ、もっとも安い洗濯代は40バーツ、乾燥代は50バーツだから、その日のうちに洗い上がらないことを許容すれば、時間を見計らって何度も足を運ぶ必要のない点、また綺麗に畳んで手渡してくれる点において、洗濯物のすくない僕にとっては明らかに、洗濯屋の方が「勝ち」である。
それはさておき、きのうのスープ屋のオバサンは、今朝もおなじところに屋台を出していた。きのう客だったオネーサンは、このスープを”noodle”と言っていた。その”noodle”がどのようなものかは分からなくても、今日はこれを朝食にしようではないか。それにしても25バーツとは、首都では考えられない安さだ。
屋台に近づいて、オバサンに20バーツ札1枚と10バーツ硬貨ひとつを手渡す。オバサンは「これも入れるか」とモヤシを指すので「チャイ」と答える。するとオバサンはそのモヤシをビニール袋に入れ始めたので、あわてて屋台の屋根からぶら下げた袋の中の、発泡スチロール製のドンブリを指す。オバサンは「あぁ」と答えてそのドンブリを袋からひとつ取りだし、そこにスープを盛大に盛り始めた。
それにしてもオバサンは、お釣りをくれない。「5バーツは?」と訊くと「特盛りにしておいたから」と、涼しい顔をしている。タイでは、細かいことを言うと嫌われる。更には人格さえ疑われる。僕は箸をもらい、その、ラーメンのドンブリに満杯ほどの量のスープを、そろりそろりと部屋まで運ぶ。そしてベランダのテーブルに古新聞を敷き、その上に置いた。
ドンブリには大量の春雨、大量の血豆腐、それから出汁の元としての鶏の、胸から頭の直下までの骨が入っていた。その骨にはまた、少なくない肉が付いていた。これで30バーツ。「満足」のひとことだ。
10時をまわったところで外へ出る。iPhoneには翻訳アプリケーションによる「私は日焼けをして、赤くなった肌が痛いです。これを鎮めるローションかジェルが欲しいです」とのタイ語を画像で保存してある。
地方としては巨大なショッピングモール「センタン」の地下一階へのエスカレータに乗ると、目の前には都合の良いことに薬局の”watsons”があった。よって即、そこに入って目についたオネーサンにiPhoneの画像を見せる。僕の経験からすると、このようなときのタイ人は、黙読をしない。常に音読である。そして「アロエはどうかしら」と、オネーサンはそれらしいものの置いてある棚に僕を先導し、更にはそこにある複数のジェルを吟味しだした。そして間もなく「After Sun Gellって書いてある!」と、緑色のチューブを僕に手渡した。僕は礼を述べて、それを本日最初の客としてキャッシュレジスターのカウンターに置く。ジェルは120ccの容量で229バーツだった。
部屋に戻ってそのジェルを胸と腹と太腿、そして脛に塗りたくる。そしてパタゴニアのバギーショーツと紫外線除けのTシャツを身につけ二階のプールサイドに降りる。時刻は11時ちょうど。太陽は既にして高いところまで昇っている。その太陽の下で仰向けになりたいことはやまやまながら、今日のところは自重をして、本はプールサイドバーの日陰で読むこととする。
日はますます高いところへ位置して、パラソルの影はもっとも小さくなる。ふと目を上げると、プールサイドバーの棚にはラオカーオの中で僕が最も好む”BANGYIKHAN”が六本あったから「分かってるね」と、思わず膝を打ちたくなる。部屋には14時に戻った。
15時50分に部屋を出れば、16時に予約をしているマッサージ屋には15時55分に着く。この店のオバサンは2時間で頼んでも、常に2時間以上を仕事に費やしてくれる。今朝の洗濯物の上がる時刻は明日の17時のため、明日のマッサージは15時に予約を入れた。
18時を過ぎたウドンタニーには夕刻の色が濃い。「センタン」の前の路上には、いつもおなじトゥクトゥクが駐まっている。そのオジサンに、これまたiPhoneに保存したチムジュム屋の画像を見せる。オジサンの言い値は80バーツ。目指す人工池のほとりには、10分と少々で着いた。
日曜日だからなのか、チムジュム屋は満席だった。この店で食べたい旨をオニーチャンに告げると、オニーチャンは紙に何ごとかを書いて手渡してくれた。その紙をタイパンツのポケットに入れて池の畔を歩く。
池畔を周回する道では子どもたちが自転車を走らせ、ジョギングをする人もすくなくない。遠くからマイクを通した威勢の良い声が聞こえてくる。コンサートでも開かれているのだろうか。そこまでの数百メートルを歩いてみる。声の主は果たして台の上から広場の人たちにエクササイズを指導するオジサンだった。
先ほどのチムジュム屋にはふた席の空きができていた。「助かった」である。しかし「ところが」である。客席から見える配膳カウンターの壁には何と”Non Alcohol”の張り紙がある。タイ航空のペットボトルに小分けしたラオカーオは、このようなときに限って部屋に置き忘れてきている。
タイは万事がいい加減に思われて、しかし酒とタバコに関しては日本よりよほど厳しい。この店は、あるいは酒による揉め事を店主が極端に嫌っているのかも知れない。
オニーチャンには水、チムジュムの小、臓物三種に烏賊、そして鶏卵ひとつを注文する。席に届けられた水のペットボトルはなぜか、異常に大きい。チムジュムのナムチムつまりつけだれは二種類、続いてもうひとつが置かれた。
土鍋のスープの煮立ってきたところで先ずは、ミントの葉やキャベツなどの野菜を投入する。それに半分ほど火の通ったところで別注のレバをすこしずつ入れ、固くなる前につまみ上げて野菜と共に皿に盛る。つけだれは、三種のうち最後に届けられた色の黒いものが抜群に美味い。「果たして食べきれるだろうか」と心配しつつ注文したすべてはスンナリと腹に収まった。代金は299バーツの安さで、大いに驚いた。否、驚いてはいけない、これがウドンタニーの標準なのだろう。
その、代金を払い終えるころにいきなり強い風が吹きつけてくる。この店の調理場と配膳カウンターは建物の中にあるものの、客席は野天で、屋根はビニールシート一枚だ。そのビニールシートは大きな音を立ててバタつき、仕舞には店の人の手に負えなくなった。雨も夕立のような勢いで降ってくる。ビニールシートは日本のブルーシートとは異なって日除けの性格が強く、客席の真ん中ちかくにいる僕の頭上からも容赦なく水が落ちてくる。
客席の周辺ちかくで食事をしていた人たちは雨を避けるために全員が総立ち。店員たちは彼らのテーブルをできるだけ店の中央へ移そうと、大わらわになっている。これが日本であれば「どうにかしろ」の怒声が客から飛ぶかも知れない。この過剰なお湿りに、しかしタイの人たちはおしなべて苦笑い、あるいは大笑いをしている。これぞ「マイペンライ」。
日本では、列車は定刻に出て定刻に着く。道にゴミは目立たない。タクシーの運転手がメーターのスイッチを入れず料金を交渉してくるなどは絶対に無い。ものを作る人たち、ものを売る人たち、サービスを提供する人たちは、消費者の要望にとことん応えようとする。そのような国民の真面目さにより、第二次世界大戦の敗戦国は奇跡の復興を遂げて経済大国になれた。しかし息は詰まる。だから僕は、ときどきタイに来たくなるのだ。
2014年6月6日にバリ島のデンパサールで懲りたことから、ここまで来たときのトゥクトゥクはちかくで待たせておいた。オジサンの言い値は来るときとおなじ80バーツだったものの、100バーツを手渡して釣りは求めなかった。ホテルには19時30分に帰り着いた。そしてシャワーを浴びるなどして20時45分に部屋の明かりを落とす。
朝飯 ホテル近くの屋台から持ち帰った春雨スープ
晩飯 “Pungpond Hot Pot”のチムジュム(小)、臓物三種、烏賊、ペットボトルの水