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清閑 PERSONAL DIARY

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2025.9.27(土) タイ日記(3日目)

目を覚まして枕頭のiPhoneに触れると時刻は1時36分だった。きのうの就寝が19時30分だったとすれば、睡眠時間は6時間。まぁ、妥当なところだろうか。直下のバービヤは、きのうほどはうるさくない。

起きてコンピュータを開いてきのうの日記の、きのうのうちに書いてしまったところからの続きを書く。初日の日記にくらべれば文字数は圧倒的に少なく済みそうではあるものの、ときおりは寝台に戻って仰向けになり、iPhoneでTikTokの動画を眺めつつ休んだりもする。

カーテンの隙間に朝の気配を感じれば、即、部屋の南側の二個所にあるカーテンを開く。空は晴れている。プールサイドには早めに降りることができるだろう。そしてきのうの日記を書き終える。

このあたりの、朝食を供する店が営業を始めるのは、おしなべて8時。それまでには、いまだ1時間30分ほども間がある。よって寝台に寝転がってきのう公開した「タイ日記(1日目)」をiPhoneで読むうち、単語の変換違いや英文のスペルの間違い、通りの名の文字の脱落、単なる打ち違えを次々と見つける。そのたび寝台から起き上がって、机に開いたコンピュータで修正をする。その回数は10や20ではきかなかったのではないか。結構、疲れた。

さて今回の旅では、ウドンタニーでもバンコクでも、宿泊に朝食は付けていない。よって8時を回ったところで外へ出て、今朝はきのうとは逆の、目抜き通りを目指して歩く。途中、オバーサンの屋台でスープが煮えていたため「ガオラオ?」と訊くと、客であるオネーサンは”noodle”と教えてくれた。それにしても、屋台の周りに椅子は無い。自前のものらしい器にたっぷりの汁を盛ってもらったオネーサンは、それを手に、この通りにはいくつもある白人相手の食堂のひとつ”FULL THROTTLE”の奥に消えた。

そのまま歩き続けて目抜き通りに出る。そして駅の方面つまり東を目指す。目に付いた、やはり白人相手の食堂の二人用の席に着き、オネーサンにメニュを頼む。届いたそれを開けば典型的な英国風の朝食で、三種あるうちのひとつを注文する。

サマセット・モームは英国の料理について
To eat well in England, you should have a breakfast three times a day.
と言ったらしい。しかし僕は、今朝のこれきりで充分だ。明日の朝は、別の場所で別のものを食べることにしよう。

道の向かい側にはなぜか、警察の車両が十数台も駐まり、警官のひとりは、それゆえに狭まった道路で交通整理をしている。僕は物好きにも道を渡る。その平和的な、緊張を欠いた様子は、テレビか映画に関係する人たちの送迎に警察が駆り出されているよう見えた

部屋へ戻り、朝とおなじ要領で「タイ日記(2日目)」にも修正を施す。天気は朝の「まぁまぁ」の状態からすれば雲が増え、太陽は地上を直射していない。プールサイドには11時に降りた。

本を読みながら「本当に便利だな」と感じるのはスマートフォンの存在だ。分からない言葉、知らない人物が出てきたら、寝椅子に仰向けになったまま、それについて調べることができるからだ。いわば自前の索引、である。

それはさておきホテル二階の屋外プールには、今日は様々な音が大きく聞こえている。目抜き通りでは警官が吹いているのか、笛の鋭い音がいつまでも止まない。直下の”THE SPORTS BAR & RESTAURANT”には白人の年配者が溢れんばかりに集まって、スポーツの実況らしいものを観ている。そして点が入るたびなのか、見どころが訪れるたびなのか、あるいはその双方によるのか、ときおり一斉に歓声を上げる。まったくうるさい限りだが、そのような場所にホテルを定めたのは自分なのだから、どうにもならない。プールサイドからは、14時に引き上げた。

部屋に戻って洗面所の鏡に向かうと、上半身にかなりの日焼けをしている。太腿から脛にかけても焼けているものの、こちらは皮膚が厚いのか、それほどヒリついてはいない。太陽は薄い雲の中にあり、それさえ僕はパラソルで避けていた。しかしながらの日焼けである。南の国の日差しはそれほど強いのだろうか。紫外線を防ぐTシャツは部屋を出るときには着ていくものの、プールサイドでシャツを着るほど情けないことはないため、寝椅子に横になる前に脱いでしまうのだ。

何年か前に日焼けを鎮めるためのジェルをバンコクで買い、しかしそれは昨年スコータイから首都へ戻る際、迂闊にも手荷物のバックパックに入れていたため、空港の保安検査場で没収された経緯があった。初日にラオカーオを買った「センタン」で、明日はおなじようなものを手に入れることにしよう。

16時からは、今日で馴染みになる店で2時間のオイルマッサージ。夕食はホテルのある通りで洋食を摂る。そして21時がちかくなるころに寝に就く。


朝飯 “GOOD CORNER”の英国風の朝食、オレンジジュース、コーヒー
晩飯 “da Sofia”のカプレーゼコルドンブルーカラフの白ワイン


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2025.9.26(金) タイ日記(2日目)

子供が激しく泣き続けているような声に目を覚ます。部屋の灯りは点いたまま、コンセントに繋いだiPhoneはTikTokの動画の流れるままになっている。今夜からは、寝る前に注意をしようと思う。時刻は1時14分。就寝がきのうの18時すぎであれば、睡眠時間は既にして充分である。

それにしても、これほど長いあいだ子供が泣き続けるとは尋常でない。一体全体、子供はどこで泣いているのか。それを確かめるためベランダに出てみる。その声は果たして子供の泣き声ではなく、直下に長く横たわる屋根の下からの嬌声だった。

ソイサンパンタミットに白人向けのバーが多いことは、2020年3月に、やはりこの通り沿いにあるホテルに泊まったときから知っていた。しかしウドンタニーに存在する二大バービヤ街の、ひとつが窓のすぐ下に位置していたとは。このホテルに裏を返すことがあれば、部屋は廊下を隔てた反対側にしてもらうことが肝要と、コンピュータの”TR”のファイルに覚え書きを残す。

さて、旅の初日の日記はいつも長くなる。その、きのうの日本時間0時すぎからのことを、旅には二冊を持参する手帳のうちの小さな方を手元に置いて、書き始める。バービヤからの嬌声は、3時がちかくなるころには流石に止んだ。

カーテンの隙間から光の漏れていることに気づいて、ベランダの入口と枕元にちかい窓の、二個所のカーテンを開く。天気は曇り。夜に降り出したらしい雨は上がっていた。

ベッドに仰向けになる休みを何度か挟みつつ、きのうの日記は8時5分に書き終えた。WordPressのエディタによれば、文字数は6,946に及んだ。今日の日記からは短く済むようになるとは思うものの、どうなるかは分からない。

6時23分に部屋から出て一階ロビーの重い扉を押す。止んだとばかり思い込んでいた雨は、いまだすこしは降っていた。ポーチの下にはベルボーイが待機する小さな囲いがあって、そこには複数の傘が用意してあった。よってそのうちの1本を借りて歩き始める。

日本にいるときから調べておいた小体で洒落た食堂は、窓の直下のバービヤ街とは別のバービヤ街のすぐ先に見つかった。テーブルが屋内と屋外にある店では、迷わず屋外に席を決める。南の国では、できれば南の国らしく食事がしたいからだ。そうしてこのあたりの典型的な朝食であるカイガタとパンとコーヒーを注文する。

カイは玉子でガタは鍋。味はまぁ、見た目で想像できる通りのものだ。数を選べるコッペパンは二つにした。そしてこのパンの焼き加減が良かった。その朝食を摂るうち、背中側のテーブルに着いていたらしい白人のオジーちゃんが、どこかへ行こうとしながら僕のテーブルの本に気づいて「何をお読みですか」と声をかけてきた。

ライオネル・バーバーの「権力者と愚か者」の背表紙には英語による書名と著者名がある。本を手渡しつつそれを見せると「ノベルですね」と言うので、そこから会話が始まった。

「いえ、これはフィナンシャルタイムの元編集長の日記です」の”diary”は、タイ人のイントネーションを真似てみた。

「良い本ですか」
「はい」
「翻訳ですね。訳もよろしいですか」
「悪くないです」
「ところで、どちらからいらっしゃいましたか」
「日本の日光です。東京から100キロメートルほど北の」

「彼女は日本へ行ったことがあるんです」と言うオジーちゃんの言葉に後ろを振り返ると、中年の女の人が微笑んでいた。

「まだ半分、楽しめますね」と、オジーちゃんはいまだ手にしていた本の、ヒモによるしおりに触れてから、それを僕の手に戻して「よい日をお過ごしください」とすこし頭を下げた。
「はい、あなたも」

外の席を見まわしてみれば、僕のテーブル以外はすべて、白人の年配男性とタイ人の中年女性による二人組ばかりだ。この街の朝から昼にかけては、ソイサンパンタミットの周辺に限られるのかも知れないけれど、そのようなカップルが目立つ。

ベトナム戦争の時代には、この街にアメリカ軍の基地があった。そのころのアメリカ兵には、戦後もこの街に住み続ける例が少なくなかったらしい。その歴史的な背景が、白人にとって暮らしやすい一部をこの街に作ったのかも知れない。

それにしても、イギリス人やアメリカ人は、自国語が世界のほとんどの地域で通じてしまう。それは便利ではあるだろうけれど、便利すぎてつまらない、ということはないのだろうか。もっとも声をかけてきたオジーちゃんは、連れの女の人とは流暢なタイ語で話をしていた。タイには随分と長いあいだ、住み続けているのだろう。

ところで僕の南の国での楽しみの過半はプールサイドでの本読みが占める。しかし外は雨。パラソルの下にいる限り雨は当たらないにしても、寝椅子は濡れているに違いない。そういう次第にて、二階のプールサイドには、雨の上がった昼すぎに降りた。

太陽は薄い雲の向こうにあるから、時が経つにつれてパラソルの縁から外れても、眩しさはそれほど感じない。からだが汗ばんだら小さなプールを一往復か二往復して汗を止める。そしてプールサイドバーのオネーサンに西瓜のスムージーを注文する

部屋に戻ったのは15時。シャワーを浴びてひと息を入れ、あたりを整頓してからガウンをTシャツとタイパンツに着替える。

ソイサンパンタミットから駅に続く目抜き通りを、駅とは反対の西へ歩く。セントラルプラザ、タイ人の発音では「センターン」となるショッピングモールの近くまで来ると、道の対岸に、きのうのオバサンの姿が見えた。こんなところでクルマに轢かれては先が無くなるから中央分離帯の緑地を越えることはせず、遠回りをして横断歩道を渡る。

2018年の秋に、背骨と右の肩胛骨のあいだに痛みを感じ、仕舞には鎮痛剤がなくては堪えられないほどになった。MRIによる診断から手かざしまで考えられるところはすべて回って、治してくれたのは結局のところ、今は伊豆に引っ越してしまっている、当時は宇都宮で開業をしていたカイロプラクティックのワタナベ先生だった。

その先生に「タイへ行ってもボキボキ系のマッサージは避けてくださいね」と言われて以降、僕はタイマッサージは遠ざけている。そして今日も2時間のオイルマッサージを受ける。きのう違和感のあった左の腰の一点は、オバサンの荒療治により劇的に改善をされた。

マッサージを受けるうち、屋根に雨滴の落ちるような音が聞こえ始め、それは間もなくとてもうるさくなった。「雨?」と天井を指すと「フォントン カー」と、オバサンは静かに同意を示した。

施術が終わったのは18時。雨の勢いは弱まった。とはいえいまだ余韻は残っている。オバサンは通りに出て、向かい側の車線で客待ちをしていたトゥトゥクを大声で呼んでくれた。中央分離帯の切れ目まで進んでUターンをしたそのトゥクトゥクが、僕の目の前に停まる。

駅に向かって左側の食堂街には2020年の3月にも来て、二度の夕食を摂った。夕刻の驟雨のせいか客のほとんどいないそこにひとテーブルを占め、ここ二日のあいだは不足気味の生野菜を盛大に食べる。

ホテルまでの数百メートルは徒歩で辿る、部屋に戻った時刻は18時56分。雨の涼しさにより汗はかいていないから、シャワーは浴びないままガウンを羽織る。きのうほどは酔っていない。よってコンピュータやスマートフォンをすこしばかりいじってから明かりを落とす。


朝飯 “MORNING HOUSE”のカイガタ、パン、コーヒー
晩飯 駅前の”Food Place”のヤムウンセンムートードラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2025.9.25(木) タイ日記(1日目)

僕の席62Hは右列最後尾からひとつ前の通路側。右列には三席があるも、窓際と通路側のあいだの一席は空いている。

00:38 Airbus A350-900(359)を機材とするTG661は、定刻に18分おくれて羽田空港を離陸。

「背もたれを元に戻してください」からどれほどの時間が経ったか、今度は「座ってください」との、英語による女の人の大きな声が聞こえたような気がする。しかし夜の機内で客室乗務員が大声の叱声を発するはずはない。幻聴だったのだろうか。

まったく眠れない。あるいはまったく眠れないような気がしている。目は、航空会社からただでもらえるアイマスクよりよほど優秀なそれにより光を遮断されている。それを外してディスプレーを確かめたらいまだ日本近海の上空でガッカリ、というようなことは避けたいため、とにかくアイマスクの内側で、かたくなにまぶたを閉じ続ける。

03:53 コーヒーの香りが鼻に届いて、アイマスクを取る。機内は既にして明るく、客室乗務員は、一般の乗客のそれよりも先に、特別らしい朝食を運んでいる。ディスプレーは、機が台湾と海南島のあいだを飛んでいることを示している。朝食は「照り焼きとライス」と「オムレツとベーコン」から前者を選んだ。

そのディスプレーの地図を見るうち、面白いことに気づく。ミャンマーの首都はネピドーでも、地図には以前の首都であったヤンゴンが、あたかも今でも首都であるかのように点を打たれている。その都市の名が、言語の違いにより異なっているのだ。

日本語ではヤンゴン。英語とイタリア語はYangon。中文簡体の「迎光」は、やはりヤンゴンと読むのだろう。ところがフランス語とドイツ語ではRangunと表記されている。その理由は何だろう。僕の年代では、ミャンマーはビルマ、ヤンゴンはラングーンの方が記憶に強く刻まれているような気がする。

機の最後尾にちかい通路側の席の利点のひとつは、食事を終えたら即、自分のお盆を後方のギャレーに片づけられることだ。しかしそこに客室乗務員がいると、あまり良い顔はされない。彼らはトレーは、それを運んできたワゴンに収めたいからだ。しかしまぁ、僕は自分の自由を確保したい。そしてラバトリーで歯を磨く。

04:59 機がダナンの上空に達する。ディスプレーには”Estimated Arrival Time 4:06″と出たから思わず「いいぞ」と心の中で声を上げる。”Distance to Bangkok 794Km”の案内も見える。

05:42 「スワンナプーム空港まで20分。現地の天気は曇り、気温は28℃」のアナウンスが流れる。
05:52 地上の灯りが見えてくる。
05:59 車輪の降ろされる音が聞こえる。
06:02 TG661は定刻より48分も早い、タイ時間04:02にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。

04:21 機外に出る。
04:26 サテライトターミナルからシャトルトレインが発車
04:27 その車両がメインターミナルに着。
04:29 「人っ子ひとりいない」と表現しても過言ではない入国審査場を通過。
04:44 回転台から荷物が出てくる

この日記にはこれまで数え切れないほど書いてきたことだが、日本からスワンナプーム空港に飛び、そこからチェンマイ、チェンライ、プーケット、クラビ、サムイ、ハジャイ、トラートのいずれかへ乗り換える場合には、日本で機内に預けた荷物はそのまま最終目的地まで運ばれる。タイへの入国も、小さな審査場を通るだけで済む。

しかし上記以外のところへの乗り換えでは本来の、時間によっては長蛇の列のできる入国審査場を通り、預けた荷物を受け取り、到着階の三階から出発階の四階へ上がって乗り換えるべき航空会社でチェックインの上、ふたたび荷物を預ける必要がある。乗り換え時間の短い場合には結構な綱渡りにて、乗り継ぎの便に乗り遅れる人も珍しくない。

僕は、綱渡りは嫌いな方ではないものの、勿論、乗り遅れは避けたい。だから先ほどまで乗っていた機内でバンコクへの早い到着を知ったときには「よし、いいぞ」と喜んだのだ。

なお、こちらもこの日記にはたびたび書いていることだが、旅の楽しみは、行った先のみにあるものではない。準備も楽しければ、時には困難を伴う移動も、月日が経てば忘れがたいものになる。だから僕は、移動については時間も明確にして、その経過を細かく記すのだ。

さて元に戻れば、回転台から出てきた荷物を曳いてロビーに出るなりエスカレータを探して出発階の四階に上がる。タイ航空のカウンターは、これがタイのフラッグシップだからなのか、カウンターに冠されたアルファベットのもっとも若いところ、つまりいま僕の立っている場所からすればもっとも遠いところにあった。

04:57 タイ航空のオネーサンに助けられながら、自動チェックイン機でチェックインを完了。この機械からは、搭乗券と共に荷物に付けるバーコードも出力をされる。そのバーコードは、タイ航空のオニーサンが、スーツケースの取っ手に付けてくれた

05:05 出発階の四階から地下一階にはエレベータで降りる。空港と街を結ぶ鉄道ARLの乗り場ちかくに開いていた両替所は4ヶ所。交換率はどこも同じにて、もっとも空いていたカシコン銀行のブースで10万円を21,450バーツに換える。

1982年には、邦貨1万円は約1,000バーツになった。随分と円が弱く感じられるものの、当時の物価では、楽宮旅社の宿泊料はひと晩50バーツだったから邦貨にすれば500円。安食堂の料理はひと皿10バーツ、つまり100円に満たなかった。

その後は仕事が忙しいとか他にも色々とあって、次の訪タイは1991年。このときの円とタイバーツの交換率は記録していない。ただしマンダリンオリエンタルホテルの宿泊料は、邦貨にして一泊3万円ほどだった。本格的に訪タイを再開したのは2009年8月。このときは1万円が4,000バーツを超えた。屋台の汁麺は25バーツで食べられた。それが2025年9月現在では1万円が2,145バーツ。首都の汁麺は50バーツなら安い方だ。

つまり2009年から2025年までの16年間で、タイにおける円の価値は、汁麺換算で4分の1になった。これを嘆き、日本政府を呪う人も多々いる、しかし2009年8月の日経平均株価が1万円を切っていたことに対して、きのうの終値は45,630円なのだから、損得は正に「あざなえる縄のごとし」ではないか。

と、こういうことを連ねていると、日記はいつまでも書き終えることができない。よって主題に戻る。

05:21 出発階の四階に戻る
05:24 国内線の保安検査場を通過。
05:27 B8ゲートに達する

搭乗券にある搭乗時間は6時30分。退屈を感じるほどの大余裕だ。しかし羽田からバンコクまでの飛行機が定刻の4時50分に着いていたら大慌てなのだから、この乗り換えはやはり、充分に危険ではある。

05:30 トイレの個室に入り、家から着てきたgicipiの襟の高いシャツ、それに羽田で重ねたジャージー生地のカーディガンとウインドブレーカーを脱ぎ、半袖のTシャツに着替える。タイの夜は、いまだ明けていない。

06:15 ロイヤルシルククラスおよび介助を必要とする人から搭乗が始まる。
06:35 冷蔵庫のように冷えたバスで沖まで運ばれ、飛行機のタラップを上がる
07:15 Airbus A320-200(32X/3205)を機材とするTG002は、定刻に15分おくれて離陸

機は先ず左に旋回をして南へ下る。サムットプラーカーンやチャチューンサオの、シャム湾に接する場所のほとんどは、魚や海老の養殖池と思われる

ところでこの便の、全156席のうち埋まっているのは5分の1ほど。それだけ空いているにも関わらず、右列最後部のひと席となりには、B8ゲートにいるときから怪しげな咳をし続けていた、服装や持ち物からすれば沈没組と思われるファランが座った

それはさておき、新型コロナウイルスの世界的な蔓延により国境が閉鎖される直前の2020年3月の、ウドンタニーの農地はまるで土漠のように茶色かった。しかし今朝のそれは、一面の緑に覆われている。乾季と雨季とでこれほど景色が異なるとは、大きな驚きである

08:03 TG002は定刻より8分はやくウドンタニー国際航空に着陸。ちなみに「国際」とはいえ実際には、この空港に国際便は発着していない
08:11 機外に出る。
08:17 早くも回転台に荷物が出てくる

ロビーに出ると正面に案内のカウンターがあったため、タクシーの切符はどこで買うべきか訊くと、係は何ごとか答えつつ、はす向かいを指した。よって運転手らしい人たちの群れるそのブースに近づき、オネーサンに声をかける。

張り紙の数字を見て「200バーツですか」と訊いてみる。
「お客様、どちらまで」
「サンパンタミッ」
「それなら200バーツです。ホテルはお決まりでいらっしゃいますか」
「バンブア」
「かしこまりました」

料金は1,000バーツ札で支払う。大きなお札は釣銭の潤沢そうな場所で細かくしておくことが肝要だ。オネーサンは複写式の黄色い伝票を僕に手渡しながら、ちかくにいた運転手の一人に「バンブア」と告げた。

田舎の空港は、どこもかしこもそれほど大きくはない。極めてにこやかな運転手はその小さな空港の建物を出て、自分のクルマまで僕のスーツケースを曳いていく。

08:23 タクシーが動き出す。

ウドンタニーの空港は、極限までお金を節約したいバックパッカーなら、徒歩でホテルを目指すほど街に近い。僕も200バーツは惜しいけれど、まぁ、仕方が無い。

ソイサンパンタミットといえば、知らない人はいないほど有名な通りのはずで、バンブアも悪くないホテルだ。しかし運転手は幹線道路を行きすぎてUターンをし、以降はスマートフォンに口を近づけ「ロンレーム、バンブア」と繰り返している。更にはクルマを駐めて、ちかくの人に道を訊ねることまで始めた。ウドンタニーに来て、いまだ日が浅いのだろうか

しまいには「その先、右折」、「ここで左折」と、僕が指先で案内をする。バンブアは、ソイサンパンタミットに入って100メートルほどの右側にある。運転手はそれを見過ごして更に進もうとするから、僕は右を指して「ここ、ホテル、バンブア」と、慌てて声をかける。

08:50 直線距離にすれば空港の駐車場から3.5キロメートルほどのホテルまで、実に27分もかかって到着する。運転手は最後まで愛想が良かったものの、チップとしてポケットに用意した40バーツは渡さなかった。

ホテルの清潔なロビーの一角には、それほど大きくない受付のカウンターがあった。そこにひとりだけいたオバチャンに声をかけ、agodaの予約票を見せる。ホテル側の書類の僕の名前には誤りがあったため「ペンで書き直しましょうか」と問えば「その必要はありません」とオバチャンはその紙をカウンターの内側へ戻しつつ「いまは部屋の準備ができていません。しばらくお待ちください」と笑顔を浮かべた。「チェックインは14時ですもんね」と僕は答え、スーツとパックパックの預かりを頼む。

ロビーのソファに腰かけ「しかし」と考える。チェックインが14時とすれば、これから5時間もある。そのあいだ活字を欠いたままでいることはできない。オバチャンの許可を得て奥の部屋へ入り、スーツケースから読みさしのラオイネル・バーバー著「権力者と愚か者」および2020年3月にこの街のマッサージ屋のオバチャンにもらったセブンイレブンのエコバッグを取り出す。そしてそのバッグを提げて外へ出る。

気温はバンコクとおなじ28℃くらいだろうか。先ずはホテル前のソイサンパンタミットから目抜き通りに出て左に折れる。するとタイ国鉄のウドンタニー駅はすぐ目に入る。ここから4駅を北上すれば、そこはもうラオスである。ところで来年の3月には、このウドンタニーからチェンライへバスで行くことを決めている。そのバスについて調べるため、駅前からショッピングセンター”central plaza”南にある古いバスターミナルまでの5分ほどを歩く

この街からバンコクあるいはチェンライに路線を持つバス会社「ソンバットツアー」はすぐに見つかった。メガネをかけた太ったオネーサンによれば、チェンライ行きのバスが出るのは19時すぎ。出発の場所は”Number 4″とのことだったが、よく分からない。目と鼻の先のバスステーション1に足を踏み入れ、その4番プラットフォームにある札を見ても、行き先はチェンライではない。しかしまぁ、それについては来年の3月に、改めて訊いてみることにしよう。

歩くことに疲れてホテルへ戻り、ロビーのソファで本を読むうち、先ほどのオバチャンに呼ばれる。どうやら部屋の準備ができたらしい。時刻は10時ちょうど。オバチャンには、定刻の4時間も前から部屋に入れてくれることへの感謝として50バーツのチップ。部屋までスーツケースを運んでくれたベルボーイにも50バーツのチップを手渡す。

三階の部屋は小さなバルコニーを備えて、明るく綺麗だった。ベルボーイが去ったところで早速、部屋を自分ごのみにしていく。枕は4つも要らないから、3つはクローゼットの上の天袋に収めてしまう。テレビは見ないから、そのリモートコントローラーはテーブルの端に移す。そのテーブルに持参のジュエリートレーを組み立て、文房具やビタミン剤を置く。朝スワンナプーム空港で両替したタイバーツと前回の訪タイで余らせたタイバーツを合計し、そこから今日すでにして使ったお金を引いて、齟齬の無いことを確かめる。そのようなことをしてからシャワーを浴びる。

昼がちかくなるころ外へ出る。腹は大して空いていない。先ほどその前を通り過ぎたショッピングモール”central plaza”に入って地下へ降りる。するとタイではお馴染みのたくさんのフードコートがあり、しかし書店も複数あったから「この街の民度は結構、高いんだな」と感心したりする。前回あまらせたラオカーオは、ことによると今夜のうちに枯渇する。よって奧のスーパーマーケットに入り、酒類の棚から未知のラオカーオ1本を取り出す。これまで飲んだことのない”TAWANNDANG”という銘柄のそれは、720ccほどの容量で130バーツだった。

昼食は、できることならショッピングセンター地下のフードコートではなく、街の食堂で食べたい。しかし腹はいまだ減らない。ホテルへ戻るには遠回りにはなるものの、大きな通りを向かい側に渡る。そして駅のある方向へ歩き始めると間もなく、右手のマッサージ屋から声がかかる。

タイのマッサージ師は、大抵は店の外で休みつつ道行く人に声をかける。誰にでも分かるとは思うけれど、まともなマッサージ師とそうでないマッサージ師は、すぐに見分けがつく。声をかけてきたオバサンは前者に属するもので、すこし通り過ぎてからきびすを返し、2時間のオイルマッサージを頼む。飛行機の座席に座り続けたことが原因か、何となく感覚の怪しくなってきた腰の一点を、オバサンには特によく押してもらった。

オバサンのマッサージはなかなか上手だった。マッサージ代は600バーツ。チップは200バーツ。帰りしなに明日の午後4時にまた来たい旨を告げる。タイ語の時間の呼び方は日本語や英語にくらべて複雑なものの、覚えておいて良かった。時刻はいまだ14時20分。時間に追われがちな日本での日常を考えれば、大贅沢、である。

15時より二階のプールサイドで本を読む。日が徐々に傾いても日除けのパラソルは複数あるから、寝椅子を移れば問題は無い。明日はプールサイドのバーで、愛想の良いオネーサンに飲み物を頼んでみることにしよう。

16:15 部屋に戻ってシャワーを浴びる。南の国ならではの嬉しいひとつは、寝台に敷いたバスタオルの上で、裸で涼めることだ。

17:05 セブンイレブンのエコバッグに、タイ航空の小さなペットボトルに小分けした前回のラオカーオと本を入れて外へ出る。ちなみにこのエコバッグをくれたオバサンさんのマッサージ屋は、昼に調べたものの、残念ながら代替わりをしていた。

前回2020年3月に食べて美味かったホイトード屋は、驚くべきことに、今や英語と中国語に加えて日本語とハングルによるメニュまで揃えていた。しかし前にあったバケツ入りの氷はなぜか置かなくなっていた。そういう次第にてソフトドリンク用のクラッシュドアイスとプラスティック製のコップでラオカーオのソーダ割りを飲む。今夜の「トード」の中では特に烏賊が美味かった。

ホテルに戻ったのは18時10分。シャワーを浴び、クーラーは止め、枕元に本とiPhoneを置く。以降のことは、よく覚えていない。


朝飯 TG661の機内食TG002の機内軽食
晩飯 “Je Huay Hoi Tod”の烏賊と海老とムール貝と牡蠣のトードラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)


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2025.9.24(水) 失われた夏を求めて

「失われた時を求めて」はマルセル・プルースト。僕の9月のタイ行きは「失われた夏を求めて」のものだ。

と、なにやら気取った書き出しではあるものの「失われた時を求めて」は、これを説明する短い文章に触れただけで、根気に欠ける僕は読む気にならない。それにしても、この壮大な物語の研究を趣味としたラオス最後の王サワーンワッタナーの、共産政府による再教育キャンプでの死は悲しい。

18時の終業後は今日の売上金を手早くまとめてキャッシュレジスターの数字と照合し、4階の自宅へ戻る。新宿高島屋の催し「美味コレクション・グルメフェス」に、準備日も含めれば9日間の出張をしていた長男は今日の夕刻に帰社したから、気持ちは大いに楽になった。シャワーと歯磨きに要した時間は5分。駅までは家内が送ってくれた。

18:50 けごん52号の車両が下今市を発。乗客のほとんどは海外からの旅客と思われる。
20:21 けごん52号が北千住に着。

20:26 日比谷線の車両が北千住を発。
20:42 日比谷線の車両が人形町に着。

20:45 都営浅草線の五反田方面西馬込行きが人形町を発。
20:59 その車両が泉岳寺に着。
20:59 京急本線急行羽田空港第1・第2ターミナル行きの車両が泉岳寺を発。
21:25 その車両が羽田空港第3ターミナルビルに着。

21:32 パスポートを自動チェックイン機にかざしてチェックインを完了
22:14 蛇行する行列に42分のあいだ並んで荷物あずけを完了。スーツケースの重量は9.4キログラムだった。

22:20 保安検査場を通過。
22:21 出国審査場を通過
22:25 108番ゲートちかくの”Sky Lounge South”に入る。

夕刻の空にツバメが群れ飛ぶ南の国へ行けるとは、僕にとっては盆と正月が一緒に来たようなものだから、いくら好きでも酒は飲まない。そして普段より一日はやく、きのうの日記を公開する

23:32 コンピュータを開くと時を忘れる悪癖が僕にはある。満席だったラウンジの客は、いつの間にか、ほとんどいなくなっていた。そして僕もラウンジを去る。

23:40 142番ゲートに辿り着く搭乗は既にして始まっていた。「危ない。危ない」である。
23:43 ボーディングブリッジを伝って僕もタイ航空機に搭乗し、62Hの席に着く。


朝飯 小松菜のおひたし、秋刀魚の梅煮、茄子の揚げびたし、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、トマトとキャベツと若布と揚げ湯波の味噌汁
昼飯 納豆と玉葱のつゆで食べる素麺
晩飯 “Sky Lounge South”のカレーライス、ルイボスティー


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2025.9.23(火) 秋

空気が湿気を失ったことにより、右手の親指の爪と肉のあいだが剥がれ、血の色が見えつつある。おなじ右手の薬指には、小さなアカギレができている。それらを軟膏で埋めてバンドエイドを巻くことを、今朝はデジタル機器に触る前にしなければならない。きのうの夜からそう考えていたものの、TikTokの「梅太郎」のアカウントにベトナムの食料品店が付けてくれたコメントに返信を付けるなどのことを、ついしてしまう。二本の指に処置が施されたのは、結局のところ「朝食の準備まであと10分」という際どい時間になってからだった。

日中の気温は、冷えた素麺の欲しくなるところまでは到らなかった。よって昼食はにゅうめんにした。「春過ぎて夏来にけらし」だから、かの歌は光り輝いているのであって、これが「秋来にけらし」では、まったく気勢が上がらない。僕が秋という季節から連想する言葉は「斜陽」や「凋落」に他ならない。

15時すぎに道の駅「日光街道ニコニコ本陣」へ、本日3回目の納品をする。その帰りに如来寺に寄り、本堂で塔婆をいただいてから、先ずは新しい方のお墓へ行く。白木に墨痕も鮮やかな塔婆を墓石の後ろに立てたら、三日前に供えた花を持参のプラスティック袋に入れる。次いで叔父と叔母のお墓の花も、その袋に入れる。双方の花立てを水場で洗ったことは言うまでもない。

そこから今度は古い方のお墓を訪ね、こちらは七対の花立てから花を引き抜き袋に入れる。花立ては、これまた持参の大きな洗面器で水場へ運び、洗って元に戻す。いまだお彼岸は過ぎていないものの日も傾くころであれば、花を片づけても問題はなかろうとの、勝手な判断である。

夕刻の空に飛ぶ鳥はいない。ツバメは夏の鳥ということになっているけれど、いまだ寒い頃に来て、しかし残暑を楽しむことなく南へ去ってしまうのはなぜだろう。

夜の焼酎はソーダではなく、お湯で割る。


朝飯 秋刀魚の梅煮、目玉焼き、茄子の揚げびたし、菠薐草のソテー、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、大根と若布と揚げ湯波の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 豚薄切り肉と小松菜と厚揚げ豆腐ときのこの鍋、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、麦焼酎「こいむぎやわらか」(お湯割り)「本沢屋」の団子、Old Parr(生)


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2025.9.22(月) TDAC

辛うじて3時台の起床。食堂に来て先ずは南東に面した窓のカーテンを巻き上げる。すると空に明けの明星が見えたから「晴れた」のことばが思わず漏れる。次いで南西に面した窓も開ける。半袖のシャツ1枚、足元は裸足の格好で涼しさは感じるものの、いまだ寒くはない。

夜が明け始めていることに気づいたのは4時48分。一日の中で最も好きな時間は夜と朝のあいだにて、慌てて屋上へ上がる。朝の空は、すこし目を離しただけで著しく変わる。そのもっとも妙味のあるところを愛でようとすれば、ぐずぐずとはしていられないのだ。

食堂から見おろす国道121号線には、なぜかA4ほどの紙が散乱している。よって6時を過ぎたところで外へ出て、その紙を拾い集める。このような仕事は社員に頼むべきではなく、ヒマにしている僕がすれば良いのだ。

今月8日から始められた近隣の農家からのしその実の買い入れは、きのうが最終日だった。その、きのうの数字を午前の早い時間にコンピュータに入れて、初日からの合計をする。今年の買い入れ量は、昨年のそれを165キログラム超えていた。なお、茗荷の買い入れについては、今月の30日まで続けることにしている。

日中、今年の5月1日から外国人の入国者に義務づけられた、タイデジタルアライバルカード通称”TDAC”のページに、求められている情報を入力する。カードとはいえ自分のメールアドレス宛てに送られるそれはそれとして、紙にも出力をしておく。ちなみに今年5月12日のバンコクでの入国に際しては、そのQRコードをスマートフォンに出して審査場のカウンターに置いたものの、係官は見向きもしなかった。それはそうだろう、既にしてデジタル的に登録済みであれば、そんなものを見る必要は無いのだ。

なお旅行者の中には、僕の知り合いにもいるけれど、事前の準備を欠いたまま入国をしようとしたり、許可証の必要な地域に無許可で越境を試みる者がいる。”TDAC”の登録をし忘れると、空港の微弱なwifiや国境付近の不安定な電波を頼りに人差し指をスマートフォンに滑らせることになるから要注意だ。

ところで僕の日本国旅券の期限は来年の7月22日まで。旅券の、入国に必要な残存期間は半年と、多くの国で決められている。つまり来年の1月22日を過ぎれば、現在のパスポートは事実上の効力を失う。何ヶ月も前から航空券を確保する僕としては、年末の繁忙が始まる前に、更新の必要があるだろう。


朝飯 擂り胡麻、納豆、梅干、ほぐし塩鮭、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬のお茶漬け
昼飯 納豆と擂り胡麻のつゆで食べる素麺
晩飯 「コスモス」のトマトとモッツァレラチーズのサラダコンビネーションサラダドリアハイボール、TIO PEPE


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2025.9.21(日) 日程表

2時台に目が覚めものの、幸い二度寝ができて、次は3時台に目を覚ます。起床は4時台のはじめ。きのうの降ったり止んだりを引きずった夜の雨は、既にして上がっていた。

6時を過ぎたところで家内を隠居へ送る。竹内栖鳳の「晩秋」は、3日前に高久隆古の「秋景山水之図」に換えた。夏の終わりにもかかわらず、床の軸がなぜ「晩秋」だったかについては、先月23日の日記に書いた通りだ

日中は、嫁のモモ君の作ってくれた日程表に従って、事務室と店を行ったり来たりする。本日、ご予約を戴いていた蔵見学は2件。その2件目を終えてしばらくすると、喉に痛みを感じるようになった。声の出し方には工夫が必要だろうか。しかしその仕方を僕は知らない。

今日の気温はきのうのそれとは一変して28℃まで上がった。僕にとっては嬉しい限りではあるものの、この極端な寒暖の差により、健康を損なう人は少なくないかも知れない。

今年のシルバーウイークは、土曜日を含めれば4日間。何とか乗り切って、お客様のご期待にお応えをしよう。


朝飯 焼き鮭、擂り胡麻、梅干、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬のお茶漬け
昼飯 納豆と擂り胡麻のつゆで食べる素麺
晩飯 冷や奴、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、親子丼、「山本合名」の山廃純米「天杉」(冷や)


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2025.9.20(土) 秋彼岸

寝室から洗面所を経て食堂に来たのは3時39分。仏壇のお供えやきのうの日記を書くなどを済ませて4時18分。4時26分よりきのうの朝に引き続いて旅の荷作りを始める。出発の日まで使うコンピュータやiPhoneを除くほとんどすべては、5時20分までに整った。

きのう家内が買ってきてくれた花の束ふたつを抱えて5時55分に外へ出る。傘を差そうか差すまいか迷うくらいの雨が降っている。水を弾くスモックを着て、ホンダフィットで如来寺へ行く。妹が病没した1972年に作った新しいお墓は、雨に塗れた墓石を乾いたタオルで拭く。新旧のお墓と叔父叔母のお墓の九対の花立てに水を満たして花を供え、また香を手向けて家に戻ると時刻は6時40分になっていた。花の片づけは、23日に行うこととしよう。

本日最初のお客様は、開店前からクルマの中でお待ち戴いていた女性で、那須からいらっしゃったとのことだった。わざわざのお出かけに頭が下がる。次のご家族連れのご主人は、駐車場から店にお入りになるなり「寒い」を連発された。うかがえばこちらは矢板にお住まいとのことで、いろは坂を上がった先の奥日光ならいざ知らず、平地にある今市地区でも、県東にくらべれば、気温はよほど低いのだろうか。

日中「ザ・リッツ・カールトン日光様でお使いいただいている味噌はどちらでしょう」と、販売係のカトーユキさんが事務室に来る。店に行くと、小さなお嬢さんをお連れのご夫婦が「今朝は娘がお味噌汁を2回もお代わりして」とのことでいらっしゃった。そしてお客様は当該の「梅太郎白味噌」をお買い上げくださった。大豆は日光産のサトノホホエミ、米麹は日光産のコシヒカリ、というこの味噌は「汁飯香の店 隠居うわさわ」でも用いているものだ

18時の終業後は、売上金とキャッシュレジスターの数字の照合にすこし手間取る。更には「汁飯香の店 隠居うわさわ」にいただいたご予約の席のやり繰りをするうち18時40分になる。傘を携えて町内の公民館に入ったのは19時ちょうど。そして公民館の屋根の修理についての、業者を交えての最終打ち合わせに会計係として参加をする。


朝飯 鮭の焼きほぐし、生玉子、納豆、ピーマンの肉詰め、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、キャベツと若布と揚げ湯波の味噌汁
昼飯 擂り胡麻のつゆで食べる素麺
晩飯 「ミラノスピザ」のピッツァ其の一其の二チーズ、TIO PEPE


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2025.9.19(金) 行く先は雨続き

3時台の起床。食堂に来て南東と北西に面した窓を開け、風を通す。応接間の仏壇に花と水とお茶と線香を供えてから食卓にコンピュータを開き、既にして完成しているおとといの日記を公開する。続いてきのうの日記に取りかかる。とはいえその文章は、きのうのうちに書けている。

そんなことをしつつ、次第に寒さを覚えてくる。虫の声は遠く、弱くなっている。2枚の窓を閉め、夏のあいだは邪魔にならないようテレビ台とモンステラの鉢のあいだに置いた足温器を食卓の下に引き入れ電源を入れる。

「秋になってしまったのだろうか」と、スマートフォンで天気予報を見る。日光の最高気温は、明後日の日曜日こそ28℃まで上がるものの、30℃を超える日は、今年は二度と訪れない可能性が高い。その天気予報の虫眼鏡のアイコンに触れ、次いで検索履歴の”Muang Udon Thani”という文字に触れる。表れた数字は連日の30℃超を示しているものの、空模様は「曇りときどき雨」が27日まで続いている。

タイの雨季の雨は、日本の梅雨や秋雨とは異なって、しとしとと降り続くものではない。それは、いきなり降っていきなり止む夏の驟雨にちかい。それだけが慰めといえば慰めである。

旅の持ち物はきのうの終業後にコンピュータから紙に出力をし、その上で、今回は不要というものには青いフェルトペンで横線を引いておいた。その、A4の紙5枚からなる表に従って、6時より先ずは、薬品のたぐいを揃えることを始める。


朝飯 鮭の焼きほぐし、トマトのソテーを添えた目玉焼き、刻みオクラの鰹節かけ、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、揚げ湯波とオクラの味噌汁
昼飯 納豆と玉葱のつゆで食べる素麺
晩飯 スパゲティプッタネスカChablis Billaud Simon 2018レーズンウィッチ、Old Parr(生)


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2025.9.18(木) その後のこと

今月4日の日記に書いた、メルカリにログインできなかった件については、翌日、以下から始まるメールが届いた。

……
お問い合わせありがとうございます。
ご提示いただいた情報をもとに、お客さまのアカウントを確認いたしました。
事務局にてログインができるようお手続きいたしましたので、ご希望のメールアドレスで、ログインをお試しください。
……

よって上記の文章に続く手順を踏んではみたものの、やはりログインはできなかった。仕方なく「アカウントをもうひとつ作るか」と次男に言うと、メルカリにその手は使えないとのことで、この問題は棚上げになっている。

続いて今月8日の日記に書いた、22年のあいだ履き続けている”trippen”の短靴”sheet”の修理について。こちらはきのうトリッペン原宿店からLINEを通じて画像まで添付した丁寧な説明があった。

詳細を省いて書けば、全面的な修理には、先ずは靴底を外す必要があり、すると大して減っていない靴底を新品に替える経費も発生して、修理代は税込38,720円とのことだった。しかし22年前の価格で5万円ほどの靴に4万円ちかい修理代は、良いものに修理を加えつつ長く使うことの好きな僕でも二の足を踏む。それに対して当座をしのぐだけの修理であれば税込4,840円。というわけで、修理は後者の方法を採るよう、即、返信をした。

すると今朝は、その修理に要する期間は1ヶ月半から2ヶ月との案内が届いたため、よろしく頼む旨を返した。

これから2ヶ月なら、11月もなかばを過ぎている。往きはゴム草履、帰りは修理済みの靴を履いて戻る、という手を使うには、往路の足が寒いだろうか。


朝飯 菠薐草の酢の物、納豆、生玉子、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、揚げ湯波と大根とトマトの味噌汁
昼飯 納豆と玉葱のつゆで食べる素麺
晩飯 じゃがいものグラタンベビーリーフのサラダピーマンの肉詰め、Old Parr(ソーダ割り)


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上澤卓哉

上澤梅太郎商店・上澤卓哉

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