2026.5.23(土) タイ日記(3日目)
目を覚ましたのは1時台。「よく眠った」という感覚を覚えつつ次に目を覚ましたのは2時台の終わりころ。そして3時台のはじめに起床する。きのうの就寝は多分、20時30分のころだったと思う。つまり睡眠は充分、ということだ。
洗面を済ませたら、きのうのうちに完成させておいた、バンコクでの初日つまりおとといの日記を公開する。それを改めて読み直すことにはiPhoneを使う。コンピュータで書いたものを、おなじコンピュータで読むと、なぜか誤字や脱字に気づきづらいのだ。そうして公開したばかりの日記を修正していく。部屋はビジネス向きには設計されていず、いわゆるデスクは備えていない。照明もそれなりで、キーボードの文字はほとんど見えない。
修正を終えたところで空腹に気づく。しかし部屋には湯沸かしポットが無いため、持参のコンソメスープを飲むことはできない。予約サイトのレビューによればお粗末らしい、このホテルの朝食を待つばかりだ。
7時を回ったところで二階の朝食会場に降りる。入った右手には、目玉焼きをフライパンではなく、天ぷらかフライに用いるような油の中で作っているオニーチャンがひとりいて、彼が朝食全般を仕切っているらしい。部屋の鍵を確認されるなどは、特にされない。
先ずはカップにインスタントコーヒーを溶かし、それをテーブルに運んだら、今度はトースターで食パンを焼く。生野菜のたぐいは無い。粗末といえば粗末ではあるものの、中華粥で仕上げれば、我慢はできる。それはさておき、カップ麺を持ち込んでいる客がいたことには驚いた。
さて本日は第21回バンコクMGの1日目。僕はバンコクMGには、これが始まった2016年より、世界がコロナ禍に覆われた2021年から、その余波の残る2024年までの4年間を除いては、年に1回の参加を欠かさず続けてきた。会場は、2020年まではトンローのsoi10。それが昨年からはバンコク有数のビジネス街であるアソークの、それも真ん真ん中のインターチェンジ21ビルに移された。
ホテルから会場までは、スクムヴィットsoi21、つまりアソークの大通りの日陰を選んで歩く。そこから夜は賑やかなソイカウボーイを抜け、soi23に出て、ビルには裏から入った方が間違いが少ない。今回の研修室は、吹き抜けの天井と大きなガラス窓により、照明を必要としないほどの明るい空間だった。
今回の参加者は、バンコクで働く初心者が5名に、日本からの者が6名の計11名。参加の予定だったものの日本に仕事ができてしまった人は仕方がないとして、飛行機に乗り遅れた2名については慚愧に堪えない。
参加者の各自が自分の会社を持ち、二日間をかけて、盤上に5期分の経営を展開するマネジメントゲームについては、その棋譜とでも呼ぶべきものをここに開陳しても、経験者以外の理解は得られないだろうから、大まかに記す。
その第1期はルール説明をしながらの演習。6名がひとつの市場を形成しての激しい入札の応酬を繰り広げるのは第2期から。その第2期を、経験は長いながらゲームの絶望的に下手な僕としては、損益分岐比率98パーセントで無難に通過した。しかし陥穽は第3期に待ち構えていた。第3期末の損益分岐比率324パーセントは、倒産への下り坂を一気に転がり落ちていく数字である。これほどひどい展開は、初心者だった1990年代以来のものだと思う。
しかしまぁ「それはさておき」である。第3期の決算を終えた人も終えない人も、ビルの退去時間である18時30分にて解散。以降、希望者はアソークから賑やかなスクムビット通りを東へ歩いてプロンポンに到る。そして先に書いた「参加の予定だったものの日本に仕事ができてしまった人」の経営する店での交流会に参加をする。
その店”AT ESAN”には、僕は心底、驚かされた。お店の人たちはすべて清楚で感じが良く、料理はすべて、非常に美味いのだ。来年のバンコクMGの際に機会が得られれば、ぜひオーナーに会ってみたい。
交流会の場所からホテルまでは、タイ人なら決して歩かないだろう距離を徒歩で戻る。いくら鍵を回しても開かない部屋の扉は、フロントへ降りてオジサンを呼び、そのオジサンも苦労をしながら、ようやく開いた。就寝は多分、22時のころだったと思う。
朝飯 “Best Comfort Bangkok Hotel”のトーストとコーヒー、お粥その一、お粥その二
昼飯 “NIGIRI-TATE”の弁当
晩飯 “AT ESAN”の三品盆、サイクロークイサーン、コームーヤーン、パッタイクン、ソムタムタイ、ラープムー、空心菜の天ぷら、ガイトード、他あれこれ、アイスクリーム、ビアリオ、シンハビール
2026.5.22(金) タイ日記(2日目)
目を覚ました時刻は5時48分。昨夜というか、深夜0時を過ぎての帰着からすれば、上出来の目覚めである。起きて身のまわりのことをするうち、早くも空腹を覚えてくる。
7時になりかかろうとするころを見計らって外へ出る。きのうのぶっかけメシ屋は、有り難いことに、営業を始めていた。僕の顔を覚えてくれたらしいオジサンには「茄子」と伝え、次のオカズはオジサンの勧める、オクラに甘く揚げた肉を和えたものにした。今日は目玉焼きは頼まず、料金は50バーツだった。
バンコクではよく見かける、ビルとビルの隙間に雨除けの屋根を渡しただけのこの店には、奧に汁麺屋もあり、また飲み物を売るカウンターもある。だから夜まで開いていればバットのおかずを選んでラオカーオのソーダ割りが飲みたいところではあるけれど、多分、その時間までは、営業はしないだろう。
店からの出しなに明日のことを訊いてみる。オジサンによれば、土曜日と日曜日は休みとのことだった。
部屋へ戻ったところできのうの日記の書き継ぎに取りかかる。旅の初日の日記にはいつも、苦労をさせられる。とにかく文章が長くなって、いつまでも書き終えないのだ。それでもようよう最後のひと文字に到る。総文字数は6,312になった。そうしてしばし、窓の外の驟雨に見入る。
そのいきなりの雨は、小一時間ほどで上がった。そこで七階の部屋から九階のプールサイドへ上がり、寝椅子の角度を調整して、川本三郎著「荷風の昭和」の後篇を開く。
プールサイドで本を読んでいた時間は1時間と少々。14時45分に掃除のため部屋へ来たのはオニーチャンの二人組。「タイ人ですか」と訊くと、どうもそうではないらしい。Phoneの翻訳アプリケーションに「ベッドはバスルームに近い方だけ整えてくれればOKです。バスルームにタオルが無いときは、私がプールサイドで使用中ですので、補充をお願いします」と日本語で書き入れ、そのタイ文字を見せると、オニーチャンは廊下に出て、メイドのオバサンを呼んだ。オバサンは僕のiPhoneのタイ語を声に出して読み、ニッコリと笑みを浮かべた。オニーチャンには枕銭の40バーツを手渡していたものの、オバサンにも40バーツを進呈する。こういう小さな行いが、後に効いてくるのだ。
彼らが去って後にふと気づくと、バスルームにはこのホテルでは用意されないはずの普通サイズのタオルが置かれ、冷蔵庫のミネラルウィーターは、2本から3本に増えていた。
そうするうち、今回のバンコクMGの前夜祭の知らせが、インストラクターのタナカタカシさんよりメッセンジャーを通じて入る。時間は18時。場所はきのうの日記に書いた、昨年も使ったことのある、現在のホテルからなら徒歩で数分のムーカタ屋だった。
以降の時間は、有料のメールマガジンを読み始めて、しかしどうしても寝落ちをしてしまう。よって椅子を離れてベッドへ仰向きになり、小一時間ほどを休むことに充てる。
ホテルの前の道は、夕刻の渋滞により、オートバイはおろか人が歩くことさえままならなかった。そしうて約束の18時より10分ほど早く扉を押したムーカタ屋には、既にしてタナカタカシさんと、参加者のスミタヨシタカさんが席に着いていた。やがてそこにフクモトカツマサさん、シラチャからバンコクへ向かいながら渋滞に巻き込まれていたトモダヨシヒロさんが到着して、すべての人が揃う。
歓談の内容は、西研究所の旗の下でマネジメントゲームを学ぶ者たちによるものだから、真面目なことに終始した。そして20時に散会。飲食代は「バンコクMGの参加費用に含まれている」とのことでタナカさんが支払ってくれたものの、それは方便で、多分、タナカさんの奢りなのだろう。
部屋に戻って今日の金銭出納帳を見直してみる。本日もっとも大きな出費は、部屋掃除のオニーチャンとオバサンに渡したチップの計80バーツだった。僕の旅行中にはよくあること、である。
朝飯 「クワイジャップアソーク」のカオゲーン
晩飯 “LIB STORY Thai BBQ & Local Food”のムーガタ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2026.5.21(木) タイ日記(1日目)
右列最後尾の三席並びには、窓際に白人の男性、そして通路側に僕。真ん中は空いている。羽田からバンコクへ飛ぶ深夜便は、タイ航空のドル箱のはずである。それがこの空き加減とは、やはり、航空運賃の値上がりが響いているのだろうか。
00:04 ブルバックが始まる。イヤホンをして雑音を遠ざけ、マスクをする。しかしアイマスクはいまだしない。
03:05 目を覚ましてはじめて、離陸をする前より眠っていたことに気づく。ちょうど3時間の睡眠。爽快感は無いものの、寝不足による心地の悪さもない。恐るべき、オフクロの遺したデパスとハルシオンの威力。機はいまだ、台湾の東を南下中だった。
03:45 機内が明るくなって、先ずは特別な機内食から先に、客室乗務員が配りはじめる。
「チキンとオムレツと、どちらがよろしいですか」と訊かれてどちらでも構わなかったものの、チキンを頼む。それは昨年のいつだったかも食べた、鶏の照り焼き餡かけ丼、といった風情のものだった。別途、眠っているあいだにテーブルに置かれたらしい、ポテトサラダとクリームを具にした丸パンも平らげる。
04:35 客室乗務員は好まないことかも知れないけれど、自分のお膳は自分で後方のギャレーに片づけ、ラバトリーで歯を磨く。何年か前の、2週間は使い続けられそうな大きなチューブは使い捨ての普通サイズになり、紙コップも供給されなくなっている。まぁ、経費節減、ということなのだろう。
04:50 ダナンの海岸線を横切る。タイ航空機がこの位置に達すると、いつもなぜか「ここまで来ればしめたもの」という嬉しさを感じる。
05:25 「バンコクまで25分」のアナウンスが流れる。
05:43 地上の灯りが見えはじめる。
05:50 車輪の降ろされる音が聞こえる。
05:53 Airbus A350-900(359)を機材とするTG661は、定刻より57分も早いタイ時間03:53にスワンナプーム空港に着陸。以降の時間表記はタイ時間とする。
04:10 機外に出る。
04:18 サテライトターミナルをシャトルトレインが発車。
04:20 シャトルトレインがメインターミナルに着。
04:26 入国審査場を通過。
04:42 回転台から早くもスーツケースが出てくる。その取っ手には”Priority”の札が取り付けられている。マイレージのステータスが、幾分か上がったのだろうか。
04:50 到着階の二階からエアポートレイルリンクの出る地下一階に降りる。あたりのベンチは寝ている人だらけで、座れる場所を得ることに苦労をする。
04:58 「始発は何時ですか」と、”Safety Officer”と書かれたカウンターに座っていたオニーチャンに訊いてみる。オニーチャンはすこし考えて「10ミニッツ」と答えた。考える必要などあるのだろうか。現在の時刻は4時58分であるところから「つまりそれは、5時10分ということですか」と、確かめてみる。オニーチャンは「イエス」と、なかなか愛嬌のある笑顔を僕に向けた。
このようはときのタイ人の答えを僕は信用しない。信用しないにもかかわらずなぜ訊くかといえば「それでも知りたいのが人情ではないですか」と言う以外にはない。
ところがそのようなやりとりをするうちどちらからともなく人が集まってきて、切符売り場へ向かう下りの坂は混雑をし始めた。オニーチャンの言ったことは、本当だったのだ。ちなみにその奧の両替所”SUPER RICH”の今朝の交換率は、10,000円が2,040バーツだった。
05:14 エアポートレイルリンクの車両がスワンナプーム空港を発車。窓外の景色はいまだ、夜、そのものである。
05:36 その車両がマッカサンに着。MRTのペッブリー駅へ向かうスカイウォークの上から、アソークの大通りを眺める。
05:49 MRTの車両がペップリーを発。
05:51 その車両が次の駅スクムヴィットに着。
今回のホテルは予約をしてから分かったことだが、昨年5月のバンコクMGの際に、皆で食事をした料理屋とおなじ道に面していた。よってGoogleマップなど見ないままアソークの大通りを北上し、間もなく辿り着くことができた。フロントには夜のシフトなのか、年配のオジサンがいた。カウンターの内側に枕があるのは、ここに額をあずけて仮眠をしていたのだろう。
レセプションにあるチェクインの時間は15時。だから空いている部屋があれば、1,000バーツくらい払っても構わないから、早く入れてもらいたい気持ちがあった。しかしオジサンは料金のことも時間のことも言わず、僕のチェックインを受け入れてくれた。
しかしてまた、予約時には「高層階の眺めの良い部屋」と頼んでおいたにもかかわらず、オジサンが手渡してくれたのは四階の鍵だった。「まぁ、しょうがねぇ」とエレベータで四階へ上がり、当該の部屋の穴に鍵を差し入れ回すとドアは開かない。
「そうであれば」とロビーに降りて「高層階を希望したんですけど」と言ってみる。オジサンは「上の方の階はみな、小さなベッドがふたつの部屋なんです」と、すこし困惑した顔をする。確かに僕は、高層階と共に大きなベッドも頼んであった。しかし双方を天秤にかければ、やはり高層階を撰びたい。オジサンは四階の鍵を受け取って、代わりに七階の部屋の鍵をくれた。「四階と七階じゃぁ、大した違いでもねぇじゃねぇか」と言われれば、ビルの林立する中心部の安ホテルでは、数階の差が馬鹿にならないのだ。
ちなみに僕の、南の国の都市におけるホテル選びの優先順位は以下の通り。
1,日除けと寝椅子を備えたスイミングプールがあること。
2.高架鉄道BTSまたは地下鉄MRTの駅にちかいこと。
3.高価でないこと。
高価なホテルは居心地が良くても、料金を考えれば良いのは当たり前で、有り難さはあまり感じない。一方、安いホテルは不便を強いられることもあるものの、気楽さも捨てがたいのだ。
さてその1704号室に入ってみれば、セーフティボックスは壊れている、クーラーのスイッチはONの位置を変えられないよう、その上から絆創膏が貼ってあるというポンコツさではあるけど、それをどうにかするのが元バックパッカー、というものである。「教育は不便なるが良し」と喝破したのは羽仁吉一。僕なら「旅は不便なるが良し」と主張したい。
部屋の椅子と机の関係は、コンピュータを使うには椅子が低すぎるから、椅子の上には枕をひとつ置く。部屋の各所にあれこれの持ち物を配置し終えたらコンピュータを開き、きのうの日記を完成させる。そのまま今日の日記も書き始めようとしたところで空腹を覚える。
七階のエレベータの前に立って、下へ向かうボタンを押す。白人の中年男性が、やはりエレベータに乗ろうとしてやって来る。九階から降りてきたエレベータの面積の半分は、掃除のオニーチャンと、シーツやタオルを入れた、ふたつの箱が占めていた。オニーチャンの次の目的階である四階でドアが開くと、白人の中年男は何と、その箱を廊下へ出す手伝いをした。
ドアが閉まると同時に「親切だね」と声をかける。白人は右手の親指をグッと突き上げ笑顔を浮かべながら、二階で降りていった。
ホテルから通りへ出て歩きはじめたところで「あー、気持ちいいなー」と思わず声が出る。僕は、薄着で南の国にいることが、心の底から好きらしい。そのまま行くと、間もなくココナツミルクの香りの満ちる一角に出くわした。最高、である。
アソークの大通りは、スクムヴィット通りとの大きな交差点のちかくこそ騒音と混雑が絶えないものの、数百メートルほども北上すると、ぐっとくだけた雰囲気になる。そのちかくにカオゲーン、つまりぶっかけメシ屋のあることは、今朝、地下鉄の駅からホテルへ歩くまでのあいだに気がついていた。
そのメシ屋の前に立つなり「ぶっかけメシね」とあるじに告げる。主は「ここで」と問う。僕は「うん」と頷く。するとあるじはやおら、プラスティックの皿にメシを盛り始めた。僕は先ずキャベツ炒めを「これ」と言って指す。次は「それと、目玉焼き」と言葉で伝える。最後に鳥の挽き肉いためを指すと「オー、ガパオ」と発しつつ、あるじはそれをうずたかく盛った。価格は60バーツ。そのぶっかけメシは中々に美味く、雰囲気も悪くない。明日の朝食も、ここで摂ることにしよう。
タイでは何かをするたび汗まみれになる。朝食から戻った部屋のシャワーからは、温水は供給されなかった。タオルは大きなバスタオルしか用意されないことを予約サイトのレビューで知っていたから、僕は自前のタオルを持参していた。これは手や顔の水を拭うためのもので、シャワー上がりにはバスタオルを使った。
「こんな安ホテルには、ガウンはあるまい」と、これまだ持参した浴衣を羽織る。そして今日の日記のここまでを書く。時刻はいまだ10時7分。時間はジャブジャブと、使い放題である。
ところで僕には原理原則を重んじるところがあり、タイの料理にはタイの酒を合わせたい。贔屓のラオカーオは”BANGYIKHAN”。これは僕の知る限り、バンコクではゲートウェイエカマイのマックスバリューとピンクラオのパタデパートで手に入れることができる。近いのはゲートウェイエカマイ。そういう次第にて外へ出ることにして、高架鉄道BTSのカードを持参し忘れたことに気づく。
アソークの駅で、そのラビットカードを作ってもらう。カード代は100バーツ。前払い金は500バーツとした。そして東に3駅を移動してエカマイで降り、駅直結のゲートウェイエカマイに入る。
エスカレータを降りてマックスバリューに入り、お酒の棚を見ていくと、しかしそのラオカーオの並んでいるところに”BANGYIKHAN”は無い。よってオネーサンではなく、すこしは商品に詳しそうな、品出し中のオジサンに声をかけ、バンギカーンはあるかと訊く。オジサンは「ここにあるだけですね」と、頼りにならなかった。
いくら”BANGYIKHAN”が好きとはいえ、長駆、ピンクラオまでは行く気はしない。しかしアソークから3駅を移動した労力も無駄にしたくないため、棚から棚へと歩きまわって社員への土産を探す。僕のスーツケースは機内持込サイズで、大きなものは入れられない。タイらしく、しかし嵩張らないものを見つけるのは難しい。ようよう撰んで社員の数だけそれをカゴへ入れ、キャッシュレジスターの長い列に並ぶ。
そうして何気なく右に視線を遣ると、何と、遠いところに”BANGYIKHAN”がまとまって見えるではないか。何が「ここにあるだけですね」だ。しかしまぁ、タイでは珍しいことではない。社員への土産のお金を精算したら、その右の遠いところの棚へ近づき、”BANGYIKHAN”の3本をカゴに入れて、ふたたび長い列に並ぶ。
今度のキャッシュレジスターにはオネーサンではなく、オジサンがいた。「ラオカーオは、このバンギカーンが一番」と1,000バーツ札を手渡しつつ声をかける。オジサンは「ング、ング、ング」と、嬉しそうに笑った。
果たしてこうして、あろうことか買い物の好きでない僕が、タイですべきすべての買い物を、初日の、それも午前のうちに済ませることができた。怪我の功名と言わないわけにはいかない。
ホテルへ戻り、ロビーからエレベータへ向いながら、宿泊客なのだろうか、僕の後に鍵を受け取ったオジサンが「綺麗」と、フロントのオネーサンを褒める声が聞こえた。今の日本であれば微妙な発言ではあるけれど、ここはタイである。オネーサンの、素直に礼を述べる声も聞こえた。そのオジサンが、僕に続いてエレベータに乗る。ドアの閉まったところで「マジ、めちゃくちゃ綺麗ですよね」と真顔で話しかける。オジサンは破顔、次いで爆笑。そして「コップンカッ」と言って、二階で降りていった。
ここまで用事を済ませれば、僕が南の国でもっとも楽しみにしている、プールサイドでの本読みに時間を割くことができる。安ホテルの、ひとけの無いプールサイドの、すがれた雰囲気は嫌いではない。今日は僕としては珍しく、寝椅子に本を開く前に、ひと泳ぎをした。
さて夜は、バンコク在住の同級生コモトリケー君と、食事を共にすることになっている。待ち合わせは、サラデーン駅ちかくのビルの一階に18時。よって15時よりマッサージを受けることとして、馴染みのオバサンにLINEで予約を入れる。
プロンポンのマッサージ屋で受けた施術は、足の角質削りとタイマッサージの2時間のコース。料金は600バーツ。オバサンへのチップは200バーツ。オバサンには「手にも足にもワセリンを塗れ」と言われたものの、僕は手や足を油まみれにしたくないため、それはできない相談である。
サラデーンには約束の30分も前に着いてしまたっため、商業ビルの中のスーパーマーケットを見まわり、またその一階のベンチで休む。
コモトリ君が夕食の場所として予約をしておいてくれた店は、何と行きつけのスナックだった。嬉しかったのは、常連のミャンマー人が持ち込んだ、ミャンマーの漬物によるサラダを食べられたことだ。二次会はおなじくコモトリ君の行きつけの店。コモトリ君は「アソークに帰るなら地下鉄の方が乗り換えなしで便利だろう」と、MRTのカードを貸してくれた。
それからどれほどの時間が経ったかは分からない。気がつくと、僕は見も知らない、大きく、ガランとした、ひとけの無い駅にいた。係に案内されるまま改札口を抜ける。そして駅員というよりは事務員といった服装の男の人に、終電は既にして出てしまったことを知らされる。一体全体、ここはどこなのだろうかと、頭上の駅名”Tha Phra”を画像に残す。
外へ出てiPhoneを取りだし、Googleマップを開く。チャオプラヤ川の西、それもかなりのところまで来ている。東京でたとえれば、日比谷線で六本木から銀座へ行こうとしながら、竹ノ塚まで乗り過ごした感じである。頼みの綱はタクシーだが、駅の下の、大きく複雑な交差点の、どこでそれを捉まえれば良いかさえ分からない。
ごくたまにしか通りかからないタクシーを停めて「アソークまで」と告げて断られること2回。3台目の、すれ違うクルマのヘッドランプにより白髪の無精髭が目立つ運転手は、とりあえず僕を後席に入れてくれた。僕は息せき切って「アソークまで行きたい。ナナの近く。プロンポンの近く」と、たたみかける。
タクシーがタクシン橋を西から東へと渡り始めたときには、心底、安心をした。手持ちの現金は僅々500バーツ。しかし何とか間に合うだろう。タクシーはやがて、スクムヴィット通りを北へ越える。僕はiPhoneにGoogleマップを開いて「真っ直ぐ」と運転手にに告げる。そしてホテルに続く道が近づいたところで「そこを左折」と注文を入れる。
タクシーがホテルの前に停まったときのメーターは143バーツ。タイのタクシーの安さには大感謝、である。運転手には100バーツ札2枚を手渡し「お釣りは要りません」と言葉を添えた。
部屋に戻って歯を磨いたことは覚えている。それ以外については、忘却の彼方、である。
朝飯 TG661の機内食、その前に配られたパン
朝飯 「クワイジャップアソーク」のカオゲーン
晩飯 “One Way”の焼き茄子、ヤムウンセン、ヤムカイダーオ、ミャンマーの茶葉の漬物のサラダ、ラオカーオ”BANGYIKHAN”(ソーダ割り)
2026.5.20(水) 深夜便
上澤梅太郎商店は月に一度の店休日をいただいている。店は休んでいるものの、社員は休まない。それどころがシフト制による日常とは異なって、ほぼ全員が出社をする。そして全体の会議、部門ごとの会議、また普段はできないことをする。今日は通常の業務と平行して、各部署で大掃除が行われた。しかし僕は、それらにはときおり加わったのみにて、それ以外のときには銀行へ行ったり、あるいはお客様への文章を作ったりした。
15時を過ぎたところで四階へ上がり、シャワーを浴びて歯を磨く。ここで仕事着から、明日の昼まで着続けることになる普段着に着替えをする。16時から17時45分までは、本日ふたつ目の会議。時間の余裕は綽々、というところだ。
さて、羽田空港へ向かおうとしていた昨年5月11日の終業後、会社から下今市駅までのタクシーを頼んだところ、その時間なら自分が送れると、家内に言われた。以降、旅の初日には、家内の運転するホンダフィットの世話になっている。
18:49 けごん52号が下今市を発。
いまだ書評を読んでいなかった今月16日の日本経済新聞を開くうち眠くなり、目を覚ますと春日部の近いことをアナウンスが伝えていた。つまり1時間ほどは眠れたことになる。
20:21 けごん52号が北千住に着。
普段は一路、空港を目指すところ、今日は駅の構内で夕食を済ませる。
20:40 日比谷線の車両が北千住を発。
20:58 日比谷線の車両が人形町に着。
21:03 都営浅草線の羽田空港行き急行が人形町を発。
21:44 その車両が泉岳寺を経由して羽田空港第3ターミナルビルに着。
21:52 自動チェックイン機でチェックインを完了。
21:54 いつもは1時間ちかく並ばせられるカウンターに、今夜は旅客の姿がほとんど見えない。待ち時間ゼロにて荷物預けを完了。スーツケースはいつもより重い11.6キログラム。味噌と漬物によるものだろう。
22:00 保安検査場を通過。
22:01 出国審査場を通過
22:07 105番ゲートに達する。
今夜の羽田空港が、驚くほど空いている理由は何だろう。105番ゲートちかくのベンチできのうの日記を完成させて「公開」ボタンをクリックする。
トイレの個室で、腰に使い捨てカイロを貼る。半袖のポロシャツに長袖のセーターを重ね、更に羽織ったウインドブレーカーのジップを首元まで上げる。そのトイレから出ると、いつの間にか搭乗が始まっていた。
23:34 搭乗。
23:43 右列最後尾通路側の63Hの席に着く。
23:46 薬を服用するための水をくれるよう頼んだ客室乗務員のオニーサンが、席までペットボトルの水を届けてくれる。ただしこのペットボトルは食事と共に運ばれるそれよりは容量が小さく、レッテルもない。僕のような「イレギュラーなヤツ」のためのものなのだろうか。
朝飯 茄子とズッキーニのソテー、菠薐草のソテーを添えたスペイン風目玉焼き、めかぶの酢の物、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、豆腐と玉葱の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 「ドトール」のチーズインミラノサンド、コーヒー
2026.5.19(火) 幾何級数的に
花と水とお茶と線香を仏壇に供え、「汁飯香の店 隠居うわさわ」へのインターネットを経由したご予約を承り、きのうのうちに書けていたおとといの日記を公開し、更にはきのうの日記を書き終えても時刻はいまだ4時38分。まったくもって、早起きは素晴らしい。そしてきのうの日記に書いたように、きのう集めた旅のあれこれをスーツケースに詰めていく。
その作業の最後のところで、バンコク在住の同級生コモトリケー君に頼まれた味噌のための空間が確保できなくなる。よって気の引けることながら、KEENのサンダルと川本三郎著「荷風の昭和」の後篇を重ねてスーツケースの、持ち運びの際には地面側になるところに押し込む。
567ページから成る「荷風の昭和」の上篇およびその後篇の342ページまでは、今年の3月2日から13日までの訪タイ中に読んだ。明後日からのバンコクで「荷風の昭和」の後篇を読み終えて後に活字が枯渇しては焦燥する。そのための予備としては、何か文庫本を持つことにしよう。
午前は特に、ちょうど一週間前に花と線香を供えたお墓を掃除する。午後は下今市12:35発の上り特急に乗り、2時間後に新御茶ノ水に到る。
聖橋を渡るときには、その下流側、つまり秋葉原を望む側を往くことが肝要である。そうすれば文京区側のたもとからすぐに、湯島聖堂への階段を降りることができる。
湯島聖堂の敷地内にある斯文会館での、後藤淳一先生による「漢詩のイロハ」の第二回目も、大変に興味深い内容で、自分の知識が幾何級数的に伸びていく感覚を覚える。そして90分間の講義は、それほど長く感じないうちに完了した。
根岸の皮膚科には17時30分の予約を入れておいた。昨年末に処方された塗り薬が枯渇していたためだ。今日の待合室に患者は少なく、診察は17時37分に完了した。そして目と鼻の先の薬局で、処方箋にある3種の薬を買う。
その薬屋からきびすを返し、東京スカイツリーを真正面に望みつつ歩き続けると、上手いことに、左手に地下鉄日比谷線の入谷駅への階段が現れた。北千住は、ここから数分の距離にある。その北千住ではカウンター活動に従い、19時33分発の下り特急に乗って、21時過ぎに帰宅を果たす。
朝飯 生のトマト、目玉焼き、山芋のすりおろし、牛蒡と人参のきんぴら、たらこ、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、若布とズッキーニの味噌汁
昼飯 「セブンイレブン」の2種のおむすび、ルイボスティー
晩飯 「加賀屋北千住店」のあれや、これや、それや、他あれこれ、チューハイ、それを濃くするための「ナカ」
2026.5.18(月) 旅の準備
きのうの日記に書いた旅の持ち物、およびこちらについては書かなかったが旅をするたびに発生した反省すべきことの箇条書きは、きのうのうちにコンピュータから紙に出力をしておいた。そのうちの、持ち物の一覧に従って、今早朝は先ず、薬品類を整えていく。
バックパッカーをしていたころより、薬は、旅の持ち物のうちのかなりの容積を占めてきた。海外の特に田舎でからだに変調をきたせば、先ずは薬が頼りだ。今般は首都のみの滞在になるけれど、それでも薬はおなじ種類、おなじ量を持つ。そうして持参した薬を使うことは、ほとんど無い。薬はいわば、保険である。
一覧表にある薬が揃えば、次は服の準備にかかる。今回の訪タイでは、二日間の研修には参加をするものの、改まった会食は予定されていない。よって襟の付いたシャツは持たない。日程の関係からクリーニング屋へは頻繁に行けず、よって衣類は普段より一日分だけ余計に持つ必要がある。そしてそれらをふたつの圧縮袋に収める。
その勢いを駆って、文房具や、サングラスには見えないサングラスや、前回に余らせたタイバーツなどを、あちらこちらの引き出しから集める。
入国時に必要なタイデジタルアライバルカードは、コンピュータを事務室に降ろして申請し、それを自分のメールアドレスへ送り、別途、紙にも出力をする。そうしてほとんどの準備は、朝のうちに済んでしまった。
9時を過ぎたところで法務局と市役所を回って会社と個人の印鑑証明書を取る。それらを午後一番に、きのうの日記にも書いた初見の司法書士に手渡す。
明日の朝は、今朝あつめたあれこれを、スーツケースに収めてみよう。スーツケースは”RIMOWA Essential Lite Cabin U”、バックパックは”WEXLEY STEM ULTRA-LIGHT DAYPACK”。どちらも一部の機能を犠牲にしながら軽さを追求した、僕ごのみの道具である。
朝飯 揚げ玉、納豆、たらこ、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」のお茶漬け
昼飯 にゅうめん
晩飯 「コスモス」のトマトとモッツァレラチーズのサラダ、コンビネーションサラダ、カツレツ、カラフの白ワイン、家に帰ってからのチーズ、Old Parr(生)
2026.5.17(日) 600文字くらいがちょうど良い。
鳥の第一声が聞こえたのは3時43分。彼らは、否、彼か彼女か、あるいはその双方かどうかはつまびらかではないけれど、朝の明け始める時を知っているのだ。
それはさておき今日は日曜日により、お客様は多くなるだろう。夏のご挨拶がお得意様に届けられたことにより、事務室では地方発送の承りが増えている。僕は明日は、売れた土地の件につき司法書士の訪問を受け、明後日は漢詩の教室で湯島へ行く。その翌日は店休日で社内は大掃除。そしてその夜は羽田空港と、中々に忙しい。
その、タイ行きの荷作りのことが、頭に引っかかっている。持ち物はコンピュータにデータベース化されていて、現在の総数は159。それらは今日にも紙に出力をする必要があるだろう。今朝は、毎日のサプリメントのみを、8日分が入るピルケースに整えた。残る158の品々は、月火水の未明から早朝の時間を用いて揃えるつもりである。
と、今日の日記のここまでを書いて、時刻はいまだ5時30分。よって事務室へ降りて「汁飯香の店 隠居うわさわ」の昨週のお客様の感想カードを持ち、四階の食堂へ戻ってその内容をコンピュータに入力する。更には「今朝は運ぶものが多い」と家内に乞われて、ふたつのトートバッグを母屋から隠居まで運ぶ。
「汁飯香の店 隠居うわさわ」では、土鍋によるごはん炊きと味噌汁づくりの教室も、早朝に催している。今朝はそのご要望があったらしく、白衣と帽子を身につけた長男は、準備に余念がなかった。
さて、それ以降も、あれやこれやはしたものの、既にして633文字も連ねてしまったことにより、今日の日記はここで終わる。
朝飯 マカロニサラダ、生玉子、納豆、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、筍と玉葱と若布の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 めかぶの酢の物、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、刻みキャベツとブロッコリーのソテーと生のトマトを添えた豚の生姜焼き、「山本酒造店」の「白瀧上撰純米」(燗)
2026.5.16(土) 珍しい半日
きのうの閉店後から今未明までに「ぐるなび」を介していただいた「汁飯香の店 隠居うわさわへの」へのご予約は、通常は僕が承って家内に知らせ、また事務室の予約表に記入をする。今朝は出社する社員のために事務室のシャッターを上げるなり、紙に出力しておいた複数のご予約を、隠居の厨房に届けた。
道向こうの駐車場には、成田ナンバーの、このところよく見かけるようになったレンタルのキャンピングカーが、早くから駐められていた。用事があってそのちかくまで歩いた長男は、隠居に朝一番の予約をお入れになった旨を、そのお客様に知らされ、「その証拠」と、お客様がご自身のスマートフォンで見せてくださったそのご予約には、しかし一週間後の日付けがあったという。誤って「来週の今日」にご予約をされてしまうお客様は、そう多くはないものの、しかし皆無でも無い。
9時に開く道の駅で弁当が買えることをお教えすると、お客様は「弁当は食べ飽きた。そろそろ日本のリアルな朝食が食べたい」とのことでいらっしゃったという。しかし本日の隠居は、既にして満席をいただいている。お客様はそれでも道向こうから店側の駐車場にレンタカーをお移しになり、味噌と漬物をお買い上げくださった。とても有り難い。
10時を過ぎたところで長男の小さなホンダ車に乗り、宇都宮を目指す。今日は取引先の青源味噌さんで「青源まつり」が開かれるのだ。街の真ん中にある青源さんの新しい店舗は、味噌を使った餃子やラーメンや丼物の屋台に、たくさんの人たちが集まっていた。空は晴れて、絶好のおまつり日和である。
しかし今日の販売係の昼食時間を考えれば、そうゆっくりもしていられない。会社の、修理に出していたiPadを修理屋へ受け取りに行く長男にはJR宇都宮駅まで送ってもらう。そして駅ビルの二階にある、青源さんが運営する物産店「宮源」さんの様子をうかがいながら、12:15発の日光行きに乗り、12:50にJR今市駅へ戻る。
僕は、日常の業務においては、ほとんど日光市から出ることはない。だから今日は、珍しい半日だった。15時には道の駅「日光街道ニコニコ本陣」へ出向いて、明朝に納めるべき商品と、その数を決める。
朝飯 カレーライス、生玉子、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」
昼飯 「丸亀製麺」の梅とろろ豚しゃぶぶっかけうどん、しそわかめおむすび
晩飯 たたき胡瓜、トマトとキウイのサラダ、時菜蠣油、玉子焼き、蒸し鶏、ソイの清蒸、生姜の炊き込みごはん、「紅星」の「二頭鍋酒」(生)、八朔の杏仁豆腐、Old Parr(生)
2026.5.15(金) からだの手入れ
今朝の時間管理は綱渡りだった。8時の朝礼を済ませたら、開店の準備を整えてから自室へ上がって着替え、現金の入ったトートバッグを提げて外へ出る。銀行では本日の口あけの客として、種銭を5,000円札と1,000円札に両替してもらう手続きを取る。会社に戻れば即、普段履きを革靴に履き替えて、自転車で下今市の駅へ向かう。09:34発の上り特急には、無事に間に合った。
おとといの午後は行きつけの床屋が混み合っていて、僕の都合のつく時間には空きが無かった。よって今日の12時に、あらためて予約を入れた経緯があった。散髪を終えたら新橋の雑居ビルを出て大井町へと向かう。
治療を受ければ、その瞬間から、一体全体、それまで具合の悪かった歯がどこにあったか分からなくなるほど、ソーマ歯科室の技術は高い。しかしソーマ先生によれば、僕の噛む力は1,470ニュートンと、常人の倍ほど、あるいは大型犬ほども強く、それが歯に負担を与え続けているのだという。
赤坂の、ある割烹のあるじへの聞き書きを読んだことがある。その経営者兼料理人はあるとき、自分が柔らかいものばかりを食べるようになっていることに気づき、60歳であっさりと引退をした。しかし僕は70歳を目の前にしながら、いまだ食感の強いものを、必要以上に強く噛んでいるらしい。「それが良くない」と言われても、長年の嗜好やクセは、そう簡単に矯正できるものではない。
僕が優れた歯科医院に通い続けるのは、好きなものをできるだけ長く食べていたいからだ。2018年に白内障の手術を受けたのは、南の国の眩しい原色を、いつまでも眺めていたいからだ。伊豆のカイロプラクティックでの辛い治療に耐えるのは、できるだけ長く自分の足で旅をしたいからだ。つまり僕の身体の手入れはすべて、長く遊ぶためにのみにある、といっても過言ではない。
大井町の歯科医院から、断腸亭なら「晡下」と書く頃は新橋へ戻って路地を歩き、マッチ箱のように小さなビルの中でカウンター活動に従う。
地下鉄銀座線の浅草行きが上野、次いで稲荷町に停まったことは覚えていた。次に気がつくと、車両はふたたび上野に停まっていた。稲荷町を出たところで寝入り、車両は浅草で折り返して渋谷行きになっていたのだ。よって席を立ってプラットフォームに降り、階段を昇り降り、ではなく降りて昇って反対側のプラットフォームで浅草行きを待つ。
既にして特急券を確保済みだった浅草19:59発の下り特急には、無事に間に合った。そして22時前に帰宅を果たす。
朝飯 生のトマト、ウインナーソーセージと茄子とブロッコリーのソテーを添えた目玉焼き、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、筍と若布と三つ葉の味噌汁
昼飯 「ゴーゴーカレー」のカレーライス
晩飯 「小料理すみや」の其の一、其の二、其の三、其の四、其の五、2種の日本酒(冷や)
2026.5.14(木) できるだけ長く
きのうの酒は残っていなかった。起きて食堂に来ると、食器棚の電波時計は2時52分を指していた。東の中天には、旧暦3月28日の月が浮かんでいる。太陽とは異なって、月の居場所は日によって気ままに思われるけれど、どうだろう。
今月4日の日記に書いた、爪と肉のあいだがアカギレにより剥がれかけていた右の人差し指にはバンドエイドのキズパワーパッドを巻き、それが外れて後も、爪を切ることはしていない。自分ごのみに短く切れば、爪と肉のあいだにふたたび赤い肉が見えてくるからだ。アカギレは、南の国へ行きさえすれば起きない。よって伸びたままの爪は、バンコクに着いてから切ることにしよう。
ところで、おじいちゃんの墓参りをした一昨日の日記を書きながら「さて、おばあちゃんの祥月命日は6月の何日だっただろうか」と、位牌の裏側を確かめた。ついでにおじいちゃんの位牌の没した年齢を見ると七十四歳とあった。
僕は、おじいちゃんが亡くなった年齢は72歳と覚えていた。それは、位牌の裏に「享年七十四歳」と記されていたことによる。享年は通常、数え年によるものだろう。しかしおばあちゃんのそれは百二歳と、満年齢の金文字がある。ということは、おじいちゃんの七十四歳も、満の年齢だった可能性が高い。
そういう次第にて食堂へ戻り「明治 申年」と検索エンジンに入れてみる。するとその年の西暦は1908年と出た。おじいちゃんが亡くなった1982年から1908年を減ずれば74。「そうだったのか」と、夜明けの気配を見せ始めた窓の外に目を遣る。
おじいちゃんは太く短く生きた人で、今の僕の年齢のときには、人に手を引かれなければ歩くこともできなくなっていた。「オレは細く長く生きて、できるだけ長いあいだ遊んでいてぇなぁ」と、強く思う。
朝飯 納豆、冷や奴、生玉子、なめこのたまり炊、たまり漬「七種きざみあわせ・だんらん」、らっきょうのたまり漬「小つぶちゃん」、ごぼうのたまり漬、メシ、筍と三つ葉の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 ブロッコリーのソテー、ウフマヨネーズにするための茹で玉子、レタスとベビーリーフのサラダ、カプレーゼ、2種のパン、揚げ茄子を添えた鶏のオーブン焼き、2種のチーズ、Chablis Billaud Simon 2018、「本沢屋」の団子、Old Parr(生)








































