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清閑 PERSONAL DIARY

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2025.10.7(火) 剪定作業中

きのうの就寝は21時より前だった。目覚めは3時台、次は4時台。しかし起きたのは6時35分。声が枯れているのは、きのうの機内の乾燥のせいだろうか。飛行機に乗りながら乾燥を感じたことはないものの、喉の弱い人は、それをしきりに訴える。次からはマスクを使った方が良いかも知れないものの、マスクは好きでない。

朝礼の後、道の駅「日光街道ニコニコ本陣」へ本日最初の納品をすべく、配達係のイザワコーイチさんとホンダフィットに乗る。僕の姿を見たイザワさんは「大丈夫ですか、半袖で」と言う。僕は「暑い寒いよりも、重ね着が嫌いなんですよ」と答える。

重ね着がイヤだから寒くても薄着で震えている、という人は、僕以外にもかならずいるはずだ。とはいえ半袖のポロシャツに長袖のTシャツを重ねるくらいなら、いまだ我慢もできる。よって昼前に自宅へ戻り、衣装箱からクローゼットのチェストに移しておいた長袖のTシャツを着る。

植木屋のカシワギさんからは、タイにいるときから盛んに電話が入った。僕は今どこにいるなどは言わず、ただ隠居の樹木の剪定について、その予定を聞いた。それによれば、カシワギさんはきのうの朝に下見をしたはずだ。そして今日から本格的な仕事が始まった。

問題は「汁飯香の店 隠居うわさわ」の個室「杉の間」へ到る廊下から望める赤松の、こちらは剪定ではなく伐採だ。

カシワギさんによればその松は実生から育ったもので、手を入れつつ残すほどのものでもないとのことだった。雨樋と冷蔵庫の室外機に盛んに葉を落とすそれについては僕も「いっそ無ければ清々する」とは考える。しかし倒されるときに隠居の屋根を直撃すれば、推定築150年の建物の、その部分の再生は不可能になる。

「何とか無事に倒れてくれ」と、祈るばかりである。


朝飯 茄子の揚げびたし、納豆、トマトのソテーを添えた目玉焼き、ごぼうのたまり漬、メシ、揚げ湯波と菠薐草の味噌汁
昼飯 にゅうめん
晩飯 サラダ、だし巻き玉子、穴子鮨と鯖鮨、らっきょうのたまり漬「つぶより」、ごぼうのたまり漬、「山本合名」の山廃純米「天杉」(冷や)、「角口酒造店」の「いいやまのさけ特別純米」(冷や)


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2025.10.6(月) 帰国

スチュワーデスが何ごとか話しかける。夜食の丸パンを届けに来たのだろう。僕はアイマスクをしたまま手を横に振る。彼女は「それでは置くだけさせていただきますね」と言うのでアイマスクを外し、空いている窓際の席のテーブルを開く。スチュワーデスは「お水も置いていきます」と、いやに丁寧だ。丁寧にされるより放っておかれた方がよほど有り難いことも、飛行機の中では多々ある。

アイマスクをし、イヤフォンで飛行機のジェット音を低くしても、眠れない。足を延ばしたり引き寄せたり、フットレストに載せたり降ろしたり、あれこれ姿勢を変えても眠れない。アイマスクを外してディスプレイに現在位置を確かめたらいまだインドシナ半島を脱していなかったりすれば落胆は大きいから、そのままかたくなに目を閉じ続ける。

不意に肩を叩かれてアイマスクを外すと、朝食の配膳が始まっていた。時刻は3時4分。機は沖縄と九州のあいだまで来ていた。3時間40分ものあいだ眠れずに焦燥を続けたのだろうか。あるいはすこしは眠れたのだろうか。「そろそろビジネスクラスにしないと辛いか」と考えても、着く時間が同じであれば、桁外れに高い運賃は支払いづらい。

「朝食はオムレツ、あるいは豚とライスのどちらになさいますか」と問われて「豚とライス」と答えたものの、実際にはコーヒーとヨーグルトと果物しか口には入れない。そしてラバトリーで歯を磨く。

そのうちスチュワーデスが黄色い携帯品別送品申告書を配り始める。その姿を目にした瞬間、いつも航空券を買うトチギ旅行開発が自社のコンピュータから出力してくれたそれは、預け荷物のスーツケースの奥深くに仕舞いっぱなしだった、ということに気づく。仕方なくスチュワーデスから一枚をもらい、朝日の差しはじめた機内にて、その上から下までをボールペンで埋める

04:44 右の機窓からは太平洋が望めるはず。ところが地上が見える。果たして自分はいまどこを飛んでいるのか。目の前のディスプレイに触れると、機ははやくも房総半島の上空にいた

04:46 眼下に東京アクアラインが見えてくる
04:49 TG682は定刻より6分はやく羽田国際空港に着陸。以降の時間表記は日本時間とする。

07:01 機外に出る。機内では「東京は曇り」とアナウンスがあったものの、空は気持ち良く晴れている。
07:09 入国審査場を通過。
07:27 回転台からスーツケースが出てくる。
07:30 税関を通過。
07:39 京急空港線急行の車両が羽田空港第3ターミナルビルを発。
08:31 人形町で日比谷線に乗り換えて北千住に着。

自由民主党の総裁に高市早苗が選ばれたことにより、日経平均株価の先物が先週の終値より2,175円も高い48,200円まで上がったことを、iPhonenのウェブニュースが伝えている。それはそうとして、日比谷線の車内には広告がほとんど無い。上がる一方の株価に対して日本の景気はそれほど良くない、ということなのだろうか

09:48 東武鉄道のリバティ会津113号が北千住を発車
11:10 その車両が下今市に着。

駅前にはタクシーが数台あったものの「チップを入れれば250バーツか」と考える。スーツケースを持った状態では日本のタクシーには乗る気がしない、ということもあって、歩いて帰ることを決める。

タイでは、メーターのスイッチを入れないまま価格を交渉してくるような運転手でさえ、こちらがスーツケースを持っていれば即、クルマの後ろに回ってそれをトランクルームに収めてくれる。目的地に着けばこれまた即、運転席を離れてトランクルームからスーツケースを降ろしてくれる。

日本のタクシーの運転手は、運転席に着いたままトランクルームを開けるレバーを操作するのがせいぜいで、スーツケースの上げ下ろしはすべて、客がしなくてはならない。客であるにもかかわらず、まるで運転手の召使いのようだ。このゲンナリする現状はひとえに、日本にチップの習慣が無いからと、僕は認識をしている。

四階の自宅で小一時間ほど荷物の整理をしてから仕事着に着替えて事務室に降りる。以降は夕刻まで通常の業務に従う。夜は先月24日以来の日本食にて、先月21日以来の日本酒を飲む。


朝飯 TG682の機内食「ドトール」のハム玉サラダサンド、コーヒー
晩飯 玉子焼き、茄子の揚げびたし、秋刀魚の梅煮、明太子、ごぼうのたまり漬、ジンギスカン焼き、メシ、「山本合名」の山廃純米「天杉」(冷や)、「角口酒造店」の「いいやまのさけ特別純米」(冷や)、お菓子、Old Parr(生)


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2025.10.5(日) タイ日記(11日目)

最初に目を覚ましたのは、きのうとほぼおなじ0時37分。次は、家とクルマの鍵を見失って焦燥する夢を見ながら目を覚ます。時刻は4時35分になっていた。きのうの夜にビールを飲んだあたりから、からだも気力も復活をしたらしい。いと有り難し。レイトチェックアウトの予約もできて、気分の余裕も充分である。おまけに朝から晴れている。気温は暑くもなく、また寒くもない。

きのうの朝とは異なって、すぐに起きて、きのうの日記に取りかかる。これを完成させて公開したらひと休み。ベランダからは、隣のレストランの、白と紅のリラワディが目に鮮やかだ。ちなみに四日前までいたウドンタニーでは、この花を、ラオス語を用いて「ツァンパー」と呼ぶ。だからと言っては何だけれど、国境のちかくは色々と面白いのだ。

時計が8時を過ぎたころを見計らって外へ出る。日曜日でも、soi8には様々な屋台が店を開いている。そのままスクムビットの大通りに出て、しばしそのあたりを散歩する。そしてまたsoi8に戻ってきて、ホテルに最もちかい屋台で朝食を摂ることにする。僕の注文をこなしつつ「唐辛子は入れても大丈夫?」と身振りで問うたオネーサンには、いつものとおり頷いた

ことし2月のチェンライでは、多分、タイ料理を食べ続けたことによるのだろう、胃腸の具合をおかしくした。それが分かっていながら「辛さはどうしますか」と訊かれて「普通でお願いします」とか、あるいは今朝のように、唐辛子をタイ人のそれ並に加えることに首を縦に振ってしまう。これはやはり、見栄による自動反応なのだろうか。

チェックアウトの時間が通常の正午から18時まで延びると、荷作りに向かう気持ちに多大な余裕が生じる。大きな荷物を嫌う僕は、特に必要のない限り、機内持込サイズのスーツケースを使う。これに社員への土産が収まるか、というのがひとつの勝負なのだ。そして荷作りは数十分で完了した。

スイミングプールの水は二日目から綺麗になったものの、なぜか泳ぐ気にはならなかった。更に今日は最終日のため、水着は濡らしたくないどころか汗に湿らせることさえ避けたい。ベランダから見おろすsoi8は雨季の南国にふさわしく、いつの間に濡れたかと思えば、また乾くことを繰り返している

バンコクに入った初日には、スクムビットの大通りからsoi11に入ってすぐの左側で客待ちをするモタサイを使ってナナチャーンの船着場まで行った。その際、左手に木造の、洒落た植民地様式のレストランを横目で見て「あぁ、これが有名なヘミングウェイか」と記憶に留めた。

14時を10分ほど回ったところでようよう、本日二回目の外出をする。大通りから随分と歩くかと思われた「ヘミングウェイ」には、この通りの左右にある様々な店やホテルが歩く者を飽きさせないこともあって、意外や早く着いた。

「お席は外になさいますか、それとも中になさいますか」と責任者らしいオネーサンに訊かれれば、ほぼ反射的に「外」と答えてしまう。そして白人に合わせたものか、木製の、とても高い椅子に、勢いをつけて上がる。そして先ずはグラスの赤ワインを注文する。

この、カベルネソービニョンよりメルローを強く感じるワインが中々美味い。周囲を見まわせば、メニュに”Sunday Grill”と載っているものだろう、丸鶏の網焼きを食べている人たちがちらほらいる。しかし僕にそれは無理だ。僕は三段ほど上がったテラスで待機するウェイトレスを呼び、チーズケーキを追加した。

チョコレートソースをふんだんにかけ回されたチーズケーキは、やはり白人向けの大きさなのだろう、カロリーの固まりだった。これをやっつけるために赤ワインをお代わりする。

そのチョコレートソースを垂らさないよう細心の注意を払いつつ「権力者と愚か者」のページを繰る。フィナンシャル・タイムスのかつての編集長が日記に書いた2015年から2016年にかけての米国と英国を、今年の日本はなぞっている。

ところで先月26日の朝、朝食を摂る僕のかたわらにあったこの本について「訳もよろしいですか」と訊いてきた白人のオジーサンに「悪くないです」と僕は答えた。しかし460ページの

……
ホタテのカルパッチョに続き、仔牛のカツレツを、マス・シャンパーとシャトー・ロスピタレ・ド・ガザンのグラスワインで流し込みながら…」
……

の「流し込みながら」はいけない。路上の細民が汁かけメシを立ったまま掻き込んでいるわけではないのだ。ちなみにおなじ表現は520ページにも再出をする。

それはさておき、日本人にとっては巨大なチーズケーキと二杯の軽くないワインをこなした僕は、先ほどとは異なったウェイトレスに勘定を頼んだ。いまだ充分に若い彼女は何ごとか言葉を発しつつ右の人差し指一本を立てた。外の席はsoi11を往来するモタサイやトゥクトゥク、また人の声で充分にうるさい。よって彼女の言ったことを理解しないまま、僕は頷いた。

奧から戻ってきた彼女は三杯目の赤ワインと共に、当たり前のことだが、それを加えた請求書をテーブルに載せた。果たして僕は、空港まで無事に辿り着くことができるだろうか。

部屋に戻ったのは16時5分。シャワーを浴びる。シャワーの後は服は着ず、腰にタオルを巻き、もう一枚のタオルは上半身に巻いて、それを部屋着にする。そしてiPhoneに17時30分のタイマーを設定し、ベッドに仰向けになる。夕刻の雨は、幸いにも降ってこない。

17:58 ホテルをチェックアウトする。”I’m going out”と伝えたときにレセプションのオバチャンから返った問いをここに書けば日記が長くなるから、今日のところは割愛をする。
18:05 BTSスクムビット線の車両がナナを発。
18:15 その車両がパヤタイに着。
18:28 ARLの車両がパヤタイを発。北側に見える高速道路は順調に流れている
18:57 その車両が終点のスワンナプーム空港に着。

それにしても、タイの駅の券売機には、硬貨のみを受けつけるものと紙幣のみを受けつけるものが混在して、使いやすくない。自動改札機には「故障中」を示す”Out of Business”の紙を貼られたものが、毎日、あちらこちらの駅に目立つ。「日本の技術を導入してくれていたら」と、思わずにはいられない。

酔っているから早めの行動を心がけた今日は、時間にとても余裕がある。ARLの改札ちかくの、先月25日にも使った両替所の円とタイバーツの交換率は、1万円あたり2,165バーツだった。

19:06 出発階の四階に上がり、タイ航空のポロシャツを着たオネーサンに手伝ってもらいつつチェックインを完了。オネーサンはこの単純作業ばかりをしてるから、当方への質問と、タッチパネルに触れる手の動きは素早い。「荷物に危険物は含まれていませんか」と訊かれたものとばかり思って”No”と答えたときのタッチパネルの表示は「預け入れ荷物はありますか」の英文だったらしい。

「あ、荷物、ありました、これ」とスーツケースを指すと、オネーサンは「なによー」という感じの仏頂面で振り出しに戻り、おなじ作業を繰り返した。「タイは微笑みの国」などと耳にしても、あまり真に受けないことが肝要である

19:08 オネーサンがスーツケースに巻いてくれたバーコードを、こちらはにこやかなタイ航空の係が読み取って、荷物の預け入れを完了。

ここで身軽になって、今度はエスカレーターで一階へ降りるそして8番出口ちかくの”MAGIC food point”に入る。こちらは、十数年前までは空港職員専用の感があり、人もまばらだった。しかし現在は、団体では席の確保も難しい混み具合になっている。ここでカオマンガイによる夕食および時間調整をしながら缶ビール2本を飲む。ちなみにカオマンガイは「茹でと揚げの相盛り」が80バーツ、シンハビールの350cc缶は55バーツ、チャンビールの350cc缶は45バーツだった。

20:40 “MAGIC food point”を出てふたたび四階へ上がる。
20:51 保安検査場を通過。
20:54 出国審査場を通過

チェックインが早すぎたためか、僕の搭乗券に搭乗ゲートは印刷されていなかった。その場所を電光掲示板に探してS116Aの番号を知る

21:03 サテライトターミナルへ向けてシャトルトレインが発車。
21:05 その車両がサテライトターミナルに着。

アルミニウムの帯を編んで作ったような巨象の右手にある案内所でミラクルラウンジの場所を訊く。先月19日のウドンタニーのオネーサンは”Down stair”だったが、今日のオネーサンは”Up stair”と、これまたひと言だけ答えた。巨象のはす向かいのエスカレーターで上階へ上がるとしかし、広い空間のあるばかりだ。ラウンジは左か、はたまた右か。「案内の親切さは、日本人が最高だわな。しかし日本人は、英語に関しては、あまり得意ではないわな」などと考えつつ勘を頼りに右へ進む。

しばらく往くと左手にミラクルラウンジの”First Class”があったから「ここはオレの来るところではないわな」と、更に進む。すると突き当たりにおなじミラクルラウンジの”Business Class”があって、こちらには見覚えがあった。

楽天のゴールドカードを持っていれば誰でも入れるそのラウンジの受付に、会員のQRコードをスマートフォンでで見せて入場する。しばらく前にカオマンガイとビールを腹に入れているから、ここでは水しか飲めない。そして「そうか、時間を調整するなら、あそこよりここだったな、無料だし」と気づいても、もう遅い。時刻は21時16分。搭乗時間は22時15分のため、22時5分のアラームをスマートフォンに設定する。そしてシャワー室でパタゴニアの南洋に特化したシャツを脱ぎ、来たときとおなじ長袖シャツにカーディガン、そこに更にパタゴニアのウインドブレーカーを重ねる。

22:06 ミラクルラウンジを去る。
22:10 S116Aゲートに達する
22:17 搭乗開始
22:32 右列最後尾通路側の席に着く
23:24 うとうととするうち、Boeing777-300ER(77B)を機材とするTG682は、定刻に39分おくれてスワンナプーム空港を離陸。


朝飯 “Stable Lodge”のちかくに店を出した屋台のパッガパオムーカイダーオ
昼飯 “Hemingway”のブラウニーチーズケーキ、赤のハウスワイン
晩飯 “MAGIC food point”のカオマンガイトムトードパッソム、シンハビール、チャンビール


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2025.10.4(土) タイ日記(10日目)

体調に優れないことは、きのうコモトリ君の家に着いて、心づくしの夕食に箸を伸ばしたときに気づいた。きのうそれまでに摂った食事は朝の汁麺のみ。旅の最中にはそれほど空腹を覚えず、昼は抜くことの多い僕だが、夜になっても食欲が湧かないとは普通ではない。結局のところ、夕食は小鳥の食べるほどの量をラオカーオの肴にして、19時の舟に乗った。

BTSを乗り継いでホテルに戻ったのは19時47分。シャワーを浴び、パジャマを着、部屋の明かりを落として寝台に横になった。大事を取って、天井の空気調整器は動かさなかった。

目覚めて朝が近かろうと思っても、しばらくは枕頭のiPhoneで時間を確かめることはしなかった。ようよう手に取ったそれはいまだ、0時27分を指していた。からだは汗ばんでいるものの、空気調整器はなお、動かさない。そうして闇の中に、ただ横たわっている。

次にiPhoneを手に取ると、4時49分になっていた。眠れた感じは無かったものの、4時間ものあいだ、じっとしていられるわけはない。すこしは眠れたものと思われる。

雨の激しく降る音が聞こえる。やがてカーテンの隙間が明るみを帯びてくる。普段であれば、目が覚めればさっさと起きて、きのうの日記に取りかかる。その気力が今朝はまったく湧かない。そのまま7時まで、つまりきのうの夜から11時間も横になり続けている。一体全体、僕のからだは、どうなってしまったのか。喉に痛みはなく、熱も平熱であることが、ただ有り難い。

「腹が減ったら食べろ」と、コモトリ君がきのう持たせてくれたアップルパイと、日本から持参のコンソメスープを朝食とする。雨はますます激しい。

結局のところ、部屋には13時ちかくまでいた。腹が減っていない、ということもない。ホテルの、表通りに面した食堂にてオープンサンドと白ワインを昼食とする。

それにしても寒い。体調の悪さによる寒さではない。半袖のシャツ1枚で耐えがたいところから推せば、気温は恐らく20℃を下まわっているのではないか。そのうち自由民主党の裁選が高市早苗に決まったことを、ウェブニュースが伝えてくる。そのiPhoneをセブンイレブンのエコバッグに入れて部屋へ戻る。

寝台に仰向けになって、その総裁選の結果をiPhoneでふたたび見る。ふと気づくと、早朝からひどく降り続いた雨はいつの間にか上がって、窓の外に林立するビルは午後の陽に照らされていた。次に部屋を出たのは実に18時5分。ほぼなにもしない一日ではないか。

実は数日前に、最終日のレイトチェックアウトをホテルに打診していた。そのときのレセプションのオネーサンは「これからの予約で満室になることもありますので、その日が近づいてから、もういちどいらっしゃってみてください」と言われた経緯があった。

「まさか、あしたまた来てください、なんて言われたりして」と恐れつつ、今日はメガネをかけたオバチャンにおなじことを問えば、コンピュータのディスプレイを見て即、それが可能なことを教えてくれた。追加の料金は1,000バーツ。精算書を要求すると、オバチャンは動かないプリンターを叩いて「しばらくお待ちください」と僕に笑顔を向けた

さて外へ出られるほどに体調は回復したものの、食欲はまったく無い。飲食店の密集するsoi8に宿を定めながら、情けない限りだ。胃が受けつけそうなのは液体のみ。そういう次第にて、小さなオープンバーでビール、それを干したところで調子が良くなって、ウォッカのソーダ割りもこなす。

部屋には19時前に戻った。シャワーを浴びたら今日の数少ない画像をコンピュータに取り込み、そのうちのひとつをfacebookに上げる。そして諸々を整えてから寝に就く。


朝飯 コモトリケー君からもらったアップルパイ、コンソメスープ
昼飯 “Stable Lodge”のレストランの”Tomato w Chopped Onions & Egg Yolk Open Sandwich”、白のハウスワイン
晩飯 “Street Bar”のシンハビール“SMIRNOFF VODKA”(ソーダ割り)


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2025.10.3(金) タイ日記(9日目)

目を覚ましてしばらくしてから枕頭のiPhoneを引き寄せる。時刻は5時20分。きのうの日記によれば、19時43分に寝台に上がっている。とすれば睡眠時間は10時間弱。これまでが寝不足気味であったなら、それをからだが一気に取り戻そうとしたのかも知れない。

雷鳴と共に、とてつもない勢いで雨が降っている。僕の知る限りにおいて、日本の鳥は、雨の中では啼かない。しかし部屋の南の方では、例の鳥が「ホーイッ、ホーイッ」あるいは「キヨイッ、キヨイッ」と、いつもと変わらない声を発している。

部屋のWIFIが途切れている。天井の空気調整機は動いているから、停電ではないだろう。灯りを点けて顔を洗い、歯を磨く。きのうの日記は二行目で止まっているにも関わらず、5時50分より今日の日記にとりかかる。

ふと気づくと外が静かになっている。ベランダに出てナナ駅の方に目を遣る。空は明るさを取り戻し、日さえ差しはじめそうな塩梅だ。「良かった」とは思うものの、今のバンコクの天気には要注意だ。今日の外出に際しては、レセプションで傘を借りることを決める。

きのうの日記は何とか8時までには書き上げようと、ときどき寝台に仰向けになって休む回数を、意識して少なくする。きのうの日記は8時に書き終えても、TikTokのアカウント「梅太郎」へのアクセスが、ここ数日はなぜか多い。寄せられたコメントも少なくないため、それに返信をつけているうち、たちまち30分ほどが過ぎる。

9時を回ったところで外へ出て、毎日、特に昼どきには客を集めている”RED HOG BAR”の前の汁麺屋へ行く。そしてバーのスツールに上がりながらバミーナムを頼む。ふと屋台の調理台に目を遣ると、餃子がある。よってそれも入れるよう頼む。するとオバサンは「ギアオ、ドゥアイ、ムー、ドゥアイ」と、機嫌良さそうに軽口を発した。食べてみたところ、この店の人気は味よりも、量の多さと具の多さにあるのではないかと感じた。

プールサイドに降りたのは10時。エレベータの中には”27 September-29 September(3 days) During this time, the poolside area will not be accessible”と張り紙があるものの、僕がこのホテルに入った10月1日には大きな音と共に石の床がカッターで切られているところであり、その工事はいまだ終わっていない。そしてプールサイドの寝椅子にいても、別段、叱られることもないし、レセプションは笑顔と共にタオルを手渡してくれる

さて明後日の深夜便でタイを離れなければいけない今朝は、今日すべきことの、一応の予定を立て、手帳に箇条書きをした。
1.サイアムワンで買い物。
2.バンコクでの初日に豪雨に阻まれて行けなかったマッサージ屋への訪問。
3.ゲートウェイエカマイでのラオカーオの購入。
4.トンローで買い物。

12時2分に部屋を出て、きのう”Tommorow same time”と言われたマッサージ屋兼クリーニング屋で洗濯物を受け取る。それを、部屋に戻って引き出しに仕舞う。水を飲むなどして、次は12時33分に部屋を出る。外は晴れているものの、バンコクでの初日に参ったため、レセプションで傘を借りる

はじめて訪ねるショッピングモール「サイアムワン」は、サイアム駅に直結なのは有り難いものの、フロアが卵形のため、目的の店を探すことに苦労をする。買い物は12時52分に終了。僕は買い物に時間をかけることを好まない。

サイアムからプルンチットまではBTSで移動。駅の北側に広がる広大な空き地は、一万坪、ことによると一万五千坪くらいはあるのではないか空中歩道を伝ってエラワン廟を左手に見おろし、ラチャダムリの通りを横断したら、右手のアップル・セントラルワールドの螺旋階段を下って地上に降りる

ここからプラトゥーナムまでの炎天下500メートルを歩く気はしない。飲み物を飲んでひと休みをしようとしていたモタサイの運転手に声をかけ、プラトーナムまで走ってもらう。センセーブ運河を超えたところで100バーツ札1枚を出すと、運転手は20バーツ札3枚を返してよこした。このモタサイがすこし行きすぎたため、大規模な建設中の建物の脇の歩道橋でラチャダムリの通りを西から東へと渡り、しかし階段は降りずに古色蒼然とした商業ビルに入る。ビルの二階はシャッターを降ろされた店と、営業中のマッサージ屋が多数。しかしこの状況では、このビルも、息を長らえることはできないだろう

目指すマッサージ屋のメニュには、評判だという角質削りはなぜか無くなっていた。よってフットマッサージを1時間だけ頼む。料金は300バーツ。担当の29番Maiさんの施術は強烈。痛みに耐えていたからか、1時間が異常に長く難じられた。Maiさんには100バーツのチップ。

プラトゥーナムからは、またモタサイの運転手に声をかける。
「プルンチットの駅まで」
「BTSのプルンチット?」
「そう」

スクーター型ではなくスポーツタイプのオートバイを、オジサンは前傾姿勢で操縦しつつ、裏道のゲンソンロードに入った。「なるほど、この経路は合理的だ」。オジサンはプルンチットの駅へ上がるエレベータの前にピタリとオートバイを着ける。20バーツ札2枚を手渡すと、オジサンは混み合うスクムビット通りを無理やりUターンして去った。

さて手帳に記した今日の予定のうち「ゲートウェイエカマイでのラオカーオの購入」は、この時間からではもう無理だ。タイで日中に酒類を買うことができるのは、11時から14時までに限られる。よってその手前のトンローまでBTSを乗り「いちばん好きなお菓子はマンゴーのカリカリのやつ」と言う孫のリコのためにそれを買う。彼女の弟や妹はいまだ幼いから、姉と同じものを食べればこと足りるだろう。

ナナまで引き返して、サイアムとトンローで買ったものをホテルの部屋へ置く。タイでは何かをするたびに浴びるシャワーを浴びないまま15時52分に部屋を出る。そしてナナから乗ったBTSをサイアムで、スクムビット線からシーロム線に乗り換える。

サパーンタクシンをコモトリ君の住まいの舟が出るのは16時10分。そのサパーンタクシンには16時8分の着。「2分あれば」と駅のエスカレータを降りたら即、走り出す。それにしても、キーンのワイメアは優れたサンダルでも、走りやすいというわけではない。桟橋には16時10分に駆け込む。舟は桟橋のすこし下流で方向を変え、夕刻の逆光の中を近づいてきた

雨季、連日の豪雨、4日後は満月、という様々な要因が重なって、チャオプラヤ川の水位は異常に高い。4日後の満潮時には、首都のあちらこちらに水害が発生するのではないか。

コモトリ君の家で心づくしの夕食をいただいて後は、19時の舟でサパーンタクシンに戻る。きのうコモトリ君が「まるでパタヤのホテルみてぇだな」と評した古ぼけたホテルには、19時47分の着。シャワーを浴びて空気調整器は動かさず、20時すこし過ぎに就寝する。


朝飯 “RED HOG BAR”の前の屋台のバミーナム
晩飯 コモトリケー君の家の其の一其の二其の三其の四、他あれこれ、ラオカーオ”TAWANDANG”(ソーダ割り)


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2025.10.2(木) タイ日記(8日目)

ウドンタニーのホテルとは異なって、このホテルにガウンの用意はなかった。よってきのうはサイドテーブルにパジャマを準備をしておいた。しかしそれを身につけることなく素っ裸で、ただし布団には入っていた、クーラーは付けっぱなしでも、きのう寝る前に温度は28℃、更に”COOL”ではなく”DRY”に設定をしておいたから、呼吸器は傷めていない。クローゼットの扉は開いたまま、セキュリティボックスも開いたまま。しかしきのう使ったお金はすべて、手帳に記入がされていた。

ウエスタンやアメリカンのブレックファストは好みでない。野菜を徹底的に欠いているからだ。いま泊まっているホテルにブッフェはない。目の前の通りつまりsoi8に並ぶ主に西洋人を対象とした料理屋が店の前に置く朝食の案内はすべて、アメリカンブレックファストだ。価格は平均して300バーツ内外。

よってそれらの看板は無視をして、ナナの駅を目指して歩く。そして右側に見つけた「猪脚飯」と看板を出した屋台でそれを注文する。「ここで食べる?、それとも持ち帰り?」と女主人に訊かれて「ティニー」と答える。彼女はすぐ後ろに何客か並べられた鉄製のテーブルを目で示した。そしてそのカオカームーは、充分に美味かった。価格は50バーツだから、首都のそれとしては妥当、あるいは充分に安い。

10時より庭先のプールサイドへ降りて、公開したばかりのきのうの日記をiPhoneで読む。例に漏れず誤字脱字、てにをはのおかしなところを見つけては、これまたプールサイドに持ち込んだコンピュータで修正をしていく。それにしても、コンピュータで書いた文章をおなじコンピュータで読むと、誤りには気づきづらい。しかし別の道具で読むと、誤りにはすぐに気づく。そのあたりには、どのような関係があるのだろう

日記の修正を終えて、10時25分からは本を読むことに切り替える。プールの水面には小さなゴミが目立つから、泳ぐ気はしない。レセプションの親切なオネーサンが貸してくれたタオルをレセプションのカウンター前に置かれた籠に戻し、部屋には11時33分に戻った。

今日はコモトリ君と、できたばかりの巨大な商業施設ワンバンコックを視察するため、13時に待ち合わせをしている。そのため12時2分に部屋を出る。手にはウドンタニー以来の洗濯物の入ったプラスティック袋を提げている。駅にほど近いマッサージ屋が洗濯屋も兼ねていることは、きのうのうちに気がついていた

店先の女の子に袋を手渡す。女の子は、まるでマッサージより洗濯の方が本業であるかのように、その袋をすぐ脇の計りに載せた。洗濯物の重さは1.3キログラム。洗濯代なのだろう、女の子は「130」の数字を複写式の伝票に記入した。できあがりの時間を問えば、女の子はやはり店先に座っているオニーチャンに照れながら何ごとか訊く。オニーチャンはやはり照れ笑いを浮かべつつ要領を得ない。そこに奧から女将らしき人が顔を出して”Tommorow same time”と、ぶっきらぼうに告げた。ちなみに代金は後払い。タイは「微笑みの国」と言われているけれど、それはごく一部のことと、この国を訪ねた人は悟るだろう。

今朝カオカームーを食べた屋台のちかく、”RED HOG BAR”の看板の下に店を出した汁麺屋台は、いつも客を集めている。客は、バーが外へ出したままのスツールに腰かけて、その汁麺を食べる。機会があれば、僕も試してみることにしよう

ナナからアソークまではBTSでひと駅。僕はPASMOのようなカードを作ってあるから、乗り降りはとても便利だ。BTSアソークに接続しているのはMRTのスクムビット。MRTはVizaのタッチ式カードで改札口を通過できるものの、僕はクレジットカードを街で持ち歩く気はしない。

券売機の前に立ち「ワンバンコクって駅ができてるよ」と、きのうコモトリ君の教えてくれたとことを頼りにその駅を探すも見あたらない。「場所からすれば駅はルンピニーのはずだが」と不審に思いつつコモトリ君に電話を入れる。彼は困って「だったら駅の窓口に訊いてみたら」と言う

結構な人数の列に並んで僕の番が来る。駅員は、こういうことを書けばそのうち「ボディシェイミング」と叱られることになるのだろうけれど、比較的面積の広い顔に比較的黒い肌、そこに赤い口紅を塗ったオニーサンだった。「ワンバンコクへ行きたい場合、駅はどこになるでしょう」と訊く僕に「ルンピニーですね」とオニーサンは柔らかに答え、僕が差し出した2枚の20バーツ紙幣に対してお釣りの18バーツを、爪を綺麗にした手で丁寧に渡してくれた。

ルンピニーの駅には12時33分に着いた。13時がちかくなるころコモトリ君から電話が入る。そして二人が立っている場所を徐々に縮めるようにして落ち合う。

鳴り物入りで開業したワンバンコクは、地下鉄の駅に直結する食堂街や、その周辺こそ客を集めているものの、上階へ行くにつれ人の数は減り「これほど経費をかけてカッコ良い店を作り、とてつもなく高かろう毎月の固定費を支払えば、すぐに行き詰まるだろう」と思われる店も少なくなかった。店の新陳代謝は、驚くほど早くなるのではないか。

ホテルにはコモトリ君のクルマで送ってもらった。彼は運転手付きの自家用車で動くため、公共の交通機関には詳しくないのだ。

ホテルに戻るころポツリポツリと降り出した雨は、きのうとおなじような豪雨になった。プロンポンの行きつけのマッサージ屋には16時の予約を入れてある。「マズイことになった」と、外で揺れる南国の木々を五階の窓から眺める。しかしその雨は幸い、15時を過ぎるころには収まった。

15時32分に部屋を出てナナからプロンポンまでBTSで移動をする。バンコクでは、以前はチャオプラヤ川沿いにホテルを定めることが多かった。しかしBTSスクムビット線の便利さを体感するようになってからは、もはや他の場所に泊まる気はしない。

オイルマッサージは2時間。ウドンタニーの600バーツが、バンコクの盛り場では900バーツに跳ね上がる。これがトンローであれば、もっと高くなるだろう。

施術後に「お茶はどうする」と訊かれて勿論、求める。「チャーローン」とはいえタイのそれは、コーヒーや紅茶ほどは熱くない。そのぬるいお茶を飲みつつ「このあたりに美味いイサーン料理屋はないかな」と訊く。オバサンたちは「あそこがあるよ」「え、どこ」「あー、あそこか」と声を出し合って、直後、僕を担当したオバサンは僕の手を引くようにして外へ出た。

数十メートルを歩いてオバサンが指したのは、僕がきのう探して見つけられなかった通称「soi39のイサーン屋台」だった。「soi39」と呼びなわされながら、しかしその屋台は、実際にはsoi37の「ワットポーマッサージ」のはす向かいにあった。

屋台には三人の待ち客がいた。店の人は、順番がちかくなった客にメニュと紙とボールペンを手渡し、それにあらかじめ注文を書いてもらう方式を採っていた。僕に手渡されたメニュにはタイ語があった。それを見て、白人のカップルの次に来た女の三人組のうちの親切なオネーサンが「この人たちには英語のメニュをください」と言ってくれた。

僕はオネーサンを振り向いて「僕は大丈夫です」と答えた。オネーサンのタイ語は一切、理解できなかったが「あらすごい、タイ語が読めるのね」と言ったのだろう。「いえ、口で注文すれば」と添えるとオネーサンはまたしてもタイ語で「あぁ、そういうことね」と答えたのだと思う、納得した顔で快活に笑った。

「外国へ行ったときには、その国の挨拶より先ずは数字を覚えろ」と、むかし本で読んだことがある。「なるほど」の意見である。僕はそれに加えて料理の豊かな国では特に、料理の名を覚えることが肝要と考える。僕の注文は海鮮サラダ、鶏の炙り焼き、餅米、水、そして氷。

僕は15分ほど待って、調理場のちかくの一人か二人しか座れない席に案内をされた。先に出てきたのは海鮮サラダ。その烏賊をフォークに突き刺して食べて「美味いではないですか-」と感心をする。そのサラダのドレッシングに丸めた餅米をひたして食べる。鶏の炙り焼きは、時間を経て冷えたものを出す店もあるものの、この屋台のそれは温かく、肉の骨離れも良かった。

価格は締めて225バーツ。その計算は、いかにもイサーン出身の、浅黒い顔に白い歯の目立つ、若くて可愛い女の子がしてくれた。満足の夕食だった。そして空席を待つ客の数は更に延びていた。ここで夕食を摂りたければ、17時には来る必要があるだろう

プロンポンからナナまではBTSで僅々ふた駅。夜は特に賑やかなsoi8を辿りホテルには19時12分に戻った。そしてシャワーを浴びて歯を磨き、今夜こそはパジャマを着る。そしてこれまた今夜こそは部屋の明かりを落とし、19時43分に寝台に上がる。


朝飯 スクムビット通りからsoi8に入ってしばらく歩いた左側の屋台のカオカームー
晩飯 通称「soi39のイサーン屋台」のヤムタレーガイヤーンカオニャオ、ラオカーオ”TAWANDANG”(水割り)


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2025.10.1(水) タイ日記(7日目)

きのう寝に就いたのは19時34分。夢の中で窮屈さを感じつつ目を覚ます。寝台の上でも窮屈な格好で寝ていた。時刻は22時48分だった。幸いすぐに二度寝に入れて、今朝は2時5分に目を覚ます。

先ずはシャワーを浴びて、きのうの夜に塗ったアロエジェルを流す。次は歯磨き。使い終えた歯ブラシはスーツケースにしまう関係上、真新しいフェイスタオルで水気を完全に拭き取っておく。荷作りは、3時にはあらかた終わった。いつまでもコンピュータにかじりついている悪癖が僕にはあるため、5時30分のアラームをスマートフォンに設定する。

06:10 「まだ早いかな」と考えつつ部屋を出る。レセプションで要求された支払いは850バーツ。精算書をくれないので問うと、僕が署名をした4枚の複写式伝票を見せてくれた。二度の朝食は一食が295バーツ、プールサイドバーでの二杯のスカイジュースは一杯が130バーツで、計算は合っていた。「木賃宿でもあるまいし、精算書くらい出してくれよ」と思う。

ロビーのガラス壁の向こうから、こちらのサッカーティームのものだろうか、黄色いTシャツを着たオジサンがしきりに僕を呼ぶ仕草をする。タクシーは既にして来ているようだ。「やはり早すぎたか。しかし空港へ行く時間が早すぎて悪い理由はそれほどないな」と、スーツケースを曳いてガラスの重い扉を押す。

06:14 スーツケースは黄色いシャツのオジサンがトランクルームに載せてくれた。ベルボーイではないのでポケットに用意した20バーツのチップは渡さない。運転手は小さなオバサンだった。

06:24 来たときの空港タクシーが27分間を費やした道を、オバサンは10分間でこなしてウドンタニー国際空港に到着。「タイ航空か」と訊かれて「そう」と答えると、オバサンはターミナルAに車を横付けした

ホテルのリムジンではないため、料金は250バーツだった。空港から市内までのタクシー代は200バーツ、市内から空港までのタクシーは250バーツとはチェンライのそれと同じにて、なにか協定でもあるのだろうか。

ノックエアとタイ航空のチェックインカウンターには、既にして人が着いていた。紫色の制服を身につけたタイ航空のオネーサンにチェックインの始まる時間を訊く。オネーサンは”Six fourty”とひと言のみの返事ではあったものの、マスクの上の目は三日月のように微笑んでいた。

06:45 チェックインを完了。

ちかくのコーヒーショップのショーケースには、サンドイッチやクロワッサンやデニッシュのたぐいがショーケースに並べられている。サンドイッチの価格は99バーツ。今回ウドンタニーでチップに費やしたお金は1,261バーツ。それでも99バーツのサンドイッチには手が出ない。それが僕の経済観念である。

空港内をターミナルAからターミナルBまで歩いて外へ出る。左手には低い管制塔がある。それを左手に見ながら更に歩く。するとすぐ左には空港の職員が使いそうな食堂があって、奧ではオバサンが何かを炒めていた。そのオバサンに近づいて「汁麺は?」と訊いてみる。「汁麺も、まだダメ」とオバサンは笑って答えつつ、麺を湯がくためと出汁を温めておくための、仕切りのある鍋のフタを開けて見せてくれた。「残念」のひと言である

07:15 保安検査場を通過。
07:17 エスカレータで二階へ上がり、1番ゲートと2番ゲートを備えた待合室に入る。
08:08 気配を感じて振り向くと、搭乗券には搭乗ゲートが「1」と示されているにもかかわらず、2番ゲートから搭乗が始まっている。タイの地方空港では良くあることだ

08:11 空港の建物からは沖駐めの飛行機までは歩いて行く
08:35 Airbus A320-200(32X/3205)を機材とするTG003は、定刻より5分はやくウドンタニー国際空港を離陸。

09:15 「バンコクまで15分」の機長によるアナウンスが流れて「え、そんなに早く?」と驚く。
09:22 車輪の降ろされる音がする。
09:23 TG003は定刻より27分も早くスワンナプーム空港に着陸。
09:42 タラップを降りてバスに乗る。
09:50 バスを降りて空港の建物に入る。
10:04 早くも回転台からスーツケースが出てくる。

10:12 到着階の三階から地下までは、エレベータで降りる。この空港のエレベータは待ち時間が長いため、急ぐときにはエスカレータを使うに限る。
10:15 空港と街をつなぐARLの車両がスワンナプーム空港を発
10:43 その車両がパヤタイに着。
10:50 BTSスクムビット線の車両がパヤタイを発。
10:58 その車両がナナに着。

11:05 スクムビットsoi8を徒歩で南に下ってホテルに着。四泊分の宿泊料10,200バーツはクレジットカードで払う。

小さなエレベータを5階まで使って507号室に入る。ベランダ付きのデラックスルームではあるものの、面積や年季の入った様子からすれば、せいぜい1,000バーツクラスの部屋だ。その2.5倍の実料金は、場所の良さや需要によるものだろう。そして僕はこのような、街の真ん中にある古くて小さなホテルが嫌いではない

12:10 部屋を出る。

スクムビットの大通りは、ナナの駅を跨線橋のように使って渡る。そしてsoi11に入ってすぐの左側に待機するモタサイの運転手に「ナナヌア、舟、センセーブ運河」と伝える。オートバイを発進させた運転手が僕を振り向いて何ごとか言う。何を言っているかは想像がつく。「舟に乗るなら、もっと近い船着場があるぞ」だ。僕はそれを知りながら、英語では”NANA CHARD”と表記されるその船着場のタイ語による発音が分からなかったから、そのひとつ西寄りの「ナナヌア」を指定したのだ。舟に乗れればどの船着場でも構わない。僕は「チャイ」と返事をした。soi11から”NANA CHARD”までの代金は50バーツだった。

東から上ってきた舟は、乗客で満杯だった。料金の徴収係に「プラトゥーナム」と告げる。乗船料は14バーツだった。いくつ目かの船着場でちかくの男が周囲に”Change boat”と促す。「ここで乗り換え?」と不思議に感じながら舟を下りる。多くの乗客は船着場から階段を上がって頭上の橋を目指している。雨が降り始めている。

乗り換えた舟でふたたび西へ向かい、いくつかの船着場を過ぎたところで「乗り過ごしじゃねぇか」と気づく。チェストポーチからiPhoneを取り出しGoogleマップを見ると、僕が降りるべきプラトゥーナムは、先ほど舟を乗り換えた船着場だったことに気づく。

そのまま為す術もなく終点のパンファーリーラードまで行く。強さを増した雨は船着場のベンチを後ろ側から襲い、遂には僕も席を立つ。頭上には「タバコを吸ったら5,000バーツの罰金」の看板が提げられているものの、タバコの強い香りがする。周りを見まわすと、僕のすぐ脇にいる白人の指に吸いさしのタバコが挟まれていた。看板が目に入らないのだろうか、あるいは「どうせ何も言われはしない」と、高を括っているのだろうか。

折り返しの舟に、人はいくらも乗っていない。近づいて来た料金徴収係に「駄目で元々」と、来るときに買った14バーツの切符を見せつつ「プラトゥーナム」と伝てみる。「あぁ」と彼は答えて、そのまま舟の後方へと去った

さてプラトゥーナムの船着場は、驟雨沛然どころではない。屋根の下にいても、強風に煽られた雨が吹き込んで、服が次第に湿っていく。雷光が光り、雷鳴も聞こえる。

プラトゥーナムに来たのは、このちかくにあるマッサージ屋の足の角質けずりが丁寧とウェブ上で知ったこと、もうひとつはスーパーリッチの本店で日本円をタイバーツに換えようとしたからだ。しかしとてもでなないけれど、傘を欠いたまま外へ出られる状況ではない。

しばらく考えて、プラトゥーナムでしようとしていたことは潔く諦める。バンコクではいずれ、帰るまでにすることはほとんど皆無なのだ。

プラトゥーナムから東へ引き返す舟の、料金徴収のオバサンには「アソーク」と伝える。舟の屋根からは雨が漏って、木の床を濡らしている。舟の周囲には雨やしぶきを避けるための厚いビニールが張り巡らされ、それが雨に濡れ、あるいは湿気で曇り、船着場の表示は一切、見えない

iPhoneのGoogleマップによりアソークが近いことを知って席を立とうとする。その僕を「危ないから」と、先ほどのオバサンが手で制する。アソークで舟を下りると、雨は弱くなっていた。そのまま100メートルほどを早足で歩いて地下鉄MRTのペッブリーに逃げ込む。そこからスクムビットまではひと駅。地下を歩けば高架鉄道BTSのアソーク。雨は上がって、人たちはアソークの大きな交差点を、なにごともなく渡っている。「ダッフンダ」である

そこからスクムビット線をナナへは戻らず、逆のプロンポンを目指す。そのプロンポンからトンローまでひと駅を乗り過ごしてプロンポンに戻る。駅構内の両替所スーパーリッチの円とタイバーツの交換率は1万円が2,150バーツ。駅から降りてsoi24を南へ歩き、すこし行った右側の、まるで掘っ立て小屋のような両替所KFエクスチェンジでは1万円が2,190バーツ。よってここで10万円を21,900バーツに換える。

この両替に関して少しく葛藤があったのは、先月19日に「タイ中銀、バーツ変動抑制へ介入」のロイターによるウェブニュースを読んでいたからだ。

その本文には「タイ中央銀行のチャヤワディー総裁補は19日、バーツ相場の変動を抑制するため、介入を実施したと明らかにした。」とあった。この「変動を抑制」は、正しくは「バーツ高の抑制」に他ならない。中央銀行のこの「介入」は、果たしていつごろ効いてくるか。初日に続いて今日も10万円をバーツに換えれば、そのほとんどは今回の旅では余る。バーツ高が是正されれば円とバーツの交換率は今日より良くなる。しかし為替の動向は神のみぞ知る領域にある。悩みながらの両替だった。

14:50 今や日の差すsoi8を歩いてホテルに戻る。道の両側はタイ料理屋はもちろんのこと、白人相手の洋食屋に屋台も加わって、こと食べることに関してはまったく困らない場所である

それにしても、部屋を出た12時10分から部屋に戻る14時50分までの、2時間40分は何だったか。しかしナナからプラトゥーナムへの、新しい経路を開拓できたことは良かった。そして夕刻まではなにもしないで過ごすことを決める。

15:40 ふたたび部屋を出る。外からはときどき鳥の、僕の好きなホーイッ、ホーイッという声が聞こえている。

ナナからクルントンブリーまではBTSシーロム線で一本。そこでスカイトレインゴールドラインに乗り換えて、次のチャルンナコーンで降りる。ショッピングモール「アイコンサイアム」のグランドフロアにあるスックサイアムは、いわゆる「デパ地下」の遊園地だ。距離と時間を考えれば夢の夢ではあるものの、もしも社員旅行でタイへ来られたら、ここは訪問必至の場所である。

同級生コモトリケー君の住むコンドミニアムは、アイコンサイアムから見えている。「歩いて来いよ」とコモトリ君はLINE電話で伝えて来たものの、歩く気はしない。スックサイアムをしばらく逍遥して後はふたたびゴールドラインに乗り、ひと駅先の、終点でもあるクローンサーンを目指す。

コモトリ君の部屋からは、バンコクの街の広がりを、チャオプラヤ川を隔てて望むことができる。ここでしばしの休憩の後、コモトリ君のクルマでこの3月にも来たことのある小さな中華料理屋へ行く。

スクムビットsoi8のホテルまでは、コモトリ君の運転手が送ってくれた。時刻については、よく覚えていない。


朝飯 TG003の機内で配られたミルクティー味のあんこの大福、コーヒー
晩飯 “ROD TIEW”の蒸し鶏オースワンクラゲの四川風家鴨のほぐし肉の北京ダック風麻婆豆腐クンオップバミー、サントリージン翠(ソーダ割り)


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2025.9.30(火) タイ日記(6日目)

目を覚ますと部屋の灯りは点けたままになっていた。時刻は0時38分。それにしても外がうるさい。部屋の直下のバービヤ、である。

まるでコンサートのような、大音響の音楽が聞こえてくる。スピーカーの関係か、あるいはバービヤと部屋のあいだの建物の具合なのか、ギターよりもベースとドラムスの音が際だって届く。白人らしい男たちは「イエー」とか「ヒュー」と、歓声を上げている。女たちは、良く言えば哄笑、悪く言えば下卑た笑い声を立てている。

「毒を食らわば皿まで」の気分でベランダへの扉を開く。客の男はどうでも良いけれど、女の人には「そんな仕事を続けていたら、長くは生きられないぞ」と言って上げたい。もっとも刹那的に生きている彼女たちには、そのような忠言は届くはずもないだろう。

音楽はやがて”Hotel California”に変わった。白人たちは老いも若きもこの「懐かしのメロディ」を好んで、しかもその場にいる皆で歌う。「合唱かよ」と、独り言が漏れる。「まだやってるよ」の声も漏れる。

きのうの日記を書きながら、時々は寝台に仰向けになって、スマートフォンを眺める。そこにタイのニュースも流れてくる。興味を惹かれたのは、大きな人工池のほとりのチムジュム屋に出かけたおととい夜の嵐について。その、なぜかギクシャクしている自動和訳は以下。

……
仏歴2568年9月28日(日)18:00~19:00
Lanna地区にブア・アロイの嵐からのモンスーン・トラックが襲った。Nong Khai州フォンピサイの多くの地域に風雨が吹く。Udon Thaniは、多くの地域で倒木を引き起こし、一部の地域で、消防ポールが倒れた。
……

イサーン北部、つまりノーンカーイやウドンタニーには、かなりの被害が出た模様だ。それにしても、どうもこのあたりには雨が多い。前に来た2020年3月は乾季の終わりだったにもかかわらず、ほぼ毎日のように雨の降ったものだ。

それはさておき部屋の直下のバービヤは、4時30分を過ぎてようやく静かになった。日に焼けて赤みを帯び、痛みを覚えていた胸から腹にかけては、アロエジェルの二度の塗布により、随分と楽になっている。

6時35分、きのうマッサージ屋のオバサンが貸してくれた傘を差して外へ出る。目の前のソイサンパンタミットには、客を待つでもないトゥクトゥクが目に入る範囲内に二台。目抜き通りにもちらほら。しかしウドンタニーには雨が多い。もし明日の朝に雨が激しく降っていれば、僕はかなりみじめなことになる。たとえ法外に思えても、空港への足はホテルのリムジンを使うことを決める。

朝食はきのうに引き続いてホテル一階の食堂”BLUE SILK”で摂る。朝食代の295バーツは屋台のスープの実に12倍ではあるものの、本を読みながらのゆったりとした食事には、何とも言えないくつろぎがあるのだ

プールサイドには10時に降りた。寝椅子の上ではずっと、メイドのオバサンに許可を得て部屋から持ち出したガウンを羽織り、首元はかたく打ち合わせていた。これ以上の日焼けは御免である。正午を回ったころに雨がポツリポツリと来て部屋へ戻る。以降は寝台の上で本を読む。ふと視線を窓に移すと空は晴れている。しかし再度プールサイドへ降りることはしない。

時を忘れてはいけないから、iPhoneには15時30分にアラームを仕掛けておいた。田舎にいるときの定番である白いTシャツとタイパンツ、これは首都の盛り場で100バーツで売られているモンペ状のものではなくプレー産の正真正銘の藍染めであるけれど、それを身につけロビーに降りる。

レセプションには初日に相手をしてくれたオバチャンと、女装のオジサンがいた。タイでは固い職場にも女装をした男は普通にいる。朝の食堂の受付も、男か女かの見分けはつかなかった。そういう人たちに特別な興味や態度を示すことは、紳士淑女の行いではない。「郷に入れば郷に従え」である。

マッサージ屋にはきのう貸してくれた傘と、ホテルのベルボーイに借りた傘の2本を携えていく。オバサンは今日も、2時間をすこし過ぎるまでマッサージを続けてくれた。

そのマッサージ屋から歩いて一分の、初日にも来たホイトードの、初日と同じ席に着く。おとといの夜とは異なって、今日はタイ航空のペットボトルに小分けしたラオカーオを忘れずに持参した。初日に「センタン」のトップスマーケットで買ったラオカーオは、愛飲の”BANGYIKHAN”にくらべればかなり強く口腔内を刺激するものの、不味いということはない。

部屋に帰り着いたときの時刻は19時16分。シャワーの後は、プールサイドに降りたときとは異なるまっさらのガウンを羽織って19時34分に寝台に上がる。


朝飯 “BAN BUA”の朝のブッフェ其の一其の二其の三其の四
晩飯 “Je Huay Hoi Tod”の烏賊のトードカオパットクンラオカーオ”TAWANDANG”(ソーダ割り)


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2025.9.29(月) タイ日記(5日目)

いつものように真夜中に目を覚ましたものの、いつものように起きてきのうの日記を書くことはしない。枕頭に充電をしたままのiPhoneを手探りし、それでTikTokの動画を眺めるうち、いつの間にかふたたび眠りに落ちる。

さて明後日は、朝のうちに空港へ行かなければならない。このホテルのリムジンは350バーツ。今年3月の、トンローのホテルからスワンナプーム空港までのリムジンは、30キロメートルちかくの距離を高速道路代も含めて500バーツだった。それにくらべれば、直線距離で3.5キロメートルの空港まで350バーツは高すぎる。

下調べのため、7時すぎにホテル前のソイサンパンミットに出てみる。客待ちのトゥクトゥクはいない。目抜き通りまで数分を歩けば道端に複数台が見られたものの、ホテルは6時30分には出たい。その時間にも彼らは路上にいるだろうか。何とも悩ましいところだ。

今年の3月6日にはチェンライで、街で知り合ったタクシーの運転手に翌日の迎えを頼み、しかし指定の時間には来ず、名刺の電話番号も通じず、ホテルのベルボーイに急遽、別のタクシーを呼んでもらったことがあった。二度の失敗は、笑い話にはなるだろうけれど、気を揉むことも必定だ。さて、どうしよう。

今日の朝食はホテルで摂る。サラダとオムレツ、トーストとコーヒーでひと息をついてから、他の料理を見ていく。すると幾つも並んだポットの中に”Udon Vermicelli Soup”と札の立てられたものがあった。フタを開けてみれば、きのう屋台のオバサンから買ったとおなじ春雨と鶏肉のスープではないか。即、ちかくに積み上げられている陶製のボウルにこれを取り分け、席へ運んだことは言うまでもない。

次にこの街に来るときに必要になるかも知れないため、10時をまわったところでショッピングモールの「センタン」にあるという両替所を調べに行く。表口から入ると、すぐ右側に案内のカウンターがあった。ここのオネーサンに両替所の場所を訊く。オネーサンは、態度は柔らかながら、ひとこと”Down stair”と答えた。「階下」とはいささか大ざっぱすぎないか。そしてその地下一階を5分ほども歩きまわってようやく、駐車場の出入り口ちかくに”Super Rich”を見つける。円とバーツの交換率は1万円あたり2,140バーツで、初日のスワンナプーム空港のそれと変わらなかった。

部屋に戻って参考までに、今日の相場を調べてみる。バンコクのスーパーリッチでは1万円あたり2,165バーツの数字が出ていた。その差は25バーツ。10万円を換えれば250バーツ。両替は、都合さえつけば、やはり首都でしておくに限るらしい。よく覚えておこう。

きのうの日記は意外に長くなって、書き終えると正午が過ぎていた。これを寝台に仰向けになってiPhoneで読み、例の如く誤字、脱字、綴りの間違いなどを逐一机のコンピュータで直すうち、たちまち14時がちかくなる。今日のマッサージの予約は、きのうの日記に書いた理由により15時に入れてある。今日はほとんど何もしないまま過ぎるだろう。

マッサージ屋には2時55分に着いた。オバサンは今日も、2時間の注文に対して2時間10分ちかくもマッサージをしてくれた。

マッサージの途中から降りだした雨は、いまだすこし残っている。きのうより一時間だけ早い上がりだから、街に暮色は訪れていない。オバサンの貸してくれた傘を差して、目抜き通りを東へ辿る。雨のせいか、気温はまるで日本の秋のようだ。「やだなー、涼しいなー」と、思わず声が漏れる。南の国へ来て涼しいとは、むかしの関西の漫才ではないけれど「逆やがな」である。

「明日の17時」と言われた洗濯屋には、2020年3月に相手をしてくれたオバサンがいた。そのオバサンに複写式の伝票を見せる。オバサンは仕上がった洗濯物を。鉄製のロッカーから出して手渡してくれた。

ところで特にひとりで旅に出たときには、昼食を必要としないことが多い。それは、朝にたくさん食べること、もうひとつは脳を使わないせいか昼になっても空腹を覚えないからだ。更に今日はプールサイドに降りなかったことが関係しているのか、夕食さえ摂らずに済みそうな腹具合である。しかし一日一食ではつまらない。

雨は傘を必要としないほどに弱まっている。しかしきのうのような大雨がいきなり襲ってきてもいけない。よっておとといも使ったホテルはす向かいのイタリア料理屋へ行く。

外の二人用のテーブルには、ヒマをかこつウエートレスが座っていた。その席を譲ってもらって先ずはおとといとおなじカラフの白ワインを注文する。それを確かめるオネーサンの”White?”は「ワイ」が強く発声された。タイ人の英語の発音は、日本人のそれにくらべておしなべて良い。「流石ですね」である。

食後は部屋に戻ってシャワーを浴び、アロエジェルを胸と腹と太腿に塗りたくるなどして19時46分に寝台に上がる。


朝飯 “BAN BUA”の朝のブッフェ其の一其の二其の三其の四其の五
晩飯 “da Sofia”のラザニアアラボロネーゼカラフの白ワイン


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2025.9.28(日) タイ日記(4日目)

暗闇に目を覚まして枕頭のiPhoneを引き寄せる。時刻は0時46分。極端な早寝早起きにより昼夜が逆転気味の僕にしても、いかにも早すぎる。しかし眠気は感じない。よって起きてコンピュータを開き、きのうの日記のあらかたを書く。

疲れと眠気を覚えて寝台に仰向けになる。時刻は2時18分。幸い二度寝ができて、カーテンの隙間から朝の光が漏れるころにふたたび目を覚ます。

南の国で気ままにしているようでも、机の前の壁には旅の最中の日程表を貼っている。今月が9月であることは分かるとしても、何日なのか、そして何曜日なのか、についてはアヤフヤになりがちだからだ。9月28日の備考欄には「クリーニング」と記してある。よって初日からきのうまでに溜まった洗濯物をプラスティック袋に入れて外へ出る。

ホテルからは目と鼻の先の、2020年3月にも頼んだことのある洗濯屋は8時30分に、もう仕事を始めていた。今朝は三人いるうちのひとりのオネーサンに、プラスティック袋を手渡す。オネーサンはその中味をひとつずつ取り出しながら、複写式の伝票を作ってくれた。一点ごとの洗濯代は、ハイネックの長袖シャツが30バーツ、半袖のTシャツは25バーツ、下着のパンツは5バーツ、靴下も5バーツで、計125バーツをオネーサンに支払う。できあがりは明日の17時とのことだった

この洗濯屋からソイサンパンミットを目抜き通りへ向かって更に歩くと、間もなくコインランドリーがある。その壁の値段表を見れば、洗剤が5バーツ、もっとも安い洗濯代は40バーツ、乾燥代は50バーツだから、その日のうちに洗い上がらないことを許容すれば、時間を見計らって何度も足を運ぶ必要のない点、また綺麗に畳んで手渡してくれる点において、洗濯物のすくない僕にとっては明らかに、洗濯屋の方が「勝ち」である

それはさておき、きのうのスープ屋のオバサンは、今朝もおなじところに屋台を出していた。きのう客だったオネーサンは、このスープを”noodle”と言っていた。その”noodle”がどのようなものかは分からなくても、今日はこれを朝食にしようではないか。それにしても25バーツとは、首都では考えられない安さだ。

屋台に近づいて、オバサンに20バーツ札1枚と10バーツ硬貨ひとつを手渡す。オバサンは「これも入れるか」とモヤシを指すので「チャイ」と答える。するとオバサンはそのモヤシをビニール袋に入れ始めたので、あわてて屋台の屋根からぶら下げた袋の中の、発泡スチロール製のドンブリを指す。オバサンは「あぁ」と答えてそのドンブリを袋からひとつ取りだし、そこにスープを盛大に盛り始めた。

それにしてもオバサンは、お釣りをくれない。「5バーツは?」と訊くと「特盛りにしておいたから」と、涼しい顔をしている。タイでは、細かいことを言うと嫌われる。更には人格さえ疑われる。僕は箸をもらい、その、ラーメンのドンブリに満杯ほどの量のスープを、そろりそろりと部屋まで運ぶ。そしてベランダのテーブルに古新聞を敷き、その上に置いた

ドンブリには大量の春雨、大量の血豆腐、それから出汁の元としての鶏の、胸から頭の直下までの骨が入っていた。その骨にはまた、少なくない肉が付いていた。これで30バーツ。「満足」のひとことだ

10時をまわったところで外へ出る。iPhoneには翻訳アプリケーションによる「私は日焼けをして、赤くなった肌が痛いです。これを鎮めるローションかジェルが欲しいです」とのタイ語を画像で保存してある。

地方としては巨大なショッピングモール「センタン」の地下一階へのエスカレータに乗ると、目の前には都合の良いことに薬局の”watsons”があった。よって即、そこに入って目についたオネーサンにiPhoneの画像を見せる。僕の経験からすると、このようなときのタイ人は、黙読をしない。常に音読である。そして「アロエはどうかしら」と、オネーサンはそれらしいものの置いてある棚に僕を先導し、更にはそこにある複数のジェルを吟味しだした。そして間もなく「After Sun Gellって書いてある!」と、緑色のチューブを僕に手渡した。僕は礼を述べて、それを本日最初の客としてキャッシュレジスターのカウンターに置く。ジェルは120ccの容量で229バーツだった

部屋に戻ってそのジェルを胸と腹と太腿、そして脛に塗りたくる。そしてパタゴニアのバギーショーツと紫外線除けのTシャツを身につけ二階のプールサイドに降りる。時刻は11時ちょうど。太陽は既にして高いところまで昇っている。その太陽の下で仰向けになりたいことはやまやまながら、今日のところは自重をして、本はプールサイドバーの日陰で読むこととする

日はますます高いところへ位置して、パラソルの影はもっとも小さくなる。ふと目を上げると、プールサイドバーの棚にはラオカーオの中で僕が最も好む”BANGYIKHAN”が六本あったから「分かってるね」と、思わず膝を打ちたくなる。部屋には14時に戻った。

15時50分に部屋を出れば、16時に予約をしているマッサージ屋には15時55分に着く。この店のオバサンは2時間で頼んでも、常に2時間以上を仕事に費やしてくれる。今朝の洗濯物の上がる時刻は明日の17時のため、明日のマッサージは15時に予約を入れた。

18時を過ぎたウドンタニーには夕刻の色が濃い。「センタン」の前の路上には、いつもおなじトゥクトゥクが駐まっている。そのオジサンに、これまたiPhoneに保存したチムジュム屋の画像を見せる。オジサンの言い値は80バーツ。目指す人工池のほとりには、10分と少々で着いた。

日曜日だからなのか、チムジュム屋は満席だった。この店で食べたい旨をオニーチャンに告げると、オニーチャンは紙に何ごとかを書いて手渡してくれた。その紙をタイパンツのポケットに入れて池の畔を歩く。

池畔を周回する道では子どもたちが自転車を走らせ、ジョギングをする人もすくなくない。遠くからマイクを通した威勢の良い声が聞こえてくる。コンサートでも開かれているのだろうか。そこまでの数百メートルを歩いてみる。声の主は果たして台の上から広場の人たちにエクササイズを指導するオジサンだった。

先ほどのチムジュム屋にはふた席の空きができていた。「助かった」である。しかし「ところが」である。客席から見える配膳カウンターの壁には何と”Non Alcohol”の張り紙がある。タイ航空のペットボトルに小分けしたラオカーオは、このようなときに限って部屋に置き忘れてきている。

タイは万事がいい加減に思われて、しかし酒とタバコに関しては日本よりよほど厳しい。この店は、あるいは酒による揉め事を店主が極端に嫌っているのかも知れない。

オニーチャンには水、チムジュムの小、臓物三種に烏賊、そして鶏卵ひとつを注文する。席に届けられた水のペットボトルはなぜか、異常に大きい。チムジュムのナムチムつまりつけだれは二種類、続いてもうひとつが置かれた。

土鍋のスープの煮立ってきたところで先ずは、ミントの葉やキャベツなどの野菜を投入する。それに半分ほど火の通ったところで別注のレバをすこしずつ入れ、固くなる前につまみ上げて野菜と共に皿に盛る。つけだれは、三種のうち最後に届けられた色の黒いものが抜群に美味い。「果たして食べきれるだろうか」と心配しつつ注文したすべてはスンナリと腹に収まった。代金は299バーツの安さで、大いに驚いた。否、驚いてはいけない、これがウドンタニーの標準なのだろう。

その、代金を払い終えるころにいきなり強い風が吹きつけてくる。この店の調理場と配膳カウンターは建物の中にあるものの、客席は野天で、屋根はビニールシート一枚だ。そのビニールシートは大きな音を立ててバタつき、仕舞には店の人の手に負えなくなった。雨も夕立のような勢いで降ってくる。ビニールシートは日本のブルーシートとは異なって日除けの性格が強く、客席の真ん中ちかくにいる僕の頭上からも容赦なく水が落ちてくる。

客席の周辺ちかくで食事をしていた人たちは雨を避けるために全員が総立ち。店員たちは彼らのテーブルをできるだけ店の中央へ移そうと、大わらわになっている。これが日本であれば「どうにかしろ」の怒声が客から飛ぶかも知れない。この過剰なお湿りに、しかしタイの人たちはおしなべて苦笑い、あるいは大笑いをしている。これぞ「マイペンライ」。

日本では、列車は定刻に出て定刻に着く。道にゴミは目立たない。タクシーの運転手がメーターのスイッチを入れず料金を交渉してくるなどは絶対に無い。ものを作る人たち、ものを売る人たち、サービスを提供する人たちは、消費者の要望にとことん応えようとする。そのような国民の真面目さにより、第二次世界大戦の敗戦国は奇跡の復興を遂げて経済大国になれた。しかし息は詰まる。だから僕は、ときどきタイに来たくなるのだ。

2014年6月6日にバリ島のデンパサールで懲りたことから、ここまで来たときのトゥクトゥクはちかくで待たせておいた。オジサンの言い値は来るときとおなじ80バーツだったものの、100バーツを手渡して釣りは求めなかった。ホテルには19時30分に帰り着いた。そしてシャワーを浴びるなどして20時45分に部屋の明かりを落とす。


朝飯 ホテル近くの屋台から持ち帰った春雨スープ
晩飯 “Pungpond Hot Pot”のチムジュム(小)、臓物三種、烏賊、ペットボトルの水


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上澤卓哉

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